# 5 夏祭り
波乱の夜は明け、朝がやってきた。
朝食の前に「お仏壇に手を合わせておいで」と母親の桜子に言われた楓は、面倒だなと思いながらも仏壇に向かった。
そして仏壇の前で仰天して声を上げた。
「お爺ちゃん?!」
『大声を上げてはならんぞ、楓や』
半透明に透き通った祖父の幽霊は、人差し指を顔の前に立てて『しーっ』と合図する。祖父は仏壇に供えられた湯呑みを手に取り、果物を美味そうに頬張っている。
「勝手に食べちゃ駄目なんじゃ……」
『仏壇のお供えは、ワシらのためのものじゃからして、何も問題はない』
そういえば「お盆は死んだ祖父が帰ってくる。美味しいものを供えてお迎えしようね」と桜子も言っていた。
『さて、楓や。話がある』
「何?」
『お前は今、ワシらのような存在が見えておるが、小僧に虫を祓われると見えなくなる。それを理解しておるか?』
祖父は確認するように楓に聞く。
楓は幽霊が見えるようになったのは最近のことなので、祖父が何を言いたいのかピンとこない。見えなくなると言っても、普通の状態に戻るだけではないか。
『むう、分かっておらんか……小僧と同じ世界が見えなくなるということじゃぞ』
「……」
ようやく、楓はうっすらと祖父の懸念を理解する。
アメフラシさまが見えなくなり、不思議な世界から遠ざかった楓と、その世界に生きる涼介は、今までと同じように話せるだろうか。
『ワシとしては大事な孫娘に、あやかしの世界に関わって欲しくない。じゃが、こうしてお前と話せるのも最後だと思うと、なあ……』
「お爺ちゃん……私、本の虫をくっつけたままじゃ駄目なの?」
『こちらの世界は危険が多いのじゃよ。知らないままの方が安全じゃ』
楓は、昨夜の巨大な曲霊(まがひ)を思い出した。
あんな怪物と、涼介はいつも戦っているのだろうか。
『夢喰虫が羽化する前に、祓ってもらえ。今ならまだ間に合うからの』
「夢喰虫……羽化する前?」
その時、桜子が「誰としゃべってるの」と楓を呼ぶ声がした。
楓は急いで仏壇に手を合わせると、祖父にペコリを頭を下げ、仏間を飛び出す。出ていきざまに垣間見た祖父は心配そうな顔をしていた。
涼介と祭りに行くことを母親の桜子に話すと、彼女は喜んで「それやったら浴衣きんと!」と言い出した。
楓は浴衣を着るのは初めてだ。
「お腹が苦しいー」
「我慢しい」
帯をきつく締められ、青息吐息になる。
浴衣はピンクや紫の朝顔の花が描かれた爽やかな白。
赤い鼻緒の下駄は、踏み出すとカランコロンと音がする。
「歩きにくいし、動きにくい。昔の人はよくいつもこんな格好してたね」
楓は下駄の歩きにくさに早くも音を上げている。
「あ、スマホを自分の部屋に置いたままだった」
家を出る前、スマートフォンを忘れたことに気付き、自分の部屋に戻る。
そこで楓は、例の本の虫の姿が変わっていることに気付いた。
「サナギになってる……?」
青虫の姿で新聞をモシャモシャ食っていた本の虫だが、いつの間にか楓の鞄の近くに糸を張り、枯れ葉色のサナギに変身していた。
束の間、立ちすくんでサナギを見つめた楓だが、約束の時間が迫っていることを思い出してスマホを拾い、部屋を後にする。
一瞬、不吉な予感が胸をよぎった。
夕暮れ時になると神社の境内に屋台が並ぶ。
鳥居の前で、楓は涼介と待ち合わせしていた。
「わあ、浴衣かわいいじゃないか!」
「本当?」
涼介は開口一番、浴衣を褒めてくれた。
現金なもので、楓は褒められて気分が良くなり、浴衣のきつさや下駄の歩きにくさも我慢しようと思う。
「ゆっくり見て回ろうか」
「うん」
楓は涼介と並んで歩き出した。
鮎の串焼きを売っている屋台を通りすぎ、金魚すくいを冷やかし、キラキラ光る林檎飴を眺める。
涼介は「暑いー」と唸って、途中でカキ氷を買った。
真っ赤なシロップをかけた氷を、涼介はザクザク豪快に口に放り込む。食べるのが速いところに、楓は「男の子だなあ」と感じたりした。
「あれ、飴やさん? 可愛い!」
「コンペイトウを売ってるのか。珍しいな」
二人は色とりどりの飴を売っている屋台の前で立ち止まる。
星のようなコンペイトウが、かごに山と盛り付けられていた。量り売りらしく、番台には秤が置かれている。
様々な種類の飴から自分で好きなものをチョイスして、透明な袋に入れて買うらしい。
「俺が買ってあげるよ」
「いいの?」
「記念に、ね……」
涼介は一瞬遠い目をすると、屋台の店主に声を掛け、楓に飴を選ぶよう促した。
楓は、紫と青と黄色のコンペイトウをミックスして袋に入れる。
買ったコンペイトウはなくさないよう巾着にしまいこんだ。
そろそろ境内の屋台をほとんど回り終えた。
この後はどうしようと空を見上げると、ドンと打ち上げ花火のような爆発音がした。
「花火の音?」
「いや……このお祭りは花火の予定はない。まさか」
見上げた夜空に、七色の光が走る。
花火ではない。
七色の光の燐粉を散らす、巨大な揚羽蝶が空を飛んでいる。
「何、あれ? あやかし?」
「夢喰虫が羽化しちゃったのか?! 予定よりも早い、それに大きい……!」
「夢喰虫?」
楓は涼介に聞き返して、自分の部屋に置いてきたサナギを思い出した。
涼介は空を見上げたまま答える。
「本の虫の別名だよ。夢喰虫は、宿主の夢を喰って現実世界を侵食する。昔は人を死なせることもあったけれど、今は現実が強固でそう簡単に影響を及ぼせないし、影響で一ヶ月雨が降らなくても水道があるから、人間が飢え死にすることも無くなったけど」
楓は「一ヶ月雨が降らなくても」の下りで青ざめた。
「もしかして雨が降らなかったのは、私のせい……?」
「俺は最初に言ったよ」
涼介が楓に視線を戻して、悲しそうに微笑む。
「杉崎さんは俺の天敵だって」
空を飛ぶ夢喰虫の姿は、他の誰にも見えていないようだ。
しかし異変は確実に起きている。
「カキ氷が溶けちゃった?!」
近くでカキ氷を食べていた子供が悲鳴を上げる。
気温が上がり、熱風が屋台を襲う。
まるで砂漠のように乾いた空気が、神社の境内を侵し始めた。