とんだ修羅場になってしまった。

 全裸のタカオに半裸の菊理を見つけて卒倒しそうになった老婦人に、きょとんとするタカオ。
 老婦人の悲鳴は恐らく階下にいるだろう夫に聞こえているのだろうが、何者かが階段から登ってくる気配は無かった。
 タカオがかろうじてTシャツとトランクスを身につけ、菊理がワンピースを纏った。シャワーを浴びている時間が無かった為廊下側の襖を開け放してはあるが、気まずさはこの上なく、菊理はうつむく他無かったのだが……。
「お客様、誠に、誠に申し訳ありませんっ……」
 老婦人は畳を額にこすりつけるがごとくに土下座をし、隣に座らせたタカオにも同様、土下座するよう求めた。
「何だよ、母ちゃん、何が申し訳ない なんだよ」
 タカオは、まったく悪びれる様子は無い。確かに、どう考えても同意の上であるし、どちらもよい大人なのだ。
「おま……おま…おま…」
「おま××?」
「たわけっ!! お前ときたら何て事をしてくれたんだいッッ!!!」
「えー、だって、したかったし、嫌がられなかったから」
 そうなのだ、だから菊理は居心地が悪くてしょうが無かった。
 菊理が確かめたいのはむしろ別の事だった。
「あの、私はその……いいんです、あの……」
 合意の上、ですし、と、消え入りそうな声でつぶやいてから、咳払いの後声を張って尋ねた。
「彼は、しょっちゅうこういった事を?」
 宿泊客相手によくこうした事をしているのか、それだけが気がかりだった。
「いえっ、……あの……その」
「俺、ククリとするのが初めてだもん」
 けろっとタカオが言った。老婦人の方も、半ばあきれながら、はい、本当に、このような不始末は初めての事で……と、言い添えた。
「お客様、それであの、このような事を申し上げるのは大変心苦しいのですが……」
 逆に、老婦人は菊理の事を都会からきた性的に奔放な女だと納得したのだろう。別の事を気にするようになって言った。
「あのことは どうかご内密に……」
「……それは、タカオの……×××の事ですか?」
 菊理が声をひそめる。今、この民宿にいる泊り客は菊理だけだったのだが、内容が内容だけに、どうしても大きな声で話をする気持ちにはなれなかった。
 タカオのペニスは、二本あったのだ。
 その後は、タカオ自身の身の上話になった。下半身から始まった話ではあるのだが……。
 赤江島には、竜神社という神社がある。
 海の中にある鳥居は竜神社のもので、タカオは赤子の頃、鳥居の根元に籠に入れて置かれていたのだという。潮の満ち引きで海中にある鳥居の根元に置かれていたというのは、そもそも海に流すつもりだったのだろうと考えた老婦人は赤子を連れて帰ったのだと。
 とある事情で生まれたばかりの子を失ったばかりだった夫婦は、その子を自分達の子として育てた。
 それがタカオだった。
 赤子だったせいか、それはまだ一つに見えていたらしい、その事に気づいたのは、タカオが成長してからの事だという。
 老婦人の夫は、タカオは海神の子では無いかと言った。
 長く海に潜る事ができたり、レーダーが無くても魚群を知る事ができたり、夫が言う通り海の神の加護を感じさせる部分は数多くあったが、年頃になって、異性に興味を持つ事はなかったのも、人ならぬ存在だからこそだと。
 だから、突然菊理に対して、島の青年たちがそうするように、興味を持つようになった事については密かに喜ばしい事だと老婦人は思っていたようだ。
 何より、行きずりの旅人であれば、タカオの人ならぬ特徴を知っても、害にならないかもしれないという打算もあったらしい。
「ククリ、俺の嫁になれ!!」
 母親の理解を得たことによって、タカオは一足飛びにそう言った。
「いえ……私は……」
 婚約者が居るという事を説明した事で、老婦人は納得してくれた。
 けれど、二泊目。
 一日あれば、収まるだろうと思われた雨は、全く収まる様子が無かった。
 むしろ風雨は激しさを増すばかりで、テレビからは避難所の解説や、雨の長期化による災害が、赤江島近隣の地域で、警報となって現れていた。
 菊理は、二泊して島を出られる気がしなかった。
 実家には連絡を入れて、天候が回復しない限り、島を出る事が難しい事を伝えた。
 至にも同様に連絡を入れたが、既読マークは着いたものの、特に菊理を案じるような返信がつく事は無かった。
 ……まあ、そうじゃないかとは思ったけどね。
 ぽつりと声に出してから、菊理は既に暗くなってしまった外を見た。船が流されたという話も聞いた。台風が動かず、留まり続けるなどという事があるのだろうか。
 外に気配を感じて、襖を開けると、廊下でタカオがうずくまっていた。
「タカオ? どうして……」
「中、入っていい? 母ちゃんが、勝手にお客様の部屋に入るなって……」
 母親に怒られたのか、元気が無さそうにしているタカオを部屋に招き入れる。
「……なあ、このまま嵐が収まらなかったら、菊理はずっとここに居るのか? だって、船が出ないし、そしたら、俺の嫁になってくれるか?」
「嵐が収まらなくても、私はタカオの嫁にはなれないよ、だってもう、他の人と結婚する約束、しちゃったもの」
「ククリは……そいつの事が好きなのか? 俺の事は、好きじゃない?」
「そんな言い方……ずるいよ」
「何で?! だって、結婚って、好きな相手とずっと一緒っていう約束だろ? ククリ、俺の事、好きじゃないのか?」
 サッシの向こうで、雨が窓を叩いている。タカオの両手が菊理を閉じ込めて、雨を背にして菊理は追い詰められていた。
 何もかも捨てられるなら、このままタカオとここに居たかった。けれど、菊理にそれは許されない。
「好きだけど……でも」
「だったら、他に理由なんかいらないだろ!!」
 タカオの顔が近づき、菊理から言葉を奪う。
 雨の音と、タカオが菊理を愛撫する音とが、巨大な海棲生物に包まれるようにくぐもっていく。タカオは、菊理のあげる声を聞きたがった。
 情事の後、乱れた下着を整えている菊理にタカオが言った。
「ククリが、俺のお嫁さんになってくれたら、多分嵐は収まると思う」
 菊理は、信じられない様子でタカオを見たが、タカオは確信めいて窓の外を見た。
 台風の目の中に入ったのか、わずかに雨脚が弱まった隙をついて、タカオは菊理を連れて、竜神社へ行った。
 雨が弱まったといえど、風は強く、大粒の雨が傘の上で弾けている。
 タカオは、菊理をいたわるよう、雨と風からかばうように進む。
 不思議な事に、タカオの影にいると、本当に雨と風が驚くほど弱まったような気がしていた。
 海中の鳥居は、水位の上がった海の中で、荒波に晒されていたが、どっしりと立ち、揺らぐ様子は無かった。
 鳥居に向かう岬の先には、神社があった。
 赤江島という小さな島の割には規模の大きい神社で、社殿もかなり立派なものだったが、人の気配は無い。タカオが言うには、神職は常駐しては居ないのだそうだ。
 岬の先に立ったタカオが、鳥居に向かってすっくと立った。
 タカオの影から離れた菊理は、雨と風に驚き、吹き飛ばされる怖さから、傘を開かずに手に持ったまま、まるで祈りを捧げるように岬に立ちすくむタカオを見守った。
「ククリーーーーーーーーー!!!!」
 タカオが、菊理に向かって叫ぶ。
「約束、守れよなーーーーーー!!」
 既に至との約束を破る事が確定している菊理に、では、タカオとの約束ならば守れるのだろうかという気持ちはあった。菊理は、タカオの言葉に答えられなかった。
 けれど、自分に対して打算的な求めを一方的にしてきた至ではなくて、あくまでも菊理を欲しているタカオとの約束ならば、守れるような気がした。
 菊理は、声をはりあげながら、両手で大きく○を作った。
 タカオは、うれしそうに海に向かって、獣のように四つん這いになった。
 それは、多分人の声では無かった。
 唸るような、地鳴りのような、響きが辺りに共鳴する。
 音は、風になり、波になり、大きなうねりとなって、タカオを中心として、同心円状に広がっていった。
 菊理は、衝撃に備えるようにして、手にした傘にしがみついた。
 ……衝撃が行き過ぎると、雲が渦状になり、潮が引いていくように消えていった。
 目の前で起こる非現実的な出来事を前にして、菊理が呆然と見守っていると、ゆらり、と、タカオが心神喪失のような状態で菊理に近づいてきた。
 それは、菊理の知っているタカオでは無かった。
 瞳の色は銀色で、何か神懸かっているように、肌も所々燐光のようなものを放っていた。
「女……、海神の(つがい)となる女よ……」
 声も、どこか違っていた。
 屈託の無いタカオの様子とは異なる、人成らぬモノのような、恐れ、言葉を挟めない威圧感があった。
「誓え、水の側で我を拒んではならない、我を拒めば、我は水界へ帰るであろう、そして、他の男と通じたならば、我はお前の命を奪いに来るぞ」
 菊理は、膝まづいてこくこくと頷いて見せた。
 すると、タカオからすうっと光が消えて、銀色の瞳も、燐光も失われた。
「……俺、今、何を?」
 タカオがタカオに戻ったことで、不安で押しつぶされそうだった菊理は、すがりつくようにタカオに抱きついた。
「おい、ククリ、俺今……」
 タカオが何事かを言う前に、今度は菊理がタカオの唇を塞いだ。
 今、自分は誓ってしまったのだ。
 海の神に、タカオに、……そして、自分自身に。
 今度は自分の意志で選び、望まれて、選ばれた。
 タカオもそれ以上は言葉を必要とせずに、初夜の新床は、波の音を聞きながら、幾度も幾度も繰り返されたのだった。
 赤江島に嫁ぐにしろ、菊理は菊理で両親を説得する必要があった。もちろん、至との婚約も解消しなくてはならない。
 タカオの両親は事情を聞いて、慰謝料事になるようなら相談して欲しいと言ってくれた。
 だが、菊理が気になったのは慰謝料の事では無くて、至の名を出した時の、老夫妻の反応だった。カネダイタルというのはありふれた名前では無いが、かといって同姓同名が居ないかといえばそんな事は無い。
 老夫婦は、どうも兼田という名字と至という名前を知っているように、菊理には思えた。
 至の故郷は赤江島では少なくとも無いはずだ。行き先を告げた時、何の反応もしなかった。何かしらの縁があるのであれば、言葉にしたはずだろう。
 菊理は、そんな疑問を尋ねる事なく、タカオをともなって東京に戻った。
 長く居座った雨と風は、各地に生々しい爪痕を残していた。
 菊理は、本当にあれはタカオの仕業なのか、と、改めて思い、嵐の夜の出来事を思い出して身震いした。
 タカオは、島を出る事自体が初めての事らしく、子供のようにはしゃぎ、少しだけ菊理を困らせた。
 長身で端正な顔立ちのタカオはどこにいても目立つ、声をかけられそうにもなったが、皆横に菊理の姿を見出して、近づく事を辞める。何度かそんなやりとりを経て、菊理がうんざりしてくると、タカオはそっと菊理の手をとって笑って見せるのだった。
 それが、どれほど菊理を楽にして、気持ちを落ち着けてくれただろうか。
 側にいる、自分だけを見ていてくれるタカオと共に在る事は、菊理にとっては初めての事で、コーヒーショップで少々騒ぎを起こした事も、自動改札で固まった事も、かわいらしさ、愛おしさとして菊理の目には写った。
 慣れない土地で疲れたタカオだったが、引き払う寸前だった菊理の住まいに着くと、狭いが整頓の行き届いた居心地のよい場所で、旅の埃を洗い落としながらもすぐに菊理を求め、菊理もそれに応じた。
 至に話があると告げて、先方から指定されたのは夜だったが、時間は決して多くは無い。けれど、そんな短い時間であっても、タカオは菊理の肌に触れる事を辞めなかった。
 まるで遠ざかった海を懐かしみ、愛おしむように、タカオは菊理に沈み、潜っていった。
 あらかじめ同伴者が居る事は至に伝えてあったので、菊理がタカオを連れて現れても、至はそれほどうろたえはしなかった。
 会見場所に個室を選んだのも、何かを見越しての事だったとも思える。
 さすが、若社長はあらゆる場面でソツが無い。
 手配をした女性秘書が、至のプライベートルームに出入りしていても驚かないほどに、気の利いた差配だった。
「ふーん……」
 至は、タカオの頭からつま先までを値踏みするように見た。ドレスコードの無いカジュアルな和会席の店ではあるが、白い綿シャツにオリーブカーキのチノパンではとりつくろいようがない。なにしろジャケットやタイを見繕う時間は無かった。
 それでも、それなりに見えてしまうのは、タカオのスタイルの良さだろう。
「ちょっと意外だ、君はサピオセクシャルなタイプだと思っていたからね」
「さ……ピオ? って何だ? 絆創膏か?」
「うん、それは多分サビオだね、タカオ……」
 タカオと菊理のやりとりに、至は毒気を抜かれたのか思わず吹き出し、そのまましばらく笑い転げていた。
「なんだこいつ、人の顔見て笑うなんてシツレーな奴だな」
 ぽつりとタカオが言い、菊理もまったく同感だという様子で力強く頷いてみせた。
 驚くべき事に、とてもなごやかな会食だった。
 至の嫌味は冴えたが、タカオが天然で返すので、そのやりとりは滑稽で、出来の良い喜劇を見ているようなテンポの良さがあった。
 菊理も捨て鉢になっているせいか、素のままで笑い、時に毒を吐いた。
 もっと早くこんな風に時間がとれていれば、至に対してもう少しやさしい気持ちになれていたのではないかと思えるほどだった。
「驚くべき事だけど、君は彼と一緒にいるほうがずっとチャーミングだ」
 食事を終えて、最後のコーヒーを飲みながら至が言った。
「本当に、あなたのセリフってどこかのロマンス小説から切り抜いてきたみたいなんだけど、実は熱心な愛読者だったりするの?」
「ああ、そう、そういう指摘をもっと早くして欲しかったなあ、残念だけど、俺は別にそういったものを研究はしてないよ、ただ、より多くの女性を喜ばせようとしていると、必然的に型にはまっていくものでね」
 そう言い放って両手を広げるポーズも、ロマンスの王子様そのものに見えた。
「何で多勢必要なんだ?」
 ふいにタカオが言った。
「俺は、ククリがいればいい、ククリだけが欲しい、『他』も、『たくさん』もいらない」
「けどタカオ、世の中に女性はそれこそ星の数ほどいるんだぞ? もっと自分に似合う、ベストな相手がいるかもしれないじゃないか?」
 至に言われて、タカオは少し考えたが、やはり答えは同じだった。
「なんで比べる必要がある? 別に比べてもいいけどさ、俺はククリに会って、欲しいと思った、今までそんな気持ちになった事は無いし、東京に来て多勢女の人も見たけど……、うん、やっぱりククリが一番だ」
 にぱっと、微笑んだ音が聞こえてきそうなほどの素直な笑顔に、至は毒気を抜かれ、菊理はひたすら恐縮した。
「……これは、ごちそうさまと言うべきなのかな……、菊理、君はどうやら運命の相手って奴に会えたんだね」
 珍しく、至がわずかに寂しそうな顔をした事に驚いて、菊理は皮肉では無くてこう言った。
「あなたにも、きっといる」
「……だといいけどね」
 菊理は、初めて至の心の柔らかな部分に触れたような気がした。
 菊理は驚いていた。当然修羅場になるものだと思っていたし、なじられ、軽蔑されると思っていたからだ。
 けれど、逆に考えれば、至にとって菊理はあくまでも飾りの為の花嫁にすぎず、菊理でなくてはならない理由は一つも無いのだという事に気づいた。
 少し前の菊理であれば、そんな事にすら傷ついて、自分の無価値さを嘆いただろうが、今は違っていた。
 タカオが浴びせる菊理自身を求める言葉が、菊理を自分で思うよりもずっと強くしてくれていた。
 タカオが人成らぬものであったとしても、タカオが菊理に注いでくれる溺愛と言ってもよい愛情からすれば、それは取るに足らぬ事だった。
「出資の件についてだけれどね」
「ええ、それはもちろん」
 菊理の実家に対しての出資については、婚約が破談になる事で話としては消えるのだが……。
「君か君の両親の方から俺の両親に直接プレゼンをしてみるのはどうだろう? あの人達はあれでビジネスについては利に敏い、儲けを出す自信があるのならば、一度だけのチャンスではあるけれど、時間をとるくらいのことならばできるよ」
「兼田さん……」
「……はじめから、ビジネスとして話をすべきだったと後悔しているよ、だが、俺の父と母を納得できるかどうかは君達の問題だ」
 もっと早くに、きちんと話をしておけばよかった。そう、この時点では、菊理はそう思っていたのだ。
 けれど。
 菊理とタカオが出会えた事も運命ならば、その運命の先が兼田至と繋がっていた事も含めて運命だったのかもしれない……。
「おや、至じゃないか」
 声をかけて来たのは、壮年の夫婦だった。長身の男性は所々に白いものが混ざっているが、老けているというよりは彼をより渋く、貫禄と知性を際立たせていた。
 婦人の方も上品で、仕立てのよい服はオーダーメイドなのか、着こなしに隙が無かった。
「ああ、ちょうどよかった、俺、婚約解消するから」
「そう、菊理は俺のお嫁さんになるから!」
「……すみません、はじめから説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
 考えが飛躍しすぎている男二人に半ばあきれながら、菊理は至の両親になし崩しに説明する事になった。
 結婚するつもりだったんだけど、やっぱり辞めた女性とその恋人。

 そう紹介されると身も蓋も無いのだが、兼田夫妻は菊理にあきれるでなく、なじるでなく、息子の不義理を詫びてくれた。
 そういう意味で、この両親は息子を正しく理解しているのだな、と、菊理は安心した。
 しかし、予想外のところで会話に波が立った。

苫屋(とまや)さんって……赤江島の?」

 兼田夫人は説明の為にあたらしく予約をした個室で角砂糖をカップでは無くソーサーの方にスプーンごと取り落とした。
 それは、菊理がほんの一瞬嫁候補だったはずが他に相手ができてしまった事を説明した時よりよほど動揺しているように見えた。
「あれ? 母さん、赤江島に行った事あったっけ?」
 そう言う至はまだ行ったことは無いのだという。タカオがしきりに誘うので、それじゃあ言ってみようかな、などと軽口を叩いたほどだった。
「……ダメよ。 行ってはダメ」
 見れば、ついさっきまでにこやかに談笑をしていた兼田夫人は青ざめて震えていた。
「あなた、タカオって……本当にタカオとおっしゃるの?」
「ああ、そうだ、タカオがイタルになったから、タカオがいるんだって、母ちゃんが言ってたな、……イタル、……至? ああ! 同じ名前だった、そういえば!!」
 そう言うタカオにはひとかけらの悪意も無さそうで、無邪気にタカオがイタルと言い出す様子に、何か人を傷つけたり害そうという様子は微塵も感じられないのだが、兼田夫妻にとって、それはまるで過去を糾弾するかのような重みを持って、その場の空気すら変えてしまったのだった。
「そんな……苫屋さんはだって、確かに……」
 青ざめて震える夫人を支えるように、兼田氏は静かに言った。
「菊理さん、今日は家内の気分が優れないようなので、これで失礼させてもらいます、出資の件については前向きに検討させてもらいますが……」
 そう言い置いて兼田氏は至に一度視線を送ってから逃げるように言い捨てた。
「今日、ここであった事は他言なさらぬように……」
 そう言って、夫人を伴って立ち去った。

 至も、両親の不穏な様子が気にかかるようで、その場はそれでお開きになった。菊理は、解決しなくてはならない問題の一つがクリアになったと思う反面、何か別の、……そして、もっとより多くの人を傷つけてしまうような別の問題が発生してしまったのではないかと恐れた。