月曜日の朝。
駅の改札口で榊さんを見かけた。茶色のジャケットに辛子色のスカート、白っぽいストール、茶色の靴。大きめの黒いバッグを肩にかけて、颯爽と歩いて行く。真っ直ぐに前を向き、歩くリズムで髪が揺れる。
「榊さん。おはようございます」
駅前の信号で追い付いて声をかけた。振り向いた彼女が俺を確認して笑顔になる……のがいつものことだったのに。
「ああ、紺野さん。おはようございます」
声を掛けたのが俺だと気付いた榊さんは、いつものようには微笑まなかった。微笑むことはしたけれど、それはどこか憂うつそうで……。
(これって……)
一つの可能性が、心に小さな期待の火花を散らす。
俺に相談してくれるだろうか? 愚痴でもいいから、打ち明けてくれるだろうか?
「元気がないですね。何かあったんですか?」
気遣う一方で、妙に嬉しくて胸が躍る。浮かれている自分を叱ってみても効果がない。
榊さんが少し情けない顔で俺を見た。
「まあ、ちょっとね」
一言だけ言って、軽くため息をつく。
「はは、月曜日から疲れていたら、一週間持ちませんよ?」
(「ちょっとね」で終わりか……)
がっかりした。でも、仕方がない。
無理に聞き出すなんて失礼だし、やっぱり、榊さん自身が話そうと思ってくれないと意味がない。
「そうだよね……」
榊さんは、もう一つため息。そして。
「きのうの夜にね、北海道の友達から電話がかかってきて」
(やった!)
弾む心を隠し、気遣う気持ちだけを表に出す。
「ああ……、同窓会の話ですか?」
「うん、そう」
またため息。
「なんかね、彼女はすごく楽しみにしてて、それを聞いていたら “もうすぐなんだー” って実感が湧いてきちゃって……」
「ああ、それで憂うつなんですか」
「そう」
これほど悩んでしまうなんて、ほんとうに気の毒だ。なんとか力になってあげたい。だけど、何ができる?
……今は、話すことくらいしかない。
「何か気晴らしでもしてきたらどうですか?」
「気晴らし?」
「いつだったか、スポーツジムに通うって話をしてましたよね?」
「ああ……、無料体験で行ったんだけどね……」
「どうでした?」
俺の質問に、彼女がすすっと近付いてきた。そして小声で。
「インストラクターが若い男の人で、びっくりしてやめちゃった」
「え」
思わず顔を見てしまった。彼女は気まずそうに視線を逸らした。
「そういう人も……ダメなんですか?」
そっと尋ねると、彼女は頷いた。
「ダメ。無理だった」
(ダメなのか……)
そうなると、苦手な対象の年齢がどうのという話ではなくなる気がする。それに、スポーツクラブのインストラクターがダメだとなると?
「もしかして、男の美容師とか……?」
「ああ、それもダメ」
「でも、最近は多いですよね?」
「そうなんだよね。親しげに話しかけてくる人が多くて、ホントに困っちゃうの」
「ああ……」
美容師って、“話すのも仕事のうち” みたいなところもあるような気がする。でも、榊さんには苦痛の時間なんだ……。
「男の人に髪を触られるのも、なんとなく嫌なんだよね」
「はあ」
「あと、デパートの靴売り場の男の人とか」
「え? 靴売り場ですか?」
「そう。履くのを手伝ってくれそうになるんだよ」
「へえ……」
結構ダメな場面が多いじゃないか。それに、デパートの店員なんて、若い人だけじゃないのでは?
「じゃあ……、もしかしたら整体なんかは……?」
「そんなのあり得ないよ! 体を触られるとか、絶対に嫌」
「そうですか……」
俺の隣の席の女性は、疲れるとマッサージに行っている。気持ちが良くて、いつも眠ってしまうと言っているけど、榊さんには「あり得ない」……。
「大変ですね……」
「え? べつに行かなければいいだけのことだから」
そう言って、榊さんはふふっと笑った。
(そりゃそうかもしれないけど……)
隣を歩く榊さんをこっそりと見ながら考えてしまう。恋人ができたらどうなのだろう、と。
(手をつないだり、腕を組んだりすることも嫌なのかな……?)
そんなことを考えたら、彼女の手が気になって、やたらと落ち着かない気分になってしまった。
その日の午前中は、ずっといい気分で仕事に集中できた。きっと、榊さんが打ち明け話をしてくれたからだと思う。
あれは、俺だけしか知らない秘密。榊さんがあのことについて話せるのは、俺一人。そう思うと、充実した気分になる。
今日は槙瀬さんが言っていたことも気にならない。たぶんあれは、槙瀬さんお得意の冗談だったのだろう。
ところが。
(あれ?)
その日の昼休み、社員食堂で榊さんと槙瀬さんを見た。
俺は一人で行って、同期の茂田を見付けて隣に座っていた。注文カウンターの方を向いて座っていたので、話しながらそちらに向かうふたりの後ろ姿が目に入った。
榊さんは、朝見た辛子色のスカートにベージュのカーディガンを羽織っている。隣の槙瀬さんは、暑いのか、話しながらワイシャツの袖をめくっている。後ろに手を組んだ榊さんが、からかうように槙瀬さんに話しかける横顔が見えた。それに答えて、槙瀬さんが笑っている。
駅の改札口で榊さんを見かけた。茶色のジャケットに辛子色のスカート、白っぽいストール、茶色の靴。大きめの黒いバッグを肩にかけて、颯爽と歩いて行く。真っ直ぐに前を向き、歩くリズムで髪が揺れる。
「榊さん。おはようございます」
駅前の信号で追い付いて声をかけた。振り向いた彼女が俺を確認して笑顔になる……のがいつものことだったのに。
「ああ、紺野さん。おはようございます」
声を掛けたのが俺だと気付いた榊さんは、いつものようには微笑まなかった。微笑むことはしたけれど、それはどこか憂うつそうで……。
(これって……)
一つの可能性が、心に小さな期待の火花を散らす。
俺に相談してくれるだろうか? 愚痴でもいいから、打ち明けてくれるだろうか?
「元気がないですね。何かあったんですか?」
気遣う一方で、妙に嬉しくて胸が躍る。浮かれている自分を叱ってみても効果がない。
榊さんが少し情けない顔で俺を見た。
「まあ、ちょっとね」
一言だけ言って、軽くため息をつく。
「はは、月曜日から疲れていたら、一週間持ちませんよ?」
(「ちょっとね」で終わりか……)
がっかりした。でも、仕方がない。
無理に聞き出すなんて失礼だし、やっぱり、榊さん自身が話そうと思ってくれないと意味がない。
「そうだよね……」
榊さんは、もう一つため息。そして。
「きのうの夜にね、北海道の友達から電話がかかってきて」
(やった!)
弾む心を隠し、気遣う気持ちだけを表に出す。
「ああ……、同窓会の話ですか?」
「うん、そう」
またため息。
「なんかね、彼女はすごく楽しみにしてて、それを聞いていたら “もうすぐなんだー” って実感が湧いてきちゃって……」
「ああ、それで憂うつなんですか」
「そう」
これほど悩んでしまうなんて、ほんとうに気の毒だ。なんとか力になってあげたい。だけど、何ができる?
……今は、話すことくらいしかない。
「何か気晴らしでもしてきたらどうですか?」
「気晴らし?」
「いつだったか、スポーツジムに通うって話をしてましたよね?」
「ああ……、無料体験で行ったんだけどね……」
「どうでした?」
俺の質問に、彼女がすすっと近付いてきた。そして小声で。
「インストラクターが若い男の人で、びっくりしてやめちゃった」
「え」
思わず顔を見てしまった。彼女は気まずそうに視線を逸らした。
「そういう人も……ダメなんですか?」
そっと尋ねると、彼女は頷いた。
「ダメ。無理だった」
(ダメなのか……)
そうなると、苦手な対象の年齢がどうのという話ではなくなる気がする。それに、スポーツクラブのインストラクターがダメだとなると?
「もしかして、男の美容師とか……?」
「ああ、それもダメ」
「でも、最近は多いですよね?」
「そうなんだよね。親しげに話しかけてくる人が多くて、ホントに困っちゃうの」
「ああ……」
美容師って、“話すのも仕事のうち” みたいなところもあるような気がする。でも、榊さんには苦痛の時間なんだ……。
「男の人に髪を触られるのも、なんとなく嫌なんだよね」
「はあ」
「あと、デパートの靴売り場の男の人とか」
「え? 靴売り場ですか?」
「そう。履くのを手伝ってくれそうになるんだよ」
「へえ……」
結構ダメな場面が多いじゃないか。それに、デパートの店員なんて、若い人だけじゃないのでは?
「じゃあ……、もしかしたら整体なんかは……?」
「そんなのあり得ないよ! 体を触られるとか、絶対に嫌」
「そうですか……」
俺の隣の席の女性は、疲れるとマッサージに行っている。気持ちが良くて、いつも眠ってしまうと言っているけど、榊さんには「あり得ない」……。
「大変ですね……」
「え? べつに行かなければいいだけのことだから」
そう言って、榊さんはふふっと笑った。
(そりゃそうかもしれないけど……)
隣を歩く榊さんをこっそりと見ながら考えてしまう。恋人ができたらどうなのだろう、と。
(手をつないだり、腕を組んだりすることも嫌なのかな……?)
そんなことを考えたら、彼女の手が気になって、やたらと落ち着かない気分になってしまった。
その日の午前中は、ずっといい気分で仕事に集中できた。きっと、榊さんが打ち明け話をしてくれたからだと思う。
あれは、俺だけしか知らない秘密。榊さんがあのことについて話せるのは、俺一人。そう思うと、充実した気分になる。
今日は槙瀬さんが言っていたことも気にならない。たぶんあれは、槙瀬さんお得意の冗談だったのだろう。
ところが。
(あれ?)
その日の昼休み、社員食堂で榊さんと槙瀬さんを見た。
俺は一人で行って、同期の茂田を見付けて隣に座っていた。注文カウンターの方を向いて座っていたので、話しながらそちらに向かうふたりの後ろ姿が目に入った。
榊さんは、朝見た辛子色のスカートにベージュのカーディガンを羽織っている。隣の槙瀬さんは、暑いのか、話しながらワイシャツの袖をめくっている。後ろに手を組んだ榊さんが、からかうように槙瀬さんに話しかける横顔が見えた。それに答えて、槙瀬さんが笑っている。