菊理が濡れた服を脱ぎ、シャワーを浴びて備え付けのバスローブを身に着けてバスルームから出ると、至は所在なさそうに立っていた。
「……少しは、落ち着いた?」
 菊理がうなずくと、入れ替わりで至がバスルームを使った。
 菊理は、帰るに帰れない状況に戸惑いながら、ソファーで呆然としていた。
 禁を……破ってしまった。
 水の近くで、タカオを罵ってはならない。
 タカオは、海に帰ってしまったのだろうか。
 菊理は、感情にまかせてしまった自分を愚かに思い、悔やむしかなかった。
 もう、何もかもおしまいだった。
 なのに、窓から飛び降りる勇気も、一人この場から逃げる事もできない。
 バスルームから聞こえてくるシャワーの音に、菊理が想像を巡らせる。
 そんな事を考える自分がひどく嫌だった。
 タカオが居なくなったから、もう次を物色するつもり?
 そもそも、至は婚約者といっても名ばかりのものだった。
 数回二人で食事をした事はあったが、恋人ですら無かったのだ。
 ふいに、バスルームの扉が開き、至が出てきた。
「……良かった、一人にするのが少し心配だったんだ」
 急いでシャワーを使ったのだろうか、髪は濡れたままで、菊理同様備え付けのバスローブを着ていた。
 至の、女性用の下着まで手配している周到さに、やはり手慣れているな、とも思った。
 あのまま、赤江島の苫屋にいたのでは、恐らく身につく必要の無い所作が、今の至には身についている。
 着替えの準備も整い、いつでも帰る事ができる。
 そこまでお膳立てをした上で、至が言った。
「俺は君に選択肢を提示する、着替えて、ここを後にするか、……それとも、このまま俺と朝までここに居るか」
「形だけの妻でいいと言っていた相手にそこまで?」
「気まぐれで言ってるんじゃ無い、俺は覚悟した、君はどうだ?」
「裏切るか裏切らないかは、私自身が決める……そういう事?」

 至は無言で頷いた。

『誓え、水の側で我を拒んではならない、我を拒めば、我は水界へ帰るであろう』
 嵐の夜、神憑りしたタカオの発した言葉を思い返す。
 菊理は、タカオを拒んでしまった。
 水の……運河の、海のすぐ近くで。
 タカオは……帰ってしまったのだ。
 既に菊理はタカオとの誓を一つ破ってしまった。
「今、私は一人になりたくない……」
 扉に体を預けながら、菊理はその場にへたりこんだ。
「私は、誓いを破ってしまったから」
 泣きじゃくる菊理のごく近いところに、至も腰を下ろす。
「俺も、今は一人になりたくないんだ……」
 菊理の手に、至の手が重なったのか、菊理の指が、至の指を求めて絡まったのか。
 指先が絡まり、手のひら、もう片方の手、と、接する場所が増えていき、最後、二人の隙間は無くなった。
 夜が明けるまで、繋がった二人の心は解ける事が無かった。

『そして、他の男と通じたならば、我はお前の命を奪いに来るぞ』

 ふたつ目の誓いを破った菊理は、逃げるように、その行為に没頭した。