海沿いの道を白と黒のつがいが疾走する。パンダではない。パンダのマスコットが描かれた引っ越し屋のトラックでもない。ロードバイクに乗ったT氏と彼女である。
 二人は海にやって来た。六月中旬、海水浴にはまだ少し早い。しかしながら、トライアスロンのシーズンは、もう既に始まっているのだ。来月上旬のレースに向けて、二人は今日初めてウェットスーツを着て海を泳ぐ。
 初めてということもあり、二人は浅めの海水浴場を選んだ。いくらウェットスーツで浮力を得られるとはいえ、二人は初心者なのだ。海の怖さを舐めてはいけない。
 そして万が一、万が一のことを考えて、T氏は監視役を用意した。T氏の母親である。
 二人は海水浴場の駐輪スペースに、自転車を立てかけた。素足になり砂浜へ降り立った二人に向かって、麦わら帽子を被った女が、両手を大きく振っている。一足先に来ていたようだ。
「こんにちは、うちの馬鹿息子がお世話になってます」
 馬鹿息子の母親が、彼女に向かってにこやかに言った。
「は、はじめまして。こちらこそTさんにはお世話になっています」
 彼女は愛想笑いで答えた。
「ちょっとあんた! 変な理由つけて家出てったと思ったら、しれっと女の子と同棲してたなんて。それならそうと正直に言いなさいよ、全く」
 母親はニヤニヤしながら息子の頭をはたいた。馬鹿に上機嫌であった。
「お母さんのお顔の雰囲気、Tさんにそっくりですね」
 彼女が母親に向かって言った。
「そうでしょー、特に髪質なんかまんま遺伝しちゃって。あなたみたいな髪が真っ直ぐで綺麗な人、憧れちゃうわぁ」
 母親は帽子の鍔を持ち上げながら言った。
「あ、ありがとうございます」
 彼女は苦笑いで答えた。
 T氏と彼女は、それぞれのリュックの中からウェットスーツを取り出した。
「あら、こういうの着ながら泳ぐのね」
「はい、ウェットスーツといいまして……」
「泳ぐのはいいとして、これ着たまま自転車乗ったり走ったりするんでしょ、暑くて大変でしょうね」
「い、いえ、自転車とランニングのときはさすがに脱ぎます」
「あ、あらやだ、そうよね、さすがにそうよねぇ……」
 T氏は二人に構わず、ウェットスーツを着用する。
「あらごめんなさい、着替えるの邪魔しちゃったわね」
「い、いえ、そんなことないですよ」
「母さん、後ろのチャック閉めてよ」
 一通り着用したT氏が母親に言った。
「いつまでも母親に頼ってちゃ駄目よ、そういうのは可愛い可愛い彼女にやってもらいなさい」
「まだ彼女着ている最中だから」
「全くしょうがないわねぇ、今日だけ特別大サービスよ」
 いつもの母さんじゃない、とT氏は思った。
 彼女も一通り着たようだ。
「あなたのも閉めてあげる」
 母親は彼女の背中に回り込んだ。
「あ、ありがとうございます」
「まぁ、着ている上からでもわかるくらいきれいなくびれ……本当にスタイル抜群ね。あなた、もう少しつき合う男考えた方がいいわよ」
「母さん余計なこと言わないで」
 母親を呼んだのは失敗だったとT氏は思った。彼女がクスッと笑った。
「あとこれ、あんたの部屋の押し入れの中にちゃんと眠ってたわよ。優しい母さんがちゃんと膨らませておいたわよ」
「ありがとう」
 T氏は母親から、戦隊モノのアニメのキャラクターが描かれた浮き輪を受け取った。これをブイの代わりに浮かべ、目印とするのだ。
「じゃあいってらっしゃい。しっかりと戯れてくるのよ」
「わかったよ」
 T氏は軽く手を挙げて答えた。彼女はニコッと笑いながら母親に向かって軽く頭を下げた。二人は海へ向かった。

「あの浮き輪目標に泳ぐわよ」
「うんわかった」
「いくわよ、よーい、ドン!」
 二人は200mほど先に置いた浮き輪に向かって泳ぎ始めた。
 波は穏やかだった。だが、プールで泳ぐのとは勝手が違った。海水がしょっぱいのはもとより、T氏は今自分がどの辺りを泳いでいるのか、わからなかった。
 T氏は一旦泳ぐのを止めて辺りを身回した。浮き輪の前には、既に彼女がいた。T氏はあさっての方向に逸れていた。
「あなた、そこで待ってて!」
 彼女はT氏に向かって叫んだ後、T氏の方へ向かって泳ぎ始めた。何で彼女は真っすぐ泳げるんだ、頭の中にGPSでも埋め込んでいるんじゃないかと、T氏は思った。
「前を見ながら泳がなきゃ駄目よ」
 T氏の所まで来た彼女が言った。
「どうやって?」
 T氏が言った。
「息継ぎしながら時々前を見るのよ、こんなふうに」
 彼女が身振り手振りでT氏に示す。T氏がそれを真似る。
「私が泳ぐの、ちゃんと見てるのよ」
 彼女は再び浮き輪に向かって泳ぎ出した。T氏がそれをじっと見つめる……。
 彼女がT氏のもとに戻ってきた。
「できそうかしら?」
「見様見真似は僕の得意技だ」
「じゃあやってみてよ」
「やってみるよ、僕が真っすぐ泳ぐところ、ちゃんと見てるんだぞ」
「しっかり見てるわよ」
 T氏は勢いよく泳ぎ始めた、と思ったら途端に泳ぐのを止めた。
「ゲホゲホ、ゲホ、ゲホ……」
 海水を飲んだようだ。
「もう、何やってるのよ」
 彼女は呆れた。
「な、何をするにしても、前座は重要だ。本番の舞台が輝くのは、ゲホッ、前座があってこそだ」
 T氏は開き直った。
「じゃあ本番どうぞ」
「臨むところだ! ゲホッ!」
 T氏は勇ましく浮き輪に向かって泳ぎ始めた。息継ぎのタイミングで顔を前に上げた。しっかりと浮き輪が見えた。
 浮き輪まで到達した。
「私の所まで戻っておいで」
 T氏は彼女の方に向かって泳いだ。
「大体わかった」
 彼女のもとに戻ったT氏が言った。
「ちょっと蛇行してたけど、大体できてたわね」
 彼女が言った。
「一旦陸に上がるわよ」
「休憩だね」
「水分補給した後、岸と浮き輪の間を五往復するわよ」
「え、そんなに⁉」
「レース本番はもっと厳しいのよ」
「イタッ!」
 クラゲがT氏の足を刺した。
「クラゲいるね、ここ」
「練習に集中してれば気にならないわよ。さ、早く戻るわよ」
「はいよ」
 今日も彼女はスパルタだった。

「こうやって広大な海を眺めていると、昔悩んでたことなんて本当に馬鹿らしく思うわ」「何か悩んでいたのかい?」
「もうずいぶん前の話よ」
「ふーん」
「聞きたい?」
「うん、まあ」
「長くなるわよ」
「構わないよ」
「私ね、大学受験に失敗したの」
「浪人したのかい?」
「浪人は私のプライドが断じて許さなかったわ。だから周りの友達が進学や浪人の道を選ぶ中、私は就職の道を選んだ、飽くまでも受験に失敗したからではなく、私自らが望んでこの道を選んだのよというスタンスで」
「うん、それで就職した会社ではどうだったの?」
「常にコンプレックスを抱えた状態で仕事していたせいで、全然上手くいかなかったわ。私が提案した企画が却下される度に、私が高卒だから却下されるんだと思い込んでいたわ。自分の仕事の良し悪しについて反省することなく、ただひたすら、大卒の社員に嫉妬していたわ。気がつけば、社内に私に味方してくれる人はいなくなってた。仲が良かった友達とも疎遠になった。私はその会社を三年足らずで辞めた」
「辞めた後はどうしたんだい」
「いくつかアルバイトを転々として、ようやく今の会社に辿り着いたわ。その間もプライベートでは相変わらず一人で過ごしていたわ。自分一人のためにお金が使えるし、他の人に合わせる必要がないから、それはそれで気が楽だった。ある時たまたまテレビでトライアスロンの中継をやってて、それにものすごく惹かれて、それがきっかけで水着やロードバイクを買って、休日に一人で泳ぎに行ったりサイクリングしたりして、そういうのが習慣になってくるとね、一人でいるのが当たり前の生活も悪くないし、楽しいと思うようになったわ。でもある時ふと寂しいと思う瞬間があって、その時にかつての自分の振る舞いを思い出してものすごく後悔したわ。それでも昔の友達に連絡を取ろうなんてとてもできなかった。数年ぶりに、私は友達が欲しいと思った。私が楽しいと思うこと、悲しいと思うことを一緒に共有してくれる友達が、欲しいと思った。婚活サイトを使ったのも、それが理由よ。私は結婚相手じゃなくて、友達が欲しかった」
「その結果、君の目の前に僕が現れた」
「そう、あなたという変人が現れた」
「変人はお互い様だ」
「まぁそういうことにしておきましょう。結果あなたという友達ができた。でも誤算だったことがひとつ」
「数学が苦手なのかい?」
「真面目に聞きなさいよ!」
「すみません」
「もういいわよ、あなたも昔のこと話しなさいよ。私ばっかり喋って、不公平じゃないの!」
「誰にとって?」
「私にとってよ! 何で大学中退したのか、教えなさいよ」
「僕は子どもの頃から怠惰だった。でも学校の成績だけはなぜか良かった。高校は進学校で、宿題が毎日大量に出るんだけど、僕はほとんどやらなかった。何で学校で一日中勉強した後、家に帰ってまで勉強するんだよという態度だった。それでも浪人することなく、大学には合格した。六割程度の正答率で合格できるんだから、ちょろいもんだと思ったよ。でもいざ一人暮らしになると、怠惰な生活に拍車がかかって、大学一年の途中からはほとんど大学に行かなくなった。大学三年になる時点でゼミに入れないことが確定して、退学した。まあ僕には謙虚さが足りなかった。大して勉強してないのに国立大学に合格したという妙な驕りがあった。実際には無学で浅はかなクソガキだったにもかかわらず。こうして僕は、正真正銘の世間知らずとなった」
「でも今ではそのことをちゃんと自覚してるんだから、えらいじゃないの」
「えらいだろ」
「えらいえらい」
「そう、僕は知らないことだらけなんだ、君の名前も」
「言ってなかったものね」
「教えてよ」
「U子よ」
「TとUで隣り合わせか」
「そうみたいね」
「U子……」
「何よ」
「キスしていいかい」
「しなさいよ」
「……」
「……」
 砂浜の熱が未だ冷めない夕暮れ時、二人の頬が紅潮していたのは、日焼けだけが要因ではなかったことは言うまでもない。監視役の女は、既に帰った後だった。