……これは、まだ始まっていない物語の、続きだ。
楓は気が付くと、自分の部屋で寝ていた。
浴衣は脱がされており、額には氷枕が乗せられている。
ぼんやりしていると、粥を盛った茶碗を盆に載せ、母親の桜子が部屋に入ってきた。
「気分はどう? あんた、熱中症で倒れたんやで。露木くんが運んでくれてん」
「うん……」
「露木くん、えらい申し訳なさそうに謝っとったわ。楓は元から出不精な子で体弱いから、気にせんといてと言っておいたで」
露木くん、って誰だろう。
頭にもやがかかったようで、うまく考えられない。
「んー、熱が出とるね。ゆっくり休みや」
桜子は心配そうに楓の頬に指を添えた。
母親の介添えで粥を口に運んだ後、楓は再び横になる。
夢も見ない深い眠りが襲ってきた。
高熱で次の日も寝込んで、起き上がれるようになったのは二日後だった。
夏祭りの夜、楓は東京から来た男の子と屋台を見て回ったらしい。
らしいというのは、楓の記憶がおぼろになっているせいだ。
桜子いわく、恰好いい男の子だったそうだが、顔が思い出せなかった。
この数日間は夢の中にいたように実感がない。
ただ、巾着の中から出てきたコンペイトウだけが物的証拠である。
色とりどりのコンペイトウを見ても詳細は思い出せない。しかし食べるのがもったいなくて、楓は小さなガラス瓶をもらってコンペイトウを保管することにした。
そういえばもうひとつ、不可解なことがある。
鞄の中にしまっておいたはずの、描きかけの漫画が数冊、まとめて消えうせていたのだ。桜子に聞いても荷物に触っていないという。
これは楓にとって結構な痛手だった。
また最初から書き直さなければいけない。
「……ま、いっか。今度は涼しい話を描こう。夏は暑いし」
なぜか、雨に濡れた少年の姿が脳裏に浮かんだ。
繊細な少年の面差しと、柔和な笑み。
どこかで見たのだろうか。
「楓ー、送り火を焚くよ。少し遅いけど、一緒にお墓を掃除しにいこう」
桜子が呼ぶ。
「はーい」
コピックを鞄に放り込んで、楓は立ち上がる。
「帰りに八咫烏神社に寄ろうか。露木くん、まだいるかもしれんし」
桜子がそう言うので、二人は山の上のお墓にお参りした後、遠回りして神社に寄ることにした。
祭りの終わった神社の境内は静かだ。
ミンミンと蝉だけがうるさく鳴いている。
「すみませーん、露木くんはおる?」
「ああ、彼なら今朝の始発で東京に戻りましたよ」
「えっ」
社務所で桜子と巫女さんが話している。
記憶が曖昧な楓は、露木という男の子に会いたいと感じなかった。
賽銭箱の前の石段に腰かけて、母親を待つ。
その時、石段にカラスが一羽、舞い降りた。
「何……?」
カラスは、七色に輝く宝石のようなコンペイトウをくわえている。
呆然としている楓の近くに寄ると、カラスはそれをポトリと落とした。
楓はカラスの落としたものを拾い上げる。
「楓ー! 帰るよー」
「うん」
カラスは飛び立って見えなくなった。
楓は慌てて母親の後を追う。
確かに手に握りしめたはずなのに、硝子玉のようなコンペイトウは、いつの間にか手のひらから消えうせていた。
夏休みが終わった。
憂鬱な学校生活がまた始まる。
満員電車に揺られながら、楓はげんなりとしていた。
九月に入っても東京は暑いままだ。
照りつける陽光に喉が渇く。
冷たい雨でも、降らないだろうか。
『……飯田橋です。信号機のトラブルがあった影響により、この電車は通常より三分遅れて運行しております……』
楓の前で電車の扉が左右に開く。
怒涛のように降りていく乗客。
その向こう側、ホームを歩く、涼しげな横顔の少年が、見えた。
「お、降ります!」
慌てて楓は、乗り込み始めた乗客を押しのけて電車から飛び降りる。
心臓の動悸が高鳴る。
よく分からないが、今、彼を追いかけないと後悔するという予感がした。
「君!」
ホームの階段を駆け下りながら、少年に声を掛ける。
声を掛けられたのが自分と気付いていないのか、少年は足を止めることなく、改札を通り過ぎる。
楓は急いで改札を抜け、通りに出て左右を見回した。
どこかの角を曲がってしまったのだろうか。
少年の姿は見当たらない。
がっかりして、膝から崩れ落ちそうになりながら、楓は無意識に唇に彼の名前を乗せた。
「……涼介くん」
喪失感が胸に押し寄せる。
泣きそうになってしゃがみこんだ楓の上に、影が落ちた。
「呼んだ?」
おそるおそる顔を上げると、涼しい顔立ちをした少年が立っていた。
彼は、水の入ったペットボトルを片手に持って笑う。
「大丈夫? 水でも飲む? ――楓」