「スタート十秒前、九! 八! 七!……」
 七月上旬のある日、DJの野太い声がとある海岸に響き渡る。
「四! 三! ニ! 一!」
 DJのカウントダウンの後、ホーンのフォォ〜ンという甲高い音と共に、T氏は海に向かって走り出した。ついに、トライアスロンのレースが、幕を開けた。
 屈強な男たちの群れに押しつぶされないよう、T氏は後方に陣取った。にもかかわらず、T氏の身体には、三六〇°あらゆる角度から腕や脚が飛んできた。それもそのはずで、後方に位置する人たちは、T氏同様初心者である場合が多く、皆(そろ)いも揃って泳ぎがヘタクソなのである。T氏の作戦は初っ端から失敗した。もし仮に違う作戦を立てていたとしても、T氏の泳力では先の方の集団には到底ついてはいけないだろうから、結果的には同じであっただろうが。
 T氏はU子に教わった、顔を前方に上げブイの位置を確認する、いわゆる「ヘッドアップ」を多用した。こいつらと共にあさっての方角へと道連れにされるわけにはいかないのだ。おとといだったらもっと困る、振り出しに戻る以前の問題だ。
 どうにか第一ブイまで到達した。次は海岸線と平行に泳ぎながら第二ブイを目指す。
 徐々に波が高くなっていった。T氏は何度か海水を飲んだ。しょっぱい、不味い。遠くから見たらきれいなオーシャンブルーのくせに、いざ対面したら憂鬱なオーシャンブルースだったとか酷いじゃないか、とT氏は思った。
 クラゲがT氏の足先をチクっと刺した。クラゲよ、お前もか、この卑怯者! 僕がほぼ全身ウェットスーツに覆われているというのに、無防備な部分をわざわざ狙って刺すなんて、良心が痛まないのか、ちっとはスポーツマンシップにのっとったらどうなんだ、とT氏は憤った。
 高い波やクラゲに四苦八苦しながら、T氏は第二ブイへと到達した。次は陸に向かって、逆三角形のコースの最後の頂点を目指す。要はスタート地点に戻るのだ。
 T氏は息継ぎをしながら時々ヘッドアップをし、目標に向かって真っ直ぐ泳ぐよう努めた。前、左、左、左、前、左、左、左、前、左……。T氏が左側に首を傾けて息継ぎすると、T氏のすぐ左側を泳ぐ男の顔と向かい合わせになる。第二ブイを回ってから、この男、ずっといる。お互いゴーグルをしているため、目は合わない。変顔でもしてやろうかなとT氏は思ったが、再び海水を飲んでしまうことを憂慮したため、止めておいた。海水を飲んで苦悶の表情を浮かべることになれば、それが変顔へとつながるだろうから、結局は海水が先か変顔が先かという問題になるのだが、いずれにしても、そんなことに体力を使っている場合ではない。レースはまだまだ先が長いのだ。
 最後の頂点へと到達し、陸に上がったT氏は、再び海に身体を投げ出した。二周しなければならないのだ。
 二周目に入ってしばらく泳いだところで、T氏のゴーグルが外れた。他の参加者の手が、T氏のゴーグルに当たったのだ。T氏は一端泳ぐのを止め、ゴーグルをつけ直した。せめて一周目が終わる直前くらいで外れてくれれば陸に上がってゆっくり直せるのに、二周目に入った直後に外れるのだから運がないな、とT氏は思った。
 再び泳ぎ出した。着実に自分のペースを刻みながら、第一ブイへと泳いでいった。二周目のT氏はだいぶ落ち着いていた。既に一周自力で回り切ったという事実が、T氏の心に少しばかりの余裕を持たせた。スタート前は、本当に1.5㎞も泳げるのかと不安だったが、今の段になって、案外いけるもんだなとT氏は思った。
 第一ブイを回った。T氏と同じペースで泳ぐ参加者たちと隊列を組むような形になった。スタート直後は周りの参加者の腕や脚がぶつかる度にあーだこーだ思っていたT氏も、ここにきて、一緒に泳ぐ仲間がいるのは心強いなと思い始めた。一周目は長いと感じた第二ブイまでの道のりが、あっという間に感じた。
 第二ブイを回ると、さあもうラストだ。あと少しだとわかると、俄然やる気が出るT氏であった。晴れ渡る青い空の下で、青く光り輝く海の上を力強く泳ぐT氏は、まさしく海の男の姿そのものであった。
 最後の頂点まで到達したT氏は、力強い足取りで陸に上がった。ついに1.5㎞泳ぎ切ったのだ。次は40㎞のバイクだ。T氏は自転車が好きなのだ。大好きというほどでもないが。高性能のロードバイクをブイブイ言わせながら、この島を駆け抜けるのだ。T氏は砂浜に足を取られながらも、駆け足で自分のロードバイクが置いてあるトランジションエリアに向かった。