やっぱり音を立てる気になれなくて、静かにドアノブに力を込める。鍵が締まっていたとしても中を確認したい……と思ったと同時にドアノブが回りはじめた。ということは、榊さんはまだ中にいるってことだ。

ゆっくりとドアを引く。

頭が入るくらい開けて中をのぞくと、電気が点いていた。どこか奥の方で、カサ…、と、紙がこすれる音がした。乱れた荷物もないし、榊さんは無事らしい。

ほっ、と、体の力が抜けた。

左右にある何本もの棚にファイルや段ボールが詰め込んである倉庫は見通しが利かない。まずは声をかけようと思いながら、ドアを大きく開いた。

キィ…………。

ドアが軋む音。そのとき――。

「きゃああっ! なにっ!?」

悲鳴と、ドサドサッと何か重いものが落ちる音。

「榊さん!」

何か出たのだろうか? ゴキブリとかネズミとかクモとか、いや、もしかしたら悪いヤツが忍び込んでいて――。

「大丈夫ですかっ!?」

左右の棚のあいだを覗きながら急いで奥へ。すると、右側の奥から二つ目の棚のあいだの突き当たりに、壁に背中を押しつけて立っている榊さんがいた。足元には分厚いファイルが何冊か落ちている。

「怪我はありませんか? 大丈夫ですか?」
「こ、紺野さん……」

近付く俺を呆然と見ながら、俺の名前をつぶやく彼女。あまりの驚きに、微笑む余裕はないらしい。

「急に音がして……」

そこで彼女は言葉を切って、大きく息を吸う。

「怖かった……」

両手を胸に当てて、ほうっとため息をついた。

(もしかして、俺か……?)

さっきのドアの軋んだ音。彼女を怖がらせたのはあれだ。それしかない。

(そうだよな……)

そうっとドアを開けて、無言で覗いてたんだから。誰もいないと思っていた榊さんが驚くのは無理もない。それに、もし泥棒や変質者に間違えられても文句は言えない。

「すみませんでした」

謝りながら、彼女の足元に落ちていたファイルを拾う。

「戻ってくるのが遅いから、念のために見に来たんです」
「ああ、そうだったの。ありがとう」

ホッとした様子で彼女が微笑む。

「遡って見てたら、時間がかかっちゃった。本当はファイルを持って戻ろうと思ってたんだけど、意外に重かったから、ここで見ちゃおうと思って」
「そうだったんですか。どうしますか? せっかくですから俺が持ちますけど?」
「あ、いいの。もうだいたい終わり――」

榊さんが急に言葉を切った。

俺が抱えているファイルを受け取ろうとした彼女の指が、俺の指に重なっている。彼女は目を見開いて、俺を見上げた。

(榊さん……)

言葉を止めたまま、真剣な表情で俺を見つめる彼女。

薄暗い明かり。誰も来ない地下倉庫。重なった指。

いきなりやってきた沈黙の中で、「もしかしてチャンスなのか?」と心が踊る。ドキドキし始めた鼓動を落ち着けようと、深く息を吸い込む。

「さか――」
「しいっ」

口元で人差し指を立てる彼女。つられて俺も息をひそめると――。

「足音がする」

彼女がこっそりと囁いた。

息をひそめて耳を澄ますと、確かにコツ…、コツ…、コツ……と、歩く音がする。ゆっくりと、そして静かに。

「こっちに来る……?」

俺の言葉に彼女がコクンとうなずいた。それから俺が抱えているファイルを1冊づつ取って、素早く棚に戻す。ほとんど音を立てずに。

コツ……。

足音が止まり、一瞬ののち、ガチャガチャッと、金属質の音がした。

(ドアを開けようとしてる……?)

方向と音の大きさ的には1番倉庫だと思う。何が起きているのかよく分からないまま、榊さんと顔を見合わせる。

コツ…、コツ…、コツ…、コツ……。

再び足音。明らかに近付いて来る。

通路側に移動し、棚越しに、荷物の隙間からドアの方を窺う。薄暗い倉庫に聞こえてくる足音。その急がないテンポに背筋がゾッとする。

コツ…、コツ…、コツ…、コツ……。

(止まった)

ガチャ。ガチャガチャ、ガン!

乱暴な音に心臓が大きく飛び跳ねた。

音はさっきよりも近い。2番倉庫だ。ドアを開けようとしているのは間違いないらしい。

背広の袖と背中をギュッとつかまれた。背中がじんわりと温かい。いつの間にか榊さんが背中にしがみついていたのだ。

「ど、どろ、ぼう……?」

かすれた声で榊さんが俺に訊いた。

「まだ分かりません」

ドキドキしているのは彼女のせいか、それとも足音のためか。もし危険人物だったら、俺は彼女を守れるだろうか?

(俺が相手を抑え込むことができれば、そのあいだに榊さんは逃げられるかも知れない)

笑顔か言葉で安心させてあげたいけれど、今の心境ではちょっと無理だ。廊下には再び一定のリズムの足音が……。

コツ…、コツ…、コツ…、コツ……。

(来る)

榊さんの手に力が入ったのが分かった。俺は庇うように、左手を後ろにまわした。

コツ…、コツ…、コツ…、コツ……コツ。

(止まった)