彼女が驚いたように俺を見上げる。

「どんなに小さなことでもいいんです。くだらないことでも。榊さんのために、何かしたいんです」
「あたしのために……?」
「はい」
「何かって……?」
「そうだなあ……、靴を履かせてあげるとか?」
「やだ、そんなの。いらない」

彼女がぞっとしたような表情をし、それからふたりで吹き出した。

「じゃあ、まずは練習しましょう」

意味が飲み込めずに、彼女は不思議そうに俺を見た。そんな彼女のバッグを取り、空になった彼女の手を俺の右腕につかまらせた。

「ほらね? これで、俺がちゃんと駅まで連れて行けますから、榊さんはぼんやりしてていいですよ」
「歩きにくいよ」

困った顔をして、彼女が言った。

「すぐに慣れます」

榊さんは疑わしそうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わずにそのまま歩いてくれた。

最初はおずおずとつかまっていた彼女の手は、次の曲がり角に着くころには、しっかりと、確かな手ごたえに変わっていた。その変化が、俺たちの関係が確かなものに変わっていく証のような気がした。

「あ、ねえ、紺野さん」

彼女が楽しそうに俺の顔を覗き込んだ。自分の体が俺の腕に触れていることも気にならない様子で。

「あたし、紺野さんを頼ったことがあるよ。ほら、先週、地下倉庫で。寺下さんを泥棒かと思ったとき」
「ああ。あはは、そうでしたね」

榊さんがあまりにも得意気な顔をしているのが可笑しい。自分が怖がったことをこんなに自慢げに言うなんて。

「ね? ちゃんと頼りにしてたじゃない?」
「ええ、そうですね」

そう答えてからふと思いついた。

「あそこにいたのが俺じゃなかったら、どうでしたか?」
「え? 離れてるよ、絶対に」

……と、答えてすぐ、彼女は慌てて手で口を塞いだ。そのまま驚いた顔をして、す……っと下を向く。

(あれれれ)

恥ずかしいんだ。

本音だったんだ。

“俺だから” なんだ。

たったあれだけのことを言っただけなのに、こんなに恥ずかしがるなんて。

一気に嬉しくなったけど、そこでもう一つの可能性が浮かんだ。

「榊さん」
「はい」
「俺じゃなくて、槙瀬さんだったら?」
「え? 槙瀬さん?」

真剣な顔で考える彼女。それから、そっと上目づかいに俺を見た。

「同じかな……?」
「どっちと?」
「……紺野さん」

だんだん声が小さくなって、最後には手が離れていく気配。それをしっかりと押さえてつかまえる。

「そうだと思いましたよ」

わざとらしくため息をついてみせると、彼女はなんとも申し訳なさそうな顔をした。

「だって、信用できるから……」

そんなふうに言い訳をされることも嬉しくなる。榊さんはやっぱり俺を一番だと思ってくれている!

「でも、腕を組むのは俺だけですからね」

一応、真剣な顔をして釘を刺す。彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

「大丈夫だよ。そんなことにはならないもん」
「約束ですよ?」
「……ん」

榊さんの困っていない恥ずかしそうな笑顔は最高に可愛い。しかも、こんな顔を見ることができるのは、世界中で俺一人なんだから!

俺の想いに応えて、彼女が一歩踏み出してくれた。その幸福感にゆったりと身を委ねた。