宿へ行き、チェックインをしても、菊理の気持ちは晴れなかった。
 平日であるせいか、宿は空いていて、新婚旅行という事もあり、最上級の部屋をとってくれたおかげで、部屋にも露天風呂も備え付けられてはいたが、菊理は宿の大浴場の方へ行ってみる事にした。
 運転で疲れたと、横になる至を部屋に残して一人大浴場へ行くと、まだ誰も居ない。
 広々とした大浴場で一人で居ると、不思議と赤江島の苫屋の事が思い出された。
 民宿である苫屋には露天風呂は無く、少し広めの家族風呂を一人で使っている時に、唐突に入ってきたタカオの事に考えが及ぶと、菊理は、胸の痛みと共に、暖められた体の内に、炎が灯るような錯覚に陥った。
 至とタカオ、二人の男は、思えば似ているところも多かった。
 貪欲に菊理を求めるところや、乱暴そうなのに、一つ一つの行動は優しく、いたわるように菊理に触れてくるところも。
 自分は、至の中にタカオと同じものを探しているのだろうか。
 苫屋の老夫婦が、手放した息子の面影をタカオに重ねたのと同じように。
 菊理は、自分に都合よくタカオを忘れていく事に罪悪感を覚えながらも、本当はタカオを欲しているのだろうかとも思った。
 至を身代わりにしようとしている?
 浴びるような愛に目がくらんで、考えまいとしていた思いが鎌首をもたげた。
 その時だった。

 ずずっ……。
 ずずっ……。

 何か、大きな生き物が這いずるような物音が聞こえて、驚いて菊理が周囲を見回す。
 すりガラスの向こうは大浴場になっている。
 今いる露天風呂は、岩風呂で、屋根は無いが、川のせせらぎが聞こえている。
 ここは、川に近かったのか。
 あわてて菊理は風呂から立ち上がったが、壁の向こうは恐らくは外で、露天風呂から出るには、一度大浴場に戻らなくてはならない。
 すりガラスの向こうに、影がかかる。
 もう、そのガラス戸から、菊理は目を離す事ができなかった。
 ガチャリ、と、ガラス戸が開くと、……そこには、タカオが立っていた。
「クク……リ……」
 タカオは、神憑りした姿では無かった。銀色の瞳でも無い、かつての、民宿の気の良い青年然としたタカオのままだった。
 けれど、その顔はとても悲しそうだった。
「どうして……至と一緒にいるの?」
 タカオが、露天風呂の中にざぶざぶと入ってくる。
 何も身につけて居ない姿も、あの時と一緒なのに、屈託なく笑っていたタカオは、もうどこにも居なかった。
 あと少し、もう少し……。
 菊理は、身動きせずに、タカオを待った。
 タカオの手が、腕が、菊理を捕らえようとした、その時。
「……ああ、熱い、火の山の水の中には、これ以上はいられない……」
 そう言って、タカオは岩風呂から逃げるように背を向けた。
「待って!! タカオ……、私……私は……」
「ククリは、俺を裏切った、俺は、掟に従ってククリを殺さなくちゃいけない……」
 背を向けながら、振り返り、絞り出すような声でタカオが言う。
「それが、掟だから」
「殺して? 私を……タカオっ!!」
 思わず、菊理はそう叫んでいたが、タカオはそのまま背を向けて去って行った。
 すりガラスの向こうで、タカオの影の形が歪み、異形のようになった事にも気づきながら、菊理は、殺して と、叫んだ事を悔いてはいなかった。
「あの滝は、竜宮に繋がっている伝説があるんですね」
 菊理は、しばらく身動きができず、露天風呂からあがり、タカオの姿を探したが、すでにその姿は残ってはいなかった。
 けれど、大浴場から脱衣場にかけて、潮の匂いが漂っていた。
 海からこんなに遠いのに、そう思いながら、菊理は宿の浴衣を着て、部屋へ戻る途中、宿に来る前に立ち寄った滝にまつわる伝説について書かれたポスターに目を留めた。
 仲居だろうか、作務衣姿の女性に尋ねると、宿の女性がさらに詳しく説明してくれた。
 何でも、滝壺は竜宮に通じており、温泉街のある集落は滝壺に願うと、膳や食器を借り受けていたのだそうだ。
 ある時、借りた膳を戻さなかった為、それ以降、滝壺から竜宮への願いは届かなくなったのだという。
「そう……ですか」
 菊理は、諦観したように微笑んで見せた。
 至は、うたた寝をしていた事に驚いて、菊理の姿を探した。
 そして、古風にも書き置きが残されている事に気がついた。
 あわててフロントへ行くと、連れは滝に忘れ物をしたと言って、タクシーを呼んだのだという。
 既に陽は傾き、夕暮れの頃。
 至はあわてて預けておいた車のキーを戻し、滝へ向かった。
 もう既に、手遅れかもしれないが、追いかけずにはいられなかった。
 夕暮れ近く、駐車場には車も無い、土産物屋も閉店していて、人の気配は無いのだが、確信めいて滝までの道を急ぐ。
 ……はたして、菊理は川面に居た。
 そして、もう一人。
「菊理っ!!」
 至が叫ぶと、二人が川岸にいる至を見た。
 もう一人は、タカオだった。
「至、悪いけど、ククリは俺のだ、返してもらうよ」
 タカオが菊理を引き寄せた。
「ごめんなさい、……ごめんなさい」
 菊理は、至に詫びながら、タカオに身を委ねた。
 タカオが、菊理を抱き寄せて、唇を奪う。
 長い、長い口づけの後に、菊理の体が力を失った。
「タカオっ!!」
 川に今にも飛び込みそうな至が叫んだが、タカオの神憑った姿に驚いて、気圧されてしまい、身動きができなくなる。
「来るな!!」
 菊理を抱きかかえたタカオが叫んだ。
「俺には、お前は殺せない、……だが、約定により、花嫁は連れて行く」
 水柱が立ち上がり、タカオと菊理の姿を隠した。
 至は、その場に崩れ落ちるようにして、菊理を抱いたタカオが水面に消えていくのを黙って見守ることしかできなかった。
 陽の光の届かない、夕闇に迫った闇へ消えていく姿を、至は無言で見送っていた。
 菊理は、遠ざかっていく意識の中で、自分がゆらゆらとゆらめきながら、暗い水底へ落ちていくのを感じていた。

 わずかに上の方にあった明かりも、今はもう見えない。

 変わりに、タカオと自分が燐光につつまれて、あたりをほの明るく照らしているのがわかった。

 とりまく水は昏く、どこまでも続いている暗闇の淵があるばかりだった。



 タカオに抱かれながら、深く、深く、暗く、光も届かない深い水底へ。
 鮫に捕食された魚のように、血煙が靄のようになり……菊理は、堕ちていった。

(終)

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