海沿いの道を白と黒のつがいが疾走する。パンダではない。パンダのマスコットが描かれた引っ越し屋のトラックでもない。ロードバイクに乗ったT氏と彼女である。
二人は海にやって来た。六月中旬、海水浴にはまだ少し早い。しかしながら、トライアスロンのシーズンは、もう既に始まっているのだ。来月上旬のレースに向けて、二人は今日初めてウェットスーツを着て海を泳ぐ。
初めてということもあり、二人は浅めの海水浴場を選んだ。いくらウェットスーツで浮力を得られるとはいえ、二人は初心者なのだ。海の怖さを舐めてはいけない。
そして万が一、万が一のことを考えて、T氏は監視役を用意した。T氏の母親である。
二人は海水浴場の駐輪スペースに、自転車を立てかけた。素足になり砂浜へ降り立った二人に向かって、麦わら帽子を被った女が、両手を大きく振っている。一足先に来ていたようだ。
「こんにちは、うちの馬鹿息子がお世話になってます」
馬鹿息子の母親が、彼女に向かってにこやかに言った。
「は、はじめまして。こちらこそTさんにはお世話になっています」
彼女は愛想笑いで答えた。
「ちょっとあんた! 変な理由つけて家出てったと思ったら、しれっと女の子と同棲してたなんて。それならそうと正直に言いなさいよ、全く」
母親はニヤニヤしながら息子の頭をはたいた。馬鹿に上機嫌であった。
「お母さんのお顔の雰囲気、Tさんにそっくりですね」
彼女が母親に向かって言った。
「そうでしょー、特に髪質なんかまんま遺伝しちゃって。あなたみたいな髪が真っ直ぐで綺麗な人、憧れちゃうわぁ」
母親は帽子の鍔を持ち上げながら言った。
「あ、ありがとうございます」
彼女は苦笑いで答えた。
T氏と彼女は、それぞれのリュックの中からウェットスーツを取り出した。
「あら、こういうの着ながら泳ぐのね」
「はい、ウェットスーツといいまして……」
「泳ぐのはいいとして、これ着たまま自転車乗ったり走ったりするんでしょ、暑くて大変でしょうね」
「い、いえ、自転車とランニングのときはさすがに脱ぎます」
「あ、あらやだ、そうよね、さすがにそうよねぇ……」
T氏は二人に構わず、ウェットスーツを着用する。
「あらごめんなさい、着替えるの邪魔しちゃったわね」
「い、いえ、そんなことないですよ」
「母さん、後ろのチャック閉めてよ」
一通り着用したT氏が母親に言った。
「いつまでも母親に頼ってちゃ駄目よ、そういうのは可愛い可愛い彼女にやってもらいなさい」
「まだ彼女着ている最中だから」
「全くしょうがないわねぇ、今日だけ特別大サービスよ」
いつもの母さんじゃない、とT氏は思った。
彼女も一通り着たようだ。
「あなたのも閉めてあげる」
母親は彼女の背中に回り込んだ。
「あ、ありがとうございます」
「まぁ、着ている上からでもわかるくらいきれいなくびれ……本当にスタイル抜群ね。あなた、もう少しつき合う男考えた方がいいわよ」
「母さん余計なこと言わないで」
母親を呼んだのは失敗だったとT氏は思った。彼女がクスッと笑った。
「あとこれ、あんたの部屋の押し入れの中にちゃんと眠ってたわよ。優しい母さんがちゃんと膨らませておいたわよ」
「ありがとう」
T氏は母親から、戦隊モノのアニメのキャラクターが描かれた浮き輪を受け取った。これをブイの代わりに浮かべ、目印とするのだ。
「じゃあいってらっしゃい。しっかりと戯れてくるのよ」
「わかったよ」
T氏は軽く手を挙げて答えた。彼女はニコッと笑いながら母親に向かって軽く頭を下げた。二人は海へ向かった。
「あの浮き輪目標に泳ぐわよ」
「うんわかった」
「いくわよ、よーい、ドン!」
二人は200mほど先に置いた浮き輪に向かって泳ぎ始めた。
波は穏やかだった。だが、プールで泳ぐのとは勝手が違った。海水がしょっぱいのはもとより、T氏は今自分がどの辺りを泳いでいるのか、わからなかった。
T氏は一旦泳ぐのを止めて辺りを身回した。浮き輪の前には、既に彼女がいた。T氏はあさっての方向に逸れていた。
「あなた、そこで待ってて!」
彼女はT氏に向かって叫んだ後、T氏の方へ向かって泳ぎ始めた。何で彼女は真っすぐ泳げるんだ、頭の中にGPSでも埋め込んでいるんじゃないかと、T氏は思った。
「前を見ながら泳がなきゃ駄目よ」
T氏の所まで来た彼女が言った。
「どうやって?」
T氏が言った。
「息継ぎしながら時々前を見るのよ、こんなふうに」
彼女が身振り手振りでT氏に示す。T氏がそれを真似る。
「私が泳ぐの、ちゃんと見てるのよ」
彼女は再び浮き輪に向かって泳ぎ出した。T氏がそれをじっと見つめる……。
彼女がT氏のもとに戻ってきた。
「できそうかしら?」
「見様見真似は僕の得意技だ」
「じゃあやってみてよ」
「やってみるよ、僕が真っすぐ泳ぐところ、ちゃんと見てるんだぞ」
「しっかり見てるわよ」
T氏は勢いよく泳ぎ始めた、と思ったら途端に泳ぐのを止めた。
「ゲホゲホ、ゲホ、ゲホ……」
海水を飲んだようだ。
「もう、何やってるのよ」
彼女は呆れた。
「な、何をするにしても、前座は重要だ。本番の舞台が輝くのは、ゲホッ、前座があってこそだ」
T氏は開き直った。
「じゃあ本番どうぞ」
「臨むところだ! ゲホッ!」
T氏は勇ましく浮き輪に向かって泳ぎ始めた。息継ぎのタイミングで顔を前に上げた。しっかりと浮き輪が見えた。
浮き輪まで到達した。
「私の所まで戻っておいで」
T氏は彼女の方に向かって泳いだ。
「大体わかった」
彼女のもとに戻ったT氏が言った。
「ちょっと蛇行してたけど、大体できてたわね」
彼女が言った。
「一旦陸に上がるわよ」
「休憩だね」
「水分補給した後、岸と浮き輪の間を五往復するわよ」
「え、そんなに⁉」
「レース本番はもっと厳しいのよ」
「イタッ!」
クラゲがT氏の足を刺した。
「クラゲいるね、ここ」
「練習に集中してれば気にならないわよ。さ、早く戻るわよ」
「はいよ」
今日も彼女はスパルタだった。
「こうやって広大な海を眺めていると、昔悩んでたことなんて本当に馬鹿らしく思うわ」「何か悩んでいたのかい?」
「もうずいぶん前の話よ」
「ふーん」
「聞きたい?」
「うん、まあ」
「長くなるわよ」
「構わないよ」
「私ね、大学受験に失敗したの」
「浪人したのかい?」
「浪人は私のプライドが断じて許さなかったわ。だから周りの友達が進学や浪人の道を選ぶ中、私は就職の道を選んだ、飽くまでも受験に失敗したからではなく、私自らが望んでこの道を選んだのよというスタンスで」
「うん、それで就職した会社ではどうだったの?」
「常にコンプレックスを抱えた状態で仕事していたせいで、全然上手くいかなかったわ。私が提案した企画が却下される度に、私が高卒だから却下されるんだと思い込んでいたわ。自分の仕事の良し悪しについて反省することなく、ただひたすら、大卒の社員に嫉妬していたわ。気がつけば、社内に私に味方してくれる人はいなくなってた。仲が良かった友達とも疎遠になった。私はその会社を三年足らずで辞めた」
「辞めた後はどうしたんだい」
「いくつかアルバイトを転々として、ようやく今の会社に辿り着いたわ。その間もプライベートでは相変わらず一人で過ごしていたわ。自分一人のためにお金が使えるし、他の人に合わせる必要がないから、それはそれで気が楽だった。ある時たまたまテレビでトライアスロンの中継をやってて、それにものすごく惹かれて、それがきっかけで水着やロードバイクを買って、休日に一人で泳ぎに行ったりサイクリングしたりして、そういうのが習慣になってくるとね、一人でいるのが当たり前の生活も悪くないし、楽しいと思うようになったわ。でもある時ふと寂しいと思う瞬間があって、その時にかつての自分の振る舞いを思い出してものすごく後悔したわ。それでも昔の友達に連絡を取ろうなんてとてもできなかった。数年ぶりに、私は友達が欲しいと思った。私が楽しいと思うこと、悲しいと思うことを一緒に共有してくれる友達が、欲しいと思った。婚活サイトを使ったのも、それが理由よ。私は結婚相手じゃなくて、友達が欲しかった」
「その結果、君の目の前に僕が現れた」
「そう、あなたという変人が現れた」
「変人はお互い様だ」
「まぁそういうことにしておきましょう。結果あなたという友達ができた。でも誤算だったことがひとつ」
「数学が苦手なのかい?」
「真面目に聞きなさいよ!」
「すみません」
「もういいわよ、あなたも昔のこと話しなさいよ。私ばっかり喋って、不公平じゃないの!」
「誰にとって?」
「私にとってよ! 何で大学中退したのか、教えなさいよ」
「僕は子どもの頃から怠惰だった。でも学校の成績だけはなぜか良かった。高校は進学校で、宿題が毎日大量に出るんだけど、僕はほとんどやらなかった。何で学校で一日中勉強した後、家に帰ってまで勉強するんだよという態度だった。それでも浪人することなく、大学には合格した。六割程度の正答率で合格できるんだから、ちょろいもんだと思ったよ。でもいざ一人暮らしになると、怠惰な生活に拍車がかかって、大学一年の途中からはほとんど大学に行かなくなった。大学三年になる時点でゼミに入れないことが確定して、退学した。まあ僕には謙虚さが足りなかった。大して勉強してないのに国立大学に合格したという妙な驕りがあった。実際には無学で浅はかなクソガキだったにもかかわらず。こうして僕は、正真正銘の世間知らずとなった」
「でも今ではそのことをちゃんと自覚してるんだから、えらいじゃないの」
「えらいだろ」
「えらいえらい」
「そう、僕は知らないことだらけなんだ、君の名前も」
「言ってなかったものね」
「教えてよ」
「U子よ」
「TとUで隣り合わせか」
「そうみたいね」
「U子……」
「何よ」
「キスしていいかい」
「しなさいよ」
「……」
「……」
砂浜の熱が未だ冷めない夕暮れ時、二人の頬が紅潮していたのは、日焼けだけが要因ではなかったことは言うまでもない。監視役の女は、既に帰った後だった。
「スタート十秒前、九! 八! 七!……」
七月上旬のある日、DJの野太い声がとある海岸に響き渡る。
「四! 三! ニ! 一!」
DJのカウントダウンの後、ホーンのフォォ〜ンという甲高い音と共に、T氏は海に向かって走り出した。ついに、トライアスロンのレースが、幕を開けた。
屈強な男たちの群れに押しつぶされないよう、T氏は後方に陣取った。にもかかわらず、T氏の身体には、三六〇°あらゆる角度から腕や脚が飛んできた。それもそのはずで、後方に位置する人たちは、T氏同様初心者である場合が多く、皆揃いも揃って泳ぎがヘタクソなのである。T氏の作戦は初っ端から失敗した。もし仮に違う作戦を立てていたとしても、T氏の泳力では先の方の集団には到底ついてはいけないだろうから、結果的には同じであっただろうが。
T氏はU子に教わった、顔を前方に上げブイの位置を確認する、いわゆる「ヘッドアップ」を多用した。こいつらと共にあさっての方角へと道連れにされるわけにはいかないのだ。おとといだったらもっと困る、振り出しに戻る以前の問題だ。
どうにか第一ブイまで到達した。次は海岸線と平行に泳ぎながら第二ブイを目指す。
徐々に波が高くなっていった。T氏は何度か海水を飲んだ。しょっぱい、不味い。遠くから見たらきれいなオーシャンブルーのくせに、いざ対面したら憂鬱なオーシャンブルースだったとか酷いじゃないか、とT氏は思った。
クラゲがT氏の足先をチクっと刺した。クラゲよ、お前もか、この卑怯者! 僕がほぼ全身ウェットスーツに覆われているというのに、無防備な部分をわざわざ狙って刺すなんて、良心が痛まないのか、ちっとはスポーツマンシップにのっとったらどうなんだ、とT氏は憤った。
高い波やクラゲに四苦八苦しながら、T氏は第二ブイへと到達した。次は陸に向かって、逆三角形のコースの最後の頂点を目指す。要はスタート地点に戻るのだ。
T氏は息継ぎをしながら時々ヘッドアップをし、目標に向かって真っ直ぐ泳ぐよう努めた。前、左、左、左、前、左、左、左、前、左……。T氏が左側に首を傾けて息継ぎすると、T氏のすぐ左側を泳ぐ男の顔と向かい合わせになる。第二ブイを回ってから、この男、ずっといる。お互いゴーグルをしているため、目は合わない。変顔でもしてやろうかなとT氏は思ったが、再び海水を飲んでしまうことを憂慮したため、止めておいた。海水を飲んで苦悶の表情を浮かべることになれば、それが変顔へとつながるだろうから、結局は海水が先か変顔が先かという問題になるのだが、いずれにしても、そんなことに体力を使っている場合ではない。レースはまだまだ先が長いのだ。
最後の頂点へと到達し、陸に上がったT氏は、再び海に身体を投げ出した。二周しなければならないのだ。
二周目に入ってしばらく泳いだところで、T氏のゴーグルが外れた。他の参加者の手が、T氏のゴーグルに当たったのだ。T氏は一端泳ぐのを止め、ゴーグルをつけ直した。せめて一周目が終わる直前くらいで外れてくれれば陸に上がってゆっくり直せるのに、二周目に入った直後に外れるのだから運がないな、とT氏は思った。
再び泳ぎ出した。着実に自分のペースを刻みながら、第一ブイへと泳いでいった。二周目のT氏はだいぶ落ち着いていた。既に一周自力で回り切ったという事実が、T氏の心に少しばかりの余裕を持たせた。スタート前は、本当に1.5㎞も泳げるのかと不安だったが、今の段になって、案外いけるもんだなとT氏は思った。
第一ブイを回った。T氏と同じペースで泳ぐ参加者たちと隊列を組むような形になった。スタート直後は周りの参加者の腕や脚がぶつかる度にあーだこーだ思っていたT氏も、ここにきて、一緒に泳ぐ仲間がいるのは心強いなと思い始めた。一周目は長いと感じた第二ブイまでの道のりが、あっという間に感じた。
第二ブイを回ると、さあもうラストだ。あと少しだとわかると、俄然やる気が出るT氏であった。晴れ渡る青い空の下で、青く光り輝く海の上を力強く泳ぐT氏は、まさしく海の男の姿そのものであった。
最後の頂点まで到達したT氏は、力強い足取りで陸に上がった。ついに1.5㎞泳ぎ切ったのだ。次は40㎞のバイクだ。T氏は自転車が好きなのだ。大好きというほどでもないが。高性能のロードバイクをブイブイ言わせながら、この島を駆け抜けるのだ。T氏は砂浜に足を取られながらも、駆け足で自分のロードバイクが置いてあるトランジションエリアに向かった。
既に半分以上の自転車がなかった。T氏は自分のゼッケン番号320が表記された区画へ向かい、着いたと同時に海の男からの脱皮を図った。下半身を脱ぎ捨てる際、足で地面を強く踏ん張ってしまい、ふくらはぎが攣りそうになった。
ヘルメットを被り、脱げないように頭にしっかり固定する。裸になった上半身の上に、前後にゼッケンが付いた青のバイクジャージを羽織り、水着の上から、股ずれ防止のパッドが入った黒のバイクパンツを履く。素足のままバイクシューズに足を突っ込む。これで準備完了。黒のバイクをラックから降ろし……の前に、喉が渇いた、水を飲もう。ついでにエナジーゼリーも補給しておこう。そう焦る必要もあるまい。レースは長丁場なんだから。
しっかり栄養補給したT氏は、今度こそロードバイクをラックから降ろし、歩くのには不向きなバイクシューズをカツカツいわせながら、トランジションエリアの通路を通過する。地面の上をゆっくり転がるT氏のバイクが、後輪をカチカチ鳴らしながら、今か今かとスタートの瞬間を待つ。
T氏とバイクがトランジションエリアの外に出る。いちいち確認はしなかったが、U子はもうとっくに出発したんだろうな、とT氏は思った。
前輪がスタートラインを通過した。さあ、いよいよだ! 「どっこいしょ!」の掛け声とともに右脚を上げてフレームを跨いだT氏が、ペダルに足を掛ける。T氏という開発途上のエンジンを載せた高性能バイクが、ゆらゆらと走り始めた。
海にえぐり込まれた海岸沿いにそびえ立つヤシの木たちが、海側では、いつもと同じように船の往来を暖かく見守り、陸側では、多数の来訪者たち――皆揃いも揃って同じ方向に、それも必死の形相で駆け抜ける――の脳裏に、さり気ない安らぎを刻み込む。分け隔てなく振り撒かれるそんな優しさを、目一杯享受する一人の来訪者の姿があった。T氏である。
バイクのスタート直後から、T氏はしんどかった。泳いだ後に、あんなに短いインターバルしか設けないでバイクを漕ぎ始めるのは初めてであった。ただでさえきついのに、序盤から緩やかな登り坂があるものだから、T氏は参った。いくらバイクが軽くても、僕の身体が重いのでは意味がないではないかとT氏は思った。
何とか登り切り、緩やかに下った後に、光り輝く海に寄り添いながら凛と佇むヤシの木々が視界に飛び込んできたものだから、それはそれはT氏は癒やされた。この際だから、骨の髄まで癒やされようと、T氏はその景色をしっかりと目に焼きつけた。
その後は平坦な道が続いた。しばらく進むと、海が見えなくなった……と思ったらまた現れた……。しょっちゅう変わる景色のせいで、自分が今浴びている風が、海風なのか、山風なのか、それともただの風なのか、T氏にはわからなかった。まぁ僕の火照る身体を冷ましてくれる風なら何でもいいやとT氏は思った。
通行止めの橋の前まで来ると、右に折れた。間もなく、「林ロード」という看板が見えた。その看板を通り過ぎるや否や、T氏の両脇には、生き生きとした艷やかな葉を蓄えた木々が現れた。光が当たる右側の木々は溢れんばかりの酸素を供給し、暗みがかった左側の木々はその道に貴重な影をもたらす。天然の酸素カプセルによって生気を養われた競技者たちのペダリングに、力強さが増す。
こんな素晴らしい通りに、「林ロード」という安直なネーミングは相応しくない、もう少し上品さを伴った名前に改称すべきだとT氏は思った、せめて「お林ロード」とか……。
「林ロード」を抜けると、畦道に出た。散髪に行くことすら億劫だった昔のT氏の髪のように、ボサボサに生い茂った稲たちの姿があった。当時のT氏の髪にダニやシラミが寄生していたように、稲たちの周りには、コオロギやイナゴ、その他多くの虫たちが纏わりついていた。日本の田舎のどこにでも見られる何の変哲もない風景を見ながら、T氏はやったこともない稲刈りの作業を懐かしむようにそこを通り過ぎた。
本格的な登りに差しかかった。T氏はギアを軽くし、サドルに腰掛けたままリズミカルに登っていった。だいぶ身体が慣れたようだ。途中、レコード盤みたいなホイールを装着したおっさんを二人追い抜いた。昔の人間はこんなところにもアナログにこだわるのかと、T氏は呆れた。
登ったということは、その後は下りである。T氏はギアを重くし、駆け下りた。途中、さっき追い抜いたレコードのおっさん一人が、ゴォーーーーっと低音を響かせながらT氏の横を駆け抜けた。なるほど、確かに音はいい、とT氏は思った。
下り切ると、すぐそばに海が見えた。と思ったらまたすぐに登り坂に遭遇し、山道に入り見えなくなった。さらば、海! また近いうちに!
再びT氏はすぐさまレコードのおっさんを抜き返し、その後もありとあらゆるおっさんを追い抜いた。どうやらおっさんという生き物は、登り坂にめっぽう弱いらしい。こんなへなちょこな生き物が、一体どうやって妻という猛獣を説得し、高い参加料を払って大会出場にこぎつけたのか、T氏には不思議で仕方がなかった。
緩やかになったり、急勾配になったり、ほんの少し下ったりを繰り返しながら、なおも登りが続く。T氏は状況に応じて、立ち漕ぎや座った状態でのペダリングを使い分けた。バイクもT氏の意図を汲み取ったかのごとく、しっかりとT氏のペダリングに応えた。
長い登りをようやく登り切ろうかというタイミングで、坂の頂上にいるオレンジ色のTシャツを着たスタッフが「この先急カーブいくつかありまーす! 徐行でお願いしまーす!」とT氏に向かって叫んだ。T氏はスタッフにコクリと頷き返した後、「徐行だってよ」と自分のバイクに向かって囁いた。
T氏はゆっくりと下り始めた。すぐに問題の急カーブを確認した、目よりも先に耳で。「減速ーー! 減速でお願いしまーす!」という声がT氏の耳に入った。急カーブが近くなると「この先急カーブ注意!」のプラカードを持ったスタッフを、T氏は目で確認した。
T氏は言われた通りしっかりと減速し、慎重に急カーブを曲がった。曲がり切ったその先には、またプラカードを持ったスタッフが立っていた。連続の急カーブであった。
その後も急カーブの度にT氏はスタッフの掛け声に従い、減速しながら通過した。最後の急カーブの後、スタッフが「急カーブ終わりです! お疲れさまでしたー!」と声をかけた。あなたのほうこそお疲れさまですという気持ちで、T氏はペコリと頭を下げた。
ここからは真っすぐに下った。下りながらT氏は、先程の蛇のように険しい一連の急カーブを「ヘビイロード」と名づけた。蛇用の横断歩道の設置に関しては、今後の自治体の頑張りに期待しよう、とT氏は思った。
下りが緩やかになったタイミングで、T氏はバイクのフレームに取り付けてあるボトルホルダーからスポーツドリンクの入ったボトルを手に取り、口に含んだ。発汗により失われた水分やミネラルを、実のない思考により無駄に消費された糖分を、しっかりと補給したT氏は、再び元気良くペダルを回し始めた。
トンネルを抜けると、集落であった。民家の前で何人かの住人が競技者たちに声援を送っていた。「それ若いの! 行けーー!」とおばあさんがうちわでT氏を前に押しやるような動作で声援を送ると、T氏は右手を軽く挙げてそれに応えた。
集落を抜けると、久々に海と対面した。よう、海! また会ったな!
海岸沿いを走る。堤防が低いため、海がよく見えた。天気が良すぎて、遠くの島まで見渡せた。
道が徐々に狭くなっていった。しばらく進むと、「ここから先追い越し禁止!」のプラカードを持ったスタッフが、堤防に腰掛けていた。もし仮に追い越したら罰金でも取られるんだろうかとT氏は思った。
狭い道を緩やかにほんの少し登ると堤防がなくなり、代わってすっかり錆びきった、ガードする気のなさそうなガードレールが出現した。道が右にカーブする所のガードレールに横長の旗が括り付けられおり、そこに細く赤い文字で「落ちたらスイムからやり直し(笑)」と書かれていた。ずいぶん茶目っ気のある主催者である。仮に落ちてやり直しになったら、ゴールするまで待っててくれるんだろうかとT氏は思った。
ガードレールがなくなり再び低い堤防が現れた。進むにつれ道がガタガタになった。他にも道路はあっただろうに、どういう訳でこのコースが採用されたのだろうかと、T氏はシャッフルされている真っ最中の脳みそで考えた。
それにしてもこの男、普段はボーっとしている癖に、今日はやたらとよく考える。ランナーズハイか? ランまで取っときゃあいいのに……。
海とは反対側の脇道で、一人の女性がタイヤのチューブを慣れた手付きで器用に交換していた。どうやらパンクしたらしい。どうか僕はパンクしませんようにと、T氏は祈った。
左側では、侵食する海と、それに抗う岩場の虚しいせめぎ合いが展開されていた。海側に漂う、無残にも散った戦国武将のような小さな岩の群れを見たT氏は、何とも儚い気分になった。T氏は深い左カーブを、慎重に曲がった。
またしばらく海岸沿いを走った。次第に道が良くなり、幅も広くなった。程なくして「追い越し禁止解除」のプラカードが現れた。あぁ、すっかり忘れていたな、とT氏は思った。
海岸沿いを走り終えると、右に曲がった。ここから先はほぼ平坦な道であった。木々に囲まれたその道を、T氏は軽快に駆け抜ける。
緑に覆われたこの島には、青々とした晴れ空がよく似合う。それらの色が調和するこの島には、とにかく赤が似合わない、信号すらも、赤になるのを躊躇するんじゃないかというくらい。今日のレース中はずっと青のままの信号の下を通過しながら、この島の人間は牛丼やハンバーガーなんか食ったこともないに違いない、とT氏は思った。
「あと3㎞」のプラカードが見えると、自然とT氏のペースは上がった。途中沿道から、地元の高校生のブラスバンドによるはつらつとした演奏が耳に入ると、T氏は「負けないぞ!」と心の中で叫んだ。T氏はさらにペースを上げた。
ついに残り100m。T氏は徐々にスピードを緩めた。最後まで走り抜けたいところだが、駄目なのだ。ゴールラインを通過するまでに止まってバイクから降りなければ、反則を取られるのだ。
ゴールラインの手前まできた。スタッフの「ストップーー!」の掛け声に素直に従いバイクから降りたT氏は、バイクシューズをカツカツ言わせながらバイクを押し、トランジションエリアに向かった。
バイクをラックに掛け、シューズをラン用のものに履き替え、水分や糖分やミネラルその他を補給したT氏は、ランのスタートラインに向かい走り出した。
「お兄さん、ヘルメット!」
後ろから女性の声が聞こえた。T氏は走るのを止め、振り向いた。サングラスをかけた比較的背の高い女性競技者がT氏に駆け寄ると、T氏のヘルメットをポンと叩きながら「ドンマイ!」と明るく言い捨て、走り去っていった。T氏は赤面した。
すぐさま自分の物が置いてある区画へと戻り、ヘルメットを脱いだ。白いキャップを引っ掴み、それを頭に被ったT氏は、今度こそランのスタートラインに向かって走り出した。
灼熱の黒いアスファルトの歩道の上を、T氏はナマズのようにずっしりと進んだ。間もなくバイクを終えようとしている競技者たちを左手に見ながらT氏は、「本当に辛いのはこれからだよ」と心の中で、まるで他人事のように呟いた。
自分の脚じゃないみたいに、とにかく重い。本当に自分の脚じゃないんじゃないかとT氏は勘ぐった。引退したプロレスラーのまるで機能しなくなった馬鹿でかい筋肉の纏わりついた脚と、本来の自分の脚が、知らない間に入れ替わったに違いない、とT氏は思った。
上からはかんかんと照りつける陽射しが、下からはその強烈な照り返しが、T氏を挟み込むように焼き付ける。これぞこの島のハンバーガー。T氏の足取りはますます重くなる。太陽よ、赤信号とは君だったのか!
バイクコースから外れるように右に折れた。重い脚をどうにか前に進めていると、オアシスが見えた。
T氏の気分は少し軽くなった。水にありつけるとわかると、T氏は安堵した。
エイドステーションに到達したT氏はすぐにテーブルの上に置かれた、水が入った紙コップを手に取り、口に流し込んだ。T氏の体内にある渇き切った砂漠が、瞬く間にそれを吸収した。その後スポーツドリンクを一杯飲み、最後にもう一杯水を飲んだ。
空になった容器をゴミ箱の中に入れると、潤いを取り戻したT氏は、スタッフたちの「頑張って」の声にも背中を押され、再び走り出した。まだまだいけるとTは自らを鼓舞した。
T氏は巨大な白い橋に向かって歩を進めていた。進めど進めど、一向に辿り着く感じがしなかった。まるで月に向かって歩いていっているような感覚であった。冥王星とかではなかったことが、せめてもの救いであった。月くらいだったら、人類の力でかろうじてどうにかなろう。
どうにかなったようだ。T氏はようやく白い橋を渡り始めた。坦々と進んでいった。下のほうを見下ろすと、やはりきれいなオーシャンブルーの海があった。今日はいろんな角度から海を見る、T氏にとってそんな日であった。
橋の欄干に一匹のカラスが留まっていた。相変わらずお前はどこにでもいるなぁ、とT氏は心の中で呟いた。アホウドリやカモメなどの海鳥たちは、他の競技者たちを後押しするので手一杯、いや、羽一杯のようだ。
カラスに背中を押されたかどうかはわからないが、T氏は橋を渡り切り、先程までとは別の島の大地を踏みしめた。そこから緩やかに下った。T氏の脚に一層負荷がかかった。
車両通行止めになっている車道の、反対側の車線を走る人たちとすれ違う。その中にT氏は、U子の姿を見つけた。U子もT氏に気づいたようだ。T氏が軽く右手を上げると、U子はニヤっと笑みを浮かべながら通り過ぎていった。やはり僕より前にいたか、とT氏は思った。
下った先に緑色のコンビニがあった。どうやらそこで折り返すようだ。
コンビニまで辿り着いた。アイスが食べたいとT氏は思った、あの冷たい、ガリガリいうやつ……。やむなく諦めたT氏は、そこで折り返して反対側の車線に回り、来た道を登り始めた。
アイスにはありつけなかったものの、登り始めてすぐにエイドステーションがあった。登り坂を前にしてこれはありがたい、とT氏は思った。水とスポーツドリンクを一杯ずつ飲んだ後、冷たい氷水の入ったバケツに浸かったスポンジを手に取ったT氏は、それを頭の上から絞りかけた。「冷た!」とT氏の声が漏れた。その後スポンジで首を冷やしながら、T氏は再び走り始めた。
そのまま橋のほうまで折り返すのだろうとT氏は思っていたが、そうではないようだ。途中で左に折れたT氏は、別の道を走り始めた。
緩やかに登っていくのかと思っていたら、その先に急な登り坂が見えた。T氏の戦意は急速に萎んだ。
急な登りに差しかかると、T氏のペースはガクッと落ちた。もはや歩いているのと変わらないほどであった。
ついにT氏は歩いた。とてもじゃないが、走ってなどいられなかった。
後ろから、T氏の背中を叩く者があった。白髪混じりの、還暦はとっくに過ぎているであろう男性競技者であった。T氏の横に並び、そして言った。
「大股で歩くといいよ」
「大股で?」
T氏が小声で返した。
「脚にきて走れんのだろ? そういうときこそ大股で歩くんだよ。わしは若いもんと違って筋力がないから、こんな坂を登るときはいつもそうしとる、よう見とれ」
そう言うと男性は、T氏の先を、大きく腕を振りながら大股で歩いていった。
男性は振り返り
「ゴールで会おう」
と言いT氏に向かって手を振ると、再び前を向き、大股で歩き去っていった。
「トライアスロンは努力次第で誰にでも完走できる」
この時T氏は、その意味が、何となくわかったような気がした。
T氏は初老の男性に教わったように、大股で歩き進めた。少しずつではあるが、確実に坂の頂上へと近づいていた。
気分も徐々に盛り返した。歩くということに後ろめたさを感じなくてもいいのだと思えたことが、T氏の精神にポジティブに作用した。
ついに登り切った。やればできるんだとT氏は思った。
道が平坦になると、再びT氏は走り始めた。うん、まだ走れるとT氏は感じた。
沿道の声援が、T氏を後押しする。自分のことなんて全く知らない人たちが、こんなにも自分を応援してくれる、そのことに、T氏は感激した。
中にはT氏の名前を呼んで応援してくれる人までいた。何で僕の名前を知ってるんだとT氏は驚いた。その人の右手に大会パンフレットがあるのを目にしたT氏は、その中にある参加者名簿の中からゼッケン番号と照らし合わせ、僕の名前を見つけてくれたのだと理解した。T氏は一層嬉しくなった。
程なくして右に折れた。
さっきまでとは打って変わって、どんどんT氏は前に進んだ。
途中、ホースを持った住人の女性が、T氏の前をいく競技者に向かって水を噴射していた。
T氏もそこに辿り着いた。その女性に「お願いします」と言うと、T氏は立ち止まった。T氏は冷たい水を身体中に浴びた。
水鉄砲まで飛んできた。その女性の隣にいる、小学校低学年くらいの男の子が発射したものであった。
「君は今、この世界中の誰よりも正しい鉄砲の使い方をしている。このまますくすく育って立派な大人になるんだよ。僕みたいにろくでもない大人になっては駄目だよ」
とT氏は心の中で叫んだ。
また右に折れた。このまま真っすぐに進んで、最初に走ってきた道に再び出るようだ。
しばらく進むと、急な下り坂に遭遇した。T氏は険しいコの字型の道のりの最後の一本を、転ばないように慎重に進んだ。
白い鳥が、白い橋の前を横切った。何の鳥かは、T氏にはわからなかった。白い橋が、遣いを寄越して僕を呼んでいるんだと、T氏は都合の良いように解釈した。
T氏は橋を渡り始めた。T氏は走りながら、今日出会った人たちのことを頭に浮かべていた。正しいコースに導いてくれるスタッフたち、水やスポーツドリンクを用意してくれるスタッフたち、沿道で応援してくれる人たち、一緒にレースを走る競技者たち……。それら全てにT氏は真底感謝した。早くゴールテープを切りたい、でもまだゴールしたくない、この素晴らしいコースをまだ走っていたい……そんな気持ちが、T氏の心の中で渦巻いていた。
T氏は橋を渡り切り、元いた島に再び戻った。ゆっくりだが、着実に、ゴールへと向かっていった。
残り1㎞の看板を過ぎた。あともう少しだと思った矢先、見覚えのある後ろ姿を、T氏は視界に捉えた。それは、ピンクのバイクジャージの、後ろ髪を一つに束ねた美女であった。
T氏が距離を詰め、ついに横に並んだ。
「もうとっくにゴールしてるかと思ってた」
T氏が声をかけた。
「急な下り坂があったでしょ、あそこで勢い余って足くじいちゃった」
U子が顔を歪めながら答えた。
「あなた、先にゴールしちゃってよ」
すぐにまたU子が言った。
「今回は君と一緒にゴールしてやる」
T氏もすぐに返した。
「そんなのいいから」
「君とゴールしたいんだ」
「………………」
「………………」
………………。
「わかったわよ、腕貸しなさいよ」
「喜んで」
T氏はU子との距離を縮めた。U子は右手でT氏の腕を掴んだ。二人はゴールへと向かってゆっくりと進んでいった。T氏がチラっとU子のほうを見る。共に同じリズムを刻みながら、そのリズムの中で揺れるU子の髪は、やはり綺麗だな、とT氏は思った。
このようなT氏の独りよがりの優しさが原因で、トライアスロン本来のルールに厳密に則るならば、二人は失格になるはずであった。
「まぁ初参加でご存じなかったということなら、今回は大目に見ます。でも本来は、最後まで自力で競技を終えなければならないということを、次回からは頭に入れておいてくださいね」
白の半袖と黒の半パンのユニフォーム姿の、マーシャルと呼ばれる審判員の男性が、完走後に渡される白のバスタオルに身をくるんだ二人に向かって言った。
「はい、すみません……」
二人は恐縮しきりである。
「いいんですよ、大切に思っている人が、自分の目の前で足を引き摺っているのを見て、助けてあげたくなる気持ちもわかります。それよりお二人とも、よく最後まで走り抜きましたね」
「皆さんのおかげです、みんなが応援してくれたから」
T氏が言った。
「あたたかいでしょう、この島の人たち」
にこやかにそう言うと、マーシャルの男性は二人から離れていった。
「だから先にゴールしててって言ったじゃないの! 危うく失格になるところだったわよ!」
「ごめん、悪かったよ……」
「まあいいわよ、私も知らなかったし……」
今回問題となったのは、足を引き摺るU子にT氏が腕を貸し、U子がその腕に掴まりながら、二人で並走してゴールまで走ったことである。この行為が、競技規則で定められている「個人的援助の禁止」に抵触するとして、二人はゴール後にマーシャルから注意を受けたのである。
最も、マーシャルの寛大な措置により、二人はゴールしたことが認められ、完走証が無事与えられたのであった。
薄緑色の芝生が敷き詰められた広場に、清らかで伸びのあるアナウンスが響き渡る。
「六〇代男性の部、第一位……」
T氏が海側に設置されたステージの方を見る。その視線の先では、ランの途中の激坂でT氏に助言を授けた初老の男性が、プレゼンターから表彰を受けていた。
「すごいわね」
U子が言った。
「僕、あの人から『歩き方』を教わった」
「『走り方』じゃなくて?」
U子が不思議そうな表情で尋ねる。
「激坂で走れなくなったときはこうするんだよ」
T氏はそう言うと、バスタオルを肩に掛け、周囲をグルっと歩いてみせた。
「こんなふうに、腕を大きく振って大股で」
T氏は得意げにU子に言った。
「ふうん」
U子はT氏をまじまじと見ながら言った。
「お腹空いたね、屋台で何か買って食べようよ」
T氏が言った。
「そうね、でもその前に着替えたい」
U子が言った。
「じゃあ着替え取りに行こうか」
そう言うとT氏は、荷物を預けてあるテントに向かって歩き始めた、今日覚えたばかりの「歩き方」で。
「ちょっと!」
U子が後ろから叫ぶ。
「私、足挫いているんだけど! こういうときは置いていくのね!」
「あ、そうだったね……」
T氏はU子の所に戻った。
互いに寄り添うように横に並んだ二人は、産まれたてのひよこのように、この島がもたらすぬくもりに包まれながら、よちよちと歩いていった。
〈了〉
〈参考文献〉
・加藤健志『DVD上達レッスン 水泳』成美堂出版,2011年
第二章の水泳の場面におけるストリームラインの作り方等につきまして、参考にさせていただきました。
・白戸太朗『トライアスロンスタートBOOK』枻出版社,2012年
本文中の「トライアスロンは努力次第で誰にでも完走できる」という記述は、上記の書のp.8の「トライアスロンは誰にでもできる!」から着想を得たものです。
加藤健志氏、白戸太朗氏に対しまして、厚く御礼申し上げます。
また、エピローグ中の「個人的援助の禁止」に関しましては、「社団法人 日本トライアスロン連合 競技規則 第27条 個人的援助の禁止」に基づくものです。なお、競技中の事故等の緊急時における援助の提供に関しましては、この「個人的援助の禁止」には含まれません。