FILE:1『路地裏の亡霊』出題編
◇朝の学校にて
「なあ牽牛、聞いてくれよ!」
学校に着くなり、一人の男が興奮気味に声を掛けてきた。
「どうしたんだよ。朝っぱらから騒々しいな」
始業二十分前の教室にはまだ人はまばらで、比較的静かなその中に威勢の良い声が響く。
若干うんざりしながら目の前の人物に、仕方なく訳を尋ねてみることにした。
「牽牛は『路地裏の亡霊』って噂話、知ってるか?」
「路地裏の亡霊?」
この席に着くなり話しかけてきた人物は、千鳥飛燕(ちどりひえん)。
俺のクラスメイトで、男子の中ではおそらく一番行動を共にしている友人だ。
相変わらず自分で染めた茶髪を整髪料できっちりとスタイリングし、制服をだらしなく着崩している。
外見こそはチャラ男然としていて軽薄そうに見えるが、それなりに良い奴でもある。
特に年齢=彼女なし、と言う点は男同士のシンパシーを感じている。
「そうだよ! なあ、知ってるだろ?」
開口一番、奇妙なことを尋ねる友人を見て、思わず怪訝そうに尋ね返してしまう。
そんな俺を見ると、飛燕は興奮さめやらぬ様子で言葉を続ける。
「悪いけど、知らないな。何だそれ?」
生憎だが『路地裏の亡霊』なんて言葉には聞き覚えがない。
季節はまだ六月だ。
怪談の類いにしても少し気が早いだろう。
「かーっ! 知らないのかよ! ここ最近、割と有名な話なんだぜ?」
俺の回答が気に召さなかったのか、飛燕はオーバーリアクション気味に頭を抱える。
どうやら朝でも、こいつの騒々しさは変わらないようだ。
「おはよー。どしたん? 朝から楽しそうにさー」
会話の途中で横合いから挨拶が飛んでくる。
おそらく今さっき教室内に入ってきたであろう人物に、顔を向けて挨拶を返した。
「よお、柊」
「おはよーっす、ケンゴっち」
挨拶を返すと視線の先には、ニッカリと笑う女子生徒の姿があった。
彼女は柊南天(ひいらぎなんてん)、少しばかり珍しいが名前だが歴とした女子だ。
柊が片手を挙げて俺の挨拶に応えると、彼女の少しウェーブがかった栗色の髪が揺れる。
女子にしては高い身長とスラリと伸びる四肢、そしてどちらかと言えば端正な顔つきからか、こうして何気ない日常のワンシーンでも絵になってしまう。
クラスでも有数の美人、とそれなりに男子の間では評判になっている。
「おはよう。定家君、千鳥君」
「ああ、秋海棠もおはよう」
それに続くように投げかけられた声へ、俺は同じように挨拶を返す。
柊の隣には同じくクラスメイトである秋海棠椿(しゅうかいどうつばき)の姿があった。
いつも穏やかに笑っていて、控えめな笑顔とショートボブに切り揃えられた絹のように艶やかな黒髪が印象的な女子だ。
特に目立って容姿が抜きん出ているわけではないが、顔立ちは可愛いし何より一緒に居て穏やかな気持ちになれる雰囲気は好感が持てる。
「ああ、二人ともちょうど良いところに……」
登校してきた二人を見て、飛燕は泣きつくように声を掛ける。
「二人は『路地裏の亡霊』、って聞いたことあるよな? な?」
おそらく元ネタを知らなければ話が伝わりにくいのか、どうにか自分と同じように噂話を知っている人間を見つけたいらしい。
「『路地裏の幽霊』?」
「幽霊、じゃなくて亡霊な。柊も聞いたことあるだろ?」
「うーん……どうだったっけ」
「マジかよ……これって最近は、結構ホットな話題だと思うんだけどな……」
小首を傾げながら尋ね返す柊に、飛燕はツッコミを入れつつ期待を寄せる。
しかし、結局は思い出せなかったようで、飛燕はガックリと肩を竦めた。
「あ……その話なら聞いたことあるかも」
そんな中、秋海棠が怖ず怖ずと話を切り出す。
どうやら最初から知ってはいたようだが、二人の話が一段落するのを待っていたようだ。
「お! 椿ちゃん、知ってるの!?」
「う、うん。確か繁華街の方で、夜になるとお化けが出る……って話、だよね?」
「そうそう! それだよ! 流石は神様仏様椿様、そこにシビれる憧れるぅ!!」
ようやく話が通じる相手が見つかって、飛燕はうるうると涙目になりながらガッツポーズを取る。秋海棠はそんなリアクションを見て、困ったように苦笑している。
「牽牛とナンテンは流行に疎すぎなんだよ。それじゃ、あっという間に取り残されるぜ?」
視線を柊と俺に移すと、飛燕はやれやれと方を竦めて得意げに鼻で笑う。
見ていて腹立たしいことこの上ない。
「ナンテン言うな。こちとら放課後も原稿、帰ってからも原稿で忙しいんだっての」
柊は口を尖らせながら不満げに反論する。
彼女は自分の珍しい名前があまり好きではないらしく、一部の人間以外に名前で呼ばれることを嫌っている。
ちなみにここで言う原稿とは、おそらく同人誌か何かだろう。
柊は見た目こそ綺麗系のリア充女子だが、その実は男同士の熱い友情(意味深)をこよなく愛する筋金入りの同人作家だ。
部活も漫画研究部に所属していて、部活や個人で即売会にも参加していたりする。
カズラとはまた違ったタイプだが、柊もなかなかに強烈な趣味の持ち主だ。
「俺もその手の噂には興味ないからな。どうせただの噂だろ?」
言葉通り俺は、幽霊の類いを信じていない。
もしかしたら存在自体はするのかもしれないが、自分の人生において何の関わりも感じないと言った方がいいのか。
もし自分やカズラに関係することならまだしも、少なくとも好きこのんで首を突っ込みたい話題でもない。
「……それが本当に出るんだよ」
しかし飛燕は、俺たちの言葉に動じることなく、静かに言葉を続ける。
「どうせお前の友達とか知り合いが人づてで聞いた、みたいなレベルだろ?」
「いや、それも違うな。実際に見たヤツがいるんだよ……」
溜め息混じりに続けられるであろう答えを予測するが、飛燕は神妙な調子で頭を振る。
その様子はいつものようにおちゃらけたものではなく、どこか鬼気迫る迫力があった。
「それは――」
ゴクリ、と固唾を飲み込んで飛燕は言葉を続けようとする。
俺たちは茶々を入れるのを一旦止め、次の言葉を静かに待った。
「――俺……だ!」
存分にもったいつけ必要以上に間を取って、飛燕はクイッと親指で自らを示す。
口元には心なしか、得意げな笑みが浮かんでいる。
「よーし、はい撤収ー」
「そろそろ、一限目の用意もしないとね。
椿、課題やってきた?」
「あ、うん。一応、予習まではしてきたけど……」
「待って(はあと)」
それを確認すると俺は、手を叩いて解散の合図をした。
柊も率先して自らの席へと向かい、秋海棠はそんな椿と飛燕をチラチラと見比べながら躊躇いがちに後を追っていく。
「セイセイセーイ!!
ちょっとちょっとー、みなさん酷くないッスか??」
「いや、目撃者が千鳥ってだけで、信憑性が皆無なんだけど」
「だな。それとそのネタは古いぞ」
その様子を見て飛燕は、抗議の声を上げる。
ある種のお約束を終えて戻ってきながら柊が答えると、俺も同意する意味で頷いた。
「だから、昨日の夜に例の『路地裏の亡霊』に遭遇したんだって!」
「だから朝から騒いでたのか」
「昨日のバイトの帰りにさ……俺――」
そうして、飛燕は話を切り出した。
昨日、自分が遭遇した『路地裏の亡霊』についての体験を。
◇千鳥飛燕の恐怖の現場
今からする話は昨日、あたしが体験した話なんですけどね。
昨日は夕方からバイトだったわけですよ。実は最近、バイトを一つ増やしましてね。
初出勤なもんだからつい気合い入れて、遅くまでシフトに入っちゃった。
んでもってバイトが終わって店から出ると、外はすっかり真っ暗なわけですよ。
……ンでぇー、バイトの疲れで疲労困憊だったもんだから、一刻も早く家に帰りたかったの。
ちなみに新しいバイト先からだと、居酒屋裏の裏路地を通った方が近道だった。
ろくに街灯もなくて薄暗い道だけど、まあ、あたしもとにかく疲れてたもんで多少は迷ったけど、結局はそこから帰ることにしちゃった。
……ンでぇー、薄暗くて不気味な路地裏を歩いてると、なーんかイヤな予感がしたわけ。
「うわァーヤダなァー、気持ち悪いなァー」
そう思った瞬間。
ここ最近、巷を騒がせているとある噂話を思い出しちゃった。
『夜に繁華街の裏路地を通ると、亡霊の声が聞こえてくる』
あたしも友達か、はたまたその知り合いかに聞いた話かは定かじゃないですけどね。
夜の繁華街。
人気のない路地裏を通ると、幽霊が出るって言うんですよ。
話を聞いたときは冗談半分で怖がってましたけど、思えばその幽霊だか亡霊が出るって言うのは、確かここら辺だったんですよ。
「幽霊なんていない! 亡霊なんていない!」
不気味な路地裏の様子を目の当たりにして、噂が本当に怖くなってきたあたしは、そう自分に言い聞かせて早足でその場から立ち去ろうとしたんですよ。
正直、「うわーヤバいなァー」と思いつつも、一刻でも早くそこから脱出したあたしは必死に出口を目指したんですよ。
幸いあと少しで、路地裏から抜けられる距離まで来ました。
でもね、あたしはそこで聞いちゃった。
「イッ、イィィィィッー!!」と地面の底から響いてくるような禍々しい怨霊の叫び声を。
突如、「後ろを振り返っちゃいけない! 振り返っちゃいけない!」という声が頭の中に響いてきたんですよ。
……ンでー「うわーヤバいなァー」と思いつつも、思いきって後ろを振り返っちゃった。
でも後ろには、誰もいなかったんですよ……人間はおろか、犬や猫の一匹もいやしない。
周囲を見渡しながら「頼むから勘違いであってくれナンマイダブナンマイダブー」と一心不乱にお経を唱えてたんですが、また「ウッ、ウオォォォォンッー!!」とこの世の物とは思えない声が全身に響き渡ってきたんですよ。
辺りにはあたし以外、誰もいないはずなのに、声はどこからか聞こえてくるんですよ。
もう我慢できなくなったあたしは、死ぬ気で家まで走った。
幸いなことにあの不気味な声は、もう聞こえてくることはなかったんですよ。
でもね、あたしは今もこう思うんですよ。
――今夜もまた亡霊があの路地裏で、誰かの前に姿を現すんじゃないか……ってねぇ。
◇路地裏の亡霊:出題編
「一つ質問していいか?」
飛燕がひとしきりに語り終え、満足そうな表情で話を締めると俺は静かに口を開いた。
さっきの話を聞いて、どうしても聞きたいことがあったからだ。
「なんで稲川○二の口調なんだよ」
喋り方といい、身振り手振りといい、どう見ても怪談で有名なあの人そのものだった。
むしろそっちの方が気になって、話に集中できなかった。
「いや、この手の話って言ったら稲○淳二だろ」
「妙に似てるのが逆にムカつくわね……」
「うん。『ンでぇー』の辺りとか特にそっくりだったよね」
飛燕は質問へ得意げに答えると、柊の呟きに秋海棠が頷いた。
二人が言うように、妙に堂に入っている語り口が何だか腹立たしい。
「と言うかお前、またバイトを増やしたのかよ」
「おうよ! 今度はカラオケ屋でな」
「この時期にまだバイトしてるとか、あんたも相変わらず余裕ねぇ……」
「へへっ、褒めるなって」
「えーっと……多分、褒めてないと思うよ?」
俺たちは既に高校三年生だ。
今はまだ六月だから実感こそ薄いが、夏休み明けからは本格的に志望校を決めて受験勉強に専念しなければならない。
受験生にとってこの夏は分水嶺と言っても過言でなく、そんな大切な時期にバイトを増やす飛燕はある意味では大物かもしれない。
「おいおい、何を言ってんだよ!
この夏は高校生活最後の夏休みなんだぜ?
エターナルサマーだ! 軍資金はたっぷり必要だろ!」
「進路がフリーな、某水泳アニメみたいな言い方しないでよ」
「どっちかと言えば、ラストサマーの方が正しいんじゃないかな?」
そんな俺たちの心配を余所に、満面の笑みで答える飛燕。
ツッコミを受けてもその姿勢を崩さないこいつは本当に人生を楽しんでいるな、と思う。
「いいか、夏と言えば海にプール、それから夏祭りと花火大会。それからバーベキューに肝試し……イベント満載じゃんかよ!」
指折りに夏のイベントを数えながら、飛燕はこれから訪れる夏休みに思いを馳せる。
確かに夏と言えば、行事が目白押しの季節だ。
「そうだ、この面子で海とかどうよ??
せっかくだから泊まりがけでさ!」
「いや悪いが俺は、泊まりはパスの方向で」
盛り上がってきた飛燕は、俺たちに向かって意気揚々と提案をする。
しかし俺はそれに対して、きっぱりと断りを入れた。
「はぁぁぁ――ッ!? なんでだよ!」
「妹の世話があるからな。
流石に一日以上、家を空けるのはマズい」
せっかく描いた未来図を早々に打ち砕かれた飛燕は、大仰な調子で抗議の声を上げる。
「いやいやいやいや、流石に一日か二日くらい大丈夫っしょ」
「馬鹿野郎。俺が居ない間、妹に何かあったらどうするんだよ」
「いくら何でも過保護過ぎだろ……シスコンか!」
「シスコンじゃねぇよ。
これくらい全国でも平均的なレベルだろ」
ご冗談を、と言わんばかりにツッコミを入れてくる飛燕へ、言い聞かせるように答える。
飛燕・柊・秋海棠の三人には、カズラの事情は既に話してある。全て包み隠さず……とまでは言えないが、ある程度の事情までは説明した。
その上でこいつは、まるで気にしないように接してくれている。
いつものように自然体で、決して腫れ物扱いすることなくカズラのことを話題に挙げる。
それが気遣いなのか、はたまた特に何も考えていないのかは分からない。
ただそうやって、引きこもりと言うだけで妹のことを偏見の目で見ることなく、一介の友人の妹として扱ってくれることが、俺には何より嬉しかった。
「えー。ケンゴっちが行かないなら、あたしもパスかなー」
「おいおい、お前もかよ……」
俺とのやり取りを見ていた柊がそう言うと、飛燕は不満そうに顔をしかめる。
「だってさー、千鳥だけだったら一人でナンパとかしてそうじゃん?」
「(ギクッ)」
「ほらー、こいつ絶対にケンゴっち誘って、ナンパに繰り出そうとしてたよー」
「HAHAHA、いやだなお嬢さん。
もちろん、ばっちりエスコートさせて頂きますとも」
「言い訳乙。もっとマシな嘘つきなさいよ」
その言葉が図星だったのか、飛燕はぎくりと表情を強張らせて空々しい棒読みをする。
柊はそれを見て呆れたように、ジト目で非難するように言葉を続けた。
「それにあたしも夏休みはコミットの締め切りがあるから、泊まりがけで遊びに行くような余裕があるか分からないし」
「今やってる原稿がそれなのか?」
「そうそう。今回、新刊を二冊出すことになっちゃってさ……いやー、勢いって怖いね」
ここで話に出たコミットとは、日本最大規模の同人誌即売会のことだ。
夏と冬の年二回に渡って開催され、その入場者の数は五十万人をも越える。
参加サークルは三千五百もあり、柊はその内の一つとしてイベントに参加するらしい。
――どうして俺がそんなことを知ってるかって?
それは前回の冬に、カズラのお使いで参加したからだ。
コミット初参加にして悪夢のような一日だったが、この話は長くなるので割愛しよう。
「でも別に泊まりじゃなくても、みんなでどこか遊びに行きたいよね」
思うように話が進まない飛燕への助け船にか、秋海棠がやんわりと話を切り出す。
「そうだな。
日帰りで行ける範囲くらいならいいかもしれないな」
「あたしも流石に、夏休みが原稿と受験勉強だけじゃ嫌だしね。
せっかくだから、たまにはパーッと遊ぶのもいいかも」
秋海棠の言葉に俺と柊は頷く。
確かにあまり遠出は気が進まないが、日帰りくらいなら俺もみんなと出掛けたいのが本音だ。
そうすれば、カズラにも良い土産話ができるに違いない。
「よーし、決まりだな!
それじゃ、早速どこに行くか予定を――」
一同がようやく乗り気になると、待ってましたと言わんばかりに飛燕が身を乗り出す。
目を爛々と輝かせ、夏休みの予定を話し合おうとするが、不意に言葉を切ってしまう。
「――って、今はそんな話じゃないんだよっ!」
自分で話に乗っておいてその言いぐさもないとは思うが、飛燕はようやくさっきまで『路地裏の亡霊』について話していたのを思い出したようだ。
「いや、別に夏休みの予定は大事なんだけどね。今はこっちの話が重要って話でね……」
「別に変な声を聞いただけだろ?
次からその道を通らなきゃいいだろ」
さっきの話をまとめると、飛燕はバイト帰りに正体不明の声を聞いただけだった。
それならば次からは、その道を通らなければいいだけではないのだろうか。
「勘弁してくれ!
この不気味な感じを放っておけって言うのかよ!?」
投げやりに尋ねると飛燕は、とんでもない! と言わんばかりに首を横に振る。
「それにあの道を通らないと、家までかなり遠回りになっちゃうんだよぉ……これから毎日、って思うと厳しいって」
「じゃあ、我慢して路地裏を通れよ」
「嫌だよ! だって怖いじゃん!」
「じゃあ、遠回りして帰れよ」
「嫌だよ! だって遠回りなんだよ!」
「じゃあ、どうしろってんだよ?」
完全に堂々巡りな押し問答を繰り返していると、うんざりとしながら問いかける。
「だーかーら――今日、一緒に現場に来てくれない?」
「……やっぱり、そうなるのか」
「頼むよー!
オレ以外の人間から見て亡霊なんていないって分かったら、きっと昨日のことは勘違いだって思えるしさ。
な? な??」
顔の前で両手を合わせて拝み倒してくる飛燕を見て、溜め息混じりに呟きを漏らす。
話が出た時から嫌な予感はしていたが、それはこうして現実になってしまったようだ。
「ゴメン、ケンゴっち!
あたし、今日はどうしても部活に顔出さなきゃでさ……」
すぐさま顔の前で両手を合わせ、申し訳なさそうに断りを入れる柊。
救いを求めるように柊と秋海棠へ視線を移すが、流石と言ったところか。
同情で付け込む前に、先制パンチで上手いことはぐらかされてしまった。
「あ、あの……私なら大丈夫、だよ?」
がっくりと肩を落とすと、秋海棠が慌てて声を掛けてくる。
必死に笑顔を作ってはいるが、あまり気乗りしていないことは俺でも分かる。
「秋海棠は本当に優しいな……ありがとう」
そんな気遣いに、思わず心が温まる。
こうやって他人に優しくできることが、秋海棠の良いところだと俺は思う。
「でも、大丈夫だから。
流石に幽霊とまではいかなくても、変質者くらいは出るかもしれないからな。流石に女の子は連れて行けないよ」
秋海棠を気負わせないために、やんわりと断りを入れる。
きっと来いと言えば来てしまう彼女だからこそ、こう言えば納得してくれるだろう。
「そ、そっか……うん、分かった」
意図を察してくれたのか、コクコクと頷く秋海棠。
しかしその顔が僅かにだが、赤いような気がするのは俺の見間違えだろうか?
「よっしゃ!
それじゃ牽牛は放課後、オレと一緒に現場の調査な」
「ったく、仕方ねぇな……」
話はまとまった、と飛燕はパチンと手を叩いて放課後に調査を決行することを告げた。
それに対して、気怠い調子で溜め息をつく。
「で、時間とかはどうするんだ?」
「ちょっとオレは一旦、家に帰って用意したいものがあるんだよな」
「じゃあ一旦、家に帰ってまた待ち合わせにするか?」
「だな。そうするか」
具体的な話をし始めると、それを遮るようにホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。
同時に教室でたむろしていた生徒たちが、一斉に各々の席へと戻っていく。
「ヤバッ! じゃあ、またお昼にね!」
「二人とも、またね」
それに倣うように柊と秋海棠も自分の席へと戻っていく。
俺の後ろの席である飛燕もそそくさと席へと座る。
「まあ、細かい話は次の休み時間にでも決めようぜ」
「ああ、そうだな」
そう答えると同時に、教師がドアを開けて教室へと入ってくる。
会話を切り上げて点呼を取る教師に視線を向けて、朝のホームルームを受けるのだった。
◇カズラからの依頼
「――と、まあ……そんな感じでこれから、また出掛けなきゃいけなくなった」
毎日の日課である今日の出来事を話し終えると、溜め息混じりにそう締めくくった。
「ふーん……『路地裏の亡霊』、かぁ」
膝の上からこちらを見上げながら話を聞いていたカズラは、先ほどの話で気になったのかポツリと呟きを漏らした。
「知ってるのか?」
「うん、まあねー」
その反応が気になった俺は試しに聞いてみると、意外なことにカズラは頷いてみせた。
「ちょっと待ってね――よいしょ、っと」
カズラは俺の膝の上から起き上がると、何を思ったのか再びパソコンの前に鎮座する。
そして警戒にマウスをキーボードを操作し、どこかのウェブサイトを表示した。
「それは?」
「nixi(ニクシィ)ってSNSだよ、お兄ちゃん」
「聞いたことあるな。確か一時期流行ったヤツか?」
SNSとはソーシャル・ネットワーキング・サービスの略称で、インターネット上の交流を通して社会的ネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)を構築するサービスのことだ。
その定義は幅広いが、ここではコミュニティ型の会員制のサービスが当て嵌まるだろう。
簡単に言えばコミュニティーや日記などの機能を通して、ネット上から個人間の交流を図るウェブサービスのことだ。
「これは地域密着型のSNSでね、カズラも登録してるんだ」
「それって他のSNSと何か違うのか?」
「SNSにも色々と種類があるからねー。
ここは自分が実際に住んでいる地域を設定することができるんだよ。
住んでる場所が一緒なら話しやすいでしょ?」
「つまり同じ地域に住んでいるユーザー同士が集まって、より密接な交流をウリにしてるってわけか」
「さっきの話、試しにコミュニティーで検索してみたら、やっぱりヒットしたよ」
ディスプレイには『路地裏の亡霊の体験談』という題名のトピックスが表示されていた。
「コミュニティーってのは?」
「SNS上でのグループのことだよ。
自分と同じ考え・興味を持つ人、同じ環境にいる人と集まることができるから、まあ言ってみればネットでのしゃべり場みたいな感じかな」
「じゃあ、この場合だと『路地裏の亡霊』について遭遇したユーザーや興味を持っているユーザー同士が交流を図っているってことだな」
スレッドを読み進めていくと、そこには多くの体験談が書き込まれていた。
その数は思いの外に多く、これが暗に『路地裏の亡霊』の存在を証明しているようだった。
「なるほど。あながち飛燕の勘違い、ってわけじゃないみたいだな」
その様子を目の当たりにして、ポツリと独り言のような呟きを漏らした。
正直、飛燕の勘違いくらいにしか思っていなかった話が、急に現実味を帯びてくる。
「目撃談はどれも夜に限定されてるみたいだね」
「それから遭遇している場所も、だいたい同じみたいだな」
カズラと二人で内容を読んでいくと、ある程度の法則性があることが分かった。
体験談はどれも必ず夜に限定されていて、遭遇場所もだいたい一定だった。
「全部の体験談に共通してるのは、不気味な叫び声を聞いた……って点か」
「でも、実際に亡霊の姿を見た人はいないみたいだね」
「姿は見えないけど、声は聞こえる――か」
全ての内容に共通しているのは、不気味な声を聞いたと言うことだった。
この世のものとは思えない叫び声だとか、地獄から聞こえる怨嗟とか、地の底へ響く絶叫とか、表現の仕方は人それぞれだが、そこだけは変わらないだろう。
「正直な話、野良犬か何かの鳴き声じゃないか、とは思うんだけどな」
「んー……本当にそうかな?
だとしたら、この中の一人くらいは気付きそうだけど」
「じゃあ、表の店から聞こえてくる客や店員の声とか?
あそこら辺は居酒屋とか多いし」
「それも同じような気がするんだよねー。
ここで引っ掛かってるのは、みんな聞こえてきた声を“不気味”って言ってることなんだよ」
「薄暗い路地で急に声が聞こえてきたら、そりゃあ不気味だろ」
「うーん、それはそうなんだけど……」
正直な話、俺にはそうとしか思えなかった。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言う言葉もある。
心霊現象なんて根本にトリックがあって、それが分かってしまえば大したことはないものだ。
問題なのは観測者側が心理的な恐怖によって、事実を脚色してしまうことだ。
しかしカズラはどこか納得がいかないように、難しそうな表情で唸っている。
「まあ、それも今から確かめてくるんだけどな」
ここで俺たちが頭を悩ませていても、この件は解決するわけではない。
今の俺にできるのは飛燕に同行して、これが与太話の類いであると証明することだけだ。
「あ、そうだお兄ちゃん。
ついでにちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
『路地裏の亡霊』の話題は一区切りつくと、カズラは思い出したように声を上げた。
「ん、どうした?」
「今から繁華街に行くんだよね?」
「そうだけど、何かお使いか?」
また何か買い出しの類いだろうか、と俺は思いながら問いかける。
大抵の物は通販で事足りるが、それでも実際の店舗で買わなければ手に入らないものもある。
そう言ったものは、お使いを頼まれるのがいつものことだった。
「お使い、と言うか頼まれ事をしてもらえる?」
「頼まれ事?」
いつもとは違うニュアンスに俺は思わず首を傾げる。
そうするとカズラは、Konozamaのダンボールから黄色い箱を取り出した。
「これを今から言う場所に撒いてきて欲しいの」
「【野良犬忌避いやがる砂】……?
何だこりゃ??」
「野良犬退治に使う忌避剤だよ」
「なんでまた、そんなもんを……」
確かにパッケージにも、臭いに敏感な犬や猫が嫌う臭気を持つ忌避成分を配合した砂状の粒剤、とは書いてある。
しかしどうしてカズラが、こんなものを持っているのかは依然として分からない。
「繁華街のメインストリートから一本入った路地に、廃ビルがあるのは知ってる?」
「いや、初耳だな」
「ちょっと前からそこに、野良犬が集まるようになったらしいんだよ」
「それは分かったけど、それとお前がどう関係あるんだ?」
廃ビルに野良犬がたむろしている、なんてことはよく聞く話だ。
だがどうしてカズラが、その野良犬の退治をしようとしているのだろうか。
「その廃ビルの通りって結構、裏道で使う人がいるみたいなんだ。
だから最近、nixiのコミュニティーでも話題になっててさ」
「それで、どうにかしたいって話か?」
「うん、そうなんだ。お願いできる、お兄ちゃん?」
「別にそれは構わないけど、そんなの他のヤツにやらせりゃいいんじゃないか?」
野良犬のせいで地域住民が被害を被っているのは分かったが、外に出かける必要のない人間がどうしてその問題に対処しなければいけないのだろうか。
冷たいと思われるかもしれないが、当人がどうにかするべきではと思う。
「ま、そこはコミュニティーのリーダーの辛いところだよねー」
「お前、リーダーなのかよ。初耳だぞ」
「これでも参加者三桁越えの大規模コミュニティーのリーダーDEATH☆」
「だからって、そんな見栄を張らんでもいいだろうに……」
人間関係で見栄を張りたくなる気持ちは、まあ分からなくもない。
自分が他人を率先するような立ち位置ならば尚更にだろう。
例えネット上の関係でしかなくとも、きっとそれは変わらないと思う。
「仕方ねぇな……分かったよ」
「わーい! お兄ちゃん、ありがとう(はあと)」
そもそも妹からの頼み事を断れるはずもなく、やれやれと頷くのだった。
「とりあえず、入り口と中にも適当に数カ所撒いてきてね。
後はデジカメを貸すから、証拠に何枚か写真とか撮ってきてもらってもいい?」
「あいよ。写真は何枚か適当でいいんだな?」
「うん。それで大丈夫だよ」
デジカメを受け取ると、久しぶりにそれを操作しながら続けられた言葉に頷く。
「あ、そうだ――」
一通りの使い方を復習していると、カズラが何か思いついたように声を上げた。
「せっかくだからそれを使って、現場の写真を撮ってくれば?」
「現場の写真?」
「『路地裏の亡霊』が出るって言う現場の写真。
もしかしたら、何か写ってるかもよ?」
ニシシ、と意地の悪い笑みを浮かべながらカズラは答える。
こいつは心霊写真の類いでも期待しているのだろうか。
「そうだな。
何かの証拠になるかもしれないし、撮っておくか」
俺としてもその意見には賛成だった。
現場の写真が幽霊騒ぎの正体を掴むヒントになるかもしれない。
流石に日が暮れてしまえば写真を撮ることは困難でも、今からならば多少は日が昇っているので撮影することもできるだろう。
「それじゃ、行ってくるよ」
携帯電話を見てみると、そろそろ家を出ないと待ち合わせに間に合わない時間だ。
ベッドから立ち上がると、デジカメをポケットにしまいカズラに外出を告げる。
「うん、気を付けてね。
まだ日があるから例の野良犬も集まってないとは思うけど、もしもの時は無理はしなくてもいいからね?」
「分かったよ。まあ、期待しないで待っててくれ」
ドアの方を向くと、カズラはこちらを気遣うように声を掛けてくる。
そんな言葉に軽い調子で答えると俺は、ひらひらと後ろ手を振って部屋を出て行った。
◇廃ビル探索
「お、牽牛。来たな」
「悪い、待たせたか?」
夕方から夜に移り変わる時間帯。
賑わいを見せる雑踏の中から飛燕の姿を見つけると、小走りで駆け寄っていく。
待ち合わせ時間の五分前だったが、どうやらそれより前に到着していたらしい。
「いや、オレも今さっき来たとこだよ」
待たせてしまったことについて謝罪するが、飛燕は鷹揚に笑いながら答える。
普段はおちゃらけているが、こういう時間に余裕を持ってるところがコイツの良いところでもある。
「んじゃ、行こうぜ」
そう言うと飛燕は引率するように歩き出す。
俺はその後について行くと、カズラからの頼まれ事を思い出した。
「そうだ。ちょっと寄り道してもいいか?」
「寄り道? ああ、別に大丈夫だけど。
どこ行くん??」
突然の提案に飛燕は小首を傾げながら問いかける。
「ここからそんなに遠くないはずなんだけど……メインストリートから一本外れた辺りに、廃ビルがあるの知ってるか?」
「ああー、知ってる知ってる。確かずっと前から放置されてるビルっしょ?」
どうやら飛燕は例の廃ビルを知っていたらしく、納得したように頷いて見せる。
「でもどうして、ンなところに用があんの?」
「ああ、実はな――」
もっともな飛燕の問いに、俺は事情を説明した。
カズラに頼まれた経緯はややこしくなるので伏せたが、知り合いに頼まれて野良犬退治をしたいと告げる。
「へー、なるほどー。
そういやちょっと前に、保健所が野良犬狩りしてた、って聞いたな。
だから今度はそこに居着いちまったのかねぇ」
「と言うわけで、悪いが少し寄り道したいんだよ」
「オッケー、じゃあ日が暮れないうちに行っちゃおうぜ」
暫く歩いて行くと、メインストリートから脇道に外れて曲がっていく。
煌びやかなネオンなどからは遠ざかっていき、ビルの隙間から差し込んでくる夕日が照らす道を進む。
程なくすると視界の先には、灰色のコンクリート造の建物が見えてきた。
「うっ……何か不気味だな」
入り口の前までやって来ると、目の前にある廃ビルを見上げて、飛燕が引きつった表情で呟きを漏らした。
所々にヒビの入ったコンクリートの壁は剥き出しになっていて、長い年月野ざらしにされていたことが原因なのか劣化による変色も見受けられる。
「確かに少し、気味が悪いな」
ドアや窓は備え付けられていないようで、ぽっかりと開いた入り口は大口を開けて来訪者を飲み込もうとしているように見えなくもない。
「それじゃ、とっとと済ませるか」
バッグから忌避剤の箱を取り出すと、入り口付近にそれを散布する。
分量は箱に書いてある通りになるように気を使う。
「へー、それが野良犬除けの薬?」
「ああ、何か犬の嫌いな臭いらしいを放つらしいぞ」
入り口付近に忌避剤を巻き終えると、俺たちはビルの中へと足を踏み入れた。
足元には砕石が敷き詰められていて、床にはセメントの袋や建設資材が放置されている。
「うへぇ……中も殺風景だな……」
「何だが工事の途中みたいな感じだな」
窓から差し込んでくる夕日を頼りに更に進んで行く。
よく見てみると、壁からは電気のコードや、水道管。
それに排水用の太いパイプも剥き出しになっている。
床に放置されている建築資材と相まって、工事の名残を感じさせた。
「――よし、こんな感じでいいだろ」
俺たちは暫く適当に歩いて忌避剤を撒いて撮影、というサイクルを繰り返した。
これでビルの内部にもある程度は散布も終わっただろう。
飛燕も内部も不気味さにぼやきながらもそれに付き合ってくれた。
「よし! 用も済んだなら早く出ようぜ?」
一刻も早く廃ビルから出たいのか、飛燕は急かすように声を掛けてくる。
「そうだな。じゃあ、行くか」
俺は最後の撮影を終えると、デジカメをポケットにしまってその言葉に頷いた。
そして俺たちは、廃ビルを後にしたのだった。
◇路地裏の亡霊:前哨編
「あー、本当に気味悪かったなー」
「悪いな、付き合わせて」
廃ビルを後にした俺たちは、今度こそ当初の目的地である路地裏へと向かっていた。
その道中で飛燕が漏らした呟きに、謝罪の言葉を述べる。
そもそもここまで来たのはこいつのワガママに付き合ってだが、こちらの都合に巻き込んでしまったことについてはキチンと謝らなければならない。
「いや、気にすんなって。
今日だって、無理に着いてきてもらったんだからさ」
「そうだったな。
と言うか、あそこでビビってるようじゃ先が思いやられるんだが」
これから俺たちが向かうのは、幽霊が出ると言われる場所だ。
ただの不気味な廃ビルとは比べものにならないだろう。
「げっ……言うなって」
飛燕は俺の言葉を聞いて、げんなりしたように頭を垂らす。
おそらく昨日の出来事を思い出して、憂鬱になっているのだろう。
「確かこの辺だろ?」
「ああ……」
暫く歩いていると俺たちは、例の路地裏の近くまでやって来た。
「ここの居酒屋を右に曲がって、裏路地に入ったところが昨日の場所だ」
二人して顔を見合わせると程なくして、頷き合いながら裏路地に入っていく。
「確かに不気味ではあるな」
「だろ?」
裏路地に入ると、ポツリポツリと点在する街灯の薄暗い光が頼りなく道を照らしていた。
今はまだ夕日があるからマシだが、完全に日が落ちれば薄暗さは大きく増すだろう。
「今のところ、特におかしな点はないな」
俺はデジカメを構え、周囲の写真を撮りながら呟きを漏らした。
薄暗さが不気味ではあったが、特におかしな点は見受けられない。
想像通りの路地裏、と言うイメージに相違はなかった。
「だな……改めて見ると、別におかしな点はないんだけど……」
それでも、と飛燕は何か言いたげな表情で言葉を濁した。
「でも……オレは昨日、確かに聞いたんだ」
自らに言い聞かせるように呟きを漏らす飛燕。
そんな姿を見てもしかしたら飛燕は、ただ亡霊に怯えてるわけではないのかとふと思う。
人は本質的に、他者との意見の相違を恐れる。
それは学校や社会と言ったコミュニティーで生きていく上では必要な感性で、他者と同調することは、円滑な人間関係を構築するのに必要な処世術とも言える。
簡単に言えば、出る杭は打たれる。
異質な者はコミュニティーから爪弾きにされる。
社交的な性格の飛燕にはそんな経験論が染みついていて、今回の件も自分と俺たちの意識の差が生まれることを本能的に恐怖しているのではないだろうか。
かといって今回の件が完全に勘違いだった、と自分を騙せるほど飛燕は器用ではない。
だからこそ同行者を募って、真実を検証したかったのだろう。
例えそれがどちらに転んでも自分以外の観測者がいるだけで、本人としても決着がつきやすくなるのかもしれない。
「よし……昨日、声を聞いたのは確かあの辺だ」
二人して神妙な面持ちで路地裏を歩いていたが、飛燕は少し先を見ると強張った表情でこちらを見る。
「間違いないのか?」
「ああ。あのゴミ箱辺りを通ったのは間違いないから、ここから先で合ってるはずだ……」
確認するように尋ねると、飛燕は緊張の感じられる顔で頷いた。
飛燕の視線の先には壁際にポリバケツのゴミ箱が並べて置いてあり、それが目印になっているようだ。
「それじゃ……秘密兵器の出番だな」
そう呟くと飛燕はポケットから黒いスティック状の物体を取り出した。
「ボイスレコーダーだ」
「家に帰って取ってくる物、ってのはそれのことだったのか」
わざわざ用意がある、と家まで帰った理由にようやく納得することができた。
「これで亡霊の叫びが録音できれば、証拠にもなるっしょ?」
確かに昨日の話だけでは、他の人間を納得させるだけの根拠がないのも事実だ。
今日俺が同行しても証人が二人に増えるというだけで、当事者以外には証明をすることができない。
そう考えればこうして、証拠を残すのは良いアイディアだと思う。
「本当はデジカメもあるんだけど、そっちは牽牛が持って来たみたいだからな」
「なるほど、用意周到ってわけか」
どうやら飛燕もそれなりに考えて、今日の検証に臨んでいるらしい。
「じゃあ、行くぜ……」
飛燕はボイスレコーダーのスイッチに手を掛け、俺はデジカメを構えながら。
二人して慎重に路地裏を進んで行く。
途中で足元に排水溝が設置してあったが、特に異常は見受けられなかった。
「…………」
「…………」
路地裏は不気味な程に静かだ。
表の雑踏から僅かに喧噪が流れ込んでくるだけで、後は室外機や自分たちの靴音くらいしか聞こえてこない。
「……聞こえて来ないな」
「……そうだな」
靴底がコンクリートの地面を叩く音を聞きながら飛燕がポツリと呟きを漏らした。
俺は周囲の写真を撮影しながらその言葉に頷く。
「暫く待ってみるか……?」
「そうだな」
もうすぐ出口が見えてくる辺りまで来ると、飛燕がそう提案した。俺はその言葉に頷く。
「…………」
「…………」
俺と飛燕は暫くその場に立ち止まったり、引き返してみたりもした。
しかし、一向に待っても声は聞こえてくることはなかった。
「あれー、おかしいな?」
実際に亡霊が現れなかったことへの安堵半分、亡霊の存在を証明できなかったことへの失望半分、そう言った複雑な表情で飛燕は首を傾げた。
「もしかしたら、時間帯が決まってるのかもな。昨日来た時は何時頃だったんだ?」
「えーと……今よりも二時間くらい遅かったと思う」
考えてみれば空には、まだ僅かに夕日がある。完全な日没までには早い時間だ。
日没と亡霊の出現が関係してるかは分からないが、条件はなるべく近づけた方が再現性も高いだろう。
「それじゃあ、その時間にまた来よう」
「だな……じゃあ、どっかでメシでも食ってくか!」
確かに時間つぶしとしては悪くない提案だ。俺は飛燕の言葉に頷いた。
「よし、店は任せるからお前の奢りな」
「なんでだよ!」
軽い調子で言うと、飛燕は素っ頓狂な声を上げる。
「出張料、ってことで」
「くっ……殺せ!」
「バイトを増やしたんだから問題ないだろ」
「ったく、仕方ない……分かったよ。今日はオレが出す」
まあ、ここまで出張ったんだから、それくらいで手を打ってやるとするか。
こうして妥当な線で予め決めておけば、こいつも後々で気兼ねないだろう。
千鳥飛燕と言う男は意外と誠実で小心者なのだ。
「なら肉食いに行こうぜ、肉」
「高いのは勘弁な……ここら辺に美味いラーメン屋があるから、そこで勘弁してくれよ」
「仕方ねぇな」
いつものようなやり取りをすると、緊張で張り詰めていた弛緩していくのが分かる。
結局俺たちは、実際に亡霊に遭遇しなかったことに安心していた。
だからこそ、いつも通りのやり取りが堪らなく恋しかった。
「よーし、そうと決まったら行くぞ!
あそこの店、この時間帯は混むんだよ」
「げっ、マジか……あまり長い時間並ぶのは勘弁だぞ」
こうして俺たちは路地裏を離れ、繁華街の雑踏の中に紛れていった。
この後、夕食を食べ終わったまたここを訪れたが、結局は何の成果のなかった。
『路地裏の亡霊』は今夜、俺たちの前に姿おろか声すら現さなかったのだった。
◇亡霊の正体
「――で、結局は何もなかったの?」
「ああ、そうなんだよ」
家に帰ってデジカメを返すためにカズラの部屋に寄ると、俺は事の顛末を説明した。
「ふーん……そっか。
残念だったね、お兄ちゃん」
カズラは俺の撮ってきた廃ビルの写真を確認すると、メモリーカードをパソコンに接続してデータを早速アップロードしているようだった。
「まあ、これで亡霊なんていないって分かっただろ」
カズラは残念と言ったが、俺としては幸いと言ってもいい。
実際に心霊現象などに遭遇せず、『亡霊なんていないと証明する』と言う当初の目的は果たせたのだから。
「んー、本当にそうかなー」
「どういう意味だ?」
ディスプレイを見ながら呟きを漏らすカズラへ、俺は怪訝そうに問いかける。
「だって……幽霊が出なかったのは確かだけど、それが幽霊はいないって言う証明にはならないでしょ?
もしかしたら今日はたまたま出なかっただけかもしれないし、明日からはまた出るかもしれない。
正体やトリックを立証して論理的に証明をしない限りは、根本的な解決にはなってないんじゃないかな」
カズラの言葉は正論だ。
結果的には今日だけ、亡霊は出現しなかっただけかもしれない。
そもそも一人の時にしか出ないかもしれないし、何らかの法則性があるのかもしれない。
そんな状態で『路地裏の亡霊』はいない、と断定するのは説得力に欠けるのが現実だ。
飛燕も口ではもう大丈夫とは言っていたが、実際はまだ不安なのかもしれない。
「かといって、俺には謎解きとかは無理だぞ……」
一応、現場は注意深く観察していたつもりだが、おかしな点はまったく感じなかった。
何らかのトリックがあるのかもしれないが、少なくとも俺には分からない。
「これが現場の写真だよね?」
カズラはメモリーカードの中身を読み込ませると、ディスプレイに俺が撮ってきた路地裏の写真を表示させる。
「見た感じは……普通の路地裏、だよねー」
カチカチとマウスをクリックして、次々に画像を表示させていく。
代わる代わる表示されていく路地裏の風景。
俺もカズラの隣でそれらを改めて確認していくが、やはりおかしな点は見受けられない。
「――んん? お兄ちゃん、ちょっといい??」
そんな中、カズラは一つの写真を見ると声を上げる。
ディスプレイに表示されていたのは、飛燕が実際に『路地裏の亡霊』に遭遇したと言っていた場所付近だった。
「その写真がどうかしたのか?」
「ここについて、飛燕さんは何か言ってた?」
「ああ。昨日はそこら辺で『路地裏の亡霊』に遭遇した、って言ってたな」
「どうして、そう言えるのか理由も言ってた?」
その写真を前後の写真と見比べながらカズラは問いかける。
俺は飛燕から聞いたまま、その問いに対して答えた。
カズラは真剣な表情になると、更に質問を続けてくる。
「えーと……確か“目印”があったから覚えてる、って言ってたな」
「目印?」
「ほら、そこの壁際にゴミ箱が置いてあるだろ? それがあったから覚えてた、って」
「…………」
更に続けられた問いに答えると、カズラはそれ以上口は開かずにディスプレイを凝視する。
そして暫く沈黙した後に、ポツリと呟くように言ったのだ。
「カズラ――亡霊の正体、分かったかも」
FILE:1『路地裏の亡霊』解答編
◇路地裏の亡霊:再現編
「なあ、牽牛……本当にまた行くのか?」
翌日の放課後。
俺と飛燕はまた繁華街の雑踏を歩いていた。
「もういいって。結局、あれはオレの勘違いだったんだよ」
隣を歩く飛燕はどこか浮かない表情で話しかけてくる。
「そうもいかないんだよ。
お前は今日もあの道を通るんだろ?」
「だから、大丈夫だって。
もう『路地裏の亡霊』は出ないんだから」
「本当にそう言い切れるか?
本当はお前だって、まだ不安なんじゃなんだろ」
「それは……そうだけど……」
正直に言えば不安だが、これ以上友人を付き合わせるわけにはいかない。
そんな思惑が見て取れる辺り、短くない年月をこいつと過ごしているんだなと実感する。
馴れ馴れしいくせに、そう言う距離感を保とうとするのが千鳥飛燕という男だ。
「困ってるときくらい遠慮すんなよ」
「牽牛……」
小さく笑ってそう告げる。
飛燕も本当に嫌ならば、昨日だって無理に誘ってこなかったと思う。
あくまで信頼しているからこそ、あんな無茶ぶりをするのだろう。
そんな無茶なお願いにも、結局は折れてしまうことを俺自身も分かっている。
だからこそ、中途半端な遠慮はして欲しくなかった。
「それに、な」
意味深な笑みを作って、勿体ぶった口調で俺は言う。
「これから『路地裏の亡霊』の正体を教えてやるよ」
「えっ!? それってどういう――」
「さて、着いたぞ」
いつの間にか俺たちは件の路地裏へと辿り着き、静かに歩みを進めて行く。
「なあ、牽牛。さっきのってどういう意味だよ?」
「さてな。お楽しみは最後まで取っとくもんだろ」
先ほどの言葉の真意を尋ねる飛燕をはぐらかしながら、俺たちは目印のゴミ箱のところまでやって来ていた。
「お楽しみって――」
飛燕が不満そうに眉を吊り上げた瞬間、突如として異音が聞こえた。
『イッ、イィィィィッ――!!』
「こ……これは――!?」
三半規管を揺さぶるようなその不気味な音は、もはや絶叫に近い。
周囲の空気を振るわせる〝声〟は、例外なく俺たちの身体にも響き渡っていく。
『ウッ、ウオォォォォンッ――!!!!』
「出、出たあぁぁぁ――!?」
一昨日、自らを襲った〝声〟を聞いて、飛燕は咄嗟にキョロキョロと周囲を見渡す。
しかし辺りには、俺たち以外に誰もいない。人間どころか、犬や猫の類いの一匹さえ。
姿を見せずにただ絶叫する『路地裏の亡霊』しか。
「け、け、け、牽牛! 早く逃げるぞ!!」
半狂乱に陥った飛燕は俺の右手首を掴んで、路地裏から逃げだそうとする。
「落ち着けよ、飛燕」
「これが落ち着いていられるかっての!」
宥めるように言うが、飛燕は尚も俺を引っ張り、とにかくここから逃げ出そうとする。
「それじゃあ、この〝声〟をもっとじっくりと聞いてみろよ」
「はぁ!? じっくり、って……」
俺の言葉の真意が理解できないのか、怪訝そうな表情でこちらを見つめてくる飛燕。
「…………」
しかし、暫くするとようやく決心がついたのか、飛燕は目をつぶって深呼吸をする。
そして、耳を澄ませて亡霊の声に耳を傾ける。
『ウゥゥゥオォォォォォン――』
「ん……?」
『オォォォォン――』
「……んん??」
覚悟を決め落ちいて辺りに響き渡る〝音〟を聞いていると、飛燕はやがて不思議そうに首を傾げ始めた。
「なんかこれ……聞いたこと、あるような……」
そして暫く音を吟味するように聞いていると、自信なさげに言葉を漏らした。
「もしかして――犬の鳴き声、か?」
「ああ、正解だ」
しかし俺は、そんな飛燕の回答を肯定するように頷いた。
「えぇ!? いや、ちょっと待ってくれ……」
飛燕はそれが予想外らしく、キョロキョロと挙動不審に周囲を見渡して言葉を続ける。
「でも、犬なんかいないじゃん!?
それに鳴き声も変な感じだし……」
飛燕の言っていることは正しい。
周囲には犬など存在せず、聞こえてくる鳴き声も通常のものとは大きく異なる。
よほど注意深く聞かなければ、犬の鳴き声が音源とは分からないだろう。
「ヒントは下、だ」
「……下?」
そんな疑問に答えるべく、俺は地面を指さして言った。
指が指し示す先にあるのは地面、もといそこに設置されている排水溝だった。
「排水溝が何か関係してるのか?」
しかし飛燕はどうして今回の件に、排水溝が関係してくるのかぴんと来ないようだ。
それもそうだろう。俺だってカズラから聞くまで、そんなことは考えもしなかったのだから。
「それじゃあ、種明かしといこうか」
そして俺は語り始める。
カズラが解き明かした『路地裏の亡霊』の正体を。
◇路地裏の亡霊:解答編
「ズバリ――犯人は犬だよ、お兄ちゃん」
「はぁ? 犬……?」
ビシッと人差し指を突き立てて宣言するカズラ。
俺はどうして『路地裏の亡霊』の正体が犬なのか理解出来ずに、鳩が豆鉄砲を食ったような呆け面で思わず聞き返してしまう。
「そうだよ。カズラの推理が正しければ、ね」
えっへん、とカズラは得意満面に、曲線美とは無縁のなだらかな胸を張って答える。
「でもな、現場には犬の一匹もいなかったって言うじゃねぇか」
これはどの目撃談に共通していたことだ。
飛燕の話だけなら勘違いの線も考えられたが、nixiに書き込まれた目撃談にも、犬や猫などが現場に居たという情報はなかった。
もし現場に犬が居たとしても、全員が見落としているとは考えがたいだろう。
「そうだね。確かに〝路地裏には〟いなかったと思うよ」
「路地裏には?」
しかしカズラは、俺の問いをあっさりと肯定する。
その妙な言葉のニュアンスは、どこか引っ掛かる物言いだ。
「『路地裏の亡霊』の正体は犬の鳴き声だけど、路地裏には犬はいなかった。
じゃあ、その鳴き声はどこから聞こえて来たのかな?」
状況を整理するように改めて問いかけてくるカズラ。
この矛盾を解決しないことには真相まで辿り着けないが、まだ俺にはその綻びを結びつけるような妙案が思いつかない。
姿が見えないのに聞こえる、なんて状態はまさに幽霊ではないだろうか。
「じゃあ、別の観点から考えてみようよ」
うんうんと頭を悩ませている俺を見かねて、カズラはニッコリ笑いながらそう言った。
「そもそもなんで、夜の路地裏で聞こえる声が〝亡霊〟なんて呼ばれてたのかな?」
「それは……姿が見えないのに声が聞こえたから、だろ?」
目撃者は直接、亡霊の姿を見たわけではない。
不気味な声を聞いたがそこには誰もいなかった為に、この噂は『路地裏の亡霊』と名付けられた。
つまりその声こそが、この噂話を構成する主要素と言うことになる。
“姿が見えないのに不気味な声が聞こえた”と言う状況が逆説的に亡霊を定義づけている。
考えてみればおかしな話だ。
誰も亡霊の姿を見ていないことが、亡霊の存在を証明しているなんて。
「でも、おかしいよね。
普通、犬の鳴き声を〝声〟とは勘違いしないんじゃないかな?」
言われてみて初めて疑問に思う。
もしカズラの推論が正しかったとして、目撃者たちはどうして聞こえて来た音を〝声〟と称したのだろうか。
鳴き声でもなく音でもない〝声〟として。
本来ならば〝夜の路地裏で犬の鳴き声が聞こえた〟と言うべき事実が、どうして〝夜の路地裏に亡霊が現れた〟と言う湾曲した状況になるのだろうか。
「聞き間違い……とか?」
「うーん、おしい!
でもここまで来れば後一歩かなー」
破れかぶれな答えだったが、カズラはそれを惜しいと評した。
聞き間違えてしまったのならば、事実がねじ曲がることなく事件の当事者の落ち度で真実を誤って観測してしまったことになる。
事実として犬の鳴き声が聞こえても、観測者自身がそれを亡霊と誤認して、第三者に拡散してしまえば、まるで伝言ゲームの結末のように真実は変貌してしまうからだ。
「聞き間違いじゃなくってさ……そのまま聞いただけじゃ分からなかったらどう?」
「どういう意味だ?」
いまいちカズラが何を言いたいのか分からず、ただ聞き返してしまう。
そんな俺を見てカズラは、悪戯の種明かしをするようにニヤリと薄く笑った。
「犬の鳴き声は多分、そのまま聞いただけじゃ分からないくらいに〝変質〟してたんだよ」
「変質?」
「オリジナルの音とかけ離れてれば、確かに勘違いしちゃうよね。例えば、そう――」
変質、と言う言葉に疑問を抱いた俺はカズラに問いかける。
確かに元々の音源から大きく異なっていれば。
ぱっと聞いただけでは分からないほどに、オリジナルの音から加工されていれば。
カズラの推理は一気に現実味を帯びてくる。
しかし、そんな真似をする人間がどこにいる?
わざわざ犬の鳴き声を加工し、それを悟られないように夜の路地裏で流す。
あり得ないとは言わないが、少し現実味に欠ける話になってしまう。
世の中には変わり者が大勢いると言われればそれまでだが、そんな荒唐無稽な真似をしている人間がいるとは思えなかった。
「反響、とかね」
だがカズラの言葉は、予想外のものだった。
「反響によってエコーがかかってたとするなら、ただの犬の鳴き声を亡霊の叫びって思っちゃうのもあり得るんじゃないかな?」
「確かに場所は人気のない路地裏だ。そんなところを一人で歩いてたら、気も動転するな」
これがもし日中堂々の出来事だったならば、話は違ったのかもしれない。
落ち着いて耳を傾ければ、例え変質していたとしても鳴き声に気づけた可能性もある。
しかし、ただでさえ不気味な場所を夜に一人で歩いているのだ。
ちょっとの物音さえ恐怖に転じるだろうし、絶叫めいた音ならば尚更だろう。
「確かにその推理は納得できる。でも、一ついいか?」
徐々に現実味を帯びてきたカズラの推理に対し、俺は気になっていた点を尋ねる。
「そもそも、その音はどこから聞こえてきたんだ?
あの路地裏で鳴き声が反響しそうな場所なんてあったか?」
「うん、あるよ」
しかし、カズラは平然と頷いた。
「お兄ちゃんも今日、自分の目で見てるはずだよ?」
「それって……いや、待ってくれ……」
ここまで来て俺は、ようやくカズラが何を言いたいか分かった気がした。
しかし、今考えていることが、本当に正解なのだろうか?
根拠も自信もない当てずっぽうに近い答えだが、おそるおそるカズラに問いかける。
「排水溝――か?」
脳内にまず浮かんだのは、ゴミ箱の近くにあった排水溝だった。
記憶にある限り、あの路地裏で反響しそうな場所はそこしか思いつかない。
「That’s right(その通り)!」
頼りない俺の言葉にカズラはパチンと指を鳴らし、満面の笑みを浮かべながら頷いた。
「目撃談の中にも『地の底から響く絶叫』って表現されてたけど、あれはきっと文字通りの意味だったんだよ」
「なるほどな……正真正銘、足元の排水溝から聞こえてたわけだ」
確かに自分の歩いていた排水溝の中から聞こえていれば、そう思ってもしまうだろう。
夜で視界が悪いことや、恐怖心が手伝って気付かなかった可能性も高い。
「でも、そうなると疑問があるんだよな」
カズラの推理はここまで来て、恐らく真実へ近いものとなっているだろう。
しかし、根本的な疑問がある。
俺はそのことについて尋ねてみた。
「そもそも犬の鳴き声は、どこから聞こえてきたんだ?」
排水溝の中から聞こえてきたとするならば、その音源となっている犬はどこにいる?
まさか、排水溝の中に住んでいるわけでもないだろう。
「そこでもう一つの事件がリンクしてくるんだよ」
「もう一つの事件?」
「お兄ちゃんは路地裏に行く前、立ち寄った場所があったよね?」
確かに俺は路地裏へ向かう前、カズラに頼まれて廃ビルへ行った。
あの時は野良犬を退治するために忌避剤を撒いたが、それがこの件といったい何の関係があるんだ?
「これがお兄ちゃんが撮ってきてくれたビルの写真」
二つの事件に何の関係性も見いだせない俺に、カズラは一枚の写真を見せる。
「これを見て、何か気付いたところはある?」
「いや、これと言っては特にないな……」
それはビルの内部を写した写真だった。
足元には砕石が敷き詰められていて、床にはセメントの袋や建設資材が置かれている。
壁からは電気のコードや、水道管。それに排水用の太いパイプも剥き出しになっているが、これと言って不審な点は見受けられない。
「お兄ちゃんが実際に今日、路地裏に行って亡霊と遭遇しなかった理由が分かる?」
「たまたま、じゃないのか?」
「ううん、それは違うよ。
『路地裏の亡霊』は昨日は出たけど、今日は出なかった。
そこにはちゃんと理由があるんだよ」
カズラは俺の答えを聞くと、静かに首を振って言葉を続ける。
「昨日と今日じゃ、決定的に違うものがあるはずだよ?」
「…………」
昨日と今日では決定的に違うもの、か。
時間帯や場所に関しては、昨日と同じ条件を試してみた。
二人だと出現しない可能性を考慮して、一人ずつ路地裏を歩いてみたりもした。
それでも今夜、『路地裏の亡霊』は俺たちの目の前に姿を現さなかった。
一見、ほとんど昨日と同じ条件を満たしているように思えるが……。
「まさかとは思うけど――」
そう言えば一つだけ、今日にしかしてないことがあることを思い出す。
「忌避剤を撒いたこと……か?」
その一点だけが昨日とはまったく違うと言い切れる。
「でも、ちょっと待てよ……廃ビルに野良犬が寄りつかなくなったとして、それがどうして『路地裏の亡霊』が出現しなかったことになるんだ?」
確かに俺が忌避剤を撒いたことは、昨日とは大きく異なる点なのかもしれない。
ただそれがどうして、『路地裏の亡霊』の件に関係してくるのか俺には分からなかった。
「ううん、それがもう答えだよ」
カズラは告げる。
それこそが全ての真相だと。
亡霊の様態を暴く、最後のヒントだと。