既に半分以上の自転車がなかった。T氏は自分のゼッケン番号320が表記された区画へ向かい、着いたと同時に海の男からの脱皮を図った。下半身を脱ぎ捨てる際、足で地面を強く踏ん張ってしまい、ふくらはぎが攣りそうになった。
 ヘルメットを被り、脱げないように頭にしっかり固定する。裸になった上半身の上に、前後にゼッケンが付いた青のバイクジャージを羽織り、水着の上から、股ずれ防止のパッドが入った黒のバイクパンツを履く。素足のままバイクシューズに足を突っ込む。これで準備完了。黒のバイクをラックから降ろし……の前に、喉が渇いた、水を飲もう。ついでにエナジーゼリーも補給しておこう。そう焦る必要もあるまい。レースは長丁場なんだから。
 しっかり栄養補給したT氏は、今度こそロードバイクをラックから降ろし、歩くのには不向きなバイクシューズをカツカツいわせながら、トランジションエリアの通路を通過する。地面の上をゆっくり転がるT氏のバイクが、後輪をカチカチ鳴らしながら、今か今かとスタートの瞬間を待つ。
 T氏とバイクがトランジションエリアの外に出る。いちいち確認はしなかったが、U子はもうとっくに出発したんだろうな、とT氏は思った。
 前輪がスタートラインを通過した。さあ、いよいよだ! 「どっこいしょ!」の掛け声とともに右脚を上げてフレームを跨いだT氏が、ペダルに足を掛ける。T氏という開発途上のエンジンを載せた高性能バイクが、ゆらゆらと走り始めた。
 
 海にえぐり込まれた海岸沿いにそびえ立つヤシの木たちが、海側では、いつもと同じように船の往来を暖かく見守り、陸側では、多数の来訪者たち――皆揃いも揃って同じ方向に、それも必死の形相で駆け抜ける――の脳裏に、さり気ない安らぎを刻み込む。分け隔てなく振り撒かれるそんな優しさを、目一杯享受する一人の来訪者の姿があった。T氏である。
 バイクのスタート直後から、T氏はしんどかった。泳いだ後に、あんなに短いインターバルしか設けないでバイクを漕ぎ始めるのは初めてであった。ただでさえきついのに、序盤から緩やかな登り坂があるものだから、T氏は参った。いくらバイクが軽くても、僕の身体が重いのでは意味がないではないかとT氏は思った。
 何とか登り切り、緩やかに下った後に、光り輝く海に寄り添いながら凛と佇むヤシの木々が視界に飛び込んできたものだから、それはそれはT氏は癒やされた。この際だから、骨の髄まで癒やされようと、T氏はその景色をしっかりと目に焼きつけた。
 その後は平坦な道が続いた。しばらく進むと、海が見えなくなった……と思ったらまた現れた……。しょっちゅう変わる景色のせいで、自分が今浴びている風が、海風なのか、山風なのか、それともただの風なのか、T氏にはわからなかった。まぁ僕の火照る身体を冷ましてくれる風なら何でもいいやとT氏は思った。
 通行止めの橋の前まで来ると、右に折れた。間もなく、「林ロード」という看板が見えた。その看板を通り過ぎるや否や、T氏の両脇には、生き生きとした艷やかな葉を蓄えた木々が現れた。光が当たる右側の木々は溢れんばかりの酸素を供給し、暗みがかった左側の木々はその道に貴重な影をもたらす。天然の酸素カプセルによって生気を養われた競技者たちのペダリングに、力強さが増す。
 こんな素晴らしい通りに、「林ロード」という安直なネーミングは相応しくない、もう少し上品さを伴った名前に改称すべきだとT氏は思った、せめて「お林ロード」とか……。
「林ロード」を抜けると、畦道に出た。散髪に行くことすら億劫だった昔のT氏の髪のように、ボサボサに生い茂った稲たちの姿があった。当時のT氏の髪にダニやシラミが寄生していたように、稲たちの周りには、コオロギやイナゴ、その他多くの虫たちが纏わりついていた。日本の田舎のどこにでも見られる何の変哲もない風景を見ながら、T氏はやったこともない稲刈りの作業を懐かしむようにそこを通り過ぎた。
 本格的な登りに差しかかった。T氏はギアを軽くし、サドルに腰掛けたままリズミカルに登っていった。だいぶ身体が慣れたようだ。途中、レコード盤みたいなホイールを装着したおっさんを二人追い抜いた。昔の人間はこんなところにもアナログにこだわるのかと、T氏は呆れた。
 登ったということは、その後は下りである。T氏はギアを重くし、駆け下りた。途中、さっき追い抜いたレコードのおっさん一人が、ゴォーーーーっと低音を響かせながらT氏の横を駆け抜けた。なるほど、確かに音はいい、とT氏は思った。
 下り切ると、すぐそばに海が見えた。と思ったらまたすぐに登り坂に遭遇し、山道に入り見えなくなった。さらば、海! また近いうちに!
 再びT氏はすぐさまレコードのおっさんを抜き返し、その後もありとあらゆるおっさんを追い抜いた。どうやらおっさんという生き物は、登り坂にめっぽう弱いらしい。こんなへなちょこな生き物が、一体どうやって妻という猛獣を説得し、高い参加料を払って大会出場にこぎつけたのか、T氏には不思議で仕方がなかった。
 緩やかになったり、急勾配になったり、ほんの少し下ったりを繰り返しながら、なおも登りが続く。T氏は状況に応じて、立ち漕ぎや座った状態でのペダリングを使い分けた。バイクもT氏の意図を汲み取ったかのごとく、しっかりとT氏のペダリングに応えた。
 長い登りをようやく登り切ろうかというタイミングで、坂の頂上にいるオレンジ色のTシャツを着たスタッフが「この先急カーブいくつかありまーす! 徐行でお願いしまーす!」とT氏に向かって叫んだ。T氏はスタッフにコクリと頷き返した後、「徐行だってよ」と自分のバイクに向かって囁いた。
 T氏はゆっくりと下り始めた。すぐに問題の急カーブを確認した、目よりも先に耳で。「減速ーー! 減速でお願いしまーす!」という声がT氏の耳に入った。急カーブが近くなると「この先急カーブ注意!」のプラカードを持ったスタッフを、T氏は目で確認した。
 T氏は言われた通りしっかりと減速し、慎重に急カーブを曲がった。曲がり切ったその先には、またプラカードを持ったスタッフが立っていた。連続の急カーブであった。
 その後も急カーブの度にT氏はスタッフの掛け声に従い、減速しながら通過した。最後の急カーブの後、スタッフが「急カーブ終わりです! お疲れさまでしたー!」と声をかけた。あなたのほうこそお疲れさまですという気持ちで、T氏はペコリと頭を下げた。
 ここからは真っすぐに下った。下りながらT氏は、先程の蛇のように険しい一連の急カーブを「ヘビイロード」と名づけた。蛇用の横断歩道の設置に関しては、今後の自治体の頑張りに期待しよう、とT氏は思った。
 下りが緩やかになったタイミングで、T氏はバイクのフレームに取り付けてあるボトルホルダーからスポーツドリンクの入ったボトルを手に取り、口に含んだ。発汗により失われた水分やミネラルを、実のない思考により無駄に消費された糖分を、しっかりと補給したT氏は、再び元気良くペダルを回し始めた。
 トンネルを抜けると、集落であった。民家の前で何人かの住人が競技者たちに声援を送っていた。「それ若いの! 行けーー!」とおばあさんがうちわでT氏を前に押しやるような動作で声援を送ると、T氏は右手を軽く挙げてそれに応えた。
 集落を抜けると、久々に海と対面した。よう、海! また会ったな!
 海岸沿いを走る。堤防が低いため、海がよく見えた。天気が良すぎて、遠くの島まで見渡せた。
 道が徐々に狭くなっていった。しばらく進むと、「ここから先追い越し禁止!」のプラカードを持ったスタッフが、堤防に腰掛けていた。もし仮に追い越したら罰金でも取られるんだろうかとT氏は思った。
 狭い道を緩やかにほんの少し登ると堤防がなくなり、代わってすっかり錆びきった、ガードする気のなさそうなガードレールが出現した。道が右にカーブする所のガードレールに横長の旗が括り付けられおり、そこに細く赤い文字で「落ちたらスイムからやり直し(笑)」と書かれていた。ずいぶん茶目っ気のある主催者である。仮に落ちてやり直しになったら、ゴールするまで待っててくれるんだろうかとT氏は思った。
 ガードレールがなくなり再び低い堤防が現れた。進むにつれ道がガタガタになった。他にも道路はあっただろうに、どういう訳でこのコースが採用されたのだろうかと、T氏はシャッフルされている真っ最中の脳みそで考えた。
 それにしてもこの男、普段はボーっとしている癖に、今日はやたらとよく考える。ランナーズハイか? ランまで取っときゃあいいのに……。
 海とは反対側の脇道で、一人の女性がタイヤのチューブを慣れた手付きで器用に交換していた。どうやらパンクしたらしい。どうか僕はパンクしませんようにと、T氏は祈った。
 左側では、侵食する海と、それに抗う岩場の虚しいせめぎ合いが展開されていた。海側に漂う、無残にも散った戦国武将のような小さな岩の群れを見たT氏は、何とも儚い気分になった。T氏は深い左カーブを、慎重に曲がった。
 またしばらく海岸沿いを走った。次第に道が良くなり、幅も広くなった。程なくして「追い越し禁止解除」のプラカードが現れた。あぁ、すっかり忘れていたな、とT氏は思った。
 海岸沿いを走り終えると、右に曲がった。ここから先はほぼ平坦な道であった。木々に囲まれたその道を、T氏は軽快に駆け抜ける。
 緑に覆われたこの島には、青々とした晴れ空がよく似合う。それらの色が調和するこの島には、とにかく赤が似合わない、信号すらも、赤になるのを躊躇するんじゃないかというくらい。今日のレース中はずっと青のままの信号の下を通過しながら、この島の人間は牛丼やハンバーガーなんか食ったこともないに違いない、とT氏は思った。
「あと3㎞」のプラカードが見えると、自然とT氏のペースは上がった。途中沿道から、地元の高校生のブラスバンドによるはつらつとした演奏が耳に入ると、T氏は「負けないぞ!」と心の中で叫んだ。T氏はさらにペースを上げた。
 ついに残り100m。T氏は徐々にスピードを緩めた。最後まで走り抜けたいところだが、駄目なのだ。ゴールラインを通過するまでに止まってバイクから降りなければ、反則を取られるのだ。
 ゴールラインの手前まできた。スタッフの「ストップーー!」の掛け声に素直に従いバイクから降りたT氏は、バイクシューズをカツカツ言わせながらバイクを押し、トランジションエリアに向かった。