宿は民宿にした。いわゆるリゾート用の高級ホテルもあったし、オーベルジュと呼べるような料理自慢の宿もあった。
 貧乏性もあったが、単純にロケーションが気に入ったのだ。浜辺が目の前ので、広々とした海が望める八畳の和室は、一人旅には妙にしっくりきて、落ちついた。
 せっかくはるばる島まで来たのだから、夕食まで散歩に行こうと浜まで出たものの、既に海水浴客は見当たらなかった。
 もちろん、菊理も水着などは着ていない。ファストファッションのセットアップにサンダルという楽な出で立ちだ。
 海水浴客は見当たらないが、遠くの方にサーファーのような人影は見えた。サーファーだと思ったのは、何か板のようなものにのっているせいなのだが、ボートで言うところの櫂のようなものを持っている。
 菊理がビーチリゾートなどとは縁遠く、焦熱地獄の都心を汗だくで社畜街道をひた走っていた間に、世間には知らないマリンスポーツが流行るものだなあ、と、波で遊びながらぼんやりと思った。
 せっかくだ、と、磯の方まで足を伸ばす。

 見れば、海中に鳥居が一つ見えた。
 海中の鳥居といえば、広島の厳島が有名だが、この島にも海中鳥居があったのか、と、写真に収めようとスマホを探ったところ、カサリ と、視界の端にうごめくものがあった。
 フナムシだ、と、理性ではわかっているのに、ゴキブリと見間違えたのか、身が震える。
 その時、もろい足場がふいに崩れた。
「あ」
 と、声に出す暇も無く、菊理は水中にあった。
 びっくりするほど深いそこは、足がつかない。
 海中に落ちたというショックと、スマホを岩場に落としたという動揺で、自分がするべき事の手順が狂ってしまった。
 同時に何かをしようとすると、案外大切な事を忘れてしまう。
 菊理が一番大切なのはこの場合命であるはずなのに、落としたスマホが気にかかって手足をばたつかせる事しかできない。
 足がつかない事、ここが海だという事、……そして、泳ぎ方がどんなふうだったかという事を。

 ……がぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。

 水中で呼吸ができるはずもない。今自分が上を向いているのか下を向いているのかもわからない。わずかな呼気は吐ききって、すでに息苦しい。
 海上はどっちだろうか、海の底は?
 もがいて、反射的に顔を上げると、太陽に照らされた水面がゆらぐ様が見えた。
 あっちが、水面。
 その時、陽の光を遮る、巨大な生き物が悠然と上を泳いでいるのがわかった。
 鮫のような大きさの生き物。
 沿岸近くに鮫が出るのだろうか?
 ふと、菊理は、かつて見た海中で捕食される魚の事を思い出した。虚ろな瞳の鮫に蹂躙される魚。無音の中で、びちびちと身体を反らせ、必死で抵抗しながら、唐突にふっと力が抜けるその瞬間の事を。
 ぞくりとした電流に似た感覚が背筋を走る。
 ああ、死ぬというのはこういう感覚なのか。
 私は、ここで死ぬのだろうか。
 でも、捕食されるのも悪くないかもしれない。突然の死へのストレスから、常には至らないような恍惚と、相反して示す肉体の拒否反応、息苦しさに耐えていると。何者かによって身体を支えられて、抱きかかえられて海から上がった。
 ああ、呼吸ができるってすばらしい……。
 全身で酸素を体内に取り込みながら、菊理は肌に張り付いたセットアップを不快とも思わず、塩の匂いのする身体で、自分を抱き上げた腕の持ち主を確かめた。
「だ……れ?」
 日に焼けて引き締まった体躯。少しウェーブのかかった髪が、海藻のように見える、長身の若い男だった。
「俺はタカオ、あの民宿の息子、……あんた、お客さん?」
 海に落ちた菊理を救ってくれたのは、民宿の息子だと名乗った。