「ここにね、卵白を入れて」
女が言われた通りに器から卵白を注ぐ。水のように透き通った卵白は、たちまちとろりと真っ白に色を変えて溶け込む。その変化はまるで魔法のようだ、と女は不思議さに興奮して息を飲む。
「後はこれをさっきの型に流し入れて、温めておいたオープンで焼くだけさ」
少年は一息入れると満足そうに胸を張った。
その無邪気な笑顔に釣られて、女は初めて自分から彼に手伝いを申し出た。
「あの、私が型に入れます」
「うん!火傷に気をつけてね!」
「はい」
少年が自分を心配してくれているようで、彼女は嬉しいと素直に感じた。
だから、この方の期待に応える。
女は慎重にミルク鍋から金型に、香り立つ液体を注ぐ。
溢さないようにゆっくりと。
今のこの感情が溢れ出して流れ落ちてしまわないように、丁寧に……。
「この温度だと15分くらいで出来上がるよ」
少年は出来た型をいくつもオープンの中に入れると楽しそうに頷いた。
「あの、若様は何を作」
「僕の事はウィルって呼んでよ!さあ、お湯が沸くまでお話しようよ」
少年は台所の隅にあった粗末な木の椅子を2脚持って来ると、遠慮する女と並んで座った。
「ねぇ、お姉さんのお話聞かせて」
「私の?」
「うん!夢や希望をさ。僕は菓子職人になりたいんだ!それに甘いお菓子は人を笑顔にしたり幸せにしたりできるんだよ!ねぇ、錬金術って知ってる?僕、錬金術もお菓子も好きだから錬金菓子職人になって、大陸中に店を出したいんだよ!お菓子を売るだけじゃなく、お茶とお喋りを楽しむお店!凄いでしょ!?」
息もつかずに一気に捲し立てる少年に、女は首を振ろうとした。だが小さな希望なら私にもあると思い直す。取るに足りないい石ころのような希望なら……。
「騎士様を待っています」
「え?誰?」
目を丸くする少年に、女は少し得意げにこの国に伝わる建国神話を語り始めた。
かつて神の子に3人の騎士あり。
騎士ら地に下り3つの大陸を各々統治し、その地の娘を妻とす。
妻ら、夫の無事を祈りて、絹、麻、ベルベットにてマントを織る。
騎士らその名で呼ばれたり。
絹の騎士の国、交易にて栄え、麻の騎士の国、麦の穂にて栄え、ベルベットの騎士の国、奇異なる術にて栄えたり。
時移り、増長したる麻の騎士、絹の騎士の妻を奪いたり。
怒りたる絹の騎士、麻の騎士を討ち、彼の者の妻子を奴隷とす。
これ、王国の奴隷の祖なり。
奴隷を哀れみたるベルベットの騎士、彼らを救わんと兵と錬金術を用いて絹の騎士と戦いたり。
戦いは20年に及ぶも遂に絹の騎士、剣と神の加護にて勝利せり。
絹の騎士、神より2騎士の領土と領民を支配する権威を得たり。
ゆえに3大陸これ、絹の騎士のものなり。
「ベルベットの騎士は死んだって事?」
「いいえ、私達奴隷の伝承では、ベルベットの騎士様は今も生きていて、千年もの間世界を放浪しながら、輝くばかりの銀の甲冑と眼にも鮮やかな空色のベルベットのマントを翻し、いつか奴隷達を救いに来て下さるそうです。ですが、神聖フランツ王国は絹の騎士の末裔である現国王のものです。奴隷はもちろん、国民の誰も公にこの話を口にする者はいません」
身を乗り出して聞き入るウィルに女は優しく微笑んだ。
「でも変だね、この話」
「え?」
「だって、剣と錬金術じゃ、錬金術の方が勝つに決まってるじゃん」
「そう、ですか?」
「うん!だって錬金術は科学だもん!科学が野蛮な斬り合いに負け理由がないね。錬金術師の僕が言うんだから間違いないよ!」
自信満々に笑うウィルに女は侍女からの命令を思い出す。そして無意識に服の下に忍ばせた小袋を握りしめる。
「若様のお国には本当に錬金術があるのですか?」
「ウィルだってば!あ、お湯が沸騰してる!」
少年は慌てて席を立つと火にかけたやかんへ向かう。そしてやかんを火から外すとミトンを両手にはめて石造りのオーブンから角皿を取り出した。
「お皿とフォークを出してね」
ウィルをぼんやり眺めていた女は急いで立ち上がると、台所のテーブルに小皿とフォークを1組用意した。
「もう!また遠慮して!」
ぶかぶかのミトンで大きな角皿を持ってぷりぷりしている主人を、そのままにしておく訳にもいかない。女はおずおずと自分の分も出すと、どうしていいか判らず椅子の側に立っていた。
ウィルはナイフで切り分けるようにして、金型から丁寧に焼き菓子を皿に並べる。
「本当は冷ましてから食べるんだけど、もう待てないや!さあ、食べよ」
ウィルはニッコリ笑うとデザートフォークで焼き菓子を切り始めた。
本当に自分も食べていいのだろうか?耳元でヒュンと鞭の唸る音がした気がして、思わず身震いする。
だが昨日から1欠片のパンも口にしていない女はとうとう空腹に負けた。
躊躇いながらも席に着くと見よう見まねで小さなフォークを持つ。
そしてホカホカと湯気の立つ、菜の花色の菓子を慎重に切る。ふんわりとした柔らかな感触に拍子抜けしながら少年をそっと見上げる。
しかし肝心の彼は上機嫌で口をモグモグ動かしているだけで彼女を見てはいなかった。
試されたりからかわれているんじゃないんだ……。
女はやっと安心して、菓子を口に運んだ。
あつあつの初めて食べるケーキを、火傷しないように慎重に舌に載せる。するとたちまち、焦がしバターの豊潤な香りとアーモンドの香ばしさが、口の中でほのかな甘さと柔らかに溶け合う。
香り高いふわふわとした生地は、まるで春の淡雪のように、舌の上であっという間に溶けてしまう。
そのことを残念に思いながらも日だまりにいるような幸福感に、恍惚として息をつくと、今まで自分は息を詰めて食べていたのだと初めて気づく。
こんな美味しい物がこの世にあるなんて、信じられない──
「若、いえ、ウィル様。これは何というお菓子ですか?」
「うん?フィナンシェだよ」
「フィナンシェ」
女は何度も小声で菓子の名を繰り返した。もう2度とこの先の人生でこの菓子を口にする事はないだろう。
だからせめてこの味とこの幸せを覚えていたい。
せめて名前だけでも。
何とか一生涯忘れずにいられるいい方法はないだろうか?
文字を書けない事を悔やみながらも女はパッと顔を輝かす。これ以上ないという程の名案が浮かんだのだ。
「ウィル様、私に名付けをして下さい」
「ウィルだけでいいよ。うん!どんな名前がいいかな」
「あの、宜しければフィナンシェと」
女は頬を上気させ力強く主張する。いつも何かを諦めたような彼女が、初めて見せる積極性はウィルを喜ばせた。
「うん!優しそうな響きがお姉さんにピッタリだね!それに縁起もいいんだよ、このお菓子。“お金持ち”って意味があるんだ。ほら、色と形が金塊に似てるでしょ?この国に来てもどうしても食べたくてさ。フィナンシェの金型だけは使い馴れてる物を鞄に入れて来たんだ」
大はしゃぎで菓子の由来を説明するウィルにフィナンシェは覚悟を決める。
「名付けをした主には特権があります。行使されますか?」
「え?何それ?」
途端に、ウィルに嫌な予感が走る。昨日の侍女の意地悪な笑顔が脳裏に浮かんだからだ。