「わ、ひっく、分から……ない」

ちょっとがっかり。でも、諦めない。

「これは……嫌?」

握っている手を少し持ち上げて見せると、彼女はますます困った顔をして、首を傾げた。そして、答えはそれだけだった。

(嫌われてはいないようだけど……)

彼女は自分の気持ちが分からないのだろうか? 俺のことをずっと仲の良い同僚だと思っていたから、急に違うと言われて戸惑っているのか。

(あれ? でも……)

すぐ目の前にある彼女の手を見つめてみる。彼女はそれを拒否してはいない。

榊さんなら、いくら俺の状態に責任を感じているとしても、嫌なら嫌だと言うはずだ。上手に冗談めかして「何やってるの?」なんて笑って「ダメ」って。でも、手の向こうの榊さんは、ようやく止まりそうなしゃっくりの気配に、ほっとした様子で胸をたたいているだけ。

(もしかしたら)

「榊さん、好きです」

いきなり言ってみると、彼女がチラッと俺を見て、また困った顔をした。

(やっぱり恥ずかしがってるのか……?)

その考えは、妙に納得できた。

仕事中はほとんど慌てたり、困ったりすることがない榊さん。仕事以外でも、あの同窓会の話のほかではそんな顔を見せたことがなかった。

そしてまた、彼女の恋の話は一度も聞いたことがない。だから、そういう話で照れているところも見たことがない。

(だとしたら……。もしかしたら……)

榊さんは極度の恥ずかしがり屋なんじゃないだろうか。

「好き」なんていう言葉を口にすることはもちろん、嬉しくても、それを表すことができないのかも。そういうところを俺に見られることも恥ずかしくて。だからあんなに困っているんじゃないのか。

(だって、嫌がってはいないわけだし……)

そもそもここに来てくれた。責任を感じただけで、ただの同僚にここまでするだろうか?

よく考えたら、“男が苦手” っていうのは、それが原因なんじゃないか? 始まった時期だって、思春期と重なっている。男が苦手だという話をしたとき、榊さんは何て言ってたっけ?

(たしか、怖いわけじゃないって……)

どうしたらいいか分からないと言っていたかも知れない。それから……「恥ずかしい」って言葉が出たような……。

そして今は。

榊さんは嫌がってはいない。困った顔をしているだけ。ということは。

「俺じゃダメですか?」

そう尋ねながら、心の中に希望がふくらむのを抑えきれない。視線を落とし、心底困った様子で、彼女が小さな声で言う。

「そんなこと……ないけど……」

(なんだ。そういうことか!)

喜びが胸の底から湧いてくる。彼女の手を握る手に力がこもる。彼女は恋愛に関することが恥ずかしくて表現できないひとなんだ!

恥ずかしがり屋の榊さんと、ちょっとずつ、恋人として仲良くなる――。

これからのことを考えたら、とても楽しくなってしまう。しかも、俺は彼女にとって初めての彼氏だ。恋人同士のどんなことも、彼女にとってはすべてが初めてのことなのだ。

(初めてだなんて……)

急に、責任重大な気がしてきた。そして、とても神聖なことのようにも。同時に、なんだか俺まで恥ずかしい。

「榊さん」

彼女がおずおずと俺を見る。相変わらず困った顔で。

それが恥ずかしがっているからだと思うと、愛しさで胸がいっぱいになって、叫び出したいような気がする。

「よかったら、試してみませんか?」
「試す……?」
「榊さんが、俺でもいいかどうか」

彼女は少しのあいだ俺を見たまま考えて、「うん」と頷いた。そして、やっとほっとした様子で微笑んでくれた。どうやら、このくらいの言葉を使えば、恥ずかしがり屋の榊さんでもうなずくことができるらしい。

そのまま彼女を抱き締めたかったけれど、風邪をひいている身でもあるし、いきなりそれでは彼女がびっくりするだろうと思って我慢した。

安心したら眠くなってあくびをした俺に、榊さんは急に先輩みたいになって、

「勝手に帰るから、眠っていいよ」

と言った。言ってから、それでは鍵を開けたまま帰ることになると気付いて彼女は迷った。俺は玄関まで見送ることができないほどではなかったけれど、せっかくだから合い鍵を渡すことにした。

「お試し期間中はずっと持っててください」

彼女はまた困った顔をしたけれど、ちゃんとコクンと頷いてくれた。