あまりにも美化しすぎている? これも、自分が大人になったせいなのか。

もちろん、さっきのノート男の話は俺の勝手な想像に過ぎない。感傷的な悲恋物語。誰も幸せにならなかった。それとも、ノート男は彼女とずっと仲良くしていけたのだろうか?

でも、榊さんに大事なのは今、そして、これからだ。俺が彼女を幸せにする。

テーブルの上のスマートフォンに手を伸ばす。探すのは榊さんの名前。そして、迷わず発信。コール音が1回……、2回……。

『はい……、榊です』

探るような声。画面に表示された俺の名前をどんな気持ちで見たのだろう。

「こんばんば、榊さん」

警戒させないように、明るい声を出す。

『ええと、はい、こんばんは』
「今、何してるんですか?」
『え?』

(そうそう。急に電話してそんな質問するなんて、変ですよね?)

『ええと、テレビを見ていたところ……』
「そうですか」

そのまま言葉を切ってみる。榊さんは何て言う?

『あの……、紺野さんは何をしてるの?』

残念。「どうして?」って訊いてくれなかった。

「ビールを飲んでます」

テーブルの上の缶ビールを軽く振ってみる。まだ半分くらいは残っている。

『ああ。酔っ払ってるのね』
「はは、そうかも知れません」

(違いますよ、榊さん。俺はまだ酔ってません)

けれど、彼女は安心したようだ。俺が酔っ払って電話をかけたのだと思って。納得できる答えを見付けたから。

理由を尋ねてくれないのは悲しいけれど、せっかく酔っ払ったと思ってくれているなら、少し調子に乗ってもいいだろう。

「急に榊さんの声が聞きたくなって」
『あらまあ、それは光栄です。そういえば、去年までは毎日、隣の席で話していたんだものね』

ああ、まただ。彼女は理由を自分で見付けてる。

理由を見付けて、安心して。話題が核心に触れないように。

「そうですね。ちょっと禁断症状かも知れません」
『何言ってるの、違うでしょ? 本当は、彼女と別れちゃって淋しいんじゃないの?』
「そうかな?」
『そうだよ、きっと。だから早く誰かを見付けたらいいのに』

(俺が淋しくて榊さんに甘えてるから? 榊さんはそう思いたいんですね?)

その方が安心だから。今までの関係が壊れないように。

「そんなに簡単じゃないですよ」
『そんなことないよ。紺野さんなら、絶対に大丈夫』
「あはは、ありがとうございます」

(それは、相手が榊さんでも、ですか?)

とりとめのない話。

俺はときどき微妙な言い回しを混ぜ、彼女はそれにラベルを貼るように整理して片付ける。少し危うい、まるでもぐらたたきのような会話。

(それでいいです、今は)

心の中で密かに願う。電話を切ってからでいいから、と。

(俺のことをたくさん考えてください。そして……、その理由を考えてください)

榊さんに「どうして?」と言ってほしい。俺に理由を尋ねてほしい。

なぜなら……。

それが言えない榊さんは、きっと、心がいつかの時点で止まってしまっているから。心に垣根を張りめぐらして、そこに閉じこもったままでいるつもりだから。

榊さんが「どうして?」と尋ねるとき、榊さんの心がようやく解放されると思うから。


  * * *


同窓会までの最後の週は、機会を見付けては榊さんと言葉を交わしながら過ごした。

朝の駅、廊下、給湯室、社員食堂。長い時間ではないけれど、どこでも顔を合わせれば、俺は機嫌良く話しかけた。

榊さんはいつも楽しそうに応えてくれたけど、何度か戸惑いの表情を見せた。

俺はそれが嬉しかった。なぜならその戸惑いは、榊さんが俺の行動に疑問を持ってくれている、ということだから。けれども彼女は絶対に、「どうして?」とは尋ねなかった。

金曜の夜は、槙瀬さんと里沢さんも一緒に4人で飲みに行った。その席で槙瀬さんが榊さんを同窓会のことでからかい、にぎやかな壮行会みたいなものになった。

俺は久しぶりに、榊さんと槙瀬さんの仲の良いやり取りを見た。ポンポンとテンポの良い会話は、ふたりの遠慮のない関係を示していた。

槙瀬さんが榊さんとの結婚のことを話した意味が、今になってなんとなく分かる気がした。ふたりの間には、榊さんと俺との間にはないものがある。それを見せつけられると自信がなくなる。

(でも、俺は諦めない)

弱気になる自分に、何度も言い聞かせた。榊さんはまだ槙瀬さんに……、いや、誰にでも、決めたわけじゃない。今は俺だって、槙瀬さんと並んでるはずだ。

そして、とうとう日曜日。

(そろそろ集まってるのかな……)

朝からそわそわしていた気分が、夕方になってひどくなってきた。

何度時計を見ても、針はさほど変わらない場所を指している。このままだと、寝るまでに何百回も時計を見ることになりそうだ。

仕事に出ている日は忙しさで忘れている時間があるけれど、休日はそうはいかない。何をしていても、ずっと榊さんのことを考えてしまう。再会する榊さんとノート男のこと。そして、ノート男以外の男もいるということを、きのうになって思い出していた。

いくら榊さんが男が苦手でも、相手はそんなことは知らないのだ。社会に出てそれなりに自信を持って生活している男なら、気になる女性と話してみたいと思うのは当然だ。それは男女を問わず同じだろうけれど……榊さんはべつとして。だから、榊さんのところにやってくる男だって絶対にいるはずだ。