# 1 雨乞いに呼ばれた少年
スマートフォンの待ち受け画面を開くと、雨天を知らせる傘マークが表示されていた。
「まーたまた、嘘ばっかり」
楓(ふう)は画面を眺めて溜め息を付いた。
この地方の天気予報は最近、当たった試しがない。
彼女は片手でショートボブの毛先をいじる。内側に巻きぎみの髪は、ほんのり茶色がかった黒だ。そろそろ伸びてきたから切り時だろうか。自他共に認める面倒くさがりの、オタク娘としては髪の手入れに時間を掛けたくなかった。
楓は学校が夏休みに入り、母親に連れられて田舎に帰省していた。
ここは、紀伊半島の山奥にある飛山村(とやまむら)。人口は数百人の過疎化が進む山村だ。
マイナスイオンを発する滝や、澄んだ湧水が流れる清流という目玉商品はあるものの、いかんせん交通手段が整備されていないため、観光名所として活かしきれない。
しかもここのところ、ずっと晴れが続くので、せっかくの川の水も干上がり始めている。
暑くてカラカラの気候に、道端の向日葵もしおれてしまった。
スマートフォンをカバンに入れて、楓は代わりに水の入ったペットボトルを取り出した。
一口飲んでキャップを閉める。
「よし。脱出するぞ、この村から……!」
本屋も無い村にこもっていたら身も心も干からびてしまう。
自分には心を潤すエンタメが必要なのだ。
そう、漫画の新刊が……!
意を決して楓は駅を目指す。
半日かかってもいい、乗り継いで都会に出るのだ。
「あれ……?」
ぽたり。
水滴の感触に、楓は空を見上げる。
いつの間にか空は曇っている。
細かい水滴がぽたりぽたりと降ってきた。
「ええっ、私、傘持ってきてないのに!」
楓は急いで無人の駅に駆け込む。
屋根があるから雨をしのげるだろう。
そのまま電車に乗ってしまいたい。
しかし彼女は、駅員のいない改札口に人が寄りかかっているのを見つけて、足を止める。
「……」
改札を通った直後に力尽きたと思われる。
彼は地面に尻餅をついて、改札に背をもたれさせている。
背格好からすると楓と同年代のようだ。
この暑いのにきっちりブレザーの制服を着ている。
襟足長めの黒髪が、涼しそうな少年の面立ちを引き立てている。
彼は、都会育ちの楓が今までお目にかかったことのないくらい、柔和で綺麗な容姿の少年だった。
「水……」
「え?」
「水、ください」
彼はいきなりカッと目を見開く。
楓を見つけると獣のように飛びかかってきた。
「ああっ!」
少年は楓からペットボトルを奪うと、水をごくごく飲み始める。
「ぷはー、生き返った!」
「ちょっと、あんたねえっ」
楓は少年の暴挙に憤慨する。
しかし少年はまるで悪気が無いようにニコニコ笑顔だ。
「東京では立っている人が水を配っていることがあるので、つい焦って間違えてしまいました。すみません、地元の人ですよね?」
「私も東京生まれの東京育ちよ! 都会でだって勝手に人のものをとるのは犯罪よ?!」
少年は「しまった」と言わんばかりに視線を逸らす。
「オウ、ソーリー。ワタシ、ニホンゴ、ワカリマセーン」
「さっきまで日本語しゃべってたくせに」
まるで漫才のようなやり取りをした後、楓は唐突にどうでもよくなった。
ペットボトルは空だ。
ついでにいえば少年の背後で、一日に数本しか来ない電車が、ガタゴト発車しようとしている。
間に合わなかった。
「えーと。君も帰省か何かで飛山村に来たの?」
今日、漫画を買いに遠出するのは諦めようと思いながら、楓は少年に聞いた。ついでに手を伸ばし「返して」とペットボトルの返却を要求する。
少年は大人しく楓にペットボトルを返しながら答えた。
「俺は村長さんに呼ばれて仕事で来たんだ」
「仕事? 君も学生でしょ」
楓は少年をまじまじと見る。
どこの学校かは知らないが、制服を着ているのだから、学生で間違いないはずだ。楓のように帰省した親に付いてきた訳では無いのだろうか。
「この村ってしばらく雨が降ってないんだろ。俺は雨乞いの儀式を手伝いに来たんだ」
通り雨が止んで、太陽が顔を見せる。
言葉もなく少年を凝視する楓の肩で、小さな虹が踊った。
頭を垂れた向日葵の花から水滴が落ちる。
「雨を降らせる……そんなこと出来るの?」
「実際、さっき降っただろ」
「偶然かもしれないし」
雨を降らせられるという少年の戯言を、鼻で笑って否定する。
少年はへこたれた様子を見せず、むしろ飄々とうそぶいた。
「ふっ、よく偶然だと分かったね。信憑性を上げて、依頼主に報酬を上乗せしてもらうために、天気予報で雨の日に合わせて客先に行くことにしてるのさ」
「せっこ……」
しかし今回の天気予報は外れなかった。
不思議だと思いながら、田園風景を歩く。
青々としげる稲穂の足元にはひび割れた地面がのぞいている。稲は水を張った粘土状の土で育てるものだが、夏に入ってから続く日照りで水は蒸発してしまっていた。
先ほどのにわか雨では、水田を潤すには足りない。
真夏の太陽は、少量の水などすぐに乾かしてしまう。
雨など幻だったように陽気が戻り始めていた。
「村長さんの家ってどこ? 案内してください」
「スマホで検索すればいいじゃない」
「文明の利器に慣れてなくてさ」
「君、本当に東京から来たの……?」
楓のペットボトルを奪って水を飲んだ少年だが、暑さにつらそうに額の汗をぬぐっている。
できるだけ木陰を選んで、楓は彼を案内した。
「ありがとう。君の名前を聞いていい?」
「杉崎楓(すぎざきふう)」
「君を俺の天敵に認定しよう。名誉に思いたまえ、杉崎くん」
「天敵って何?!」
少年はからからと笑う。
楽しそうだ。
その笑顔に見とれそうになって、楓は咄嗟に視線を逸らしながら聞く。
「ところで君の名前は? ひとの名前を聞いておいて秘密はないよね」
「露木涼介(つゆきりょうすけ)。夏場に涼しそうな名前だろ?」
「名前だけで涼しくなれるなら、皆避暑に行かなくて済むわ……」
りょうすけ、と楓は声には出さず、口の中で名前を転がした。
涼介は、快活にポンポン会話のキャッチボールを返してくる。おかげで退屈しない。
無意識に口元をゆるめていた楓だが、行く先から歩いてくる青年を見つけて上がりかけていた口角を下げた。
背の高い刈り上げの青年が、楓に声を掛けてくる。
「こら! どこへ行こうとしとったん?!」
「……どこでもいいでしょ。余計な詮索はしないでください、南さん」
楓はむっつり答える。
南と呼ばれた青年は「そうはいかない」と真剣な顔をした。
「俺は、杉崎さんのお母さんに頼まれてるんや。最近は夕方になると、変な声が河原から聞こえてくるよって、女の子一人で歩くのは危険や。川に落ちたらどうすんねん」
「落ちたりしませんって」
南は責任感の強い性格で、暑苦しく楓に絡んでくる。
都会育ちの楓はその距離感が苦手だった。
「そいつ誰や?」
楓の隣の涼介を、南が警戒心を込めて睨む。
涼介が戸惑ったように身動ぎした。
余所者に排他的な空気を感じて、楓は密かに居心地が悪い気持ちを覚える。彼をどう紹介すればいいだろうか。
しかし彼女は、不意にとんでもない悪ふざけを思い付いた。
「……彼は東京から私に会いに来てくれた、私の恋人です」
「何ぃ?!」
「これから役場に報告しに行くところなんです!」
報告って何の報告? と自分で言っていて楓は思ったが、ええいままよ、と涼介の腕にしがみついた。
涼介はびっくりしたようだが、すぐに悪のりしてくる。
「そういう訳で、失礼します……行こう」
呆気に取られている南の横を、二人ですり抜けた。
涼介はニヤニヤしている。
「……杉崎くん。俺を盾に使うと高いよ?」
「いくらよ」
「うーん。給水の件と、村役場への案内で相殺かな」
腕にしがみついた楓を見下ろして、涼介は器用にウインクした。