◇路地裏の亡霊:前哨編

「あー、本当に気味悪かったなー」

「悪いな、付き合わせて」

 廃ビルを後にした俺たちは、今度こそ当初の目的地である路地裏へと向かっていた。

 その道中で飛燕が漏らした呟きに、謝罪の言葉を述べる。

 そもそもここまで来たのはこいつのワガママに付き合ってだが、こちらの都合に巻き込んでしまったことについてはキチンと謝らなければならない。

「いや、気にすんなって。
今日だって、無理に着いてきてもらったんだからさ」

「そうだったな。
と言うか、あそこでビビってるようじゃ先が思いやられるんだが」

 これから俺たちが向かうのは、幽霊が出ると言われる場所だ。

 ただの不気味な廃ビルとは比べものにならないだろう。

「げっ……言うなって」

 飛燕は俺の言葉を聞いて、げんなりしたように頭を垂らす。
 おそらく昨日の出来事を思い出して、憂鬱になっているのだろう。

「確かこの辺だろ?」

「ああ……」

 暫く歩いていると俺たちは、例の路地裏の近くまでやって来た。

「ここの居酒屋を右に曲がって、裏路地に入ったところが昨日の場所だ」

 二人して顔を見合わせると程なくして、頷き合いながら裏路地に入っていく。

「確かに不気味ではあるな」

「だろ?」

 裏路地に入ると、ポツリポツリと点在する街灯の薄暗い光が頼りなく道を照らしていた。

 今はまだ夕日があるからマシだが、完全に日が落ちれば薄暗さは大きく増すだろう。

「今のところ、特におかしな点はないな」

 俺はデジカメを構え、周囲の写真を撮りながら呟きを漏らした。

 薄暗さが不気味ではあったが、特におかしな点は見受けられない。
 想像通りの路地裏、と言うイメージに相違はなかった。

「だな……改めて見ると、別におかしな点はないんだけど……」

 それでも、と飛燕は何か言いたげな表情で言葉を濁した。

「でも……オレは昨日、確かに聞いたんだ」

 自らに言い聞かせるように呟きを漏らす飛燕。
 そんな姿を見てもしかしたら飛燕は、ただ亡霊に怯えてるわけではないのかとふと思う。

 人は本質的に、他者との意見の相違を恐れる。

 それは学校や社会と言ったコミュニティーで生きていく上では必要な感性で、他者と同調することは、円滑な人間関係を構築するのに必要な処世術とも言える。

 簡単に言えば、出る杭は打たれる。
 異質な者はコミュニティーから爪弾きにされる。

 社交的な性格の飛燕にはそんな経験論が染みついていて、今回の件も自分と俺たちの意識の差が生まれることを本能的に恐怖しているのではないだろうか。

 かといって今回の件が完全に勘違いだった、と自分を騙せるほど飛燕は器用ではない。

 だからこそ同行者を募って、真実を検証したかったのだろう。
例えそれがどちらに転んでも自分以外の観測者がいるだけで、本人としても決着がつきやすくなるのかもしれない。

「よし……昨日、声を聞いたのは確かあの辺だ」

 二人して神妙な面持ちで路地裏を歩いていたが、飛燕は少し先を見ると強張った表情でこちらを見る。

「間違いないのか?」

「ああ。あのゴミ箱辺りを通ったのは間違いないから、ここから先で合ってるはずだ……」

 確認するように尋ねると、飛燕は緊張の感じられる顔で頷いた。

 飛燕の視線の先には壁際にポリバケツのゴミ箱が並べて置いてあり、それが目印になっているようだ。

「それじゃ……秘密兵器の出番だな」

 そう呟くと飛燕はポケットから黒いスティック状の物体を取り出した。

「ボイスレコーダーだ」

「家に帰って取ってくる物、ってのはそれのことだったのか」

 わざわざ用意がある、と家まで帰った理由にようやく納得することができた。

「これで亡霊の叫びが録音できれば、証拠にもなるっしょ?」

 確かに昨日の話だけでは、他の人間を納得させるだけの根拠がないのも事実だ。

 今日俺が同行しても証人が二人に増えるというだけで、当事者以外には証明をすることができない。
 そう考えればこうして、証拠を残すのは良いアイディアだと思う。

「本当はデジカメもあるんだけど、そっちは牽牛が持って来たみたいだからな」

「なるほど、用意周到ってわけか」

 どうやら飛燕もそれなりに考えて、今日の検証に臨んでいるらしい。

「じゃあ、行くぜ……」

 飛燕はボイスレコーダーのスイッチに手を掛け、俺はデジカメを構えながら。

 二人して慎重に路地裏を進んで行く。
 途中で足元に排水溝が設置してあったが、特に異常は見受けられなかった。

「…………」

「…………」

 路地裏は不気味な程に静かだ。
 表の雑踏から僅かに喧噪が流れ込んでくるだけで、後は室外機や自分たちの靴音くらいしか聞こえてこない。

「……聞こえて来ないな」

「……そうだな」

 靴底がコンクリートの地面を叩く音を聞きながら飛燕がポツリと呟きを漏らした。

 俺は周囲の写真を撮影しながらその言葉に頷く。

「暫く待ってみるか……?」

「そうだな」

 もうすぐ出口が見えてくる辺りまで来ると、飛燕がそう提案した。俺はその言葉に頷く。

「…………」

「…………」

 俺と飛燕は暫くその場に立ち止まったり、引き返してみたりもした。

 しかし、一向に待っても声は聞こえてくることはなかった。

「あれー、おかしいな?」

 実際に亡霊が現れなかったことへの安堵半分、亡霊の存在を証明できなかったことへの失望半分、そう言った複雑な表情で飛燕は首を傾げた。

「もしかしたら、時間帯が決まってるのかもな。昨日来た時は何時頃だったんだ?」

「えーと……今よりも二時間くらい遅かったと思う」

 考えてみれば空には、まだ僅かに夕日がある。完全な日没までには早い時間だ。

 日没と亡霊の出現が関係してるかは分からないが、条件はなるべく近づけた方が再現性も高いだろう。

「それじゃあ、その時間にまた来よう」

「だな……じゃあ、どっかでメシでも食ってくか!」

 確かに時間つぶしとしては悪くない提案だ。俺は飛燕の言葉に頷いた。

「よし、店は任せるからお前の奢りな」

「なんでだよ!」

 軽い調子で言うと、飛燕は素っ頓狂な声を上げる。

「出張料、ってことで」

「くっ……殺せ!」

「バイトを増やしたんだから問題ないだろ」

「ったく、仕方ない……分かったよ。今日はオレが出す」

 まあ、ここまで出張ったんだから、それくらいで手を打ってやるとするか。

 こうして妥当な線で予め決めておけば、こいつも後々で気兼ねないだろう。

 千鳥飛燕と言う男は意外と誠実で小心者なのだ。

「なら肉食いに行こうぜ、肉」

「高いのは勘弁な……ここら辺に美味いラーメン屋があるから、そこで勘弁してくれよ」

「仕方ねぇな」

 いつものようなやり取りをすると、緊張で張り詰めていた弛緩していくのが分かる。

 結局俺たちは、実際に亡霊に遭遇しなかったことに安心していた。

 だからこそ、いつも通りのやり取りが堪らなく恋しかった。

「よーし、そうと決まったら行くぞ! 
あそこの店、この時間帯は混むんだよ」

「げっ、マジか……あまり長い時間並ぶのは勘弁だぞ」

 こうして俺たちは路地裏を離れ、繁華街の雑踏の中に紛れていった。

 この後、夕食を食べ終わったまたここを訪れたが、結局は何の成果のなかった。

 『路地裏の亡霊』は今夜、俺たちの前に姿おろか声すら現さなかったのだった。