T's kithen〜Tくん、きcちんとしなさい〜

 さて、重要なのはここからである。せっかく付き合い始めたのに、彼女の前で上手に振る舞えず超特急でブレイクアップでは元も子もない。肝心なのはこれから先、末永く二人の関係を維持していくことなのだ。めでたしめでたしで物語が終わるのは、日本昔ばなしだけで十分だ。
 消極的な性格のT氏からしてみれば、彼女がぐいぐい引っ張っていってくれそうな性格であるのは、非常にありがたいことである。ただ、そのことは同時に、彼女の提案に対して、T氏はほぼ無条件に賛同しなければならないことを意味するのである。魅力的なデートプランを練るということが不得手なT氏にとって、拒否権は事実上皆無なのである。
「あなた、身体を動かすのは好きかしら?」
 昨日の彼女の言葉がT氏の脳裏を掠める。勢いで好きだと答えたものの、実際のT氏は、高校生の頃以来、まともに運動していない。今この状態で、ハイキングや登山なんかに誘われたら、一環の終わりである。
 いつデートに誘われてもいいように、T氏は体力づくりを始めることを決意した。かといって、いきなりジョギングなんかを始めたところで、続かないのは目に見えている。何を始めるべきか思案した結果、T氏が導き出した答えは、自転車であった。
 通勤手段を、電車から自転車へ変えるのである。自宅から勤務地まで約6㎞、通えない距離ではない。高校生の頃は、それよりももう少し長い距離を毎日往復していたのだから、その頃よりも体力が落ちているとはいえ、不可能ではないだろう。性能の良い自転車なら、体力の低下分もしっかり補ってくれるはずだ。そう、今は性能の良いものを買うだけの金があるのだ、卵を割って稼いだ金が。
 T氏は外出着に着替えると、街の自転車屋へと向かった。
 店に入ると、すぐさまスポーツタイプの自転車が置いてある売り場がT氏の目に飛び込んだ。
 ママチャリしか乗ったことのなかったT氏は、スポーツタイプの自転車の種類の豊富さにまず驚いた。フレームのデザインもさることながら、タイヤも細いタイプや太いタイプのものがあったり、ハンドルにカラフルなテープが巻いてあるものがあったりと、見ている分には新鮮で楽しかったが、いざ自分が乗るとなると、どれを選んだらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。腕を組んだまま自転車を眺めていたT氏に、店員が声をかけてきた。
「どういったものをお探しですか?」
「つ、通勤用に、少しいいものを探していて……」
 T氏はまごつきながら答えた。その挙動不審なさまは、いつまで経っても結果が出せない盗人のようであった。
「スポーツタイプのものは初めてですか?」
 聞くまでもなさそうなことを店員が丁寧に聞いた。
「はい、ママチャリしか乗ったことがなくて……」
「でしたら、こちらのモデルがオススメですよ」
 そう言って店員がすすめてくれたのは、黒いフレームでタイヤが少し太めのモデルであった。店員曰く、フレームはアルミ製で、軽量なのだとか。ギアは前後二箇所についており、細かいギアチェンジが可能である。クロスバイクという自転車に分類されるらしい。
 価格は五万円。T氏が学生時代に乗っていたママチャリに比べればうんと値は張るが、これから先、長く乗り続けることを考えると、それほど高い買い物でもあるまい。通勤で電車賃を払わなくてよくなるのだから、すぐに元は取れるだろうと踏んだT氏は、その自転車を購入した。そのまま家まで乗って帰ることにした。
 始めはギアチェンジに少し戸惑ったが、すぐに慣れた。風を切って進む感じが気持ち良い。なるほど、確かに軽くて速い、後は前傾姿勢にさえ慣れてしまえば、もっと快適に走れるだろうとT氏は思った。明日からの通勤が非常に楽しみなT氏であった。

 翌日、天気は雨であった。外を見ずともわかるほどの大雨であった。合羽を着て行くなんて嫌だ、新品の自転車をいきなり濡らすなんて嫌だと思ったT氏は、これまで通り、電車で通勤することにした。
 各々のキャパシティをとっくに超えた水たまりたちが氾濫し互いに混じり合ったその上を、T氏の長靴がピチャピチャと音を立てては、大雨の中力強く佇む道路脇の雑草のように毅然と水を弾きながら通過する。雨ニモマケズ、文句一つ言わず通勤する僕は何て立派な労働者なんだろうと、T氏は我ながら感心した。
 駅に着き、電車に乗り込んだT氏は、明日こそは自転車で通勤するのだと決意を新たにした後、自転車に乗る自分の姿を思い描きながら車内での時間を過ごした。
 その翌日、T氏の気分のように不安定な状態の大気がもたらした秋雨前線は、今度は猛烈な嵐を発生させた。T氏は外の様子を見に玄関の扉を開けた瞬間、強風に煽られた。
 リビングに戻りテレビをつけたT氏は、「不要不急の外出は、お控えくださーーい!」とマイクを抱えたまま今にも飛んでいきそうな女性アナウンサーが映し出された画面の右脇に表示されたテロップで、本日の列車の運休を確認した。
 T氏はすぐさま上司にメールを打った。
「電車が止まっちゃってるんですけど」
 数分後、返信があった。
「今日は割らなくても大丈夫」
 この返信を以て、この日はまる一日休日となることが決定した。
 一日休んだ次の日の朝、目覚めたばかりのT氏に、雨や風の音は聞こえてこず、やかましいのは目覚し時計の音だけであった。部屋の窓を開け、外の様子を確認したT氏は、今日こそは自転車で行けると確信した。
 身支度を済まし、リュックを背負ってT氏は玄関を出た。そして自転車を門の外へ運び出し、ついにT氏はそれに跨った。いよいよT氏の自転車通勤デビューである。
 出だしはスムーズであった。所々残った水たまりを避けながらT氏は進んでいった。
 川沿いの道に出た。なぎ倒された長く伸びた草がせり出しまあまあ険しくなった道を、秋の朗らかな晴天に励まされながら、T氏は自転車とともに軽やかに進んでいった。むき出しの腕に草が当たり、ちょっと痛い。でも長袖だったら、ちょっと暑い。かいなし。
 川沿いを逸れると、T氏は山のほうへと続く道を走り始めた。しばらく行くと、右側の少し離れたところにいつも降りる駅が見えた。駅から歩く時間を考慮すれば、自転車のほうが早く着きそうだな、とT氏は思った。
 職場までの最後の200メートルは登り坂である。五万円もした自転車だから楽に登れるだろうと、T氏は大いなる期待とともに坂に挑んだ。
 ところがいざ登り始めると、どうもスムーズにいかなかった。立ち漕ぎをしようにも上手くタイミングが取れないし、座ったままペダルを回しても、ギアが軽すぎるのか、なかなか前に進まない。半分ほど登ったところで、T氏はバテてしまった。結局最後まで登り切れず、残りは自転車を押しながら歩いた。
 その日の帰り、T氏は本屋に立寄った。自転車関連の雑誌をめくっていくと、案外簡単に見つかった、効率良く自転車を走らせる方法。
 それによると、上半身をリラックスさせ、ハンドルに体重をかけないようにするのがポイントらしい。他には、体幹を意識して漕ぐようにすると効率良く走れる、と書いてある。家で体幹トレーニング、うん、きっとやるまい、とT氏は思った。

 毎日自転車で通勤しているうちに、T氏は徐々にコツを掴んできたようだ。坂を登るときのちょうどいいギアもわかってきた。ハンドルに体重を乗せないように意識して走ると、当初感じていた肩や腕の疲れも、ほとんど感じないようになった。始めて二週間も経たないうちに、T氏は職場までの最後の坂を、自転車を降りずに登り切れるようになっていた。心なしか、腹周りの贅肉も少し落ちたようだ。
 彼女からT氏にメールがきた。
「プールに行きましょう、こないだの駅で待ってるから、十二時ね、水着と帽子忘れちゃダメよ」
 T氏は思った、何を以て今日僕が何も用事がないと決めつけるんだろうと。まぁ実際ないのだが。
 せっかくのデートの誘いだ、断る理由もない。T氏は「うん」とだけ打って返信した。
 あんまり泳ぐの得意じゃないんだけどなぁ、とT氏は思った。何となく憂鬱な気分だったが、彼女の可愛い水着姿が拝めるのだということに考えが及ぶと、T氏はちょっとだけニヤっとした。
 T氏は部屋の押入れを物色した。あった、奥のほうに、高校生の頃まで使っていた水泳バッグ。中を見ると、水着はある、帽子もある、ゴーグルは、ない。
 水着を履いてみたところ、問題なく履けた。破れも見当たらない。泳いでいる最中に破れないという保証はないが、まぁ大丈夫だろうとT氏は判断した。
 T氏は水着と帽子とタオルを詰めた水泳バッグをリュックの中に放り込み、着替えを済ませた後、十一時までゴロゴロしながら時間を潰した。髪がボサボサのままなのは、釣った魚に餌はやらぬというろくでもない思想によるものでは決してなく、水に入ればどうせ頭はペチャンコになるという合理的判断に基づくものであった。
 いよいよ時間になり、T氏は「ヨイショ!」と気合いを入れて身体を起こすと、準備していたリュックを拾い上げて背負い、家を出た。そして自転車に跨り、待ち合わせの駅へ向かった。
 十二時ほぼちょうどにT氏は到着した。彼女は先に着いており、栄養バーのようなものをかじりながら待っていた。
「お待たせ」
 T氏は自転車を降りながら爽やかに言った。だが、彼女はT氏自慢の自転車については特段の感想も述べず
「あなたちゃんと家でご飯食べてきた?」
 と言った。
「昼は食べてない。どこかで食事して、それからプールに行こうよ」
 とT氏は提案した。が彼女はT氏の提案を断固拒否した。
「何言ってるのよ、プールはお昼時が一番空いているのよ、この時間逃したら子どもなんかがバーっと入ってきて、目一杯泳げないのよ」
 そう言うと彼女は、T氏に栄養バーを一本差し出した。
「それ食べたら行くわよ」
 T氏は渋々受け取ると、袋を破いてそれを口にした。大豆の匂いがした。腹の減っていたT氏は、当然その一本では満足できなかった。
 T氏が食べ終えると、「じゃ行くわよ」と言いながら彼女は歩き始めた。T氏は自転車を押しながら彼女についていった。
 二人は高架橋を潜り、駅の裏に出た。そこから五分も歩かないうちに目的地に到着した。
 入ってすぐの受付で料金を払い終えるや否や、「時間ないんだからモタモタ着替えてないでさっさと出てきてよね」と彼女は言い残し、早足で更衣室へ向かった。
 着替えると言っても、服脱いでパンツ履いて帽子被るだけだから、いくら何でも僕のほうが早いだろうと思ったT氏は、のんびりトイレで用を足した。着替えてシャワーを浴びてプールサイドへ出ると、もう彼女はいた。あらかじめ服の下に着込んでいたんじゃないかとT氏は勘ぐった。
 彼女の姿を見たT氏はがっくりした。彼女の着ている水着が、全然可愛くないのである。デートに着てくる水着だから、ビキニだとかそういうのを期待していたのに、何だその、色気のない、真っ青なスポーティな水着は、オリンピックにでも出るのか君は、とT氏は不満に思った。
 T氏がしどろもどろに思ったままを彼女に伝えると、彼女は「市民プールでそんな目立つ水着着られる訳ないでしょ」と一蹴した。
 彼女の言っていた通り、その時間のプールは空いていた。いたのは、水中でウォーキングしている老夫婦一組と、プール監視員一人だけであった。
「目一杯泳げるわね」と彼女は嬉しそうに言いながら入水した。T氏もそれに続いた。
「まずはお手並み拝見といこうかしら。とりあえず一往復泳いでみて」
 言われるがまま、T氏はプールの壁を蹴り出した。ぎこちないクロールだったが、向こう側の壁まではどうにかもった。だが折り返してすぐ身体が沈み始め、息継ぎが苦しくなってきたため、平泳ぎに切り替えた。これならどうにか浮いていられた。
 T氏がやっとの思いで一往復泳ぎ切って、彼女のほうを見ると、彼女はゲラゲラ笑っていた。
「何だよ、ちゃんと最後まで泳ぎ切ったじゃないか」
 T氏は不満げに言った。
「だって、ロボットみたいな動きのクロールが始まったと思ったら、急に動きが激しくなって、それに……ウヒヒヒヒー、平泳ぎで浮いてるときのあの間抜けな顔……」
「笑い過ぎだろ、普通に50メートル泳いだだけじゃないか」
「より正確に言うなら、25メートル泳いで、25メートル溺れた、といったところかしら。でも最後まで足をつかなかったのはえらいわね」
 彼女はまだ笑っていた。
「けなしてんだか、褒めてんだか。そんなに言うくらいなら、君はたいそうきれいに泳げるんだろうね」
 T氏が言うと彼女は
「わかったわ、見本を見せてあげるからちゃんと見てるのよ」
 と言い、プールサイドを蹴り出した。素人のT氏ですらそう思うほど、無駄のないスムーズな泳ぎで、あっと言う間に50メートルを泳ぎ切ってしまった。さすが、デートでオリンピックみたいな水着を着るだけのことはあるな、とT氏は思った。
「どう、感想は?」
 これくらいは当然よと言いたげな表情で、T氏に言った。
「確かにスムーズな泳ぎだったけれど、どうも面白みがないね。僕みたいに途中で暴れたり沈んだりといった、ひと工夫を交えるべきだね。君の泳ぎは、どこか公務員的な感じがしてつまらない」
 T氏はT氏なりの素直な感想を述べた。
「確かにあなたのあのドラスティックな泳ぎは、真似しようと思ってもできるものじゃないわね。ちょうど、歌が上手な人が音痴な人の物真似を試みても、どうしても正しい音程で歌ってしまうみたいに」
 彼女は言った。
「つまらない泳ぎ方だったけれど……」
 とT氏が言った後、さらに続けて
「最後まで足をつかなかったのはえらいね」
 とT氏が先程彼女に言われた言葉をそのまま返すと、彼女は少しだけ悔しそうな顔をした。このとき初めて、T氏は彼女に対して優位に立ったような気がして、ニヤっと笑った。
「あのね、プールでスムーズに、それこそあなたがつまらないと思うくらい無駄のない感じで泳げないと、波のある海では真っすぐに進めないのよ」
 それを聞いたT氏は、この女は海に行ってもビキニなんか着ないんだろうなと思い、非常にがっかりした。
 気の沈んでいるT氏の横で、彼女は壁を蹴りけのびをした。プールの半分ほどの地点で足をついた。
「あなたもやるのよ。身体をしっかり真っすぐにして伸びないと、ここまで来られないわよ」
 T氏は仕方なく壁を蹴った。10メートルも進めなかった。
「うん、やっぱり駄目ね。身体も曲がってるし、下半身も沈んじゃってる。まずは浮くところからのようね」
 彼女は言った後、再びT氏に指令を出した。
「次はけのびをした後、その伸びた状態をできるだけ長くキープするのよ。15秒くらいは粘ってほしいわね」
 T氏は言われるがままけのびをした。
「15秒間のうちの半分は足が沈んでいたわね。次は足がなるべく沈まないように頑張るのよ。ポイントは、膝の裏やお尻を使うように意識すること」
 お尻なんて、うんこするときと自転車に跨がるときくらいしか意識したことないよとT氏は思いながら、再びけのびをした。
「できるようになるまでやるわよ」
 T氏は何度も何度もけのびをやらされた。次第に下半身はだいぶ浮くようになった。
「意外と飲み込みが早いわね、感心感心」
「基本的に早食いだからね、僕は」
「でもまだ身体が曲がっているわね、矯正してあげるから一旦陸に上がるわよ」
「それは強制かい?」
「面白くないから、それ」
 梯子に掴まり陸に上がる途中、「若いもんはいいのう」という呟きを耳にしたT氏は「よかったら代わってあげますけれど」と心の中で呟いた。
「あなたにも次やってもらうから見てて」
 彼女は、腕を真上に伸ばした状態で壁に背中をつけた。そして言った。
「手の甲、肩、背中、お尻、ふくらはぎ、かかとをしっかりと壁につける、この姿勢のままけのびをするの。このストリームラインができるようになると、水の抵抗が少なくなって長く進めるようになるのよ」
「ストリームだかストリップだか知らないけれど、僕には無理だよ。猫背だったり天パだったりで身体の曲がっている部分が多すぎるから、真っすぐになんてならないよ」
 張り付けになった彼女に向かってT氏は言い返した。
「天パは関係ないでしょ」
「大いにある。髪型如何で絡みつく水の量に差が出る、多分」
「硬そうな髪質だからしっかり水を弾いてくれるわよ。はい、つべこべ言ってないでやる」
 T氏は面倒くさそうに腕を真上に上げ、壁に背中をつけた、というよりも寄りかかった。
「はい、指先から足先までピーンと真っすぐに」
「はいはいはいはい」
「はいは二回まで」
「二回までならいいんだね」
「ほら、腰が反ってるわよ、下っ腹引っ込めて」
「お腹触んないでよ、くすぐったい」
「今度は背中が曲がってきたわよ」
「それは元からだから少しは大目に見てよ」
 T氏が彼女と壁と張り合っている間に、少しずつ人が増えてきた。自分たちのやり取りをニヤニヤしながら見てくる子どもたちの姿がT氏の視界に入ったとき、彼女が人の少ない時間帯を狙った理由を、T氏はようやく理解した。
「はい、今日はここまで」
 彼女が言った。二人が練習を始めてから、既に一時間が経過していた。
「普通こういうことやった後って、最後に今日のおさらい的なことをやるもんなんじゃないの、いや、やんないならやんないで別にいいんだけど」
 T氏の素朴な疑問に、彼女はその日一番の笑顔で答えた。
「あら、やる気になってきたようね。いいのよ、続きはまた明日やるから」
「そうか、なら大丈……夫……って明日もやるの⁉」
「当たり前でしょ、明日も休みでしょ」
 何が当たり前なんだよと思いながらもノーと言えなかったT氏は、明日休日出勤の連絡がこないかな、と僅かながら願った。

 翌日、二人は前日と同じ時間帯に同じプールにいた。
 ストリームラインを保った状態でけのびを十回ほどやった後は、ひたすらキックの練習であった。
 T氏の気分は最悪であった。前日の反省を活かし、その日は家を出る前にしっかりと食事をとったT氏であったが、それが仇となった。T氏は悔恨の念に駆られていた、うどん三玉はさすがに茹で過ぎであったと。
「ほら、下半身が沈んできたわよ、しっかりお腹に力を入れる!」
 T氏の状態など知る由もない彼女のコーチングは容赦ない。
 今腹に力を入れたらうどんが逆流しそうだ、これが本当の力うどん……なんて余計なことを考えていたら、T氏の気分はさらに悪くなった。
 とにかく今は無心になるんだと、T氏は心の中で唱え続けた、無心になって、坦々とキックを打ち続けるんだ、そう、坦々と……担々麺……ウェェー……。
 顔を歪めながら、T氏は必死にビート板にしがみついた、今頼れるのは君しかいないんだといわんばかりに。
 だか残念なことに、ビート板もT氏の味方ではなかった。T氏がしがみついていた白いビート板が、次第に白いまな板に見え始め、昼前に切った大量のねぎがT氏の頭の中を支配した。もはや我慢の限界であったT氏は、泳ぐのを中断した。
「ちょっと一回上がる」
「あら、もう疲れたの?」
「まな板……ビート板の色が気に入らない」
「誰がまな板よ!」
 陸に上がるとT氏は、プールサイドの壁際に設置されている金属製のラックに立てかけてあるビート板を物色し始めた。
「赤は紅しょうがだし、黄はおろししょうが、後残るは青か……ブルーチーズ……食べたことないから大丈夫だろう、今の僕のブルーな気持ちにもフィットしそうだ、うん、これにしよう」
 前日と同じ時間まで泳ぎ続けるとしたら、後三十分はある。気分が悪いながらも、最低限T氏はその時間まで泳ぎ切るつもりであった。付き合い始めた初期の段階で、張り合いのない奴だと思われるのは何としても避けたかったからである。幸いにも、一度プールから上がったことで、T氏の気分は少しはマシになったようだ。
 青のビート板を抱えたT氏は、再びプールへと戻った。
「あら、私と同じ色のにしたの」
 彼女は少し嬉しそうに言った。
「うん、ちょっと気分を変えたかった」
 T氏はつくり笑いで答えた。
「時間ないからそろそろ再開するわよ」
 再開してからは、T氏の気分はそれほど悪くなることはなかった。ただ一度、下半身が沈み始めたとき彼女に脚と腹をぐいっと持ち上げられたため、T氏は一瞬ヒヤリとした。それ以降T氏は、一切彼女に触れられまいと、何としても下半身を沈めないよう尽力した。そのことが結果的に、T氏のキック上達に寄与したのであった。
 人が徐々に増えてきたので、二人はプールから上がることにした。前日よりも少し早い時間だったので、T氏は「助かった」と心の底から思った。
 帰り際彼女は、T氏の上達が早いことを嬉しそうに何度も褒めた。褒められていい気になったことで、この二日間何のためにこんなに一生懸命水泳の練習をさせられていたのかという疑問は、T氏の頭の中から完全に消え去ってしまった。また時々練習に誘うわねと彼女が言うと、T氏は笑顔でイエスと答えた。次からは消化のことを考えて、コシのないうどんを二玉までにしようと、反省も忘れないT氏であった。
 熟睡であった。いつまでも寝ていられそうだった。寝返りを打った。枕元の時計が視界に入った。九時過ぎだった。飛び起きた。
 起き上がると、T氏はすぐさま上司にメールを打った。
「あの……今目が覚めたんですけど……」
 一時間ほど経過し、これは首かなとT氏が思い始めた頃、メールが返ってきた。
「今日は十二時頃から割ってもらえれば大丈夫」
 どうやら首は免れたようだ。
 ケータイを閉じたT氏は、のんびりと着替え始めた。
 週末に慣れない水泳をしたせいで、想像以上に身体が疲れていたのだろうとT氏は思った。同時に、これから先、彼女に慣れないことをさせられる度に、今日のように寝坊するのではと不安に駆られた。
 だったら先手を打てばいいのだ。T氏は彼女に誘われる前に、T氏のほうからT氏の得意とすることで、彼女を誘ってしまおうと考えた。
 サイクリング。毎日自宅と職場を往復10㎞以上自転車で通勤しているのだ、いくら何でも僕のほうに分があるだろうとT氏は思った。
 早速彼女にメールを送った。
「今週末サイクリングどう? 土曜日。いつもの駅集合で」
 すぐに返ってきた。
「いいわよ、朝九時ね、寝坊しないでよ」
 僕は肝心なときには寝坊しないんだぞと思いながら、T氏は家を出た。
 職場には十一時過ぎに着いた。十二時まではすることがないと言われたので、T氏は時間潰しにひたすら妄想にふけることにした。
 登り坂で苦戦する彼女に、坂はこうやって登るんだよとアドバイスする自分の姿や、風よけとなりながら彼女をグイグイリードする自分に対して、尊敬の眼差しを向ける彼女の姿を妄想し始めたT氏は、終始ニヤニヤしていた。

「何だこの格好は……」
 T氏は開口一番こう呟いた。
「どう、似合ってるでしょ」
 白い自転車のフレームを跨いだまま、彼女は自信ありげに言った。
「まるで仮面ライダーみたいだな、ヘルメットまで被って……」
「ピンクの仮面ライダーなんて見たことないわ、いるのかもしれないけれど、私は知らない」
「仮面ライダーじゃないなら、なんたらレンジャーピンク、といったところか。んで何でこんなへんてこな格好してるの?」
「へんてこだなんて失礼ね、サイクルジャージっていうのよ。あなたが着ているジャージみたいにダボダボしてないでピシッとしてるでしょ、だから風の抵抗を受けにくいのよ」
「こないだからやけに抵抗にこだわるね、水の抵抗がどうとか。そんなに自分に抵抗してくる勢力が気に入らないのかい?」
「つべこべ言ってないで、あなたもこれ、被るのよ」
 T氏は原付用のヘルメットを渡された。
「こんなの被って自転車乗ってる人なんていないよぉ」
「これしかないんだからしょうがないでしょ」
「僕、被んないで行くよ」
「駄目、絶対に被って。転んで頭打ったりなんかしたら大変でしょ」
「そんな大げさな……」
「被ってって言ってるでしょ! 私は本格的でないと嫌なの!」
 T氏は渋々ヘルメットを被った。自転車、ジャージ、リュック、ヘルメット、全て黒であった。Tくんレンジャーオールブラック誕生の瞬間であった。
「で、どこに行こうか?」
「島に行くわよ、港に向かう道の途中に赤い橋があるでしょ、あの橋渡って行くの」
「え、峠超えなきゃなんないじゃん」
「そうよ、行きは大したことないから大丈夫、さあ、行くわよ」
 行ったら行ったっきり帰らないつもりかよと思いながら、T氏は彼女の後をついていった。
 二人は山々に挟まれた峠までの道を、緩やかに登りながら進んでいった。穏やかな秋風が、見頃を迎えた紅葉を上品に揺らす。若くして散った赤や黄の葉っぱたちは、二人のタイヤに踏みつけられても、うんともすんとも音を立てず、また、ある者は風に舞い、ある者は虫に喰われ、やがて散り散りになる運命に抗うことなくただ身をまかす。そういうさまを見て勝手にもののあはれを感じる人間たちは詩や小説を書き、やがて切羽詰まった一部の者がT氏のような主人公を生み出す。自転車のシャーという乾いた音が、何とも虚しい。
 彼女の身のこなしは非常に軽やかであった。この程度の坂では登っているうちに入らないわよ、といわんばかりに。T氏は出発前あれこれと妄想していたことが馬鹿らしくなった。よく見ると自転車も、T氏のよりもいくらか高そうであった。
 信号で止まる度に、彼女は左足首を外側に捻るようにして足をペダルから外し、右足はペダルの上にかけたまま、左足のみを地面に接地させた。それを見たT氏が彼女に尋ねた。
「シューズも自転車専用の物なのかい?」
「そうよ、足がペダルに固定されることで無駄なく効率良く走れるのよ」
「ふーん……」
 彼女は何から何まで本格的であった、T氏のほうから誘ったにもかかわらず……。もし誘ったのがドライブデートとかだったら、全身F1レーサーみたいな格好をした彼女の横で、僕は原付用のヘルメットを被って助手席に座っていたのだろうかと、T氏は思った。
 峠に差しかかり、そこから一気に下った。風を切り裂いていく感覚が、T氏には心地良かった。二人はどんどんスピードを上げていった。二人の行く手を阻むものは、もはや何もなかった、下っている間は。重力はやはり偉大である。
 下った先に、丁字路が現れた。坂を下り切った二人を待ち受けていたのは、陽の光に照らされた、青く澄み渡った海であった。
「海が綺麗ね」
「うん、ほんとに」
 二人は丁字路を右折し、海を左手に見ながら進んでいった。冬を前にして低くなりかけた陽射しが、スポットライトのように二人に向かって煌々と降り注いだ。
 彼女の結った黒い後ろ髪が光を集め、潮風に揺られながら再びそれを解き放つ。T氏は見惚れていた。あまりの美しさに、我を忘れていたT氏には、二人を次々と追い越していく車の音も、ほとんど聞こえていなかった。
 橋が近づいてきた。高い位置にある赤い橋は、陽の光を受けて、より鮮やかな赤を醸し出していた。まるで自らの美貌を惜しげもなく誇示する高飛車な女のように、T氏には感じられた。再び前を走る彼女に視線を戻す。何の工夫もなく無造作に一箇所で束ねられた後ろ髪がひらりと舞う。とりとめのない美しさが、T氏には愛おしかった。
 高台に架かる橋へ向かい、坂を登る。少しT氏は脚が疲れた感じがした。彼女は悠々と登っていった。
 大きく口を開いた橋が、二人を待ち構えていた。道路脇にある看板には、全長1000メートルと書かれていた。二人は橋の左端にある、自転車通行帯を渡り始めた。
 ついさっきまで走っていた海岸沿いの道路が左手に見えた。海には何艘かの船が浮かんでいた。高い橋の上から見下ろした世界は、T氏の目に映るありとあらゆるものが、まるで模型のように小さかった。T氏がイッツ・ア・スモール・ワールドの感慨に浸っている間も、彼女はペースを落とすことなく前をひた走る。置いていかれないようにT氏は、大海原でようやく宿主にありついた一匹のコバンザメのごとく、ピタリと彼女に追従した。
 橋を渡り終え、二人はついに島に到達した。
「疲れた、そろそろ休憩しない?」
 T氏が後方から彼女に呼びかけた。
「下って少し行った所に道の駅があるの、そこでお昼にしましょう」
 彼女の言う「少し」が、T氏にはずいぶん長く感じられた。とっくに通り過ぎたんじゃないのと思っていると、ようやくそれらしき施設がT氏の視界に入った。どうやら着いたようだ。
 建物の入口付近で売られている干した魚の匂いが、T氏の食欲を刺激した。
 建物に入るとすぐに、水槽の魚たちが二人を迎え入れた。三六〇°どこからでも見られる設計になっていて、魚たちがグルグル周っていた。この魚たちは自分たちが生きている世界が、こんなに小さな水槽の中だと認識しているのだろうかと、T氏は考え始めた。が、すぐに腹が鳴ったので、考えるのを止めた。とりあえず飯だ。
 T氏は、魚の観察に夢中になって水槽の周りをグルグルしている彼女を捕まえて、腹が減ったと訴えた。
 二人は入口から見て右奥にある、海の見えるレストランに入った。そして当然のように、海の見える窓際のテーブルに二人向かい合って座った。
 T氏はメニューを見て、僕は天丼にすると言いかけたが、卵のことを思い出したので止めた。危うく彼女に嫌われるところだった。空腹でも、咄嗟の判断力は残っていたようだ。
 結局、二人仲良くカレーを注文した。T氏はシーフードカレー、彼女は野菜カレーであった。いずれも、この島で採れた食材をふんだんに使っていると、メニュー表に書いてあった。
 彼女はT氏を見てクスクス笑い始めた。
「何がそんなに可笑しいんだい?」
 T氏は言った。
「あなたの髪型、毛先のほうだけクルンってなってて面白い」
 彼女は初めて遭遇した生き物を興味津々に見るような目で答えた。T氏の髪型は、ヘルメットを被り続けたせいで頭頂部から下って途中まではペシャンコなのに、毛先へ近づくにつれてうねり始め、所々逆立っていた。汗を大量にかいてやつれた顔とうねった髪が相まって、まるで干からびたカタツムリのようであった。
「君の髪はどんなときも真っすぐでいいね」
 T氏が柄にもないことを言った。
「何の特徴もなくてつまんないわよ」
 彼女は髪をかきあげながら答えた。
「自転車に乗っているときの君の後ろ髪、綺麗でずっと見惚れていたよ」
「あら、お世辞も上手になってきたわね」
 お世辞じゃないんだけどな、とT氏は心の中で呟いた。
 ウェイトレスがカレーを運んできた。彼女が「どうも」と言うと、ウェイトレスはニコッと微笑んだ。
 ここに到るまでの道中、散々海を見てきた二人であったが、海を見ながらの食事はやはり格別であった。プリッとした小エビやホロッと崩れる白身魚が、ルーの海の中で混じり合う。素揚げされたかぼちゃや人参が色鮮やかにそそり立ち、白いまっさらなご飯がさらにそれらを引き立てる。二人の間で、島で採れた各々の食材たちがごく自然に、ものの見事に調和していた。
「とても美味しい、見た目もきれいで」
 彼女が微笑みながら言った。
「うん、美味しい、空腹は最大の調味料とはよく言ったものだね」
 カタツムリが調和を乱した。
「失礼ね、空腹でなくたって美味しいわよ!」
 彼女が再び整えた。カタツムリは小さくなった。
 食事を終えると、二人は外に出た。汗を含んだT氏の衣服を通過した穏やかなはずの秋の風が、突如不快感を示したかのごとく、T氏の身体から体温を奪った。T氏が身を震わせている間に彼女は既にヘルメットを被り、自転車のフレームを跨いでいた。それを見てT氏もすぐさま、戦闘態勢を整えた。
 二人は再び走り出した。先程同様、彼女が前、T氏が後ろ、という隊列であった。「今度は僕が前を引っ張るよ」と宣言する男らしさは、T氏にはない。
 似たような景色が続いた。右側には海、左側には山があり、山麓には時折、古い民家や畑が見えた。
 少し向かい風が強くなってきた。遮る物がほとんどない海沿いの道で、二人はもろに風を受けた。彼女は上半身を前に倒すようにして、身体を折りたたんだ。T氏も真似した。
 途中、道が二手に別れていた。一つはこのまま海沿いを行く道、もう一つは内陸部へと向かう道であった。彼女は後者の道を選んだ。いくらか風はマシになるかなと、T氏は期待した。
 ほんの少し登ることになった代わりに、風の影響はだいぶ受けなくなった。ずっと昔からこの島に君臨する山の木々が、自らの身を挺して海風を受け止めてはその身をうねるように靡かせ、ざわめき合いながら、若い二人の行進を見守っていた。
 緩やかに登ったり下ったりを繰り返した後、商店街へ入った。古き良き時代の名残が感じられると言えば聞こえはいいが、風化して茶色く錆びたトタン屋根や消えかかった店の看板の文字は、時の流れの残酷さを如実に物語っていた。まだ昼過ぎだというのにだらしなく降ろされたシャッターは、夜になった途端威勢よく昇っていきそうな雰囲気は微塵もない。この島も人口流出の煽りを少なからず受けているようだ。仮にこの島に移住すれば、僕なんかでも貴重な若い労働力として重宝されるのだろうかとT氏は考えた。養鶏場さえあれば移住してやってもいいかな、とT氏は思った。
 商店街を過ぎてしばらく走ると、再び海にぶつかった。左に折れると、今度は右側に海を見た。海はいつ見ても海であった。
 追い風が長く続いた。平坦な道なのに、まるで下っているようにT氏には感じられた。朝の出発から既に五時間が経過していたが、T氏は未だ絶好調であった。
 橋を再び見たのは、午後三時過ぎであった。まだ日の沈む時刻ではないものの、雲が増えてきたせいで辺りは少しどんよりとしていた。
 疲労も相まって、帰りの橋がT氏には異様に長く感じられた。先程までの絶好調が嘘のように(追い風に押されていただけで実際嘘だったのかもしれない)、T氏の脚は急に重くなった。目の前では彼女の髪が激しく吹き荒れているが、見惚れている余裕はなかった。坦々と前を行く彼女に引き離されないようについていくので、T氏は精一杯であった。
 ようやく橋を渡り終えた。二人は小休止すべく、高台から下ってすぐの所にあるコンビニに寄った。
 T氏はまずトイレに向かった。用を足し終えトイレから出ると、雑誌コーナーの女性のグラビアの表紙を二秒ほど凝視し、生気を取り戻した。その後、おにぎりやコーラ、チョコレート菓子を手に取り、レジで購入した。
 店を出ると、三角錐の容器とレジ袋を片手に、彼女が枝豆を頬張っていた。こないだのプールの時の大豆バーといい、この女豆ばっか食ってんな、とT氏は思った。
 小雨がパラつき出した。
「帰り着くまでもってくれるといいけど……」
 空になった容器を手元でクルクル回しながら彼女が呟く。
「僕の体力が」
 チョコレートの小袋を破りながらT氏がとぼける。
「雨よ! 雨! あなたは最悪置いていけばいいけど、ずぶ濡れは勘弁」
「置いていくなんてひどいなぁ、僕らは二人で一つじゃないか、君がさっきまで食べていた枝豆のように」
「豆が三つ入ってる鞘はどうなのよ」
「三つ目とは何だ! 間男か! けしからん! そんな奴噛み砕いて粉々にしてしまえ!」
「さっき粉々にしておいたわよ」
 空がピカッと光った、と同時に、雷鳴が轟いた。
 ビクッとしたT氏は、粉々にし切れなかったチョコレートを喉に詰まらせた。咄嗟にコーラを流し込んだ。ますますむせた。
「天が間男なら、あなたは到底敵わないわね」
 笑いながら彼女は言った。
 雨脚が強くなってきた。
 彼女は手に持っている空の容器と殻入れにしたレジ袋をゴミ箱に捨てると、再び店の中へと入っていった。
 ついに大雨となった。こんな土砂降りの中どうやって帰るんだよ、とT氏が途方に暮れているうちに、彼女が店から出てきた。
「お店の人に聞いたら、ここから少し行った所に安く素泊まりできるホテルがあるらしいの、この大雨と雷では帰れないから、今日はそこに泊まりましょう」
 疲れ切っていたT氏は、彼女の提案に大いに賛成した。そして、はるか上空にいる間男に向かって心の中で、ありがとうございますと拝んだ。
 二人は夜食やら何やら宿泊に必要な物を購入すべく、再び店の中に入った。各々必要な物を購入すると、それら全てを、T氏のリュックの中に詰め込んで店を出た。自転車に乗ると、当初帰るはずだった向きとは反対の方角へと走り出した。
 上方に橋を見た。雨に濡らされた赤い橋は、妙な色気を醸し出していた。こんな冷たい風雨に晒されて、誰にも守ってもらえない私って、なんてかわいそうなのかしらと、見る者の同情を誘っているかのようであった。
 程なくしてホテルに着いた。自転車を停め、ずぶ濡れのままロビーへと入った。入るや否や受付へと向かった。
「部屋ありますか、素泊まりで、二人!」
 彼女が勢いよく言った。
「は、はい……一部屋空きがあります、一人三千円となりますがよろしいですか?」
 受付の女性が、彼女の勢いに若干引きながらも素早く答えた。
「はい、お願いします!」
「こちら部屋の鍵になります、二〇五号室です。右奥のエレベーターで二階に上がってください」
「ありがとうございます!」
 実に無駄のないやり取りであった。T氏が途中余計な一言を挟まなかったことも、無駄のなさに拍車をかけた……あぁ、この一文が無駄であった、残念……まぁ字数稼ぎだ。
 二階へと上がった二人は、身体を震わせながら部屋へとなだれ込んだ。
 彼女が先にシャワーを浴びた。身体を洗い流し、タオルで濡れた身体を拭き、コンビニで買った下着を身に着けた後、彼女は重要な問題に気がついた。着替えがない……。
 仕方がないので下着姿のまま、彼女はシャワールームから出た。T氏が驚いたのは言うまでもない。
 彼女と交代したT氏もシャワーを浴び、浴び終えると、下半身にバスタオルを巻いたまま出てきた。T氏は下着すら用意していなかった。
「…………」
「…………」
 二人はベッドに並んで腰かけたまま、一言も喋らない。実に気まずい……。
 彼女がおもむろにT氏のリュックをひったくった。T氏のほうを一瞥すると、部屋の奥にある窓際のテーブルを指差し、リュックを持ったままそこに移動した。
 T氏も立ち上がった。バスタオルが落ちないように慎重に歩くT氏に向かって、彼女は「コップ」と言い、テレビの左横辺りを指した。お盆の上に裏返しで置いてあった透明なコップ二つを右手で鷲掴みにし、バスタオルの結び目を左手で押さえながらT氏は、中途半端な所で一時停止で止められた盆踊りの踊り子がそのままブラウン管から出てきたような体勢のまま、蟹歩きで移動した。
 かろうじてテーブルの前まで辿り着いたT氏は、「取って!」と必死の形相で言った。
「どっちを?」
 彼女は上と下を交互に見ながらいたずらっぽく笑った。
「バス……コップに決まってるだろ!」
 T氏は眉間に皺を寄せた。
 彼女はピクピク震えるT氏の右手からコップを掴み、「取ったわよ」と言い、自分とT氏の前にそれぞれ置いた。
 安堵したT氏はそのままの体勢を維持したまま膝だけ曲げて、椅子に座った。もういいってのに。
 彼女はT氏のリュックから、コンビニで買った赤ワインのボトルを取り出すと、蓋についているビニールを破り、キャップを開け、二つのコップに注いだ。道理でリュックが重かった訳だ、とT氏は今更ながら納得した。
「あなたも飲むわよね」
「言う前にもう注いじゃってるじゃないか」
「固いこと言わないの」
 そう言うと彼女はグラスを持ち上げ、半分ほどグイッと飲んだ。
「ほら、何ボサっとしてるのよ」
 彼女に煽られたT氏も一口含んだ。初めて飲んだが、コンビニのワインって結構美味いんだなぁとT氏は目を丸くした。
 つまみが欲しくなったT氏は、リュックから自分が買ったコンビニの袋を取り出した。自称地域ナンバーワンと謳っている味噌味のカップラーメン、小腹が空いたとき用の菓子パン、明日の朝食のおにぎり……ワインのつまみになりそうなものは何一つとしてなかった。
「あなたろくなもの買ってないわね」
 彼女は呆れた。
「ワイン飲むってわかってたら違うもの買ってたっての」
 T氏は反論した。
「下着を買わなかったのもそういう理由なのね」
「も、もちろんそうだ」
「しょうがないわね、今回は私のを分けてあげる」
「君の下着を?」
「違うわよ!」
 彼女は自分が買ったつまみを取り出した、一口サイズのベーコンとビーフジャーキー。
 彼女が空いたグラスをT氏に向けた。
「早く」
「ん」
 なみなみ注いだ。
「人と向かい合って飲むのって久しぶり」
 言うと彼女はまた一口飲んだ。
「僕はほぼ初めてみたいなもんだよ」
 T氏がベーコンに手を伸ばす。
「あら、お酒は好きじゃなかったかしら?」
「飲み会が嫌いなんだ」
「それは悪かったわね」
「ごめん、訂正する。大人数の飲み会が嫌いなんだ」
「大人数でなきゃ問題ないのね」
「うん」
「ならあなたも飲みなさい」
 彼女はT氏のグラスに注いだ。
 チビチビ飲むT氏とは対照的に、彼女はまるで吸血鬼が生き血を吸うかのごとく、ハイペースでグラスを空にした。次第に彼女の頬が、くすんだりんごのように紅く染まっていく。すっかり酔いが回った彼女が俯くと、剥き出しの肩にかかった長い髪が、ほんの少しだけ顕わになった控えめな乳房に触れた。一瞬見入ったT氏であったが、彼女が顔を上げる前に目線を外し、何事もなかったかのようにビーフジャーキーに手を伸ばした。
 彼女が顔を上げて言った。
「ねぇ、私、酔っちゃったみたい」
「うん」
「ベッドまで連れてってよ」
 T氏は面食らった。頭をフル回転させた挙げ句
「そ、その前に、は、歯を磨いたほうがいいんじゃないかな……」
 と弱々しく言った。
「この意気地なし」
 そう言い放つと彼女はスッと立ち上がり、洗面台へと歩いていった。
 一人になったT氏は、ほんの少しだけ残ったワインをボトルに直接口をつけて一気に飲み干した。窓に打ちつける雨と遠くから聞こえる歯磨きの音に挟まれながら、T氏はテーブルの上の後始末をした。

 翌朝、二人はほぼ同時に目を覚ました。どちらからともなくベッドから身体を起こすと、前日に買ったコンビニ飯を食した。おにぎりとともに食された残り物のベーコンとビーフジャーキーは、本来主役であるはずの昆布や梅を、脇役へと追いやった。
 食べ終わると二人は、ハンガーにかけてあった生乾きのジャージに袖を通した。T氏が一言「帰ろうか」と言うと、「うん、そうね」と彼女が返した。何とも静かなやり取りであった。
 ロビーで精算を済ませ、外に出た。雨はすっかり上がっていた。二人は自転車に乗って出発した。
 橋の下を通過した。朝の爽やかな陽射しを浴びた赤い橋は、高飛車な女の姿に戻っていた。
 ひたすら海岸沿いを走った。景色を楽しむ余裕は、T氏にはなかった。昨日の疲れが抜けきっていなかった。
 海岸沿いを走破した後は、峠までひたすら登り坂であった。T氏の脚は、鉛のように重かった。登り始めてすぐ、彼女に離されていった。T氏は大声で「上で待ってて!」と叫んだ。彼女はチラっと後ろを振り返り、「えー、どうしようかな」と言い、いたずらっぽく笑った。
 踏んでも踏んでも一向に進まない。彼女の背中は徐々に小さくなり、ついには見えなくなった。T氏は心細く感じた。
 突如傾斜が大きくなった。斜度十パーセントを示す標識が目に入ると、「ふざけんな、軽減税率適用しろ!」とT氏は心の中で叫んだ。
 ふくらはぎが攣った。それでもなお、T氏はペダルを踏み続けた。一度自転車から降りてしまうと、再び走り出す気力は湧いてこないだろうとT氏は思った。
 ようやく頂上が見え始めた。だが、彼女の姿は一向に見えてこない。前日の「最悪あなたは置いていけばいい」という発言がT氏の頭をよぎった。まさか、本当に置いて行かれたのか? T氏は不安になった。すっかり冗談だと思っていたのに……。
 T氏はあれこれ考え始めた。昨日の夜がまずかったのか、いや、彼女はそれなりに楽しそうに飲んでいたではないか、でも起き抜けの彼女はあまり機嫌が良くなかった、やはり何か勢いで良からぬことを言ってしまったのか……。
 不安を拭い切れないまま、気がつけばT氏は坂の頂上にいた。そこからさらに五メートルほど下った先に、彼女がいた。
 T氏の姿を確認すると、彼女はニヤニヤしながら
「先に行ったかと思った?」
 とT氏に尋ねた。
「君のことだから、普通には待っていないと思っていたよ」
 T氏は答えた。涙目であった。
「何泣いてんのよ、弱虫ね」
 彼女は憐れむように言った。
「汗が目に入って痛いんだよ」
 T氏は強がった。
「ここから先は置いて行かないからちゃんとついてくるのよ。水分補給したら行くわよ」
 彼女は優しく言った。
 二人は再び走り始めた。
 坂を無事登り切った達成感と、彼女に置いてけぼりにされなかった安堵感に包まれたT氏の胸中は、ずいぶんと穏やかであった。彼女と離れたくない、このままずっと、彼女の後ろを走っていたい、そう思いながら純粋に、T氏は彼女の背中を追い続けた。
 出発地点の駅に着いたのは、正午過ぎであった。二日間に渡る長いサイクリングが、無事終了した。
「また連絡するわね」
 そう言うと彼女は、自分の帰路へと走り去っていった。T氏は彼女の姿が見えなくなるまで、ぼんやりと立ちすくんでいた。
  男なら一度は登らんチョモランマ
       ――Tくん心のこもった川柳

 事前準備は重要である。これは、T氏がここ数週間まざまざと痛感してきたことである。T氏にとっての事前準備とは、彼女が提案してくる、T氏からしてみれば未知なるイベントに対する準備である。必要になりそうな道具を揃えることも不可欠であるが、何よりも重要なのは、心の準備である。いっちょ前に道具だけを揃えたところで、T氏自身の心がそのイベントに向かっていなければ、話にならないのである。水泳、サイクリングとくれば、次はおそらく山であろう。
 そういう訳で、T氏は今、とあるラーメン屋にいる。「チョモランマラーメン」。今日はこいつを制覇しに来たのだ。メニュー表には、入山料八八四八ネパール・ルピーとある。
「日本円で払うことはできますか?」
 T氏は店主に尋ねた。
「モチロン、ジャパニーズエン大歓迎アルヨ」
 店主は親切そうな笑顔で答えた。
「日本円ではいくらくらいなのでしょうか?」
 T氏はさらに尋ねた。
「為替レートネ、一秒ゴトニ変ワルアルネ、オ客サン食ベオワッタトキノ値段アルネ」
 店主は歯茎が剥き出しになるくらいの笑顔で答えた。
「ということは食べ切れなかった場合、お金は払わなくてもいいってことなのでしょうか?」
 T氏がまた尋ねた。
「食ベオワラナイトキ、一・五払ウアルネ、食ベ物粗末ニスルノ、ヨクナイアルネ」
 店主は顔ヲ引キつらセナガラ笑顔で答えタ。沸々と湧き上がった怒りを、けたたましい鼻息へと変えた店主の鼻の穴は、大きく膨らんだ。
「僕はこう見えても大食いだから、きっと食べ切ります。チョモランマラーメン一丁、お願いします!」
「了解アルネ!」
 店主は厨房へと引っ込んでいった。
 待っている間T氏は、チョモランマ制覇に向けた準備を整えた。まず、自らの腹を締めつけているベルトを外した。これで胃が膨らむ余地を確保した。次に、パーカーを脱いだ。防寒着など、邪道中の邪道である。最後に、シャツの袖を捲り、大きく深呼吸した。
 準備は整った。決戦のときを待つ宮本武蔵のような心持ちで、T氏は待った。
 程なくして、店主がお盆に乗せられたチョモランマをT氏の前にドーンと置いた。あまりの巨大さに驚愕したT氏は、喉元まで出かかった「遅いぞ小次郎!」のセリフを飲み込んだ。確実に、普通のラーメンの五倍はありそうだ。大量に盛られたもやしで、麺が隠れて見えない。麺よりももやしのほうが多いのではないか、というほどである。もはや、「ラーメン」ではなく「ラーもやし」と呼ぶほうが適切かもしれない。
 店主が何やら説明を始めた。
「真ン中国境、左側チャイナ、ニンニクイッパイネ、右側ネパール、ピリ辛ソースネ、ソシテ背脂、コレ雪アルネ、アト、モヤシノ中ニ岩ガ隠レテアルネ、ソレジャ、ガンバッテ!」
 店主は厨房へ戻った。
 T氏は右手に箸を握ると、右側のネパール側のもやしを掴み、恐る恐る口へ運んだ。赤いピリ辛ソースのかかったもやしは、見た目ほど辛くはなく、食欲をそそるのにちょうどいいほどの辛さだった。次に左側の中国側に箸をつけた。背脂にまみれたことで、癖の強い匂いをますます引き立てられたにんにくは、T氏の口や鼻を強烈に刺激した。
 もやしを食べ進めていくと、大きな豚肉のチャーシューが出てきた。T氏は大きく口を開けてかぶりついた。店主が言った通り、岩のように硬かったので、スープに浸しながら再びかぶりついた。
 そろそろ麺を食べようと思ったT氏は、大量のもやしの脇から箸を滑り込ませ、麺を強引に引っ張り出した。極太の麺が、すっかり醤油色に染まっている。コシが強く、非常に食べごたえのある麺であった。
 レンゲで掬ったスープをもやしにかけると、一気に獣臭さが増した。T氏は、やむを得ず狩りをするライオンの雄のような勢いで、無我夢中で喰らいついた。満腹中枢が働く前に食ってしまうんだと、T氏は決心した。
 ネパール側と中国側が徐々に混じり合い、国境がなくなっていくのに比例して、T氏の勢いもなくなっていった。もやしはほぼ水分で構成されているゆえ、どうにかなりそうなものの、麺がきつい。それにまだ岩のようなチャーシューも残っており、噛めば噛むほど満腹中枢が刺激される。強者どもを後回しにしたことを、T氏は後悔した。
 それでもどうにか食べ進め、麺とスープ以外は大方平らげた。だが、スープに浮かぶ背脂がしつこ過ぎて、T氏は戦意喪失した。
 遭難寸前のT氏を再び奮起させたのは、厨房からひょいと顔だけ出して観察してくる、店主の半笑いの表情であった。ここまできて、ヘリコプターなど呼んでたまるか、何としても、自力で制覇してやるんだと、T氏は気合を入れ直した。
 水が飲みたい衝動を必死に抑え、ひたすら食べ進めた。脂っこいスープだけが最後に残るのも辛いので、麺とスープを交互に口へ運んだ。
 そして、レンゲに掻き集めた最後の一口を口へ運び、ゆっくり咀嚼した後、飲み込んだ。ついにT氏は、チョモランマを、自力で制覇したのであった。
 登頂の余韻に浸っているT氏に、ノートパソコンを抱えた店主が近づいてきた。
「ヨク最後マデ食ベタネ、スゴイアルネ、私、感動シタアルヨ」
 店主は満面の笑みでT氏を称えた。
「いえ、それほどでも……」
 T氏は、勝者特有のメンタリティが生み出す謙虚さで以て答えた。
 店主がノートパソコンを、T氏に見える位置に置いた。そして言った。
「オ客サン、コレ、今ノ為替レートアルネ、一ネパール・ルピー、〇・九七ジャパニーズエンアルネ」
 店主は電卓をポケットから取り出し、T氏に見えるように打ちながら言った。
「八八四八×〇・九七=八五八二・五六アルネ、小数点ハ負ケトクアルネ、オ支払イ、八五八二ジャパニーズエンアルネ」
 財布から勢いよく一万円札を取り出したT氏は、気前よく「釣りはいらねえぜ」と言いたかったが、ここまで細かく金額を計算してくれた店主にやはり申し訳なく思い、素直にお釣り一四一八ジャパニーズエンを店主から受け取り、店を後にした。
 家に帰り、帰り際に口直しのために自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、T氏が部屋でくつろいでいると、メールの着信音が鳴った。彼女からだった。文面はこうであった。
「来週の日曜日、登山、いつもの駅、朝九時、防寒対策よろしく」
 これを見たT氏が「登山の準備をしなきゃなぁ」と呟いた後、大きく溜め息をつくと、にんにくとコーヒーが混じった不快な臭いが、部屋中に広がった。
 二人の乗ったバスが、だだっ広い駐車場に停車した。バスを降りると、登山道まではすぐそこであった。
「今日も快晴ね、私の日頃の行いが良いからかしら」
 彼女は空に向かって大きく伸びをしながら言った。
「こないだは途中から土砂降りだったじゃないか」
 T氏は空に向かって大きく欠伸をした。
「それはあなたの日頃の行いが悪いせいよ」
「その理屈で言うと、僕が生まれてから今日までの間、僕の周辺ではほとんど雨だったことになるね」
「そこまで卑屈になれとは言ってないわよ」
 登山口まで来た。スキー場のゲレンデを登っていくようだ。まだ白粉の塗られていないでこぼこで急勾配な山肌の上を、彼女は軽々と、T氏は這うように登っていった。
 早くもT氏が息を切らした。
「空気が冷たくて、肺の辺りがキリキリする」
「すぐに慣れるわよ」
 彼女が構わずに進むので、T氏はヒイヒイ言いながら後をつけた。一旦止まって息を整えたかったT氏は、前を歩く彼女に向かって必死の形相で「鼻をかむ!」と宣言した。すると、さすがに彼女も止まってくれたので、T氏は軍手を外し、ジャージのポケットからティッシュを取り出し、鼻をかんだ。これから先、苦しくなったら無理をせず、人間らしく鼻をかもうとT氏は心に決めた。
 林の中に入ると、勾配はだいぶ穏やかになった。登山道の両脇には、このところの気温の急激な低下にはうんざりだといわんばかりに、萎びた笹がだらしなく枝垂れている。登山者たちの足跡が深く刻まれている、若干の水分を含んだ土の上を、二人は足を取られないように気をつけて進んでいった。
 ぬかるみを抜けると、二人の目の前には、枯れ葉になりかけた紅葉の絨毯が広がっていた。裸の木々の隙間から覗く陽の光に照らされながら、最後の輝きが、惜しげもなく放たれるこの瞬間は、いかなる類の儚さとも無縁であった。
「秋の紅葉はさらなり、冬来たりて、土の上を覆い尽くさんさまもまたいとをかし、といったところかしらね」
「君、もうお腹が空いたの?」
「ほんっとに感性が鈍い人ね!」
 彼女は呆れた。本日一度目。
 草地に出た。二人の背丈ほどの枯芒の群れの中を、二人は横に並んで歩いた。穂先が彼女の頬を掠めると、彼女はくすぐったそうに目を閉じ、手で払い除ける。その度に彼女の髪が揺れ、T氏の視線を翻弄する。その間も枯芒たちは容赦なくT氏の顔面を直撃し、むず痒さに耐えられなくなったT氏は、ハックショーーン! と大きなくしゃみをした。そして盛大にブォーーーーン! と鼻をかんだ。いずれの音にも、山彦は毅然として応じなかった。
 再び林の中に入った。でこぼこで常に一定でない道を、足場を探しながら、岩や木に手をかけながら、二人は登っていった。まるで一種のアスレチックのようで、次第にT氏の中でも、しんどさよりも楽しさのほうが上回っていた。
 岩が増えてきた。水が、上のほうから下のほうへ、岩肌を伝って流れていた。T氏は何度か足を滑らせそうになった。
 さらに登ると、雪が現れた。ぐしょぐしょの雪をT氏が踏みつける度に、最後の悪あがきとでも言わんがごとく、雪解け水がT氏の靴の中に容赦なく侵入した。T氏は気にも留めなかった。
「見て見て、これ、すごく綺麗!」
 彼女が何かを見つけた。T氏も覗き込む。
 岩と岩が重なり合ったその真下に、棒状の氷の物体ができていた。流れた雪解け水が凍ってできたもののようだ。大きな二つの岩が身を寄せ合ってできた僅かな隙間に、二度と成長することのない細々(こまごま)とした石たちが、内緒の宝物を囲うように、その周りを埋め尽くしていた。
 目を輝かせる彼女の横でT氏は、溶けたり凍ったり忙しい奴だなと思ったが、彼女の機嫌を損ねぬよう一言、「綺麗だね」とだけ言っておいた。「君の横顔が」という気障ったらしい一言をつけ加えるのは止めておいた。
 道がなだらかになる度に、彼女のペースが上がった。T氏も必死に追い縋った。なだらかな道よりも、足場の安定しない道のほうが彼女のペースが落ちるので、T氏にはありがたかった。
 他の登山者たちを何人も追い抜いた。「若い人たちは登るのが速いわね」と言う婦人の声に、彼女は「どうも!」と爽やかに応えた。カメラを目に近づけて、何かを懸命に捉えようとしている青のウィンドブレーカーを着た青年は、颯爽と通り過ぎる二人のほうを見向きもしなかった。
 下山中の人たちとも次々にすれ違った。T氏は、「こんにちは」と挨拶してくる者に対しては、「こんにちは」と顔を歪めながらもできる限り明るい声で返し、しんどそうな表情のT氏に向かって「あと少し、頑張って!」と励ましてくる者に対しては、こんな登り慣れていそうな格好の人が言う「あと少し」など信用なるものかと思いながら、可能な限り明るい声で「ウィっす!」と応えながら軽く手を挙げた。
 後ろを振り返る余裕もなく、ただひたすら、T氏は彼女についていった。絶景を臨むのは登り切ってからのお楽しみよと、彼女は背中で語っているかのようであった。
 登れば登るほど、積もった雪の量が増えていく。季節が秋から冬へと移り変わっていくその過程を、二人は登りながらにして、ものの数時間でしっかりと体感した。
 彼女の足が止まった。そしてT氏を振り返り、言った。
「着いたわよ!」
 どうやら山頂に到達したようだ。ふぅ、とT氏は息をついた。
 無数の岩の間を、真っ白な雪が埋めていた。高く積もったままの所、溶けかかった所、靴の足跡とともに土と混じった所など、雪の残り方が一様でなく、所々起伏がある。
「まるで雪の川ね」
 彼女が言った。
「でも魚は泳いでいない」
 T氏は答えた。
「魚は私たちよ」
 彼女は笑った。
「こんなに高い所まで登ってくるなんて、僕らは鮭か何か」
 T氏も少し笑った。
「あら、私こんな寒い所で産卵なんてしないわよ、するなら暖かい所で、好きな人をそばに置きながら」
 人に戻った彼女はツンとした顔で答えた。その隣でT氏は赤面した。
 二人は適当な大きさの岩に腰を降ろした。周囲の山を見渡すと、中途半端に所々薄っすらと積もった雪が、縞馬のような模様を創っていた。
 T氏がリュックの中をゴソゴソ探り始めた。
「はい、君の分も」
 T氏はカップラーメンを取り出し、彼女に手渡した。
「あら、気が利くじゃない」
 彼女は嬉しそうに言った。
「マウンテンフード味のラーメンを探したんだけど見つからなかったから、仕方なくシーフード味のにした」
 T氏は自分の分の包装を破りながら言った。
「あなたって根っからのひねくれ者ね」
 彼女は呆れた。本日二度目。
 T氏は魔法瓶を取り出し、彼女の分にお湯を注いだ後、自分の分にも注いだ。
「ほら、こっちの方角を向けば、地平線の手前に海が見える。山頂から見る海もいいもんだ」
「ほとんど見えないじゃないのよ!」
 彼女は呆れた。もう数えまい。
 山の上で食べるラーメンは格別であった。冷えた身体に染み渡る。そして何より、景色も食べる物も、こうして二人同じ物を共有していることが、T氏には嬉しかった。
 食べ終えると、T氏が言った。
「ところでさ、登ってる途中で追い抜いたりすれ違ったりした人たちって、ほぼ例外なく挨拶してくれたり、声をかけてきたりしたよね。登山するときってそういうもんなの?」
「特にそういう不文律がある訳ではないと思うけど、何ていうか、仲間意識みたいなものじゃない? 同じ趣味を楽しむ者たち同士の」
「その理屈で言うなら、ディズニーランドは挨拶の大合唱ということになるね」
「してるじゃないの、実際。『ハロー、僕ミッキーだよ!』って」
「いや、それはないかな」
「何よ、せっかくあなたの屁理屈に乗ってあげたのに!」
 彼女はカップ麺のゴミをさっさとまとめ、T氏のリュックに放り込むと、そそくさと山を降り始めた。T氏も「ちょっと待ってよぉ」と言いながらリュックを背負い、後に続いた。
 除夜の鐘が鳴ると、T氏は右手の甲に目を遣り、「ついに抜けなかったな」と呟いた。小指の付け根から少し下った所にある、一本だけ異様に太い毛。自然に抜けるのを待っていたら、二センチほどの長さまで成長していた。
 年越しまで残り十五分。寝転んでいたカーペットから身体を起こして立ち上がったT氏は、年越しそば用のお湯を沸かすべくキッチンへと向かった。
 母親の分と合わせて二人分のお湯を沸かしている間T氏は、母親の分の狐そばのかやくとT氏のカップ焼きそばのかやくを、それぞれの麺の上に乗せた。
 こういうとき、カップ麺は便利だ。各々の好みが違っても、お湯さえあればどうにでもなる。多様な社会の実現に向けて、カップ麺たちよ、これからも先陣を切って突っ走ってくれ、とT氏は心の中で叫んだ。
 T氏の心の叫びに同調するかのごとく、火にかけたやかんが甲高い声を響かせた。
 生まれたてのお湯を、それぞれの麺の上に注ぐ。必要な量を注ぎ終えると、ぴったりとお湯がなくなった。
 今年一年を思い返す。T氏にとって大きく変わったことといえば、何よりもまず、人生初の恋人ができたことであった。そしていざデートとなると、想像していた以上に大変だった。以前よりも食べる量が増えたのに、体重は減った。彼女とのデートは、とにかくカロリーを消費する。だが、そんな彼女とのデートを特に嫌だとは思わなかったし、むしろT氏は幸せであった。「幸せ太り」ならぬ「幸せ痩せ」とでもいったところか。
 ただ、不安もあった。T氏の中で、未だ拭い切れぬ一つの疑念……。なぜ彼女は自分の恋人になってくれたのか、彼女が自分のどこを気に入ってくれたのか、いまいちT氏は釈然としないのである。それゆえ、彼女の突然の気まぐれにより、別れを切り出されるようなことを想像してしまい、その度にT氏の胸は締めつけられる。
 お湯を入れてから三分経過した。母親の分が先にできた。T氏のは五分なので、あと二分待たなければならない。多様性を認め過ぎるのも問題だな、とT氏は思った。
 後入れのスープを入れながら、よく見ると、狐ではなく狸そばであることにT氏は気がついた。化けていたのか? どっちがどっちに? まぁどっちでもいいや、うどんがそばに化けたりしていないだけまだマシだ、とT氏は結論づけた。
 ぼんやりテレビを眺めている母親の前に、完成したそばを運び終えると、T氏はキッチンに戻った。まだ五分経過していなかったが、硬めでいいやと思ったT氏は、湯を切り始めた。この辺りは、作り慣れているT氏ならではの匙加減であった。
 湯を切った麺にソースを絡めよく混ぜ合わせると、ようやくT氏の焼きそばが完成した。
 母親の隣でテレビを見ながら啜っているうちに、年が明けた。T氏のケータイが鳴った。彼女からのメールだった。
「新年明けましておめでとう、初詣、いつもの駅に九時ね、よろしく」
 すぐさまT氏も
「明けましておめでとう、了解した」
 と返した。
 残りの麺を平らげると、例の太い毛を左手の親指と人差し指でつまみ、とうとうブチッと抜いてしまった。容器を片づけると、朝の初詣に備えて、寝る態勢を整え始めた。
 ニ礼ニ拍手一礼。隣で一緒に参拝する彼女を真似たT氏の所作は、ずいぶんとぎこちないものであった。初詣などもう何年も行ってなかったのだ。
 T氏は(すが)るような思いで「彼女と破局しませんように、とにかくそれだけお願いします。あとは何でもいいです」と祈りを込めた。
 初詣からの帰り道、T氏は意を決して、かねてからの疑問を彼女に尋ねた。
「最近事あるごとに考えるんだけど、君は僕のどういう所が気に入って僕と付き合おうと思ったの?」
 フフっと笑いながら「どうしたのよ、新年早々」と彼女は言った。
「不安なんだ、元来僕は暗いしネガティブだったりで、君と付き合うまでは恋人なんて一度たりともいた試しがない。君みたいな美人がどうして僕なんかの恋人になってくれたのか、いくら考えてもピンとこないんだ。それで昨日、年越しそばを食べながら君からのメールに返信した後、今日の初詣のときに訊こうと決意したんだ」
 T氏はいつになく饒舌であった。
 彼女はT氏が発した「美人」という単語に反応し、少し顔を赤らめ、一瞬沈黙した。ほんの一時の沈黙ですら、T氏を悔恨の念に苛ませるのに充分であった、やはり言わなければよかったと。
 彼女が口を開いた。
「私はあなたをひょうきんで楽しい人だと思っているわよ。初めて会ったときからそうだったじゃない」
「あの時はずいぶんと気を張っていたから」
 T氏は伏目がちに答えた。
「あの日だけじゃないわよ、あなた、私と会うときはいつもひょうきんだったじゃない」
 T氏がポカンとする。彼女は続ける。
「それにね、あなたの妙にひねくれている所だって、私嫌いじゃないわよ」
「嫌いじゃない代わりに、好きでもない」
 T氏は調子を取り戻した。
「ほら、そういう所」
 彼女は微笑んだ。
「そうか、僕はひょうきんで楽しいひねくれ者だったのか」
「そうそう、そういうこと」
 彼女は頷きながら笑った。
 愛おしい彼女の横顔を眺めながら、T氏は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。しかし、多くの通行人やカラスに見られることを考えると、気恥ずかしくてできなかった。
 せめて手を握りたい。しかし、彼女の手袋が邪魔であった。防寒のための手袋をわざわざ外して「君の冷えた手を暖めてあげるよ」というのはあまりにも野暮ったい。手袋を製造する会社では「ロマンスとは何か」を解さない人間が代々社長になるのだろう。静電気で手袋だけ燃えて消滅してくれないかな、とT氏は思った。
 気づけば駅とは別の方角を歩いていた。
「僕らは今どこに向かっているの?」
「私の家よ、あなたも来るでしょ」
 どうやらT氏は彼女の家に招かれたようだ。

 彼女に続いてT氏も玄関を潜った。玄関から見て右脇にキッチンがあり、左脇に風呂やトイレがあり、それらの間の狭く短い廊下を抜けると、八畳程の部屋があった。いわゆる典型的な、学生が住むような部屋である。ロフト型のベッドや細く切って床に敷いた段ボールの上に白のロードバイクがある他は、特段目を引く物はなく、ずいぶんこざっぱりとした感じである。
「あまり物がないね」
 T氏は言った。
「押入れにいろいろ置いてあるわよ」
 彼女が開けっ放しの押入れを指して言った。
 T氏が覗き込む。上段には服が掛けてある。T氏が初めて彼女に会った時に彼女が着ていた花柄のワンピースもあった。下段には登山用のリュックや自転車の工具など彼女の趣味関係の物の他、衣装ケースや箱ティッシュなどの生活用品があった。
「まぁ適当にくつろいでちょうだい」
 そう言うと彼女はテレビを点け、カーペットに寝転んだ。
 来て早々寝転ぶのも気が引けたので、とりあえずT氏はあぐらをかいた。上から見下ろす彼女の髪もまた綺麗だった。カーペットの上で、窓から射し込む陽に照らされながら優雅にたわむ彼女の髪は、一流の職人が(こしら)えた讃岐うどんのように力強く輝いていた。
 やはりT氏も横になった。頭を彼女と同じ方向に向けたまま、少しずつ彼女に近づいた。気づけばT氏は自らの顔を彼女の後髪に埋めていた。特段彼女は何も言わなかった。彼女が黙っているのをいいことに、T氏はゴキブリホイホイにハマったゴキブリのように、そこを離れようとはしなかった。

 T氏が目を覚ますと、部屋には明かりが灯り、窓には緑のカーテンが掛けられていた。
 キッチンの方から音がした。T氏が部屋の扉を開けると、彼女が何かしらの食材を切り刻んでいた。
「あら、やっと起きたのね。あなたがいつまでも寝てる間にひとっ走りしてきちゃったわ」
 彼女が振り向かずに答えた。
「いつから君は僕のパシリになったのかい」
 T氏はまだ寝ぼけていた。
「何言ってんのよ、ちょっと運動してきたのよ。あなたもさっさとシャワー浴びたら」
 彼女はなおも振り向かない。
「着替えがない。君のパンティとブラジャーを拝借してもいいのかい」
 T氏は相変わらずとぼけている。
「伸びるから勘弁。あなた用にちゃんと用意してあるわよ」
 T氏が脱衣所に入る。下着はおろか、パジャマまであった。「ほら、やっぱりパシリじゃないか」とは言わないでおいた。彼女は今、包丁を持っている。
 服を脱ぎ、それらを洗濯機に放り込もうか否か迷ったあげく放り込んだT氏は、風呂場に入り、今日一日の疲れを流し始めた。寝るのも案外体力が要るものなのである。
 風呂から上がり、彼女が用意した紺色のパジャマにT氏は袖を通した。ジャストサイズであった。
 台所には既に彼女の姿はなかった。彼女は部屋にいた。ちゃぶ台の上に彼女の手料理が並んでいた。ベビーリーフに刻んだハムやクリームチーズがトッピングされたサラダ、(かつお)のたたきやサーモンの刺し身、そして中央にはやはり枝豆があった。
「日本酒もあるわよ」
 彼女は嬉しそうに言った。
「お酒が進みそうなラインナップだね」
 T氏は言った。
「でしょ、それが楽しみで準備したんだから」
 彼女は言った。
「君は普段から家で飲むのかい?」
 Tが尋ねた。
「一人じゃ飲まないわよ、つまんないから」
 彼女は答えた。
「今日は一人じゃないから」
 と言いながら彼女は一升瓶の栓を抜き、二つのグラスに注いだ。
「それでは、新年を祝って、乾杯」
 並々注がれた日本酒に、二人同時に口をつけた。
「美味いね」
「うん、最高ね」
「酒を飲むときのこのズーっと吸い込む音、これこそまさに幸福の音色だね」
「そうね」
 時刻は夕方の六時を既に回っていた。テレビでは相変わらず市長やどこぞの社長やらが「おめでとうございます」の大合唱である。いったい何回言やぁ気が済むんだ、本当におめでたい連中だな、とT氏は思った。
「さて、どれから食べようかな」
「どれでも、あなたの直感で」
「サーモンにかかっている緑色のは何だい」
「オリーブオイルよ」
「どれどれ」
 T氏はサーモンの刺し身に箸を伸ばした。
「うん、美味しい、初めて食べる味だ」
 T氏の声が弾む。
「オリーブオイルと塩。醤油とわさび以外でお刺し身食べるのもいいでしょ」
「うん、酒にも合う」
「和と洋の融合ね」
 彼女は気を良くした。
「今度はあなたが注いでよ」
 彼女が空になったグラスをT氏に向かって差し出した。
「早いな、もう飲んだの?」
 T氏が驚きながら瓶を持ち上げ、栓を抜く。
「早くないわよ、ボサっとしてたら置いてかれるわよ」
 彼女がグラスを差し出す。
「誰にだよ」
 T氏が注ぐ。
「先頭集団に」
 T氏は訳がわからなかった。
「ほらほら、野菜もちゃんと食べるのよ」
 彼女が皿に取り分ける。
 T氏は躊躇《ためら》った。T氏は生野菜にはマヨネーズ派であるが、卵アレルギーの彼女の家にはあるはずもない。これはまずいとT氏は思った。しかし、食べないわけにはいかない。一生懸命作ってくれた彼女の前で、幸福に満ちた表情で料理を頬張る、これこそまさに、今T氏がしなければならない唯一無二の行為なのである。
 よく見ると、サラダの上にもオリーブオイルがかかっていた。T氏は意を決してサラダを箸で、なるべくハムやクリームチーズが多くなるように掴んだ。そして祈りを込めた、オリーブちゃんよ、どうか僕を笑顔にしておくれ。口に運んだ。
 T氏はその味に感動した。感動のあまり声が出なかった、というよりは口いっぱいで声が出せなかったのだが、とにかくT氏は感動した。
 飲み込んでからT氏は言った。
「口の中で、豊かなオリーブ畑が広がった」
「サラダとの相性抜群でしょ」
 彼女は得意げに笑った。
「塩胡椒もいい仕事してるね」
「わかってるじゃないの」
 彼女は満足げだった。
 彼女のグラスが再び空になる。
「ちょっとペースが早くないかい、ビールじゃないんだから」
 T氏が心配すると、彼女は瓶のラベルを指しながら
「ほら、ここに書いてあるじゃないの、『開栓後はお早めにお飲みください』って」
 と勝ち誇ったように答えた。
「いや、多分そういう意味じゃないと思うけど」
 珍しくT氏のほうがまともであった。
 彼女が抜け殻になった枝豆の鞘《さや》をクルクル回す。
「枝豆にはかかってないんだね、オリーブオイル」
 T氏が言った。
「試しにかけてみてもいいわよ」
 彼女がおどけるように言った。
「いや、いい。何だがもったいない気がする」
 やはり今日はまともである。
「それもそうね」
 彼女が言った。
 積み重なった枝豆の殻を見ながらTが言う。
「殻も食べられればいいのにね、仮に一〇〇グラム一〇〇円だとして、その半分は捨てられる殻にお金を払うわけだから、実質五〇グラム一〇〇円だよね、そう考えると何だか」
「わかってないわね、鞘にかぶり付きながら食べるから美味しいんじゃないの、塩が引き立ててくれた鞘の風味を楽しみながら食べるのが。もし豆だけで袋詰めされたものが売ってたとしても、私は絶対に買わないわよ、どんなに安かったとしても」
 言い終えると彼女は枝豆をまた一つ手に取り口に含み、まるごとじっくり堪能した。
「殻も含めてか……」
 そう呟いた後、T氏は卵のことを思い浮かべた。卵を食べるとき、殻を含めて楽しむには……。強いて言うなら、白いご飯に卵を割る際、その割れる音を意識的に聴くことで、今から美味い卵かけご飯を食べるのだというわくわく感を存分に味わう、というようなことだろうか。ただ、今となっては、割ったら鶏になってしまうのだから確かめようがない。
 彼女が日本酒の瓶を掴んだ。まだ飲むのかこの女、とT氏が思っていると、彼女は瓶を持ったままおもむろに立ち上がった。そして瓶を口元まで近づけ、その瓶をマイク代わりにして歌い始めた。
「しあわせのー、おーほしさまがー、あーるひとつぜんきえさったー」
 駄目だこの女、完全に酔ってる、とT氏は思った。
「そうよー、だってわーたーしー、じんこうえーいせい」
 彼女の歌が続く。
「わーたしのー、おとなりさんのー、おとなりさーん、はわーたーしー、みーんななかよくくーらしましょー」
 T氏がやれやれといった感じで手拍子を打つ。
「というか夜中に歌って、お隣さん文句言ってこないかな」
 T氏が心配そうに言った。
「大丈夫よー、空き家だから、隣も下も」
 彼女が陽気に答えた。
「ならいいか」
 T氏は納得した。
 その後、マイクの瓶をワインに持ち替えて、なおも彼女は歌い続けた。一升瓶は少々重かったようだ。
 彼女の歌ういずれの曲もT氏は知らなかった。最近の流行りの曲も少しは聴かなきゃな、とT氏は思った。
 食後の後片付けはT氏がやった。料理を作ってくれたお礼に後片付けくらいは率先してやろうと思ったから、ではなく、彼女が酔い潰れてちゃぶ台に突っ伏して寝てしまったため、T氏がやる以外の選択肢が残されていなかったからである。
 後片付けを終えると、T氏は彼女に声をかけた。
「ほら、こんな所で寝たら風邪引くよ」
 T氏が後ろから肩を揺さぶると、彼女が「んー」と唸りながら半目を開いた。そのまま抱きかかえて彼女を立たせると、ロフトベッドの梯子の前まで移動させた。こんなときでも彼女の髪は綺麗だな、とT氏は思った。
「後ろで支えているから自分で登りな、さすがに上まで持ち上げるのは無理だから」
 彼女はT氏に支えられながら、のろのろ登り始めた。
 彼女をベッドの上に寝かすことに成功したT氏は、特に何も考えることなくそのまま彼女の横に寝そべった。天井を見上げると、木目の中で一組の男女が互いに手を取り合って社交ダンスを踊っていた。テヲ、トーリアッテー……。そうだ、電気を消していなかったと思い立ったT氏は、梯子を降り電気を消すと、暗やみの中再び梯子を登り、彼女にのしかからないように気をつけながら、彼女の横で身体を倒した。

 翌朝、T氏が目覚めたのは八時頃だった。隣では、彼女がスヤスヤと眠っていた。カーテンのほんの僅かな隙間から入り込む光の存在を知らしめるのは、やはり彼女の綺麗な髪であった。
 T氏はトイレに立った。アルコールの利尿作用のせいか、いつもより音が激しい。昨夜飲んだのは日本酒なのに、トイレの溜まり水はビールのように泡立った。T氏はレバーを「大」の向きに回して水を流した。
 失った分の水分をキッチンで補給する。コップいっぱいの水で身体を潤したT氏は、やはり万物の根源は水だなと身にしみて感じた。今のT氏にとって、このことは火を見るよりも明らかであった。
 部屋に戻ったT氏はテレビを点けた。何度かチャンネルをローテーションさせたが、特段T氏の興味を惹くようなものはなかった。
 T氏はロフトベッドの下の空間に置いてあった、開きっ放しの段ボール箱に目を遣った。本や雑誌が無造作に積まれてあった。水泳や登山など、スポーツやアウトドアに関するものがほとんどであった。その他、小型犬の飼い方を指南する本や数冊の小説があった。ファッション誌の類のものは一冊も見当たらなかった。
 さらに物色していくと、一冊、気になるタイトルの本を見つけた。『入門トライアスロン〜あなたもできる! 51.5㎞完走〜』。表紙には、ピチっと全身にまとわりついた黒色の水着のようなものを着た男が、大きく口を開けて息継ぎをしている姿や、自転車に乗った女が飲料の入ったボトルを片手で持ち上げ、大きく口を開けて水分補給する姿、汗だくの男がゴールテープの手前で拳を突き上げ、大きく口を開けて全身で喜びを表現している姿が写し出されていた。
 ページの始めのほうを覗いてみる。「トライアスロンとは、1.5㎞の水泳、40㎞の自転車、10㎞のランニングを一人の競技者が連続して実施する競技である。云々」とある。正気じゃないとT氏は思った。
 他のページも見てみると、ニューモデルの競技用自転車、いわゆるロードバイクの紹介ページや、オススメのトレーニングウェア特集といったページもあった。スポーツ雑誌の中に組まれるこうした特集は、彼女からしてみれば、ある意味一種のファッション誌のような役割を果たしているのかもしれないな、とT氏は思った。
 そして、T氏は予感した。今年僕は間違いなくこれを彼女と一緒にやらされる。今までやらされた水泳練習やサイクリングの意味を、T氏はようやく理解した。サイクリングはT氏のほうから誘ったのだということに関しては、T氏の記憶は曖昧であった。
 彼女が起きたら答え合わせをしてみようとT氏は一瞬考えたが、無断で私物をあさったことがバレると怒られてしまうような気がしたので、やはり止めておこうと思った。
 程なくして、彼女がベッドから降りてきた。彼女がトイレに行き、出てきた後にしっかり水分補給をしたところを見届けたT氏は「じゃあ僕はそろそろ帰るよ」と言い、帰り支度をした。彼女が「うー」と言い了解の意を示すと、T氏は玄関に向かい、靴を履いて外に出た。朝日が眩しかった。

 正月三ヶ日の三日目の昼、T氏は一人キッチンに立った。インスタントラーメンを茹でるお湯を沸かしている間、T氏はまな板の上でしょうがとにんにくをみじん切りにする。生にんにく特有の辛みをこれまた特有の臭みへと変えるべく、徹底的に切り刻む。
 その間にお湯が湧く。お湯の中に乾麺を投入し、時間差で別売の柔らかい麺も投入する。やはりT氏は一玉では足りないのだ。麺がダマにならないように時折箸でほぐしながら、しっかり水分を飛ばす。
 水分が飛び、麺だけの状態になったら丼に移す。ここでようやくスープの粉末を麺の上にかける。水分がないので、麺二玉に対して粉末一袋の割合でちょうどいい。ただ、麺を二玉にすると、食後に胃もたれする確率がグンと上がる上、粉末を半分だけ取っておいて後からチャーハンを作るのに利用するという芸当ができなくなるので、注意が必要である。
 さらに上から酢をかける。そしてついに登場、本日の主役、エクストラバージンオリーブオイル。今朝T氏が、近所のスーパーが新年初開店するや否や店に飛び込んで購入した代物である。これを買うためだけに、T氏は朝からクロスバイクを走らせ、店に向かったのである。
 今までのエクストラバージンごまオイルに代わって、開封したてのオリーブオイルを麺の上にかける。合うに決まっている、とT氏は思った。T氏はオリーブオイルの力を、すっかり信用し切っていた。
 全体を混ぜ合わせ最後に、刻んだしょうがとにんにくをトッピングすると、T氏特製油そばが完成した。
 満を持して、T氏は一口目を啜った。絶妙であった。にんにくの強烈な臭みがしょうがの消臭作用によりほんの少し中和されてほど良い臭みになり、その臭みがジャンキーな粉末スープの香りを引き立て、さらにその香りと豊かで芳醇なオリーブオイルの香りが、T氏の口の中でものの見事に調和した。まるでウィーンフィルの会場に貧乏臭い格好をした聴衆が多数混じっていようとも、奏者たちの圧巻の演奏力で以て会場の空気を調和させているかのようである。いや、ラーメンの類である以上は飽くまでも主役はスープであり、オリーブオイルはその引き立て役であることを考慮すると、奏者と聴衆の属性はむしろ逆か。その点を踏まえ、再度適切に例え直すなら、無名のトリビュートバンドによる類まれな演奏を、耳たぶに宝石を五個くらいぶら下げて耳の穴を広げた貴族たちが注意深く聴きながら、その圧倒的な存在感で以て会場の雰囲気を高貴なものに仕立て上げているかのようである。
 T氏はあっという間に完食した。大満足であった。次は途中で胡椒や七味を振るなど、味変も楽しみながら食べようとT氏は思った。
 大事件であった。T氏の割った卵が、色鮮やかな黄身に透明でどろっとした白身を纏った、生卵なのである。何度やっても結果は同じである。新年早々、つい先ほど上司に「今年もよろしくお願いします」の挨拶を嫌々したばかりなのに、このざまではよろしくもお願いもしますもあったもんじゃない。
 T氏の様子を遠くから見ていた上司がT氏に声をかけた。
「白いご飯と醤油がないじゃないか」
 T氏は超高温のフライパンで焼いた目玉焼きの白身のように一瞬で固まった。
「卵かけご飯用に割ったんだろ」
 上司は床に落ちた生卵を指しながら言った。T氏は卵の殻を手に持ったままピクリとも動かない。
 上司が溜め息をつきながら続ける。
「うちの会社がどうして君を雇っているのか、君も理解しているよな、定期的に仕事に 遅刻してくる怠慢な人間を、今まで特に注意を与えることなく雇い続けた理由を」
 T氏はなおも言葉を発しない。上司はキッとT氏を睨みつけ「とりあえずここ片付けておけ」とだけ言い、T氏のもとを離れた。
 上司の姿が見えなくなると、T氏は気が抜けたままフラフラと掃除用具置き場へ歩いて行き、ポリ袋と雑巾を手に取り、もとの場所に戻ると、自分が散らかした生卵たちを掃除始めた。掃除し終わると、それらをゴミ箱の中に放り込み、上司の姿を探した。上司の姿を見つけるや否やT氏はただ一言「辞めさせていただきます」とだけ告げた。そのまま事務所へ連れて行かれ、退職届やらの書類にサインさせられた後、職場を後にした。そこから家に帰るまで何を考えていたのか、T氏はよく覚えていない。

 また T 氏は引きこもったが、時々彼女から誘われる水泳の練習のときだけは例外であった。このときだけは否が応でも、自らの惨めな姿を近所の人間やカラスたちの前に晒さなければならず、T氏は嫌で仕方がなかった。 ただ、彼女を失うのはもっと嫌だった。彼女の存在が、ほとんど途切れかけていたT氏と家の外の世界との繋がりをかろうじて保っていた。
 T氏の沈みきった心とは対照的に、T氏の身体は水中でしっかりと浮き上がり、以前にも増してスムーズな泳ぎを体現していた。余計な屁理屈を垂れる気力のなくなったT氏が、彼女の指導に忠実に従うようになったことが、結果的にT氏の泳力向上に寄与したのであった。彼女も彼女で、T氏が心を入れ替え真剣に練習に取り組んでいるのだとすっかり信じ込んでいたため、T氏の心が沈んでいることなど想像だにしなかった。
 練習を終え一緒に帰る段になっても、T氏は自分からは一切喋りかけず、彼女の発言にただ「うん」「そうだね」と頷いたりするだけであった。そんなT氏の様子を見てもなお彼女は、T氏が頭の中で今日の練習の反省をしているのだと思い込み、彼女は一層嬉しくなった。彼女の嬉しそうな横顔を見たT氏も、彼女は自分の気分が芳しくないことを察し取り、それでもあえて笑顔で自分を元気づけようとしてくれているのだと解釈した。双方によるこのような「盛大な勘違い」のおかげで、二人の間には亀裂が生じるどころか、却って強固な絆が形成されたのであった。

 二人は同棲した。彼女のほうから持ちかけてきた。T氏のニート生活が始まって三ヶ月が経った頃である。
 T氏としても都合が良かった。仕事もせずにずっと家にいると、母親の視線が痛いのである。母親には、家にいると甘えてしまうから別の場所へ移り住み、そこを拠点に新たに仕事を探すと言い、家を出た。
 同棲初日、仕事に行くふりをして朝八時半頃、T氏は彼女の家を出た。そして一時間ほど自転車で外をぶらつき、彼女が出社した頃を見計らって、彼女の家に帰った。
 合鍵を開けた。玄関には彼女の靴があった。部屋の扉が少し開き、隙間から艶のある綺麗な黒髪が覗いた。彼女がいた。
「あらあなた、もう帰ってきたの」
 彼女が目を丸くして言った。T氏はあたふたしながら咄嗟に
「いやー、今日休みだってことすっかり忘れていたよ」
 と言った。
「あなたって本当にうっかりさんね」
 彼女は言った。
 しばらくして、彼女は「買い物に行ってくる」と言い、家を出た。
 同棲二日目、彼女はこの日も休みだと言うので、T氏も休みだということにした。彼女がジョギングをすると言うので、T氏もついていった。
 住宅街を出てしばらくすると、一本の長い道路に出た。脇には数軒の民家がある他は、ほとんど畑や田んぼであった。苗が植えられる前の広大な田んぼの上を、冷たい風が自由に行き来する。
「この寂しい景色を見ていると、余計寒く感じるね」
「そうね、春はもう少し先のようね」
 景色の変わらない道を坦々と進む。途中一軒のカフェへと誘導する木製の看板があった。左脇に逸れた狭い道をしばらく行った所に、そのカフェはあるようだ。どういう理由でこんな辺鄙な所に店を構えようと思ったのか、T氏にはよくわからなかった。隠れ家的な人気を狙ったにしても、リスクが大きいだろうし……。多分人が嫌いなんだろうと、一応結論を出したT氏は、この件について考えるのを止めた。
 長い一本道が終わり、右に折れた。少し建物が増えたが、寂しい景色には変わりなかった。
 またしばらく行くと、右に折れた。再び一本道であった。左側には自動車専用のバイパスがあった。右側はやはり田畑であった。
「あんまり楽しい道じゃないね」
「華やかな景色を見ながら走る方がもちろん楽しいけど、毎日そういう所ばかり走っても飽きちゃうでしょ。幸せって案外相対的なものだと思うの」
 ふーんそういうもんかぁ、とT氏は思った。
「それにね」
 彼女は続ける。
「なかなか解決しない問題を抱えてるときにこういう所をボーっとのんびり走っていたら、急に降って湧いたように突拍子もないアイデアが浮かんできたりすることもあるの」「何か悩みがあるのかい?」
「さあどうかしら」
 彼女ははぐらかした。
 田んぼ道を抜けると、住宅街を通り、家に帰り着いた。結局、広大な田畑の周辺を、ぐるっと一周しただけであった。
 薄暗いキッチンの中で、その目玉焼きは妙な存在感があった。そこだけ妙に明るかった。穢れを知らない赤ん坊の頬のようにふっくらとしたその目玉焼きを、T氏はフライパンから皿へ移した。何の苦労も要らなかった。黄身が、白身が、まるでその周囲に見えない境界線があるかのごとく、それ自身以外の何者の侵入をも拒んでいた。そのあまりの混じりけのなさに、T氏は塩コショウを振るのを躊躇した。
 そのままの状態で箸を入れてみるも、上手く入らない。T氏は皿ごと上に持ち上げ、目玉焼きを丸呑みした。味がしなかった。
 ふと横を見ると、扉の取っ手を左手に持ったまま、部屋の中から直立不動の姿勢で、彼女がT氏のほうを向いていた。その目には生気がなく、魂が抜けた彼女の肉体だけがあった。あまりの恐ろしさに、T氏は腰を抜かし、後頭部を壁に打ちつけた。T氏の頭は、卵を割ったときのように真っ二つになった。

 T氏は目を覚ました。カーペットの上に寝転んでいるうちに、そのまま眠ってしまったようだ。隣には、同じカーペットの上に寝転び、T氏に背を向けた体勢で小説を読んでいる彼女の姿があった。艶やかで生き生きとした彼女の後ろ髪を見ると、T氏は胸をなでおろした。どうやらさっきのは夢だったようだ。
 ふぁ〜と欠伸をしながら、彼女が体の向きを変えた。すっかり気の抜けた表情だったが、そこには確かに魂が宿っていた。
「あら、あなた起きたの」
 彼女が言った。
「見ての通り」
 T氏が答えた。
「どんな本を読んでいるんだい」
 T氏が尋ねた。
「主人公が幽体離脱するのよ。抜け殻になった自分の体を見ながら……」
「もういい、そこから先は聞きたくない」
 T氏が遮った。
「何よ、自分から聞いてきたくせに」
 彼女は不満げに言った。
「さっさとシャワー浴びてきたら」
 と彼女が言ったので、T氏はそれに従い、ゆっくりと立ち上がり、風呂場に向かった。
 シャワーを浴びている間も、さっきまで見ていた夢の余韻が残っていた。T氏は何もかも洗い流してしまいたかった。自分の身に降りかかる、ありとあらゆる不都合なものを……。
 浴び終えると、バスタオルでしっかりと身体を拭いた。T氏はタオルを洗濯機の中に放り込むと、洗面台の鏡を見た。そこに映っていたのは、心機一転生まれ変わった自分自身の姿であった……らいいな、とT氏は思った。
 職探しをしようとT氏は決意した。貯金を使い果たす前に、そして、自分の愛しい人が、愛想を尽かして離れてしまう前に……。

 翌日、T氏の姿は、とあるインターネットカフェの中にあった。漫画を読みに来たわけでも、オンラインゲームをしにきた訳でもなかった。職探しにきたのだ。
 今T氏が住んでいる町の求人情報を、インターネットで片っ端から見て回った。たくさんあった。どこも人手不足なんだろう、とT氏は思った。
 いつかT氏が行ったラーメン屋の求人募集もあった。店の前で人の好さそうな笑顔を湛えた店主が、両手を前に組んだまま写真に納まっていた。写真の横にある概要欄には、「まかないアルヨ! 時給六〇〇ネパール・ルピーアルネ!」と書かれていた。T氏は即座にネットで今現在の為替レートを調べた。一ネパール・ルピー〇・九〇円であった。絶対に応募すまいとT氏は思った。もっとまともな、信頼できそうなウェブサイトに辿り着くべく、検索結果が表示された画面に戻った。
 ただ、何を以て信頼できるサイトと断定し得るのか、そこの判断基準がないと、大量にある情報の中で右往左往してしまうとT氏は考えた。そこでT氏は、以下のような基準を設けた。
①時給がその地域の最低賃金を上回っており、且つ日本円で表記されている。
②必要最低限の情報が端的に記載されている。
 設けた基準を基に、T氏はウェブサイトを見て回ったが、どのサイトにも相変わらず余計なことばかり書かれている。「従業員みんな仲良くアットホームな職場です」など大概ブラックな職場だと相場が決まっているし、万一それが本当だとしても、社交性のない自分がその中に割って入るのは至難の技である。「あなたのやる気を評価します」に至っては、そんなものどうやって測るのか甚だ疑問であるし、定期的にやる気のなくなる自分のような人間は、一体どうすればいいのか。「やる気のなさ」を評価してくれるのであれば話は別だが……。
 あれこれ思案しているうちに、また新たな疑問がT氏の脳裏に浮かんだ。「必要最低限の情報」とは一体何であるか。
「やる気」のような評価基準が曖昧なものでも、専らにそれのみを評価した上で給与に反映する旨が明確に記載されていれば、それは「必要最低限」に該当するだろう。一方で、「給与」「勤務時間」「休日日数」がその人の希望に合致するものであり、且つそれらが嘘偽りない情報であったとしても、いざ実際に勤務してみると、毎日仕事終わりに女装した上で社長と社交ダンスを踊らなければならず、そのことが苦痛で仕事を辞めるようなことになったら、その人からしてみれば、事前に提供されていた情報が不十分であったということになろう。このように、何を以て「必要最低限」とするのかは人によって違う。自分にとっての「必要最低限の情報」とは何か、いくら考えても、T氏にはわからなかった。
 結局、「世の中カネだ」という第三の基準を設けたT氏は、今開いているサイトの中で、最も高い給与が記載された求人に応募することにした。結果的に「給与」が、T氏にとっての必要最低限の情報となったのであった。