榊さんに「さよなら」を言った記憶がない。
乗ったあと……寝ちゃったのか? シートベルトで固定されたら気持ちが良かったのは確かだ……。
そうだ。アパートの近くのコンビニで起こされた。運転手さんに「ここでいいです」って言ったのを覚えている。あのときは不思議に思わなかったけど、榊さんが伝えておいてくれたに違いない。庶務係のときに、緊急時のために係員の住所や電話番号はお互いに控えておいたから。
(お金を払った記憶はあるな)
そうだ。確か九百二十円。千円札を出して、「お釣りはいりません」って――。
九百二十円……?
安すぎる気がする。
あの店はうちの会社から一駅。あの辺でタクシーに乗ったら、そんな金額では済まないはずだ。
(え? もっと払ってるのか?)
財布を確認しようと動いたら頭が痛い。でも、それどころじゃない。俺が本当に九百二十円しか払っていないとしたら……。
(一万円札が1、2枚。千円札が……6枚)
食事の支払いのときは俺が払って、榊さんに千円札でもらった。あのとき、“千円札がいっぱいになったなあ” と思ったのが、確か……七千円。
(ってことは……)
やっぱり、タクシーでは千円札1枚しか出してないってことだ。つまり、残りは榊さんが……。
(そんなーーーーーー!!)
酔っ払ってタクシーに乗せてもらって、そのまま眠って、お金まで余分に出してもらうなんて!!
「ああ……」
思わずその場に座り込んでしまった。あまりにも格好悪くて、挽回のしようがない気がする……。
こんなはずじゃなかったのに。
俺のことを見直してほしかった。
俺を必要な存在だと思ってほしかった。
なのに。
(とにかく謝らなくちゃ)
そもそも、榊さんが食事に誘ってくれたのだって、俺を元気付けるためだ。そうやって気を遣ってもらったのに、飲み過ぎた上に、タクシー代まで出させるなんて!
(そうだ。シャワーを浴びよう)
謝るにしても、酒臭かったらどうしようもない。彼女は匂いに敏感で、二日酔いで顔を出した人にこっそり顔をしかめているのを何度か見た。
とにかく小奇麗にして、見た目だけでも清々しく――。
「うっ……」
動くと頭が痛い。歩くのが辛い。
こんなみっともない状態で出勤するよりも、休んだ方がいいのか? いや、でも、ほかの人たちはいいにしても、榊さんは、俺が二日酔いで休んだのだと気付くだろう。
嫌だ。そんなの絶対に。
榊さんには知られたくない。これはプライドの問題だ。
何がなんでも行く。そして謝って、お金を返さなくちゃ。
気合を入れて立ち上がると、気分が悪いとか、酔いが残っている感じはなかった。あるのは頭痛と喉の渇きだけ。飲み終わりが早かったから、まだ良かったんだろう。
(よし。大丈夫だ)
2リットル入りのペットボトルを冷蔵庫から出し、痛む頭をかかえてバスルームに向かった。
とにかく朝一番で謝りたい。家を出るころには、頭痛も薄らいできたのでほっとした。
反省していることを示すため、榊さんよりもだいぶ早く出勤した。ほかの社員に怪しまれないようにウロウロした末に、到着した榊さんをカウンターの前でつかまえることができた。そのまま物陰に引っ張って行き、深く深く頭を下げる。
「きのうはすみませんでした」
「え、やだ、そんな。謝らないでよ」
榊さんが慌てて俺を遮る。
「いいえ。本当にすみません。あの、タクシー代出してもらっちゃってますよね? 俺、払います」
そう言って、榊さんが出した金額を訊いたのに、最初は笑って教えてくれなかった。しつこく尋ねてようやく「五千円」と答えてくれて、さらにやっと「三千円だけ」と、受け取ってくれた。俺のせいでタクシーに乗ることになったのだから、全額出したかったのに。
恐縮する俺に、榊さんがいつもと同じように爽やかに微笑む。
「楽しかったからいいんだよ。お料理も美味しかったし、そもそも “景気付け” って言ったじゃない?」
笑いながらそう言った榊さんは、まるで俺をあやしているみたいに見える。落ち込んでいる俺を慰めようとしているように。そんなことをされている自分が、ますます情けなくなる。
「でも、榊さん、途中で飲み過ぎじゃないかって言ってくれましたよね?」
「あはは、そうだったね」
「なのにまっすぐ歩けないほど酔っ払って、タクシーに乗せてもらうなんて……」
「たまにはいいじゃない? そういうことがあっても」
「でも……、榊さんに世話をかけっぱなしで」
「そんなこと」
「ふふっ」と笑って、榊さんは言った。
「気にしないで。あたしも気にしてないから」
――気にしてない。
ズキン、と、胸が痛んだ。悲しさとやり切れなさが入り混じる。
下を向いて黙っている俺を榊さんが覗き込んだ。優しく、元気付けるような笑顔で。親切な先輩の顔で。
「誰だって飲みすぎちゃうことだってあるでしょう? だから――」
「どうしてですか?」
「……え?」
榊さんかが不思議そうな表情をして言葉を切った。
「どうして怒らないんですか?」
「え、あの……?」
榊さんが戸惑っていることが分かる。その戸惑いそのものが、俺を傷付ける。
「俺がどんな失敗をしようと関係ないってことですか?」
「いえ、そ――」
「俺には期待してないってことですか?」
まっすぐに榊さんを見つめて言い切った。
俺の言葉と視線を受けて、榊さんは、どうしたらいいのか分からない、という表情をしていた。
(俺に言いいたいことなんかないんだ。俺のことなんかどうでもいいから)
苦々しい気持ちで視線をはずす。
「すみませんでした」
返事を待たずに自分の席に戻った。