タクシーの後ろの座席に落ち着くと、榊さんが自分の家を運転手に告げた。
「そこからもう一軒、行ってもらいますので」
と付け加えたのが聞こえて、俺を家に入れてくれるわけじゃないと分かってちょっとがっかり。ところが。
座席に寄り掛かっていた俺をちらりと見た榊さんが、何も言わずに身を乗り出してきた。
(え? ちょっと)
片手を俺の肩にかけ、体が触れそうなくらい近くに。
「あの……?」
「ああ、動かなくていいから」
「……はい」
(キスしてくれるんだ。酔った勢いでこんな……)
運転手さんの視線が気になる。でも、止めるなんて気はまったくない。近づいてくる彼女の顔に胸が高鳴る。息がかかりそう――。
「よいしょ」
ぐっと肩の手に力がかかったかと思うと、彼女の横顔が目の前で止まった。俺を通り越して伸ばされた手が何かを引っ張る。
(???)
たちまち彼女は体を戻し、俺たちの間の座席を探る。そして、カチャッという音。
(なんか……安定感が)
不思議に思いながら自分の体を見下ろすと、しっかりとシートベルトが掛けられていた。
(そんな……)
期待と現実のギャップが大き過ぎる!
がっかりした気持ちを訴えたくて彼女の方を向いたら、ちょうど自分のシートベルトをし終えたところで、俺ににっこりと微笑んだ。
「酔っ払ってると危ないからね」
「そうですね……」
これじゃあ、肩に寄り掛かることもできないじゃないか……。
* * *
(寒い……)
気が付くと、ベッドの上に寝ていた。
ぼんやりした頭で自分の姿を確認すると、パジャマはちゃんと着ている。枕元の時計は4時30分。
(なんか、寝るときは暑いような気がして……)
ベッドの足もとに蹴飛ばしてあった布団を引っ張り上げて、その中で丸くなる。
(きのうは楽しかった……)
少しずつ温まってくる布団にほっとして、すうっと意識が遠のいた――。
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ…………。
(朝……だ)
目覚まし時計に手を伸ばす。頭の上を探り、さわった時計をつかむ。
(うるさい……)
朝が弱い俺にとって、目覚ましの音がうるさくて不快なのは必要なことではあるけれど。
(………)
止まった目覚ましを枕元に戻して、こんどは天井を見たままぼんやりする。こうやって体と頭を “起きる” という方向に向ける時間も、俺には必要だ。
深呼吸や伸びをするうちに、少しずつ体と頭が目覚めていく。布団から手や肩を出して空気に触れて、カーテンの隙間から入る光に朝を感じ……。
(?)
散らかった自分の服が目に入った。
(あれ……?)
スーツやワイシャツ、ネクタイ、カバン……。まるで、だらしない生活の見本のようだ。
(あんな状態だったっけ……?)
昨夜のことは忘れていない。ちゃんと風呂に入った記憶もある。今だってパジャマを着てベッドにいる。でも、気分が良かった分、片付けが面倒になっちゃったのかも知れない。
(片付けなくちゃ……)
ぐっと身を起こす。その途端。
「う……」
思わず声が出て、ドサリとベッドに逆戻り。
頭が痛い……。
頭の芯がずーんと重いような、それでいて刺されているような痛み。
(うそだろ……?)
“二日酔い” という言葉が浮かんでくる。そんなものは打ち消したいのに、頭の痛みがそれを許してくれない。
(そんなの嫌だ!)
二日酔いになったのはたった2回だけ。どちらも学生のときだ。
なのに、3回目が榊さんと一緒の日だなんて、絶対に信じたくない。榊さんと出かけて、そんなになるまで飲んだなんて!
絶対に、絶対に、榊さんには知られたくない! こんなこと知られたら、俺の信用ガタ落ちだ!
動くと痛い頭を無視しようと努力しながら起き上がる。服を片付け、ミネラルウォーターを注いだグラスを手にソファに腰掛けると少し落ち着いた。
(本当にそんなに飲んだのか……?)
ワインを2本頼んだのは覚えてる。食前酒も一杯飲んだ。あと、榊さんがデザートを頼んだときに、デザートワインとかいうものを一緒に頼んで。
(もしかしたら……)
あの2本のワインは、俺がほとんど飲んだのかも知れない。榊さんはペースが遅かったのかも。だから途中で「大丈夫?」って言われたんだ。
(浮かれてたからな……)
自分の言動をたどってみる。
夕方、誘われたときから、すでに浮かれていたのは間違いない。仕事も頑張って片付けて、一緒に職場を出て、一駅電車に乗って、食べたのはパエリアと総菜がいくつか。話題は、最近開拓したランチを食べる店や、里沢さんから聞いた係長の苦労話、その他。
(うん。ちゃんと覚えてる)
記憶が欠けているところはなさそうだ。そこまで深酒したわけじゃない……よな?
それから。
店を出たのは10時半を過ぎていた。で、夜の道を並んで歩いて。
(いい雰囲気だったよなあ……)
幸せな気分がよみがえる。
酔っ払った俺をからかっていた榊さん。楽しそうにくすくす笑って、自分が酔っているからという理由をつけて、俺をタクシーに乗せたのだ。
(ああいうところは、さすがだな……)
機転が利くって言うか、優しいっていうか。まあ、俺がみっともないけど。でも、ちゃんと覚えてるぞ。
(そうだ)
タクシーに乗ってすぐ、キスしてくれるのかと思ったら、シートベルトでがっかりだった。せっかくあんなに近かったんだから、「動かないで」って言われても、動いちゃえばよかったな。
(……あれ?)