薄暗いキッチンの中で、その目玉焼きは妙な存在感があった。そこだけ妙に明るかった。穢れを知らない赤ん坊の頬のようにふっくらとしたその目玉焼きを、T氏はフライパンから皿へ移した。何の苦労も要らなかった。黄身が、白身が、まるでその周囲に見えない境界線があるかのごとく、それ自身以外の何者の侵入をも拒んでいた。そのあまりの混じりけのなさに、T氏は塩コショウを振るのを躊躇した。
そのままの状態で箸を入れてみるも、上手く入らない。T氏は皿ごと上に持ち上げ、目玉焼きを丸呑みした。味がしなかった。
ふと横を見ると、扉の取っ手を左手に持ったまま、部屋の中から直立不動の姿勢で、彼女がT氏のほうを向いていた。その目には生気がなく、魂が抜けた彼女の肉体だけがあった。あまりの恐ろしさに、T氏は腰を抜かし、後頭部を壁に打ちつけた。T氏の頭は、卵を割ったときのように真っ二つになった。
T氏は目を覚ました。カーペットの上に寝転んでいるうちに、そのまま眠ってしまったようだ。隣には、同じカーペットの上に寝転び、T氏に背を向けた体勢で小説を読んでいる彼女の姿があった。艶やかで生き生きとした彼女の後ろ髪を見ると、T氏は胸をなでおろした。どうやらさっきのは夢だったようだ。
ふぁ〜と欠伸をしながら、彼女が体の向きを変えた。すっかり気の抜けた表情だったが、そこには確かに魂が宿っていた。
「あら、あなた起きたの」
彼女が言った。
「見ての通り」
T氏が答えた。
「どんな本を読んでいるんだい」
T氏が尋ねた。
「主人公が幽体離脱するのよ。抜け殻になった自分の体を見ながら……」
「もういい、そこから先は聞きたくない」
T氏が遮った。
「何よ、自分から聞いてきたくせに」
彼女は不満げに言った。
「さっさとシャワー浴びてきたら」
と彼女が言ったので、T氏はそれに従い、ゆっくりと立ち上がり、風呂場に向かった。
シャワーを浴びている間も、さっきまで見ていた夢の余韻が残っていた。T氏は何もかも洗い流してしまいたかった。自分の身に降りかかる、ありとあらゆる不都合なものを……。
浴び終えると、バスタオルでしっかりと身体を拭いた。T氏はタオルを洗濯機の中に放り込むと、洗面台の鏡を見た。そこに映っていたのは、心機一転生まれ変わった自分自身の姿であった……らいいな、とT氏は思った。
職探しをしようとT氏は決意した。貯金を使い果たす前に、そして、自分の愛しい人が、愛想を尽かして離れてしまう前に……。
翌日、T氏の姿は、とあるインターネットカフェの中にあった。漫画を読みに来たわけでも、オンラインゲームをしにきた訳でもなかった。職探しにきたのだ。
今T氏が住んでいる町の求人情報を、インターネットで片っ端から見て回った。たくさんあった。どこも人手不足なんだろう、とT氏は思った。
いつかT氏が行ったラーメン屋の求人募集もあった。店の前で人の好さそうな笑顔を湛えた店主が、両手を前に組んだまま写真に納まっていた。写真の横にある概要欄には、「まかないアルヨ! 時給六〇〇ネパール・ルピーアルネ!」と書かれていた。T氏は即座にネットで今現在の為替レートを調べた。一ネパール・ルピー〇・九〇円であった。絶対に応募すまいとT氏は思った。もっとまともな、信頼できそうなウェブサイトに辿り着くべく、検索結果が表示された画面に戻った。
ただ、何を以て信頼できるサイトと断定し得るのか、そこの判断基準がないと、大量にある情報の中で右往左往してしまうとT氏は考えた。そこでT氏は、以下のような基準を設けた。
①時給がその地域の最低賃金を上回っており、且つ日本円で表記されている。
②必要最低限の情報が端的に記載されている。
設けた基準を基に、T氏はウェブサイトを見て回ったが、どのサイトにも相変わらず余計なことばかり書かれている。「従業員みんな仲良くアットホームな職場です」など大概ブラックな職場だと相場が決まっているし、万一それが本当だとしても、社交性のない自分がその中に割って入るのは至難の技である。「あなたのやる気を評価します」に至っては、そんなものどうやって測るのか甚だ疑問であるし、定期的にやる気のなくなる自分のような人間は、一体どうすればいいのか。「やる気のなさ」を評価してくれるのであれば話は別だが……。
あれこれ思案しているうちに、また新たな疑問がT氏の脳裏に浮かんだ。「必要最低限の情報」とは一体何であるか。
「やる気」のような評価基準が曖昧なものでも、専らにそれのみを評価した上で給与に反映する旨が明確に記載されていれば、それは「必要最低限」に該当するだろう。一方で、「給与」「勤務時間」「休日日数」がその人の希望に合致するものであり、且つそれらが嘘偽りない情報であったとしても、いざ実際に勤務してみると、毎日仕事終わりに女装した上で社長と社交ダンスを踊らなければならず、そのことが苦痛で仕事を辞めるようなことになったら、その人からしてみれば、事前に提供されていた情報が不十分であったということになろう。このように、何を以て「必要最低限」とするのかは人によって違う。自分にとっての「必要最低限の情報」とは何か、いくら考えても、T氏にはわからなかった。
結局、「世の中カネだ」という第三の基準を設けたT氏は、今開いているサイトの中で、最も高い給与が記載された求人に応募することにした。結果的に「給与」が、T氏にとっての必要最低限の情報となったのであった。
そのままの状態で箸を入れてみるも、上手く入らない。T氏は皿ごと上に持ち上げ、目玉焼きを丸呑みした。味がしなかった。
ふと横を見ると、扉の取っ手を左手に持ったまま、部屋の中から直立不動の姿勢で、彼女がT氏のほうを向いていた。その目には生気がなく、魂が抜けた彼女の肉体だけがあった。あまりの恐ろしさに、T氏は腰を抜かし、後頭部を壁に打ちつけた。T氏の頭は、卵を割ったときのように真っ二つになった。
T氏は目を覚ました。カーペットの上に寝転んでいるうちに、そのまま眠ってしまったようだ。隣には、同じカーペットの上に寝転び、T氏に背を向けた体勢で小説を読んでいる彼女の姿があった。艶やかで生き生きとした彼女の後ろ髪を見ると、T氏は胸をなでおろした。どうやらさっきのは夢だったようだ。
ふぁ〜と欠伸をしながら、彼女が体の向きを変えた。すっかり気の抜けた表情だったが、そこには確かに魂が宿っていた。
「あら、あなた起きたの」
彼女が言った。
「見ての通り」
T氏が答えた。
「どんな本を読んでいるんだい」
T氏が尋ねた。
「主人公が幽体離脱するのよ。抜け殻になった自分の体を見ながら……」
「もういい、そこから先は聞きたくない」
T氏が遮った。
「何よ、自分から聞いてきたくせに」
彼女は不満げに言った。
「さっさとシャワー浴びてきたら」
と彼女が言ったので、T氏はそれに従い、ゆっくりと立ち上がり、風呂場に向かった。
シャワーを浴びている間も、さっきまで見ていた夢の余韻が残っていた。T氏は何もかも洗い流してしまいたかった。自分の身に降りかかる、ありとあらゆる不都合なものを……。
浴び終えると、バスタオルでしっかりと身体を拭いた。T氏はタオルを洗濯機の中に放り込むと、洗面台の鏡を見た。そこに映っていたのは、心機一転生まれ変わった自分自身の姿であった……らいいな、とT氏は思った。
職探しをしようとT氏は決意した。貯金を使い果たす前に、そして、自分の愛しい人が、愛想を尽かして離れてしまう前に……。
翌日、T氏の姿は、とあるインターネットカフェの中にあった。漫画を読みに来たわけでも、オンラインゲームをしにきた訳でもなかった。職探しにきたのだ。
今T氏が住んでいる町の求人情報を、インターネットで片っ端から見て回った。たくさんあった。どこも人手不足なんだろう、とT氏は思った。
いつかT氏が行ったラーメン屋の求人募集もあった。店の前で人の好さそうな笑顔を湛えた店主が、両手を前に組んだまま写真に納まっていた。写真の横にある概要欄には、「まかないアルヨ! 時給六〇〇ネパール・ルピーアルネ!」と書かれていた。T氏は即座にネットで今現在の為替レートを調べた。一ネパール・ルピー〇・九〇円であった。絶対に応募すまいとT氏は思った。もっとまともな、信頼できそうなウェブサイトに辿り着くべく、検索結果が表示された画面に戻った。
ただ、何を以て信頼できるサイトと断定し得るのか、そこの判断基準がないと、大量にある情報の中で右往左往してしまうとT氏は考えた。そこでT氏は、以下のような基準を設けた。
①時給がその地域の最低賃金を上回っており、且つ日本円で表記されている。
②必要最低限の情報が端的に記載されている。
設けた基準を基に、T氏はウェブサイトを見て回ったが、どのサイトにも相変わらず余計なことばかり書かれている。「従業員みんな仲良くアットホームな職場です」など大概ブラックな職場だと相場が決まっているし、万一それが本当だとしても、社交性のない自分がその中に割って入るのは至難の技である。「あなたのやる気を評価します」に至っては、そんなものどうやって測るのか甚だ疑問であるし、定期的にやる気のなくなる自分のような人間は、一体どうすればいいのか。「やる気のなさ」を評価してくれるのであれば話は別だが……。
あれこれ思案しているうちに、また新たな疑問がT氏の脳裏に浮かんだ。「必要最低限の情報」とは一体何であるか。
「やる気」のような評価基準が曖昧なものでも、専らにそれのみを評価した上で給与に反映する旨が明確に記載されていれば、それは「必要最低限」に該当するだろう。一方で、「給与」「勤務時間」「休日日数」がその人の希望に合致するものであり、且つそれらが嘘偽りない情報であったとしても、いざ実際に勤務してみると、毎日仕事終わりに女装した上で社長と社交ダンスを踊らなければならず、そのことが苦痛で仕事を辞めるようなことになったら、その人からしてみれば、事前に提供されていた情報が不十分であったということになろう。このように、何を以て「必要最低限」とするのかは人によって違う。自分にとっての「必要最低限の情報」とは何か、いくら考えても、T氏にはわからなかった。
結局、「世の中カネだ」という第三の基準を設けたT氏は、今開いているサイトの中で、最も高い給与が記載された求人に応募することにした。結果的に「給与」が、T氏にとっての必要最低限の情報となったのであった。