結婚するつもりだったんだけど、やっぱり辞めた女性とその恋人。

 そう紹介されると身も蓋も無いのだが、兼田夫妻は菊理にあきれるでなく、なじるでなく、息子の不義理を詫びてくれた。
 そういう意味で、この両親は息子を正しく理解しているのだな、と、菊理は安心した。
 しかし、予想外のところで会話に波が立った。

苫屋(とまや)さんって……赤江島の?」

 兼田夫人は説明の為にあたらしく予約をした個室で角砂糖をカップでは無くソーサーの方にスプーンごと取り落とした。
 それは、菊理がほんの一瞬嫁候補だったはずが他に相手ができてしまった事を説明した時よりよほど動揺しているように見えた。
「あれ? 母さん、赤江島に行った事あったっけ?」
 そう言う至はまだ行ったことは無いのだという。タカオがしきりに誘うので、それじゃあ言ってみようかな、などと軽口を叩いたほどだった。
「……ダメよ。 行ってはダメ」
 見れば、ついさっきまでにこやかに談笑をしていた兼田夫人は青ざめて震えていた。
「あなた、タカオって……本当にタカオとおっしゃるの?」
「ああ、そうだ、タカオがイタルになったから、タカオがいるんだって、母ちゃんが言ってたな、……イタル、……至? ああ! 同じ名前だった、そういえば!!」
 そう言うタカオにはひとかけらの悪意も無さそうで、無邪気にタカオがイタルと言い出す様子に、何か人を傷つけたり害そうという様子は微塵も感じられないのだが、兼田夫妻にとって、それはまるで過去を糾弾するかのような重みを持って、その場の空気すら変えてしまったのだった。
「そんな……苫屋さんはだって、確かに……」
 青ざめて震える夫人を支えるように、兼田氏は静かに言った。
「菊理さん、今日は家内の気分が優れないようなので、これで失礼させてもらいます、出資の件については前向きに検討させてもらいますが……」
 そう言い置いて兼田氏は至に一度視線を送ってから逃げるように言い捨てた。
「今日、ここであった事は他言なさらぬように……」
 そう言って、夫人を伴って立ち去った。

 至も、両親の不穏な様子が気にかかるようで、その場はそれでお開きになった。菊理は、解決しなくてはならない問題の一つがクリアになったと思う反面、何か別の、……そして、もっとより多くの人を傷つけてしまうような別の問題が発生してしまったのではないかと恐れた。