男なら一度は登らんチョモランマ
――Tくん心のこもった川柳
事前準備は重要である。これは、T氏がここ数週間まざまざと痛感してきたことである。T氏にとっての事前準備とは、彼女が提案してくる、T氏からしてみれば未知なるイベントに対する準備である。必要になりそうな道具を揃えることも不可欠であるが、何よりも重要なのは、心の準備である。いっちょ前に道具だけを揃えたところで、T氏自身の心がそのイベントに向かっていなければ、話にならないのである。水泳、サイクリングとくれば、次はおそらく山であろう。
そういう訳で、T氏は今、とあるラーメン屋にいる。「チョモランマラーメン」。今日はこいつを制覇しに来たのだ。メニュー表には、入山料八八四八ネパール・ルピーとある。
「日本円で払うことはできますか?」
T氏は店主に尋ねた。
「モチロン、ジャパニーズエン大歓迎アルヨ」
店主は親切そうな笑顔で答えた。
「日本円ではいくらくらいなのでしょうか?」
T氏はさらに尋ねた。
「為替レートネ、一秒ゴトニ変ワルアルネ、オ客サン食ベオワッタトキノ値段アルネ」
店主は歯茎が剥き出しになるくらいの笑顔で答えた。
「ということは食べ切れなかった場合、お金は払わなくてもいいってことなのでしょうか?」
T氏がまた尋ねた。
「食ベオワラナイトキ、一・五払ウアルネ、食ベ物粗末ニスルノ、ヨクナイアルネ」
店主は顔ヲ引キつらセナガラ笑顔で答えタ。沸々と湧き上がった怒りを、けたたましい鼻息へと変えた店主の鼻の穴は、大きく膨らんだ。
「僕はこう見えても大食いだから、きっと食べ切ります。チョモランマラーメン一丁、お願いします!」
「了解アルネ!」
店主は厨房へと引っ込んでいった。
待っている間T氏は、チョモランマ制覇に向けた準備を整えた。まず、自らの腹を締めつけているベルトを外した。これで胃が膨らむ余地を確保した。次に、パーカーを脱いだ。防寒着など、邪道中の邪道である。最後に、シャツの袖を捲り、大きく深呼吸した。
準備は整った。決戦のときを待つ宮本武蔵のような心持ちで、T氏は待った。
程なくして、店主がお盆に乗せられたチョモランマをT氏の前にドーンと置いた。あまりの巨大さに驚愕したT氏は、喉元まで出かかった「遅いぞ小次郎!」のセリフを飲み込んだ。確実に、普通のラーメンの五倍はありそうだ。大量に盛られたもやしで、麺が隠れて見えない。麺よりももやしのほうが多いのではないか、というほどである。もはや、「ラーメン」ではなく「ラーもやし」と呼ぶほうが適切かもしれない。
店主が何やら説明を始めた。
「真ン中国境、左側チャイナ、ニンニクイッパイネ、右側ネパール、ピリ辛ソースネ、ソシテ背脂、コレ雪アルネ、アト、モヤシノ中ニ岩ガ隠レテアルネ、ソレジャ、ガンバッテ!」
店主は厨房へ戻った。
T氏は右手に箸を握ると、右側のネパール側のもやしを掴み、恐る恐る口へ運んだ。赤いピリ辛ソースのかかったもやしは、見た目ほど辛くはなく、食欲をそそるのにちょうどいいほどの辛さだった。次に左側の中国側に箸をつけた。背脂にまみれたことで、癖の強い匂いをますます引き立てられたにんにくは、T氏の口や鼻を強烈に刺激した。
もやしを食べ進めていくと、大きな豚肉のチャーシューが出てきた。T氏は大きく口を開けてかぶりついた。店主が言った通り、岩のように硬かったので、スープに浸しながら再びかぶりついた。
そろそろ麺を食べようと思ったT氏は、大量のもやしの脇から箸を滑り込ませ、麺を強引に引っ張り出した。極太の麺が、すっかり醤油色に染まっている。コシが強く、非常に食べごたえのある麺であった。
レンゲで掬ったスープをもやしにかけると、一気に獣臭さが増した。T氏は、やむを得ず狩りをするライオンの雄のような勢いで、無我夢中で喰らいついた。満腹中枢が働く前に食ってしまうんだと、T氏は決心した。
ネパール側と中国側が徐々に混じり合い、国境がなくなっていくのに比例して、T氏の勢いもなくなっていった。もやしはほぼ水分で構成されているゆえ、どうにかなりそうなものの、麺がきつい。それにまだ岩のようなチャーシューも残っており、噛めば噛むほど満腹中枢が刺激される。強者どもを後回しにしたことを、T氏は後悔した。
それでもどうにか食べ進め、麺とスープ以外は大方平らげた。だが、スープに浮かぶ背脂がしつこ過ぎて、T氏は戦意喪失した。
遭難寸前のT氏を再び奮起させたのは、厨房からひょいと顔だけ出して観察してくる、店主の半笑いの表情であった。ここまできて、ヘリコプターなど呼んでたまるか、何としても、自力で制覇してやるんだと、T氏は気合を入れ直した。
水が飲みたい衝動を必死に抑え、ひたすら食べ進めた。脂っこいスープだけが最後に残るのも辛いので、麺とスープを交互に口へ運んだ。
そして、レンゲに掻き集めた最後の一口を口へ運び、ゆっくり咀嚼した後、飲み込んだ。ついにT氏は、チョモランマを、自力で制覇したのであった。
登頂の余韻に浸っているT氏に、ノートパソコンを抱えた店主が近づいてきた。
「ヨク最後マデ食ベタネ、スゴイアルネ、私、感動シタアルヨ」
店主は満面の笑みでT氏を称えた。
「いえ、それほどでも……」
T氏は、勝者特有のメンタリティが生み出す謙虚さで以て答えた。
店主がノートパソコンを、T氏に見える位置に置いた。そして言った。
「オ客サン、コレ、今ノ為替レートアルネ、一ネパール・ルピー、〇・九七ジャパニーズエンアルネ」
店主は電卓をポケットから取り出し、T氏に見えるように打ちながら言った。
「八八四八×〇・九七=八五八二・五六アルネ、小数点ハ負ケトクアルネ、オ支払イ、八五八二ジャパニーズエンアルネ」
財布から勢いよく一万円札を取り出したT氏は、気前よく「釣りはいらねえぜ」と言いたかったが、ここまで細かく金額を計算してくれた店主にやはり申し訳なく思い、素直にお釣り一四一八ジャパニーズエンを店主から受け取り、店を後にした。
家に帰り、帰り際に口直しのために自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、T氏が部屋でくつろいでいると、メールの着信音が鳴った。彼女からだった。文面はこうであった。
「来週の日曜日、登山、いつもの駅、朝九時、防寒対策よろしく」
これを見たT氏が「登山の準備をしなきゃなぁ」と呟いた後、大きく溜め息をつくと、にんにくとコーヒーが混じった不快な臭いが、部屋中に広がった。
――Tくん心のこもった川柳
事前準備は重要である。これは、T氏がここ数週間まざまざと痛感してきたことである。T氏にとっての事前準備とは、彼女が提案してくる、T氏からしてみれば未知なるイベントに対する準備である。必要になりそうな道具を揃えることも不可欠であるが、何よりも重要なのは、心の準備である。いっちょ前に道具だけを揃えたところで、T氏自身の心がそのイベントに向かっていなければ、話にならないのである。水泳、サイクリングとくれば、次はおそらく山であろう。
そういう訳で、T氏は今、とあるラーメン屋にいる。「チョモランマラーメン」。今日はこいつを制覇しに来たのだ。メニュー表には、入山料八八四八ネパール・ルピーとある。
「日本円で払うことはできますか?」
T氏は店主に尋ねた。
「モチロン、ジャパニーズエン大歓迎アルヨ」
店主は親切そうな笑顔で答えた。
「日本円ではいくらくらいなのでしょうか?」
T氏はさらに尋ねた。
「為替レートネ、一秒ゴトニ変ワルアルネ、オ客サン食ベオワッタトキノ値段アルネ」
店主は歯茎が剥き出しになるくらいの笑顔で答えた。
「ということは食べ切れなかった場合、お金は払わなくてもいいってことなのでしょうか?」
T氏がまた尋ねた。
「食ベオワラナイトキ、一・五払ウアルネ、食ベ物粗末ニスルノ、ヨクナイアルネ」
店主は顔ヲ引キつらセナガラ笑顔で答えタ。沸々と湧き上がった怒りを、けたたましい鼻息へと変えた店主の鼻の穴は、大きく膨らんだ。
「僕はこう見えても大食いだから、きっと食べ切ります。チョモランマラーメン一丁、お願いします!」
「了解アルネ!」
店主は厨房へと引っ込んでいった。
待っている間T氏は、チョモランマ制覇に向けた準備を整えた。まず、自らの腹を締めつけているベルトを外した。これで胃が膨らむ余地を確保した。次に、パーカーを脱いだ。防寒着など、邪道中の邪道である。最後に、シャツの袖を捲り、大きく深呼吸した。
準備は整った。決戦のときを待つ宮本武蔵のような心持ちで、T氏は待った。
程なくして、店主がお盆に乗せられたチョモランマをT氏の前にドーンと置いた。あまりの巨大さに驚愕したT氏は、喉元まで出かかった「遅いぞ小次郎!」のセリフを飲み込んだ。確実に、普通のラーメンの五倍はありそうだ。大量に盛られたもやしで、麺が隠れて見えない。麺よりももやしのほうが多いのではないか、というほどである。もはや、「ラーメン」ではなく「ラーもやし」と呼ぶほうが適切かもしれない。
店主が何やら説明を始めた。
「真ン中国境、左側チャイナ、ニンニクイッパイネ、右側ネパール、ピリ辛ソースネ、ソシテ背脂、コレ雪アルネ、アト、モヤシノ中ニ岩ガ隠レテアルネ、ソレジャ、ガンバッテ!」
店主は厨房へ戻った。
T氏は右手に箸を握ると、右側のネパール側のもやしを掴み、恐る恐る口へ運んだ。赤いピリ辛ソースのかかったもやしは、見た目ほど辛くはなく、食欲をそそるのにちょうどいいほどの辛さだった。次に左側の中国側に箸をつけた。背脂にまみれたことで、癖の強い匂いをますます引き立てられたにんにくは、T氏の口や鼻を強烈に刺激した。
もやしを食べ進めていくと、大きな豚肉のチャーシューが出てきた。T氏は大きく口を開けてかぶりついた。店主が言った通り、岩のように硬かったので、スープに浸しながら再びかぶりついた。
そろそろ麺を食べようと思ったT氏は、大量のもやしの脇から箸を滑り込ませ、麺を強引に引っ張り出した。極太の麺が、すっかり醤油色に染まっている。コシが強く、非常に食べごたえのある麺であった。
レンゲで掬ったスープをもやしにかけると、一気に獣臭さが増した。T氏は、やむを得ず狩りをするライオンの雄のような勢いで、無我夢中で喰らいついた。満腹中枢が働く前に食ってしまうんだと、T氏は決心した。
ネパール側と中国側が徐々に混じり合い、国境がなくなっていくのに比例して、T氏の勢いもなくなっていった。もやしはほぼ水分で構成されているゆえ、どうにかなりそうなものの、麺がきつい。それにまだ岩のようなチャーシューも残っており、噛めば噛むほど満腹中枢が刺激される。強者どもを後回しにしたことを、T氏は後悔した。
それでもどうにか食べ進め、麺とスープ以外は大方平らげた。だが、スープに浮かぶ背脂がしつこ過ぎて、T氏は戦意喪失した。
遭難寸前のT氏を再び奮起させたのは、厨房からひょいと顔だけ出して観察してくる、店主の半笑いの表情であった。ここまできて、ヘリコプターなど呼んでたまるか、何としても、自力で制覇してやるんだと、T氏は気合を入れ直した。
水が飲みたい衝動を必死に抑え、ひたすら食べ進めた。脂っこいスープだけが最後に残るのも辛いので、麺とスープを交互に口へ運んだ。
そして、レンゲに掻き集めた最後の一口を口へ運び、ゆっくり咀嚼した後、飲み込んだ。ついにT氏は、チョモランマを、自力で制覇したのであった。
登頂の余韻に浸っているT氏に、ノートパソコンを抱えた店主が近づいてきた。
「ヨク最後マデ食ベタネ、スゴイアルネ、私、感動シタアルヨ」
店主は満面の笑みでT氏を称えた。
「いえ、それほどでも……」
T氏は、勝者特有のメンタリティが生み出す謙虚さで以て答えた。
店主がノートパソコンを、T氏に見える位置に置いた。そして言った。
「オ客サン、コレ、今ノ為替レートアルネ、一ネパール・ルピー、〇・九七ジャパニーズエンアルネ」
店主は電卓をポケットから取り出し、T氏に見えるように打ちながら言った。
「八八四八×〇・九七=八五八二・五六アルネ、小数点ハ負ケトクアルネ、オ支払イ、八五八二ジャパニーズエンアルネ」
財布から勢いよく一万円札を取り出したT氏は、気前よく「釣りはいらねえぜ」と言いたかったが、ここまで細かく金額を計算してくれた店主にやはり申し訳なく思い、素直にお釣り一四一八ジャパニーズエンを店主から受け取り、店を後にした。
家に帰り、帰り際に口直しのために自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、T氏が部屋でくつろいでいると、メールの着信音が鳴った。彼女からだった。文面はこうであった。
「来週の日曜日、登山、いつもの駅、朝九時、防寒対策よろしく」
これを見たT氏が「登山の準備をしなきゃなぁ」と呟いた後、大きく溜め息をつくと、にんにくとコーヒーが混じった不快な臭いが、部屋中に広がった。