大事件であった。T氏の割った卵が、色鮮やかな黄身に透明でどろっとした白身を纏った、生卵なのである。何度やっても結果は同じである。新年早々、つい先ほど上司に「今年もよろしくお願いします」の挨拶を嫌々したばかりなのに、このざまではよろしくもお願いもしますもあったもんじゃない。
 T氏の様子を遠くから見ていた上司がT氏に声をかけた。
「白いご飯と醤油がないじゃないか」
 T氏は超高温のフライパンで焼いた目玉焼きの白身のように一瞬で固まった。
「卵かけご飯用に割ったんだろ」
 上司は床に落ちた生卵を指しながら言った。T氏は卵の殻を手に持ったままピクリとも動かない。
 上司が溜め息をつきながら続ける。
「うちの会社がどうして君を雇っているのか、君も理解しているよな、定期的に仕事に 遅刻してくる怠慢な人間を、今まで特に注意を与えることなく雇い続けた理由を」
 T氏はなおも言葉を発しない。上司はキッとT氏を睨みつけ「とりあえずここ片付けておけ」とだけ言い、T氏のもとを離れた。
 上司の姿が見えなくなると、T氏は気が抜けたままフラフラと掃除用具置き場へ歩いて行き、ポリ袋と雑巾を手に取り、もとの場所に戻ると、自分が散らかした生卵たちを掃除始めた。掃除し終わると、それらをゴミ箱の中に放り込み、上司の姿を探した。上司の姿を見つけるや否やT氏はただ一言「辞めさせていただきます」とだけ告げた。そのまま事務所へ連れて行かれ、退職届やらの書類にサインさせられた後、職場を後にした。そこから家に帰るまで何を考えていたのか、T氏はよく覚えていない。

 また T 氏は引きこもったが、時々彼女から誘われる水泳の練習のときだけは例外であった。このときだけは否が応でも、自らの惨めな姿を近所の人間やカラスたちの前に晒さなければならず、T氏は嫌で仕方がなかった。 ただ、彼女を失うのはもっと嫌だった。彼女の存在が、ほとんど途切れかけていたT氏と家の外の世界との繋がりをかろうじて保っていた。
 T氏の沈みきった心とは対照的に、T氏の身体は水中でしっかりと浮き上がり、以前にも増してスムーズな泳ぎを体現していた。余計な屁理屈を垂れる気力のなくなったT氏が、彼女の指導に忠実に従うようになったことが、結果的にT氏の泳力向上に寄与したのであった。彼女も彼女で、T氏が心を入れ替え真剣に練習に取り組んでいるのだとすっかり信じ込んでいたため、T氏の心が沈んでいることなど想像だにしなかった。
 練習を終え一緒に帰る段になっても、T氏は自分からは一切喋りかけず、彼女の発言にただ「うん」「そうだね」と頷いたりするだけであった。そんなT氏の様子を見てもなお彼女は、T氏が頭の中で今日の練習の反省をしているのだと思い込み、彼女は一層嬉しくなった。彼女の嬉しそうな横顔を見たT氏も、彼女は自分の気分が芳しくないことを察し取り、それでもあえて笑顔で自分を元気づけようとしてくれているのだと解釈した。双方によるこのような「盛大な勘違い」のおかげで、二人の間には亀裂が生じるどころか、却って強固な絆が形成されたのであった。

 二人は同棲した。彼女のほうから持ちかけてきた。T氏のニート生活が始まって三ヶ月が経った頃である。
 T氏としても都合が良かった。仕事もせずにずっと家にいると、母親の視線が痛いのである。母親には、家にいると甘えてしまうから別の場所へ移り住み、そこを拠点に新たに仕事を探すと言い、家を出た。
 同棲初日、仕事に行くふりをして朝八時半頃、T氏は彼女の家を出た。そして一時間ほど自転車で外をぶらつき、彼女が出社した頃を見計らって、彼女の家に帰った。
 合鍵を開けた。玄関には彼女の靴があった。部屋の扉が少し開き、隙間から艶のある綺麗な黒髪が覗いた。彼女がいた。
「あらあなた、もう帰ってきたの」
 彼女が目を丸くして言った。T氏はあたふたしながら咄嗟に
「いやー、今日休みだってことすっかり忘れていたよ」
 と言った。
「あなたって本当にうっかりさんね」
 彼女は言った。
 しばらくして、彼女は「買い物に行ってくる」と言い、家を出た。
 同棲二日目、彼女はこの日も休みだと言うので、T氏も休みだということにした。彼女がジョギングをすると言うので、T氏もついていった。
 住宅街を出てしばらくすると、一本の長い道路に出た。脇には数軒の民家がある他は、ほとんど畑や田んぼであった。苗が植えられる前の広大な田んぼの上を、冷たい風が自由に行き来する。
「この寂しい景色を見ていると、余計寒く感じるね」
「そうね、春はもう少し先のようね」
 景色の変わらない道を坦々と進む。途中一軒のカフェへと誘導する木製の看板があった。左脇に逸れた狭い道をしばらく行った所に、そのカフェはあるようだ。どういう理由でこんな辺鄙な所に店を構えようと思ったのか、T氏にはよくわからなかった。隠れ家的な人気を狙ったにしても、リスクが大きいだろうし……。多分人が嫌いなんだろうと、一応結論を出したT氏は、この件について考えるのを止めた。
 長い一本道が終わり、右に折れた。少し建物が増えたが、寂しい景色には変わりなかった。
 またしばらく行くと、右に折れた。再び一本道であった。左側には自動車専用のバイパスがあった。右側はやはり田畑であった。
「あんまり楽しい道じゃないね」
「華やかな景色を見ながら走る方がもちろん楽しいけど、毎日そういう所ばかり走っても飽きちゃうでしょ。幸せって案外相対的なものだと思うの」
 ふーんそういうもんかぁ、とT氏は思った。
「それにね」
 彼女は続ける。
「なかなか解決しない問題を抱えてるときにこういう所をボーっとのんびり走っていたら、急に降って湧いたように突拍子もないアイデアが浮かんできたりすることもあるの」「何か悩みがあるのかい?」
「さあどうかしら」
 彼女ははぐらかした。
 田んぼ道を抜けると、住宅街を通り、家に帰り着いた。結局、広大な田畑の周辺を、ぐるっと一周しただけであった。