いくら世の中広しといえども、卵を割るという、ただそれだけのことを生業としている人間は、おそらく世界中どこを探しても、この男ただ一人であろう。
以下は、T氏が卵割師となるきっかけとなった出来事である。
度重なる職務怠慢により、勤めていた会社を首になったT氏は、特に何かをする訳でもなく、ただぼんやりと一日を過ごしていた。T氏には、日常的に付き合いのある友人というものがなかった。それでもT氏は、自分の心の傷を癒やしてくれる友人がいないことを、さほど寂しいとは思わず、むしろ、自分のことを陰で悪く言ったり、嘲笑したりする輩がいないことに対して、ありがたみすら感じていた。このように、世間体はさほど気にならない上、さらにT氏は実家暮らしであった。T氏の両親に、自分たちが普通に生活しながらも、この穀潰しを養っていける程度の収入があったことは、早急にT氏を職探しへと駆り立てなかった、最大の要因であった。
失業してから半年ほど経ったある日、昼過ぎに腹を空かして目覚めたT氏は、目玉焼きでも焼こうとキッチンに立った。熱したフライパンに油を引いたところまでは、順調であった。いくらT氏でもこの程度のことは朝飯前だ。時刻は既に午後二時を回っていたが。
そして卵を割った。殻から落下してきたのは、生卵、ではなく、なんと、鶏の雛であった。試しに、もう一つ割ってみても、やはり雛であった。寝ぼけでいるのか、それともこれは夢なのか、訳のわからぬままT氏は、リビングでくつろいでいる母親に声をかけた。
「母さん、卵の様子が何だが変なんだ、ちょっと来てよ」
こいつは目玉焼き一つまともに焼けやしないのかと溜め息をつきながら、母親がコンロの前に向かう。
「この上に卵を割って焼くだけじゃないの、何が難しいのよ」
そう言うと母親は、冷蔵庫の中から卵を一つ取り出し、火がつけっ放しになっていたフライパンの上にそれを割り落とした。殻から出てきたのは、丸い黄身が透明でドロっとした白身に覆われた、ごく普通の生卵であった。焼き上がった目玉焼きも、少々固めではあったが、ごく普通の目玉焼きであった。
翌日、T氏はいつものように昼過ぎに目を覚ますと、やはり前日の、卵を割った時のことが脳裏をよぎった。起き抜けに熱いシャワーを浴び、しっかりと覚醒した状態でキッチンへ向かった。冷蔵庫から卵を取り出し、皿の上へ割り落とす。寝ぼけてはいないつもりだったが、前日同様、殻から出てきたのは、鶏の雛であった。
「うーん、これはどうしたものか……」
腕を組み、困惑した表情を浮かべるT氏に向かって、その様子を、一部始終見ていた母親が言った。
「試しに鶏以外の卵でもやってみたら。他の卵でもおんなじようなことが起こったら、案外いい商売ができるんじゃないの。普通の仕事はろくすっぽできないあんたを憐れんだ神様が、あんたに与えた特殊能力なのかもしれないよ」
そう言うと母親は、財布の中から五千円札を取り出し、T氏に握らせた。どうやらそれで、鶏卵以外の卵を買ってこい、ということらしい。あまり気乗りのしないT氏であったが、とりあえず、よれよれの部屋着を脱ぎ捨て、これまたよれよれの外出着に着替え、強く握ったせいでよれよれになった五千円札をズボンの右ポケットに突っ込み、溜め息をつきながらT氏の脱ぎ捨てた部屋着を片付ける母親を尻目に、玄関へ向かった。そしてダルそうに靴を履き、家を出た。
久々の外出で日光が眩しい。壮大な太陽の光を浴びたT氏は、人間の作るアーティフィシャル・ライトなど、取るに足りないものなのだと思い知る。
「そうさ、世間で偉大と謳われているような連中も、宇宙規模で見れば、微々たる存在ですらないのだ。人間なんて、皆ちっぽけな存在なんだ。そんなこともつゆ知らず、良い会社に入って出世したり、玉の輿に乗ったりしたくらいで、偉そうに意気揚々と歩いている奴らのことを考えると、怒りを通り越して笑いが込み上げてくる」
そのようなちっぽけな人間たちの中でも最上位クラスにちっぽけなT氏が、一人勝手に毒づきながら歩いているうちに、自宅から最も近い場所にあるスーパーに辿り着いた。
「卵」ただそれだけをキーワードに、それに合致しそうなものを、T氏は次々と買い物かごに放り込む。人混みが嫌いで、体力もないT氏には、少しでも買い物を安く済まそうという考えは毛頭ない。T氏にとっての最優先事項とは、手っ取り早く買い物を済ませることなのだ。かごに放り込んだ商品の会計を済ませ、袋詰を終えると、T氏はそそくさとスーパーから立ち去った。
帰りの道はハードであった。半年以上も重力に逆らわない生活を送ってきたT氏にとっては、買い物袋程度の重さであっても、まるで鉄の塊でも運んでいるかのごとく感じられるのである。手の指にかかる買い物袋の重さに耐えながら、次に生まれ変わるときには重力がほとんどない星で生まれ変わろうと心に誓う。額から汗を垂らしながら、何度も買い物袋を地面に降ろしては、持ち上げ、息も絶え絶えに、どうにかT氏は、家まで帰り着くことができた。
家とスーパーを往復しただけで疲れ果ててしまったT氏は、とてもこの後卵を割ろうという気にはならず、買った品物が入ったままの買い物袋を母親に手渡すと、重い足取りで、二階の自分の部屋へ上がっていき、部屋に入るや否やベッドに倒れ込み、眠りについた。
次に目覚めたのは、深夜であった。昼過ぎに買った「卵」のことを思い出したT氏は、ベッドから起き上がり、一階のキッチンへ降りた。ぐっすりと眠ったため、眠くはなかった。ただ、腕や脚には、筋肉痛が残っていた。
冷蔵庫を開けると、昼過ぎに買った「卵」たちの姿があった。鶉の卵、いくら、鱈子、数の子、子持ちのししゃも。それら全てを、ワークトップの上へ移動させる。
まずは鶉の卵。ひびを入れ、お椀に割り落とすと、殻から出てきたのは、小さな小さな鶉の雛、ではなく、鶉の生卵であった。もう一つ割っても、同じであった。
次はいくら。T氏は指でいくつか潰してみたが、特段何の変化も見られなかった。鱈子、数の子、ししゃもに関しても、潰れた「卵」たちには、何ら変わった様子は見られなかった。
元通りの自分に戻ってしまったのかと思いながら、T氏は冷蔵庫を開け、鶏卵を取り出し、皿の上で割った。すると、出てきたのは、鶏の雛であった。
どうやらT氏の特殊能力は、鶏卵のみに関して、効力を発揮するようだ。
「卵」を割り続けて疲れたT氏は、「卵」たちを無造作に冷蔵庫の中に放り込むと、再び惰眠を貪るべく、二階へと上がっていった。
以下は、T氏が卵割師となるきっかけとなった出来事である。
度重なる職務怠慢により、勤めていた会社を首になったT氏は、特に何かをする訳でもなく、ただぼんやりと一日を過ごしていた。T氏には、日常的に付き合いのある友人というものがなかった。それでもT氏は、自分の心の傷を癒やしてくれる友人がいないことを、さほど寂しいとは思わず、むしろ、自分のことを陰で悪く言ったり、嘲笑したりする輩がいないことに対して、ありがたみすら感じていた。このように、世間体はさほど気にならない上、さらにT氏は実家暮らしであった。T氏の両親に、自分たちが普通に生活しながらも、この穀潰しを養っていける程度の収入があったことは、早急にT氏を職探しへと駆り立てなかった、最大の要因であった。
失業してから半年ほど経ったある日、昼過ぎに腹を空かして目覚めたT氏は、目玉焼きでも焼こうとキッチンに立った。熱したフライパンに油を引いたところまでは、順調であった。いくらT氏でもこの程度のことは朝飯前だ。時刻は既に午後二時を回っていたが。
そして卵を割った。殻から落下してきたのは、生卵、ではなく、なんと、鶏の雛であった。試しに、もう一つ割ってみても、やはり雛であった。寝ぼけでいるのか、それともこれは夢なのか、訳のわからぬままT氏は、リビングでくつろいでいる母親に声をかけた。
「母さん、卵の様子が何だが変なんだ、ちょっと来てよ」
こいつは目玉焼き一つまともに焼けやしないのかと溜め息をつきながら、母親がコンロの前に向かう。
「この上に卵を割って焼くだけじゃないの、何が難しいのよ」
そう言うと母親は、冷蔵庫の中から卵を一つ取り出し、火がつけっ放しになっていたフライパンの上にそれを割り落とした。殻から出てきたのは、丸い黄身が透明でドロっとした白身に覆われた、ごく普通の生卵であった。焼き上がった目玉焼きも、少々固めではあったが、ごく普通の目玉焼きであった。
翌日、T氏はいつものように昼過ぎに目を覚ますと、やはり前日の、卵を割った時のことが脳裏をよぎった。起き抜けに熱いシャワーを浴び、しっかりと覚醒した状態でキッチンへ向かった。冷蔵庫から卵を取り出し、皿の上へ割り落とす。寝ぼけてはいないつもりだったが、前日同様、殻から出てきたのは、鶏の雛であった。
「うーん、これはどうしたものか……」
腕を組み、困惑した表情を浮かべるT氏に向かって、その様子を、一部始終見ていた母親が言った。
「試しに鶏以外の卵でもやってみたら。他の卵でもおんなじようなことが起こったら、案外いい商売ができるんじゃないの。普通の仕事はろくすっぽできないあんたを憐れんだ神様が、あんたに与えた特殊能力なのかもしれないよ」
そう言うと母親は、財布の中から五千円札を取り出し、T氏に握らせた。どうやらそれで、鶏卵以外の卵を買ってこい、ということらしい。あまり気乗りのしないT氏であったが、とりあえず、よれよれの部屋着を脱ぎ捨て、これまたよれよれの外出着に着替え、強く握ったせいでよれよれになった五千円札をズボンの右ポケットに突っ込み、溜め息をつきながらT氏の脱ぎ捨てた部屋着を片付ける母親を尻目に、玄関へ向かった。そしてダルそうに靴を履き、家を出た。
久々の外出で日光が眩しい。壮大な太陽の光を浴びたT氏は、人間の作るアーティフィシャル・ライトなど、取るに足りないものなのだと思い知る。
「そうさ、世間で偉大と謳われているような連中も、宇宙規模で見れば、微々たる存在ですらないのだ。人間なんて、皆ちっぽけな存在なんだ。そんなこともつゆ知らず、良い会社に入って出世したり、玉の輿に乗ったりしたくらいで、偉そうに意気揚々と歩いている奴らのことを考えると、怒りを通り越して笑いが込み上げてくる」
そのようなちっぽけな人間たちの中でも最上位クラスにちっぽけなT氏が、一人勝手に毒づきながら歩いているうちに、自宅から最も近い場所にあるスーパーに辿り着いた。
「卵」ただそれだけをキーワードに、それに合致しそうなものを、T氏は次々と買い物かごに放り込む。人混みが嫌いで、体力もないT氏には、少しでも買い物を安く済まそうという考えは毛頭ない。T氏にとっての最優先事項とは、手っ取り早く買い物を済ませることなのだ。かごに放り込んだ商品の会計を済ませ、袋詰を終えると、T氏はそそくさとスーパーから立ち去った。
帰りの道はハードであった。半年以上も重力に逆らわない生活を送ってきたT氏にとっては、買い物袋程度の重さであっても、まるで鉄の塊でも運んでいるかのごとく感じられるのである。手の指にかかる買い物袋の重さに耐えながら、次に生まれ変わるときには重力がほとんどない星で生まれ変わろうと心に誓う。額から汗を垂らしながら、何度も買い物袋を地面に降ろしては、持ち上げ、息も絶え絶えに、どうにかT氏は、家まで帰り着くことができた。
家とスーパーを往復しただけで疲れ果ててしまったT氏は、とてもこの後卵を割ろうという気にはならず、買った品物が入ったままの買い物袋を母親に手渡すと、重い足取りで、二階の自分の部屋へ上がっていき、部屋に入るや否やベッドに倒れ込み、眠りについた。
次に目覚めたのは、深夜であった。昼過ぎに買った「卵」のことを思い出したT氏は、ベッドから起き上がり、一階のキッチンへ降りた。ぐっすりと眠ったため、眠くはなかった。ただ、腕や脚には、筋肉痛が残っていた。
冷蔵庫を開けると、昼過ぎに買った「卵」たちの姿があった。鶉の卵、いくら、鱈子、数の子、子持ちのししゃも。それら全てを、ワークトップの上へ移動させる。
まずは鶉の卵。ひびを入れ、お椀に割り落とすと、殻から出てきたのは、小さな小さな鶉の雛、ではなく、鶉の生卵であった。もう一つ割っても、同じであった。
次はいくら。T氏は指でいくつか潰してみたが、特段何の変化も見られなかった。鱈子、数の子、ししゃもに関しても、潰れた「卵」たちには、何ら変わった様子は見られなかった。
元通りの自分に戻ってしまったのかと思いながら、T氏は冷蔵庫を開け、鶏卵を取り出し、皿の上で割った。すると、出てきたのは、鶏の雛であった。
どうやらT氏の特殊能力は、鶏卵のみに関して、効力を発揮するようだ。
「卵」を割り続けて疲れたT氏は、「卵」たちを無造作に冷蔵庫の中に放り込むと、再び惰眠を貪るべく、二階へと上がっていった。