T氏は焦っていた。自分は今、研修中の身であるため、稼ぎが非常に少ない。にもかかわらず、自分、というよりも彼女の趣味のために、あんなに金を使ってしまった。まだ卵を割って稼いでいた時の貯金があるとはいうものの、こんなペースで使っていたら、すぐに底をついてしまう。
 T氏は店長に直談判した。
「店長、今日から僕にハンバーグ焼かせてください」
「まかない用ではなく、お客さん相手にってことか?」
「はい」
「早く成長したいという君の気持ちは非常に嬉しく思うよ。でもまだ君は研修期間だ」
「ちゃんと美味しいハンバーグを焼いてみせます」
「気持ちは十分に受け取る。だが、お客さんに出す料理だ。お客さん相手に君の力試しをする訳にはいかないんだよ」
「……そうですか……」
「まぁそう落ち込むな。今君がやるべきことは、私が指示することを、確実にやり切ることだ。私は君の成長度合いを見ながら、少しずつお客さんに出す料理を作ってもらうつもりだ」
「わかりました」
「もう一つ重要なことは、考えながらやること。もし君が長くこの店で働いてくれるのなら、君自身が主体的に仕事をしなければならないときが、いずれくる。今の段階からその習慣をしっかりと身につけてほしい」
「はい、今日から意識します」
「うんそうしてくれ、君が成長してくれないと、Gさんの負担を減らしてやれないからな」
「本当にその通りじゃよ。いくらこの仕事が好きでも、歳にはかなわんからのう」
 後ろから声がした。Gさんがいた。
「あれ、Gさん、今日は仕込の時間から?」
 T氏は驚いた。
「今日はGさんと一緒に仕込をやってもらう。毎回同じ人に教わるんじゃ新鮮味がないだろ」
「そういうことじゃ、若いの。T君といったっけな、よろしく頼むよ」
 Gさんは穏和な表情で言った。
「よろしくお願いします」
 T氏は緊張した。
「パスタの仕込をやるぞ」
「はい」
「このでっかい二つの寸動に水ドバッと入れて沸かしてくれ」
「はい」
 T氏は寸胴に水を入れてコンロまで運ぶ。「お、重い」
 思わず声が漏れた。
「気をつけろよ」
「はい」
 T氏はコンロに点火した。
「沸騰するまでの時間も含めて、パスタが茹で上がるまで約十五分、その間にパスタに使用する部材を全て切ってもらう、時間との勝負じゃ。まずはピーマンから。僕が着る通りにやるんじゃよ」
「はい」
 T氏はGさんの切り方を真似した。
「種取るのにこんな手間取ってたら間に合わんぞ」
「はい」
 家でピーマン食べるときはワタと種ごと食べるのにな、とT氏は思った。しかしここは飲食店だ。料理の見た目が大事なのだ。
「次は玉ねぎ。茶色い皮は全て剥ぐんじゃよ」
「はい」
「皮剥いたら芯を取って、真ん中スパッと切る」
「はい」
「お湯が沸いたぞ、パスタ一袋ずつ入れい、塩は四杯ずつ」
「はい」
「玉ねぎはくし切りに、厚さはこれくらいじゃ」
 T氏の目に涙が浮かぶ。
「僕のスパルタ指導がそんなに辛いか?」
 Gさんがニヤっと笑う。
「いえ、玉ねぎが……」
 T氏がかろうじて答える。
「頑張れ、あともう少しじゃ」
「Gさんは目に染みないんですか?」
「干からびとるからの、涙なんか出んわい」「……」
 何と返せばいいのか、T氏にはわからなかった。
「あとベーコン切って、しめじ分けたら終わりじゃ。あと五分で全てやってしまうぞ」
「はい」
 T氏は時間内に終わらせるべく必死に切った。
「よし、パスタ上げるぞ」
「はい」
「上げたら水で締める」
「 はい」
 Gさんの要領を真似ながらやるも、大量のパスタはなかなか冷めてくれない」
「あの、Gさん」
 T氏が水で締めながら言った。
「何じゃ」
「パスタのメニューの数の割に、切る具材って案外少ないんですね」
「ソースじゃよ、その店の味を決めるのは。ピーマンや玉ねぎといった具材は一般家庭でも容易に手に入るが、ソースだけは絶対に真似できん」
「そー……うですか」
「ソースを仕込むのが一番難しいんじゃ、常に一定の味を保つのが。レシピがあるならその分量通りに材料を入れればいいんじゃないかと思うかもしれんが、そう単純なものでもないんじゃよ。仕入れる材料はその時々によって状態に微妙なばらつきがあって、そういうのを見極めながら常に同じ味を出すというのは、やはり経験によって培われた勘がものを言うんじゃよ。一朝一夕で成せる技ではないんじゃよ」
「奥が深いんですね」
「もう冷えたじゃろ、水を切れい」
「はい」
「切ったらサラダ油まぶして、冷蔵庫で保管じゃ。それが終わったらTくんはひたすらハンバーグの成形じゃ。その間僕は他の仕込をやる」
「はい」
「オープンまでに後片付けまで済ませるんじゃよ」
「わかりました」
 T氏ははひたすら作業に集中した。亀裂が入らないように丁寧にやりつつも、時間内に終わらせるべく……。
 成形を終え、後片付けまで済ませると、GさんがT氏に指令を出した。
「今日のまかないは、ハンバーグ二人前とナポリタン一人前を並行して作るんじゃ、もちろんTくん一人で」
「僕まだこの店でパスタ料理したことないですよ」
 T氏が狼狽しながら言った。
「ナポリタンは僕が指示するから、その通りにやればええよ」
「わかりました」
「じゃあ始めるよ。まずいつものようにハンバーグを鉄板に乗せる」
 T氏が言われた通りにする。
「焼いている間にフライパンを熱し、バター一切れ入れる。フライパン全体にバターをいき渡らせたら弱火にして、ベーコンの側面をじっくり焼く」
「ベーコンの数は……」
「六切れじゃ。いい感じに焦げ目をつけながら焼くんじゃよ」
「はい」
 T氏がベーコンに集中する。
「ほら、もう三分経つぞ」
 T氏、はっとして、急いでハンバーグを裏返す。
「玉ねぎとピーマンをトング一掴みずつ入れる。ちょっと火強くしてさっと炒める」
「次、しめじ、さっと炒める。炒めたらパスタ、小さいボールに一杯分、フライパンに入れる。その上からトマトソースレードル二杯」
 Gさんが立て続けに指示を出した。
「ちょいと代われ」
 Gさんが華麗な鍋振りを見せる。
「やってみい」
 T氏、試みるも上手くできない。
「まだまだ修行が必要じゃの。ハンバーグ焼け上がる前にこの皿に盛り付けい。具材が上になるようにな」
 T氏、完成したナポリタンを盛りつける。少し手間取った。
「ハンバーグ皿に上げい。はよせんと焦げるぞ」
 T氏はハンバーグを皿に上げた。とりあえず、指示された料理が完成した。

 事務室で向かい合わせになりながら、T氏とGさんはできあがった料理を食べた。
「ハンバーグ、ちと硬いのう」
 Gさんが一口含んだ後に言った。
 T氏も一口食べる。いつも焼くのより硬いとT氏も思った。
「そうですね」
「パスタの盛りつけに時間がかかっとる間に、ちと焼きすぎたみたいじゃな」
「複数の料理を同時にこなすのって、難しいんですね……」
「今日やったのなんてまだ簡単なほうじゃよ。実際に入ってくる注文なんぞ、お客さんの気まぐれじゃからな。そういう中でも同じテーブルのお客さんの料理は、極力同じタイミングで仕上げる必要がある。君がお客さんだったとして、親しい人と一緒に食事することを想像してみい。その人と同じタイミングで、いただきますしたいじゃろ」
「はい、その通りだと思います」
「そのためには、どんなパターンで注文が入っても、メインディッシュに関しては同じタイミングで仕上げられるように、瞬時に頭の中で組み立てができなければならん。さっき店長が君に考えながらやる習慣を今のうちにつけておきなさいって言ったのも、そういうことじゃよ」
「はい、そうなんですね……」
「あともう一つ、君に伝えておきたいことがある」
「はい」
「自分の言いたいことは、遠慮なく伝えなさい。相手が上司であろうとも、怯んだり萎縮したりする必要はない」
「どんなことでもですか」
「どんだことでもだ、道義に反することでない限り」
「わかりました」
「あぁすまん、最後の一言は余計じゃったのう。どう見たって君は、悪人には見えんからのう」
 そう言うと、Gさんはスパゲッティをフォークでクルっと巻いた。
「残りは全部君を食べるといい。年寄りはそんなにたくさん食えん」
「すみません、じゃあいただきます」
 T氏は残りのスパゲッティを皿ごと自分のほうに寄せた。
「うん、いい食べっぷりだ。君が複数の料理をさっとこなせるようになれば、まかないだってもっとたくさん食べられるぞ」
 Gさんは微笑んだ。
「仕事に影響しない程度の量にしておきます」
 T氏も笑った。T氏はこの店だったら頑張れるかもな、と思った。