「月末じゃなくても経理課は忙しいよね」

紅茶のティーバッグを捨てながら、榊さんは微笑んだ。そんな動きでさえ無駄がなくてスマートに見えるから不思議だ。

「そういえば、聞いたよ、槙瀬(まきせ)さんから」

ツツツと近寄って、少し小声で囁かれた。

槙瀬さんというのは榊さんの同期入社の男性社員で、よく一緒に飲みに行くメンバーの一人。槙瀬さんと榊さん、今年係長になった里沢さんという女性、そして俺、という4人が “内輪” と言えるくらいの関係だ。

槙瀬さんは、入社の前に2年間フリーターをしていたという経歴の持ち主で、榊さんよりも2歳年上。俺とは4歳違う。フリーター時代には土木作業員、選挙事務所、塾の講師など、さまざまな仕事を経験している。そのせいか、型にとらわれない豪快な雰囲気のある人だ。俺にとっては兄貴分的な存在で、俺はこの人のことも、とても信頼している。

「彼女と別れちゃったんだって?」
「あ。もう聞いたんですか?」
「うん。お昼休みにすれ違ったときにね」

昨日、居酒屋でその話をしたときに、榊さんにも伝わることは分かっていた。と言うか、もともと榊さんも一緒に行くはずだったのが、急な仕事で来られなくなっただけ。

「もったいないなあ。長い付き合いだったんでしょ?」
「まあ、そうですけど……」

俺が大学4年、彼女が大学3年だったんだから、まる4年だ。

「どうして?」

こういうストレートな質問も、榊さんの特徴かも知れない。

プライベートなことを質問されると答えたくない相手もいるけれど、榊さんだと何故か平気だ。たぶん、興味本位じゃないから、だと思う。ただ単に、本気で “どうして?” と思っているのが分かるから。榊さんを直接知らない人には上手く説明ができないけど。

「何て言うか……、子どもだからです」
「え、子どもって……」

榊さんが「ふふっ」と小さく笑う。もしかしたら、俺のこともそう思っているのかも。

「だって、蛍光灯が切れたから替えに来てくれって言うんですよ?」

別れるきっかけになったのはこれだった。

「可愛いじゃない? 紺野さんに会いたかったんじゃないの?」
「そうかも知れないけど、忙しくて行けないって言ったら、怒り出すんですからね」
「怒っちゃダメなの?」

カップの紅茶を飲みながら、榊さんがからかうように俺を見る。耳に掛けた髪の毛の先がくるくると、ほっそりした首にかかっている。それを見るといつも、くすぐったくないのだろうかと思ってしまう。

「だって、向こうだってもう社会人3年目ですよ? 仕事が忙しいときは分かってくれないと」
「そう?」
「そうですよ。それに、蛍光灯が切れたくらいで彼氏を呼ぶなんて、榊さんはやりますか?」

その質問に、榊さんがくすくす笑った。榊さんに笑われると、俺はいつも怒るのを続けられなくなる。怒ることがくだらないことに思えてしまうから。重苦しい気分が爽やかな風でふわりと散らされてしまうような感じなのだ。

「いないもん、彼氏なんて」
「いたとしたら、ですよ」
「うーん、やらないかな。面倒くさいもん。自分でやる方が早いし」

彼女の答えは俺の予想した通り。

「そういうことですよ。いつまでも甘ったれなんです。もう大学生じゃないのに」
「厳しいね」

今度は少し悲しそうな顔をされた。

別れた理由は、本当はこれだけじゃない。今回は決心に至ったというだけで、別れることは、今まで何度か考えて来た。長く付き合っている間に、少しずつ考え方も変わり、お互いの理想も変わり……。

「なんだか残念」

榊さんが小さくため息をつく。

「はは、榊さんがしょんぼりすることはないじゃないですか」

これじゃあ、どっちが恋人と別れたんだか分からない。

「そうかも知れないけど……」

ぼんやりとつぶやいてから、彼女が首を傾げながら俺を見た。少し微笑んで、少し悲しげに。

「辛かったでしょう、そういう話をするのは?」
「あ、まあ……」

急に、別れる決心をしたときの気持ちがよみがえった。これ以上はダメだと分かっても、それを口に出すのは簡単ではなかった――。

と、榊さんが今度はにこっと笑った。その気楽な様子の微笑みに、肩の力がふっと抜ける。

「お疲れさまでした」
「あ、いえ」

深々とお辞儀をされて、ちょっと慌ててしまう。

「あたしにはそういう苦労がないから有り難いわ。うふふ。じゃあね」

彼女はさらりとそう言うと、小さく手を振って給湯室から出て行った。その姿が見えなくなると、なんだかすっきりした気分になって、一人でコーヒーをいれながら鼻歌を歌ってみたりした。

榊さんは、こういう人だ。