「……はい」
(いったい何を?)
頬に当てられた手から、じんわりと温かさが伝わってくる。
(俺の気持ちが通じたのか……?)
奇跡が起こっているんじゃないかと、信じられない気持ちでいっぱいだ。次に彼女が何を言うのかと、潤んだ瞳を見つめる。
「手が冷たいよ。顔も」
「え……?」
自分の予想とかけ離れすぎていたせいか、何を言われているのか分からなかった。
「手袋は持ってないの? 傘は持って来た?」
「え……? え? あ、い、いいえ」
ようやく理解して首を横に振ると、榊さんがテキパキと動き出した。
「じゃあ、このストールを貸してあげる。首があったかいとかなり違うから」
「あ、ああ、はい」
彼女のストールが肩から首へと手際よく巻かれた。
「あと、この傘を持って行って」
「え、でも」
「大丈夫。あたしのうちはすぐそこだから」
「あ……、だけど……」
「ダメ。ピンク色だからってささないで帰ったりしちゃダメだよ。必ずちゃんと使って。分かった?」
まるで姉のような言葉づかい。そして、言われている俺は弟の気分。
「はい……」
「それから、帰ったらすぐにお風呂に入って」
「はい」
「体がちゃんと温まるまで出ちゃダメだからね」
「はい」
「よし。じゃあね」
うなずきながら俺を見上げた榊さんは、決意に満ちた顔をしていた。けれど次の瞬間、それが優しく、心配そうな表情に変わった。
「大丈夫? 風邪ひかない? 送って行こうか?」
「大丈夫です」
請け合うと、榊さんはもう一度うなずいた。
「分かった。じゃあ、早く行って」
「はい。おやすみなさい」
改札口を入って振り向くと、心配顔の榊さんが小さく手を振ってくれた。それに手を振り返し、ホームへの階段を上る。かじかんだ手がパスケースを上手くポケットに入れられずに何度も探る。
(言ってくれなかったな……)
彼女が見えなくなると、少しだけ淋しい気持ちが湧いてきた。やっぱり俺の行動の理由を尋ねてくれなかった、と。
(まあ、優しくしてもらえたからいいのかな……)
びっくりさせてしまったし。俺のことを心配してくれたのは間違いないし。うちに着いたら、無事に帰ったと連絡を入れた方がよさそうだ。
(うわ、寒い)
風が吹き抜けるホームに出たら、寒さが一層身に沁みた。頭の後ろがぞくぞくして、肩に力が入ったままだ。つま先にはまったく感覚がない。
(ダメだ。本当に冷えちゃったみたいだ)
首に巻かれたストールに頬を当ててみる。まだ彼女の温もりが残っているような気がした。
翌月曜日の朝、俺はしっかり風邪をひいていた。
起きたときにはのどが痛くて、つばを飲み込むのもやっと。声を出そうとしても、掠れた声しか出ない。なんとなく体も重い。
でも、俺が休んだら、榊さんはきっと自分を責めるだろう。何も悪くないのに。それに、傘とストールも返さなくちゃいけない。……と思って出勤したら、昼になる前に熱が上がってしまった。
朝から変な声だった俺が、赤い顔をして明らかに具合が悪そうになると、周囲が警戒した。隣の席の女性には
「うちには3歳児がいるのよ! あたしが風邪ひくわけには行かないんだから! 早く帰りなさい!」
と叱られた。係長にも
「無理すると、向こうの新人みたいになるぞ」
と諭された。榊さんの隣の新人は、結局一週間も休んでしまったのだ。
隣の席の女性が会社の近所の医者を教えてくれて、必ず寄ってから帰るようにと念を押された。反対する元気もなく、俺はうなずいて職場を出た。榊さんの方は、ずっと見られないままで。
帰ると思ったら、気が抜けたせいか、歩くのも辛くなった。医者はその場でインフルエンザの検査をしてくれて、結果は陰性だった。やっぱり、きのうの寒さが原因らしい。
電車で座ると、立ち上がるのが億劫だった。薬を飲むために買ったコンビニのサンドイッチは、のどの痛みと気持ちの悪さで3口くらいしか食べられなかった。とにかく薬を飲んで、着替えて、ベッドにもぐりこんだ。
目が覚めると、部屋が暗かった。解熱剤のせいなのか、汗をかいていた。ぼんやりした頭を動かすと、頭の上のあたりにふわりと光が見えた……と思ったら消えた。
(何だ? ……あ、スマホ?)
手を伸ばして枕元を探る。暗いのは日が暮れてしまったせいらしい。何時間もぐっすり眠っていたようだ。
(これのせいで目が覚めたのかな? 仕事で何かあったのかも…)
ぼんやりしたまま画面に触れる。そこには着信の知らせがあった。
(……え?)
表示された名前は『榊 琴音』。寝ぼけているのかと思ってもう一度見直してもそれは変わらず――。
(え? 今……だよな?)
着信時間は19時35分。つい1分前。たぶん、この気配で目が覚めたのだ。
(心配してくれたのかな?)
ふわふわした頭でそんなことを思って嬉しくなった。心配させたままじゃ悪いので、すぐに掛け直したほうがいい。
彼女はすぐに出た。そして、彼女の声を聞いて幸せな気分になっている俺に謝った。
『あの、ごめんね、具合が悪いのに。寝てたんだよね?』
「あ、いえ。大丈夫です」
しゃべるとのどが痛い。でも、帰ってきたときに比べれば、体が楽になった気がする。
『そう? あの……、具合、どうかな、と思って』
「ああ、まあ……それなりです」
『ええと……、ごめんね』
「え?」
『きのう、寒い中、ずっと待たせちゃって……』
(そうか。やっぱり……)
榊さんは、自分の責任だと思ってるんだ。純粋に俺を心配してくれたわけじゃない。
(いったい何を?)
頬に当てられた手から、じんわりと温かさが伝わってくる。
(俺の気持ちが通じたのか……?)
奇跡が起こっているんじゃないかと、信じられない気持ちでいっぱいだ。次に彼女が何を言うのかと、潤んだ瞳を見つめる。
「手が冷たいよ。顔も」
「え……?」
自分の予想とかけ離れすぎていたせいか、何を言われているのか分からなかった。
「手袋は持ってないの? 傘は持って来た?」
「え……? え? あ、い、いいえ」
ようやく理解して首を横に振ると、榊さんがテキパキと動き出した。
「じゃあ、このストールを貸してあげる。首があったかいとかなり違うから」
「あ、ああ、はい」
彼女のストールが肩から首へと手際よく巻かれた。
「あと、この傘を持って行って」
「え、でも」
「大丈夫。あたしのうちはすぐそこだから」
「あ……、だけど……」
「ダメ。ピンク色だからってささないで帰ったりしちゃダメだよ。必ずちゃんと使って。分かった?」
まるで姉のような言葉づかい。そして、言われている俺は弟の気分。
「はい……」
「それから、帰ったらすぐにお風呂に入って」
「はい」
「体がちゃんと温まるまで出ちゃダメだからね」
「はい」
「よし。じゃあね」
うなずきながら俺を見上げた榊さんは、決意に満ちた顔をしていた。けれど次の瞬間、それが優しく、心配そうな表情に変わった。
「大丈夫? 風邪ひかない? 送って行こうか?」
「大丈夫です」
請け合うと、榊さんはもう一度うなずいた。
「分かった。じゃあ、早く行って」
「はい。おやすみなさい」
改札口を入って振り向くと、心配顔の榊さんが小さく手を振ってくれた。それに手を振り返し、ホームへの階段を上る。かじかんだ手がパスケースを上手くポケットに入れられずに何度も探る。
(言ってくれなかったな……)
彼女が見えなくなると、少しだけ淋しい気持ちが湧いてきた。やっぱり俺の行動の理由を尋ねてくれなかった、と。
(まあ、優しくしてもらえたからいいのかな……)
びっくりさせてしまったし。俺のことを心配してくれたのは間違いないし。うちに着いたら、無事に帰ったと連絡を入れた方がよさそうだ。
(うわ、寒い)
風が吹き抜けるホームに出たら、寒さが一層身に沁みた。頭の後ろがぞくぞくして、肩に力が入ったままだ。つま先にはまったく感覚がない。
(ダメだ。本当に冷えちゃったみたいだ)
首に巻かれたストールに頬を当ててみる。まだ彼女の温もりが残っているような気がした。
翌月曜日の朝、俺はしっかり風邪をひいていた。
起きたときにはのどが痛くて、つばを飲み込むのもやっと。声を出そうとしても、掠れた声しか出ない。なんとなく体も重い。
でも、俺が休んだら、榊さんはきっと自分を責めるだろう。何も悪くないのに。それに、傘とストールも返さなくちゃいけない。……と思って出勤したら、昼になる前に熱が上がってしまった。
朝から変な声だった俺が、赤い顔をして明らかに具合が悪そうになると、周囲が警戒した。隣の席の女性には
「うちには3歳児がいるのよ! あたしが風邪ひくわけには行かないんだから! 早く帰りなさい!」
と叱られた。係長にも
「無理すると、向こうの新人みたいになるぞ」
と諭された。榊さんの隣の新人は、結局一週間も休んでしまったのだ。
隣の席の女性が会社の近所の医者を教えてくれて、必ず寄ってから帰るようにと念を押された。反対する元気もなく、俺はうなずいて職場を出た。榊さんの方は、ずっと見られないままで。
帰ると思ったら、気が抜けたせいか、歩くのも辛くなった。医者はその場でインフルエンザの検査をしてくれて、結果は陰性だった。やっぱり、きのうの寒さが原因らしい。
電車で座ると、立ち上がるのが億劫だった。薬を飲むために買ったコンビニのサンドイッチは、のどの痛みと気持ちの悪さで3口くらいしか食べられなかった。とにかく薬を飲んで、着替えて、ベッドにもぐりこんだ。
目が覚めると、部屋が暗かった。解熱剤のせいなのか、汗をかいていた。ぼんやりした頭を動かすと、頭の上のあたりにふわりと光が見えた……と思ったら消えた。
(何だ? ……あ、スマホ?)
手を伸ばして枕元を探る。暗いのは日が暮れてしまったせいらしい。何時間もぐっすり眠っていたようだ。
(これのせいで目が覚めたのかな? 仕事で何かあったのかも…)
ぼんやりしたまま画面に触れる。そこには着信の知らせがあった。
(……え?)
表示された名前は『榊 琴音』。寝ぼけているのかと思ってもう一度見直してもそれは変わらず――。
(え? 今……だよな?)
着信時間は19時35分。つい1分前。たぶん、この気配で目が覚めたのだ。
(心配してくれたのかな?)
ふわふわした頭でそんなことを思って嬉しくなった。心配させたままじゃ悪いので、すぐに掛け直したほうがいい。
彼女はすぐに出た。そして、彼女の声を聞いて幸せな気分になっている俺に謝った。
『あの、ごめんね、具合が悪いのに。寝てたんだよね?』
「あ、いえ。大丈夫です」
しゃべるとのどが痛い。でも、帰ってきたときに比べれば、体が楽になった気がする。
『そう? あの……、具合、どうかな、と思って』
「ああ、まあ……それなりです」
『ええと……、ごめんね』
「え?」
『きのう、寒い中、ずっと待たせちゃって……』
(そうか。やっぱり……)
榊さんは、自分の責任だと思ってるんだ。純粋に俺を心配してくれたわけじゃない。