「ハネムーンの定番といえば、海だろうと思ったんだけどね」
 慌ただしい結婚式の後、二人が選んだ新婚旅行先は、山奥の温泉だった。
 ハワイやグアム、あるいはバリ島。兼田の跡取り息子である至の家の財力があれば、世界一周だってできただろう。
 けれど、若夫婦はそのどちらも選ばなかった。
「……ごめんなさい」
 しかも、運転しているのは至だ。都心から高速道路を使って三時間ほど。それでも、期間だけはたっぷりと一週間休みをとった。
「いや、湯治だと思ってのんびりするさ、何しろ君と一週間一緒にいられるわけだからね」
 唯一の救いは、形だけの夫婦になる予定だった相手に対して愛情らしいものを持てた事だろうか。
 愛情なのか、それとも、共に罪を背負ったゆえの共犯意識か。
 至は、菊理に溺れた。
 初めて虚勢をはらずにすむ相手だからか、弱みを見せる事のできる相手だからか。
 一人になりなくない、と、恐れる菊理に対して、急ぎ結婚式を、と、望んだのは至も同様だった。
 助手席の菊理に至が手を伸ばし、顎を掴んで軽く唇を重ねた。
「ちょっと……っ、こんな、外で……」
 菊理が赤面してうつむくと、至は愉快そうに笑った。
 もっと早く、至と打ち解けていたらよかったのだろうか。ふと、菊理は思う。
 至を厭い、逃げた先で会ったタカオに、溺愛されて、菊理も変わったのかもしれない。
 だが、時は戻らないのだ。
 至の運転する車の助手席から、紅葉した木々が流れるように後方に去っていく。
 途中、ダムや観光名所と言われているところにも立ち寄りながら、あと一息で宿に着くというところで、至がナビに従わず、直進した。
「まだチェックインには時間があるね、この先、滝があるんだって、ちょっと寄ってみようか」
 滝といえば水である。滝、と聞いて菊理が身をすくめた。
 菊理は至の提案に異を唱えはしなかったが、無言のままの菊理を気遣うように至が言った。
「ここは、海から何百キロも離れてるんだ、物理的な距離の隔たりは、いくら何でもゼロにはできないだろう?」
 確かに至の言う通りではある。
 だが、至は嵐の夜のタカオを知らない。神憑りの姿を知らない。
 けれど、忘れなくてはならないのだ。菊理は、心を決めたように笑顔を見せた。
「そうだね、言ってみようか」