その日は早く家に帰った。

電車の中、夕食、風呂、洗濯。一通りの作業が終わるまで、榊さんのことは考えないようにした。そして、ついに何もすることがなくなると……榊さんと槙瀬さんの姿が頭に浮かんできた。

ためらいなく肩に掛けられた手。それに驚いたり、身を引いたりしなかった榊さん。

(あれは……何でもないんだ)

前方から人が来たって知らせただけ。そう言い聞かせてみても、その直後に「だけど」と思ってしまう。

ふたりの自然な態度は……。

(俺は………)

榊さんのことが好きなのか?

いつから?

それは本当に愛情なのか?

どうやったら分かるんだろう?

俺がこんなに変な気分になったのは、槙瀬さんの「結婚しても」を聞いてからだ。それまでは、話したり、飲みに行ったりできるだけで満足だったのに。

もしかしたら、ふたりが結婚する話を聞いたことで、仲間外れにされそうなことを気にしているのかも知れない。だとしたら、それは友情だ。

だけど……。

分からない。

(そうだ。たとえば)

ふたりが結婚しても、今までどおりに付き合えるとしたら?

それは十分に有り得る。ふたりとも、そういう性格だと思う。それに、あのふたりの組み合わせだと、他人の前でベタベタするようなカップルにはならないはずだ。

(……他人の前では)

じゃあ、ふたりきりのときは?

そう思った途端、頭が混乱した。心臓が縮むような気がして、息が苦しくなって――。

(嫌だ! 考えたくない!)

落ち着こうとしても、頭がクラクラして息苦しい。自分がこんなに動揺していることに、自分でびっくりしてしまう。

(なんで?)

気持ちを落ち着けるために、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してグラスに注いだ。そこで手が震えていることに気付いて、ますます不安になってしまう。

立ったまま一気に水を飲む。

深呼吸をしてみたら、また食堂でのふたりの姿が頭に浮かんできた。同時にそのときの気持ちもよみがえる。

(俺だって)

グラスをきつく握った手を流し台の縁に乗せる。

目を閉じて、大きく息を吸って……と思うけど、胸が苦しくて、吸い込む息がとぎれとぎれになってしまう。何度も呼吸を繰り返しても、胸の痛みは消えなくて……。

(俺だって……!)

心が叫ぶ。

苦しくて、これ以上閉じ込めておけない。想いがあふれてくる。

榊さんの隣にいたい。ふたりで話して、微笑み合いたい。彼女をエスコートしたい。俺を特別な目で見てほしい。俺だけを。

俺だけを……。

(榊さん……)

心の中で呼びかけてみる。

(俺ではダメですか?)

(年下だからダメですか?)

(俺は頼りになりませんか?)

目を閉じたまま、じっと、胸の痛みが引くのを待った。

ようやくふわりと力を抜くことができて目を開けると、流し台の銀色と握っているグラスの透明な輝きが目に入った。そのシンプルな色と輝きが、不思議に心を静めてくれる。ぼんやりと見ているうちに、心の中の想いが、次第に形を成してくる。

――俺だっていいはずだ。

その言葉が、体中に沁み込んでいく。空気のように軽く。指先の細胞一つひとつまでをも満たすように。

――なんで悪いことがある?

俺は榊さんの近くにいる。ほかの男たちよりもずっと近くに。槙瀬さんとだって、それほどの違いは――。

(そうだ。あのとき……)

槙瀬さんの言葉を思い出した。結婚のことばかり気になっていて、その後ろに忘れていた言葉。

「榊が自分自身でいられる男は、紺野と俺くらいだからな」

あのときの槙瀬さんは、それまでと違ってしんみりとした様子だった。榊さんを思いやる気持ち……だろうか。

結婚のことも、あの場ではあんな言い方をしたけれど、本心では榊さんを愛しているのかも知れない。だけど……。

譲れない。

俺は納得がいかない。

槙瀬さんはあのとき、榊さんの結婚相手は「誰でもいい」と言った。もちろん “榊さんがいいと思うなら” という条件付きだけど。

あのとき、俺は自分が納得できないのは何故だろう、と思った。今ならその理由が分かる。槙瀬さんが、焼きもちを焼かなかったからだ。

誰かほかの候補者が現れても、榊さんがいいと思うなら構わない、と言った。俺に、「お前なら大丈夫だ」とも。

自分で「結婚してもいい」と言っておきながら、榊さんがほかの誰かを選ぶのは平気なんだ。槙瀬さんの、榊さんに対する愛情はその程度なんだ。

そんな人に負けたくない。

槙瀬さんと榊さんは、確かに俺よりも長い付き合いだ。でも、俺だって3年間、隣同士で仕事をした。話をした時間は、2年早く知り合っている槙瀬さんよりも、俺の方が多いはずだ。それに、恋人としての気持ちなら、絶対に俺の方が強いって自信を持って言える。

(うん。そうだよ。間違いなく)

俺は榊さんのことが好きだ。

榊さんに、俺のことを好きになってほしい。俺だけを見てほしい。手を触れる権利を、俺だけのものにしたい。

(……よし)

決めた。

榊さんに俺を選んでもらう。

俺を特別な相手として認めてもらう。

――明日から。

絶対に、絶対に、槙瀬さんには渡さない。