泣きながら逃げていった老婦人を捕まえて、ホテルまで案内する。菊理は、何も言わなかった。
「……ごめんなさいね、菊理さん……」
 ひとしきり泣いた老婦人にお茶を入れて渡すと、ようやくひとごこちついたのか、老婦人はつぶやいた。
 まさか、兼田夫人も同伴するとは思っていなかった菊理は、老婦人に詫びた。事はもっと簡単に、かつ、静かに行われるはずであったのに。
「いえ、私が考えなしだったんです」
 気を張っていた菊理だったが、老婦人が落ち着いたところで力なくカーペットの上にへたりこんだ。
 カタカタと体が震えていた。至と兼田夫人だけでなく、老婦人すらも傷つけてしまった事に、菊理は戻る事ができるなら時を戻したい気持ちになっていた。
 自分の軽率さ、考えの足り無さを呪いたい気持ちになった。
 タカオと老主人が戻り、事情を説明すると、老主人は静かにそうか、とだけ言った。菊理を責める事も、老婦人を責める事もせずに、後は任せるよう言われて、菊理はタカオと共に隣室に戻った。
 落ち込み、うなだれる菊理をタカオは励ましてはくれたものの、そもそものきっかけがタカオであった事を思い出すと、今はその天真爛漫さが菊理には恨めしかった。
「ククリ? ククリーーーー」
 じゃれてくるタカオに、そういう気持ちになれないと断ったが、タカオは聞き入れてくれず、ひとしきり相手をすると、疲れたのかタカオは早々に眠ってしまった。
 安らかな寝息をたてるタカオを愛おしいと思いながら、菊理は恨めしい気持ちにもなった。
 真っ直ぐに自分を愛してくれる事を喜ばしいと思っていた。……それなのに。
 至からメッセージが届いたのは、そんな折だった。
 ホテルの近くまで来ているという至は、そっけないメッセージで『話をしたい』とだけあった。
 その『話』が、どれだけ重く、相手を選ぶものなのか。
 己の出自にまつわるデリケートな話題を、おいそれと誰かに話すわけにはいかない。今、至の話をただ黙って聞くことができるのは、菊理だけだった。
 シャワーを浴びて、身を清める。
 タカオに愛された痕跡をまとったまま、至に会う事はできなかった。
 『少し出かけてきます』
 と、書き置きを残して、菊理はタカオを残し、至の元へ向かった。