バイクをラックに掛け、シューズをラン用のものに履き替え、水分や糖分やミネラルその他を補給したT氏は、ランのスタートラインに向かい走り出した。
「お兄さん、ヘルメット!」
 後ろから女性の声が聞こえた。T氏は走るのを止め、振り向いた。サングラスをかけた比較的背の高い女性競技者がT氏に駆け寄ると、T氏のヘルメットをポンと叩きながら「ドンマイ!」と明るく言い捨て、走り去っていった。T氏は赤面した。
 すぐさま自分の物が置いてある区画へと戻り、ヘルメットを脱いだ。白いキャップを引っ掴み、それを頭に被ったT氏は、今度こそランのスタートラインに向かって走り出した。

 灼熱の黒いアスファルトの歩道の上を、T氏はナマズのようにずっしりと進んだ。間もなくバイクを終えようとしている競技者たちを左手に見ながらT氏は、「本当に辛いのはこれからだよ」と心の中で、まるで他人事のように呟いた。
 自分の脚じゃないみたいに、とにかく重い。本当に自分の脚じゃないんじゃないかとT氏は勘ぐった。引退したプロレスラーのまるで機能しなくなった馬鹿でかい筋肉の纏わりついた脚と、本来の自分の脚が、知らない間に入れ替わったに違いない、とT氏は思った。
 上からはかんかんと照りつける陽射しが、下からはその強烈な照り返しが、T氏を挟み込むように焼き付ける。これぞこの島のハンバーガー。T氏の足取りはますます重くなる。太陽よ、赤信号とは君だったのか!
 バイクコースから外れるように右に折れた。重い脚をどうにか前に進めていると、オアシスが見えた。
 T氏の気分は少し軽くなった。水にありつけるとわかると、T氏は安堵した。
 エイドステーションに到達したT氏はすぐにテーブルの上に置かれた、水が入った紙コップを手に取り、口に流し込んだ。T氏の体内にある渇き切った砂漠が、瞬く間にそれを吸収した。その後スポーツドリンクを一杯飲み、最後にもう一杯水を飲んだ。
 空になった容器をゴミ箱の中に入れると、潤いを取り戻したT氏は、スタッフたちの「頑張って」の声にも背中を押され、再び走り出した。まだまだいけるとTは自らを鼓舞した。

 T氏は巨大な白い橋に向かって歩を進めていた。進めど進めど、一向に辿り着く感じがしなかった。まるで月に向かって歩いていっているような感覚であった。冥王星とかではなかったことが、せめてもの救いであった。月くらいだったら、人類の力でかろうじてどうにかなろう。
 どうにかなったようだ。T氏はようやく白い橋を渡り始めた。坦々と進んでいった。下のほうを見下ろすと、やはりきれいなオーシャンブルーの海があった。今日はいろんな角度から海を見る、T氏にとってそんな日であった。
 橋の欄干に一匹のカラスが留まっていた。相変わらずお前はどこにでもいるなぁ、とT氏は心の中で呟いた。アホウドリやカモメなどの海鳥たちは、他の競技者たちを後押しするので手一杯、いや、羽一杯のようだ。
 カラスに背中を押されたかどうかはわからないが、T氏は橋を渡り切り、先程までとは別の島の大地を踏みしめた。そこから緩やかに下った。T氏の脚に一層負荷がかかった。
 車両通行止めになっている車道の、反対側の車線を走る人たちとすれ違う。その中にT氏は、U子の姿を見つけた。U子もT氏に気づいたようだ。T氏が軽く右手を上げると、U子はニヤっと笑みを浮かべながら通り過ぎていった。やはり僕より前にいたか、とT氏は思った。
 下った先に緑色のコンビニがあった。どうやらそこで折り返すようだ。
 コンビニまで辿り着いた。アイスが食べたいとT氏は思った、あの冷たい、ガリガリいうやつ……。やむなく諦めたT氏は、そこで折り返して反対側の車線に回り、来た道を登り始めた。
 アイスにはありつけなかったものの、登り始めてすぐにエイドステーションがあった。登り坂を前にしてこれはありがたい、とT氏は思った。水とスポーツドリンクを一杯ずつ飲んだ後、冷たい氷水の入ったバケツに浸かったスポンジを手に取ったT氏は、それを頭の上から絞りかけた。「冷た!」とT氏の声が漏れた。その後スポンジで首を冷やしながら、T氏は再び走り始めた。

 そのまま橋のほうまで折り返すのだろうとT氏は思っていたが、そうではないようだ。途中で左に折れたT氏は、別の道を走り始めた。
 緩やかに登っていくのかと思っていたら、その先に急な登り坂が見えた。T氏の戦意は急速に萎んだ。
 急な登りに差しかかると、T氏のペースはガクッと落ちた。もはや歩いているのと変わらないほどであった。
 ついにT氏は歩いた。とてもじゃないが、走ってなどいられなかった。
 後ろから、T氏の背中を叩く者があった。白髪混じりの、還暦はとっくに過ぎているであろう男性競技者であった。T氏の横に並び、そして言った。
「大股で歩くといいよ」
「大股で?」
 T氏が小声で返した。
「脚にきて走れんのだろ? そういうときこそ大股で歩くんだよ。わしは若いもんと違って筋力がないから、こんな坂を登るときはいつもそうしとる、よう見とれ」
 そう言うと男性は、T氏の先を、大きく腕を振りながら大股で歩いていった。
 男性は振り返り
「ゴールで会おう」
 と言いT氏に向かって手を振ると、再び前を向き、大股で歩き去っていった。
「トライアスロンは努力次第で誰にでも完走できる」
 この時T氏は、その意味が、何となくわかったような気がした。

 T氏は初老の男性に教わったように、大股で歩き進めた。少しずつではあるが、確実に坂の頂上へと近づいていた。
 気分も徐々に盛り返した。歩くということに後ろめたさを感じなくてもいいのだと思えたことが、T氏の精神にポジティブに作用した。
 ついに登り切った。やればできるんだとT氏は思った。
 道が平坦になると、再びT氏は走り始めた。うん、まだ走れるとT氏は感じた。
 沿道の声援が、T氏を後押しする。自分のことなんて全く知らない人たちが、こんなにも自分を応援してくれる、そのことに、T氏は感激した。
 中にはT氏の名前を呼んで応援してくれる人までいた。何で僕の名前を知ってるんだとT氏は驚いた。その人の右手に大会パンフレットがあるのを目にしたT氏は、その中にある参加者名簿の中からゼッケン番号と照らし合わせ、僕の名前を見つけてくれたのだと理解した。T氏は一層嬉しくなった。
 程なくして右に折れた。
 さっきまでとは打って変わって、どんどんT氏は前に進んだ。
 途中、ホースを持った住人の女性が、T氏の前をいく競技者に向かって水を噴射していた。
 T氏もそこに辿り着いた。その女性に「お願いします」と言うと、T氏は立ち止まった。T氏は冷たい水を身体中に浴びた。
 水鉄砲まで飛んできた。その女性の隣にいる、小学校低学年くらいの男の子が発射したものであった。
「君は今、この世界中の誰よりも正しい鉄砲の使い方をしている。このまますくすく育って立派な大人になるんだよ。僕みたいにろくでもない大人になっては駄目だよ」
 とT氏は心の中で叫んだ。
 また右に折れた。このまま真っすぐに進んで、最初に走ってきた道に再び出るようだ。
 しばらく進むと、急な下り坂に遭遇した。T氏は険しいコの字型の道のりの最後の一本を、転ばないように慎重に進んだ。