榊さんと俺の関係は、社内では秘密にしていた。
“秘密” と言っても、そうしようと打ち合わせて決めたわけではない。なんとなくそうなってしまっただけ。
榊さんが周囲の視線が気になるようなので、俺は、社内では彼女とあまり話せなくなってしまった。彼女の場合、“視線が気になる” というのは “知られたくない” という意味とは違うのだけど。先に進めばそれも含むのかも知れないけど、それよりもっと手前の話。とにかく恥ずかしいのだ。
とは言え、俺の “話せない” は、それほど厳密ではない。
だって、もともと仲が良かったことは周囲に知られているわけだから、急に話さなくなる方が怪しい。もちろん、恋人同士の会話は社内ではしない。
でも榊さんは、そういうことは頭では分かっていても、俺が近くに行くだけで緊張すると言う。実際、微妙な顔つきをしている。
「ドキドキして、どうしたらいいのか分からなくなるんだよ」
と、夜中の電話で、情けない声で言っていた。俺は、そんな榊さんがものすごく可愛いと思ってしまう。
まるで10代の少女のように恥ずかしがる。そしてそのことを、その当事者である俺に言ってしまう。俺が近くにいるとドキドキして……なんて、俺のことを好きだと言っているようなものじゃないかと思うのに、そのことには気付かないんだ。誰にも聞かれたり見られたりしない電話でも、彼女は俺に「好き」なんて言葉は囁いてはくれないけれど。
まあそういう具合で、俺たちの関係は秘密のままだった。それでも俺たちは、仕事帰りのデートや夜中の電話を重ね、少しずつ、ふたりのスタイルを形づくっていった。そして、初めてのクリスマスは夜景を見に行こうと約束した。
「今年のクリスマスは、みんな一人なの?」
久しぶりに里沢さんも都合を合わせて、槙瀬さん、榊さん、俺の4人が揃った内輪の忘年会は、クリスマスの一週間前だった。里沢さんが俺たちを見回して尋ねたのは、酒が進み、話題が一段落したころ。
俺はドキッとして榊さんを見てしまった。けれど、彼女は何でもない笑顔を里沢さんに向けた。
「里沢さんは、今年もご主人とデートですか?」
「もちろん! やっぱりクリスマスは特別だもの。まあ、普段は休みの日でもゴロゴロしててデートなんかしないから、その穴埋めみたいなものだけど」
「いいですねぇ、仲が良くて」
榊さんがにこにこしながら、里沢さんのグラスにビールを注ぐ。それを見ながら、俺は次に誰が何を言うのかと、緊張して聞き耳を立てていた。
「何言ってんの? 榊ちゃんだって、ほんとうは誰かいるんじゃないの?」
(やっぱり……)
こういう展開になりやすい話題だ。榊さんは俺の方はまったく見ずに、笑顔のまま自分のグラスを取った。
「あはは、あたしは、まあ……」
曖昧に返事をして、その話題をスルーようとする。俺に気を使って、「そんな相手はいない」と言うことができないのかも知れない。
彼女が困っているのは分かるけど、俺も、彼女と俺のあいだに何も無いふりをするのは嫌だ。黙っているだけならいいけれど。
「なによ? まだ “あたしなんか” とか言ってるわけ?」
「ええ、はい。いいんです、あたしは」
「そんなこと言ってないで、一度誰かと出かけてみたらいいんだよ。適当に選んだ相手の方が、案外、上手く行ったりすることもあるんだよ?」
居酒屋の隣の席から旦那さんに見初められた里沢さんがそう言うと説得力があるのはたしかだ。豪快に「あははは! そうだよ、そうしなよ!」と笑い、俺に「ほら、榊ちゃんにお湯割り」と命令した。
「ふふ、そんなに簡単には行きませんよ。あ、何か追加で頼みましょうか?」
榊さんがにこやかにメニューを取り、話題をそらそうとした。俺はポットのお湯を注ぎながら、ほっとする気持ちと残念な気持ちを、半分ずつ味わっていた。少しだけ、このメンバーには言ってしまいたい気もしていたから。
「なんなら、俺とどっか行く?」
低く響く声が聞こえたのはそのとき。
声の主は、俺の隣にいた槙瀬さんだった。手に持ったグラスを見つめた状態で、俺の体がピタリと固まる。
「ああ、いいんじゃない!? そうだよ、槙瀬さんと榊ちゃんならバッチリ! ねえ?」
「行きたいところがあれば、お姫様のリクエストにお応えしますよ」
盛り上がる里沢さんと、冗談めかしたセリフで誘う槙瀬さん。ふたりの上機嫌の勢いが危ない気がする。
(ど、どうしよう……)
ドキドキして汗が出てきた。グラスを渡しながら榊さんを見たら、彼女もちらりと見返してきた。彼女もどうしたらいいのか分からないのだ……と思ったら、すぐに笑顔を作って槙瀬さんに向けた。
「やだなあ、槙瀬さん。里沢さんに調子を合わせなくてもいいんだよ」
どうやら彼女は冗談で済ませるつもりらしい。相手が槙瀬さんならそれで済むと思ったのだろう。
でも、今回は済まないかも知れない。
なにしろ槙瀬さんは、榊さんとなら結婚してもいいと思っているのだ。この機に乗じて一気に話を進めるつもりだという可能性もある。もしもそんなことになったら……。
「いつも、クリスマスにわざわざ混んでるところに出かけるなんて面倒だって言ってたじゃない」
何も知らない榊さんが、笑顔でその話題を続けてしまう。
「うん、そうだな」
「気取ったレストランなんか好きじゃないって」
「今だってそう思ってるよ」
「ほらね?」
「でも、榊とならいいぞ」
「え?」
(本気か!?)
思わず槙瀬さんを凝視する榊さんと俺。
「ほらー、いいじゃん。行っちゃいなよ」
“秘密” と言っても、そうしようと打ち合わせて決めたわけではない。なんとなくそうなってしまっただけ。
榊さんが周囲の視線が気になるようなので、俺は、社内では彼女とあまり話せなくなってしまった。彼女の場合、“視線が気になる” というのは “知られたくない” という意味とは違うのだけど。先に進めばそれも含むのかも知れないけど、それよりもっと手前の話。とにかく恥ずかしいのだ。
とは言え、俺の “話せない” は、それほど厳密ではない。
だって、もともと仲が良かったことは周囲に知られているわけだから、急に話さなくなる方が怪しい。もちろん、恋人同士の会話は社内ではしない。
でも榊さんは、そういうことは頭では分かっていても、俺が近くに行くだけで緊張すると言う。実際、微妙な顔つきをしている。
「ドキドキして、どうしたらいいのか分からなくなるんだよ」
と、夜中の電話で、情けない声で言っていた。俺は、そんな榊さんがものすごく可愛いと思ってしまう。
まるで10代の少女のように恥ずかしがる。そしてそのことを、その当事者である俺に言ってしまう。俺が近くにいるとドキドキして……なんて、俺のことを好きだと言っているようなものじゃないかと思うのに、そのことには気付かないんだ。誰にも聞かれたり見られたりしない電話でも、彼女は俺に「好き」なんて言葉は囁いてはくれないけれど。
まあそういう具合で、俺たちの関係は秘密のままだった。それでも俺たちは、仕事帰りのデートや夜中の電話を重ね、少しずつ、ふたりのスタイルを形づくっていった。そして、初めてのクリスマスは夜景を見に行こうと約束した。
「今年のクリスマスは、みんな一人なの?」
久しぶりに里沢さんも都合を合わせて、槙瀬さん、榊さん、俺の4人が揃った内輪の忘年会は、クリスマスの一週間前だった。里沢さんが俺たちを見回して尋ねたのは、酒が進み、話題が一段落したころ。
俺はドキッとして榊さんを見てしまった。けれど、彼女は何でもない笑顔を里沢さんに向けた。
「里沢さんは、今年もご主人とデートですか?」
「もちろん! やっぱりクリスマスは特別だもの。まあ、普段は休みの日でもゴロゴロしててデートなんかしないから、その穴埋めみたいなものだけど」
「いいですねぇ、仲が良くて」
榊さんがにこにこしながら、里沢さんのグラスにビールを注ぐ。それを見ながら、俺は次に誰が何を言うのかと、緊張して聞き耳を立てていた。
「何言ってんの? 榊ちゃんだって、ほんとうは誰かいるんじゃないの?」
(やっぱり……)
こういう展開になりやすい話題だ。榊さんは俺の方はまったく見ずに、笑顔のまま自分のグラスを取った。
「あはは、あたしは、まあ……」
曖昧に返事をして、その話題をスルーようとする。俺に気を使って、「そんな相手はいない」と言うことができないのかも知れない。
彼女が困っているのは分かるけど、俺も、彼女と俺のあいだに何も無いふりをするのは嫌だ。黙っているだけならいいけれど。
「なによ? まだ “あたしなんか” とか言ってるわけ?」
「ええ、はい。いいんです、あたしは」
「そんなこと言ってないで、一度誰かと出かけてみたらいいんだよ。適当に選んだ相手の方が、案外、上手く行ったりすることもあるんだよ?」
居酒屋の隣の席から旦那さんに見初められた里沢さんがそう言うと説得力があるのはたしかだ。豪快に「あははは! そうだよ、そうしなよ!」と笑い、俺に「ほら、榊ちゃんにお湯割り」と命令した。
「ふふ、そんなに簡単には行きませんよ。あ、何か追加で頼みましょうか?」
榊さんがにこやかにメニューを取り、話題をそらそうとした。俺はポットのお湯を注ぎながら、ほっとする気持ちと残念な気持ちを、半分ずつ味わっていた。少しだけ、このメンバーには言ってしまいたい気もしていたから。
「なんなら、俺とどっか行く?」
低く響く声が聞こえたのはそのとき。
声の主は、俺の隣にいた槙瀬さんだった。手に持ったグラスを見つめた状態で、俺の体がピタリと固まる。
「ああ、いいんじゃない!? そうだよ、槙瀬さんと榊ちゃんならバッチリ! ねえ?」
「行きたいところがあれば、お姫様のリクエストにお応えしますよ」
盛り上がる里沢さんと、冗談めかしたセリフで誘う槙瀬さん。ふたりの上機嫌の勢いが危ない気がする。
(ど、どうしよう……)
ドキドキして汗が出てきた。グラスを渡しながら榊さんを見たら、彼女もちらりと見返してきた。彼女もどうしたらいいのか分からないのだ……と思ったら、すぐに笑顔を作って槙瀬さんに向けた。
「やだなあ、槙瀬さん。里沢さんに調子を合わせなくてもいいんだよ」
どうやら彼女は冗談で済ませるつもりらしい。相手が槙瀬さんならそれで済むと思ったのだろう。
でも、今回は済まないかも知れない。
なにしろ槙瀬さんは、榊さんとなら結婚してもいいと思っているのだ。この機に乗じて一気に話を進めるつもりだという可能性もある。もしもそんなことになったら……。
「いつも、クリスマスにわざわざ混んでるところに出かけるなんて面倒だって言ってたじゃない」
何も知らない榊さんが、笑顔でその話題を続けてしまう。
「うん、そうだな」
「気取ったレストランなんか好きじゃないって」
「今だってそう思ってるよ」
「ほらね?」
「でも、榊とならいいぞ」
「え?」
(本気か!?)
思わず槙瀬さんを凝視する榊さんと俺。
「ほらー、いいじゃん。行っちゃいなよ」