「……本当に、とんだ失礼を」
 夕食の給仕をしながら、老婦人が菊理に謝罪をした。
 調理場の方にいる夫である主人の方は姿を見せない。
 台風が近づいているせいで、他に客は居ないのか、あるいは既にすませて部屋にいるのか、日中は食堂として使っているというダイニングにいるのは菊理だけだった。
 並んだ料理はさすが島だけあって新鮮な魚介類がメインの、ボリューム、味、共に素晴らしいものだった。
 菊理は苦笑いをしながら瓶ビールを手酌でコップに注ぐ。
 グラスとはいいがたい、お冷を入れるような素っ気ないコップで飲む瓶ビールはキンキンに冷やしたジョッキでいただく生ビールとは違った味わい深さで、しみじみと美味だった。
「息子さんも民宿の手伝いを?」
 話題に困って尋ねてみる。年齢は菊理とそれほど変わらないだろう。タカオと名乗った民宿の息子は、勤め人とは少し雰囲気を異にしていた。
「まあ、稼業の手伝いといえば聞こえはいいんですけどね、漁船の手伝いに出たり、よその畑を手伝ったり、日銭を稼いでいる居候のようなもので、……お恥ずかしい」
 照れたように老婦人が言った。
「どうも、固い所へのお勤めはむいていないようで」
 子供の頃から、落ち着きのない子で、と、老婦人は続けた。けれど、気ままな子ではあるものの、女性の入浴中にあんな事をするのは初めての事で、と、再び謝罪をされてしまった。
 老婦人の様子から、今回の事は、思いもかけない事である様子が伺えた。恐らく嘘では無いのだろう、菊理は理解した。

 島の青年は、堅苦しい仕事は苦手そうだが、基本的には気のいい働き者なのだろう。
 そんな彼が、女性の入浴中に堂々と乱入した上に全く悪びれる様子が無いというはまずいだろうが、必死で謝る母親に免じて、別の宿に移ると言い出す事はしなかった。
 何より、菊理にとっては命の恩人なのだから。
 まさか、命を助けたかわりに、何か不埒な要求をするつもりなのだろうか、と、思い至ったのは、既に夜も更けて、交通機関がのきなみ終わった後だった。
 突然、菊理は一人で部屋に居る事が不安になってきた。
 曲りなりにも婚約者の居る身である。
 旅先でのアバンチュールなどもっての他だ。
 しかし、不運にも、台風の進路は、今いる島に確実に影響を及ぼす進路をとっていた。
 風の音が、激しさを増していく。
 どうしよう、どうしよう。
 菊理は不安になって、ショーツ一枚に浴衣を着ただけの現状がたよりなく思えてきた。
 着替えておこうか。
 そうだ、万が一夜半に避難所へ移動などとなる前に、着替えていた方がいい。
 思い切りよく浴衣の合わせを開いた瞬間に、襖が開いた。
「……ッ」
 菊理の悲鳴は声にならなかった。
「おお、着替え中か、悪い」
 言いながら、襖を閉めて部屋に入ってきたのはタカオだった。
 手には電池式のランタンが握られていた。
 菊理はあわてて浴衣をかき合わせて身体を隠した。
「な……、な……、な……」
 何で、という問いかけを、菊理が言葉にできないままわなわなと震えていると、
「ああ、これか?」
 と、ランタンを広縁のテーブルに置いた。
「風も強くなってきたし、台風も近づいて来てるから、念の為」
 そう言って、タカオはそのまま広縁の椅子に座った。
「でも、懐中電灯もあるし」
 菊理は柱に取り付けられた非常用の懐中電灯を指差した。
「ああ、でも、移動するならともかく、ここにいるんだったらこっちの方が便利だろ?」
 菊理は、いつの間にか部屋へ入り込んで普通に雑談している事に戸惑い、驚いていた。
「用が済んだら出ていってよ」
 その前に、色々文句や咎めたい事もあったのだが、今はただ出ていってもらわなくてはと菊理は思っていた。
「用? ああ、そうだった」
 すると、タカオはずい、と、菊理のすぐ横に四つん這いで近づいてきた。
 菊理の方は近づくタカオから逃げる形でじりじりと壁側まで来てしまった。
「……何で逃げるんだよ」
「だって、近づいて来るから……っ」
「そりゃあ、近寄ってるし」
「どうしてっ……」
 完全に背後を壁に追い詰められた菊理の横から逃げられないようにタカオは両腕を壁につけた。
 壁とタカオの両腕に囲まれた形になってしまった菊理は、無防備な浴衣を腕で隠すように縮こまる。
「大声だすよっ」
「何で?」
 きょとんとした目でタカオが問いかける。
 タカオは、何故菊理がタカオに脅えているのか理解できないというような顔をした。
「何でって……」
「あんた、名前は?」
「おかあさん達から聞いてないの?」
「教えてもらえなかった、こじんじょーほーだって」
「く……、菊理……」
「ククリか、そうか、ククリは、俺が嫌いか?」
「え……そんな、お風呂入っている時に突然入ってきたり、今だってこんな風にしてるし、怖い……よ?」
「そうか、ククリは俺が怖いのか、でも、俺、ククリが怖がる事しないよ?」
 邪気の無い笑顔で言うタカオの言葉に、不思議な事に菊理の恐怖心が消えた。
「タカオは、誰にでもこんな風にするの?」
 菊理が尋ねると、
「ククリだけだよ? 俺、ククリを見てるとドキドキして体が熱くなるんだ、一緒にいたい、側にいたい、ククリに……触れたい」
 タカオの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「他の人じゃなくて、私だけ?」
「そう、ククリだけ……、海で、ククリを見つけた、俺のものにしたいって思った」
 タカオの唇が、一瞬菊理の唇に触れた。
 暖かさと、やわらかな感触を、菊理は心地よいと思った。
「私じゃないと、ダメ?」
「うん、ククリがいい」
 菊理は、警戒していた腕をほどき、両手を畳の上に置いた。すぐ近くにタカオの顔があった。
 誰でもかまわない、と、今となっては婚約者になった兼田至は言った。都合がよい、とも。
 けれど、タカオは違うようだった。自分を欲する、素直な感情。
 海中で見た、大きな魚影。貪られるような怖さとは違う、奪われ、乱されたいというこれは、欲望だろうか。
 ふっと、電気が消えた。
「停電? ランタン、着けないと」
 菊理はタカオを見つめたまま言ったが、タカオも菊理も互いから目を離さなかった。じわじわと目が慣れてきた頃には、タカオの唇と菊理の唇は重なっていた。
 闇の中でも、互いの体が熱を帯びて、ぼんやりと場所がわかるようだった。
 ランタンを灯す事の無いまま、菊理はタカオの唇と、手を受け入れた。
 しゅるりと衣擦れの音。
 浴衣の合わせがほどけて、菊理の裸体が露わになると、タカオの舌と唇が、菊理の体をさまよい始めた。
 菊理は、素直に自分を、自分自身を求めるタカオに、何故か愛おしさを感じ始めていた。
 そして、全てを受け入れた。風が強いせいか、どこかから海の香りが漂っていた。
 菊理は、タカオの肉体が、常人の男と決定的に違う事に気づいたが、それに驚く事は無かった。風呂でも見せていたはずではあったが、まじまじとは見ていなかったので、気づかなかったのだ。
 タカオは、本当に巨大な水棲生物なのかもしれない。そんな考えが脳裏をよぎったが、熱情に身を委ねてしまった菊理にとって、それは瑣末な事だった。