言えなかった、”〇〇〇〇〇”

 扉の硝子窓から中の様子を確認すると、先生はデスクに向かって事務作業をしていた。

「先生、いるね。私、説明しようか?」

「それは流石に大丈夫、ちゃんと嘘は言わないで正直に伝えるから」

「ほんとに? 怪しいなぁ」

「あ、私ってそんなに信用なかった?」

「嘘嘘、じゃあ私、教室戻るから。また休み時間に様子見に来るね」

「うん。ほんとにありがとね、美希」

「全然よ。じゃね」

 片手を挙げて小さく振って、美希はその場を後にした。
 残された琢磨は、既に自分のことのように有難さを覚えていたその背中を、角を曲がって視えなくなるまで見送った。

 そうして足音も聞こえなくなると、どうしたものかとその場に立ち尽くす。
 本当のことを言えば、どこにも異常がないからだ。
 心配してくれている美希の気持ちを呑んでやって来てみたはいいものの、異常がないのに、それをどう養護教諭の先生に説明すればいいものやら、検討も付かなかった。

 結論、何もないと言われればそれまでで帰れば良いだけの話だと腹を括ったが、次の休み時間に様子を見に来るからと言ってくれた美希にはどう説明をしたものか。先のあの状況を傍から見ていると仮定すれば、今まで何もなかった人が急に倒れたのだ。躓いたなんて言葉ばかりで、その実物音一つ立てずにふらついた訳なのだから。

「はぁ。気が重いな」

『何言ってるのよ。今、貴方が思ってる通りでいいじゃない』

「それはそうなんだが……まぁほらあれだ、君にも申し訳ないからな」

『そんなこと考えなくてもいいって。行けって言ったのは私なんだから』

「言葉は大変嬉しいが、うーむ……」

 と、煮え切らず言葉を濁す琢磨に、

「――っと、おぉ」再び入れ替わりが起こった。

『いやちょっと待て、これだと本当に意味がない…!』

「まぁまぁそう怒らないの。いいじゃない、たまには。サボりって、実はちょっと憧れてたのよ」

『まさか優等生さんからそんな言葉が――って、それはいいんだよ。悪いな、ほんと』

「気にしないの。とりあえず入るよ」

 それ以上の無駄な謝罪の言葉を聞かぬよう、出来るだけ優しくそう言って、汐里は保健室のドアをノックした。すると、すぐにドアの向こう側から「はーい」と返って来て、失礼しますとドアを開けた。

「すいません、体調不良で……」

 下手をすれば気付かれかねないレベルの演技でそう言うと、しかし養護教諭の高橋先生は振り返るなり「あら」と意外そうな顔。

「二組の陸上さんよね?」

「え……? あ、はい」

「また珍しいお客さんだこと。今日は少し特別な日ね」

「特別?」

「ええ」

 と高橋先生が頷くと、少し遅れてベッドサイドのカーテンが開き、そこから一人の男子生徒が顔を出した。
 さらりとなびく髪に整った顔立ち、色っぽい右目の泣きぼくろが特徴的なのは、本校生徒会長の茶臼山(ささやま)輝典(てるのり)だ。汐里同様、毎日欠かさず授業には出て、且つ成績も常に上位をキープしている文字通りの才色兼備。

 そんな茶臼山が、保健室にいることは至極珍しいことであった。

「て、輝く――会長…! どうしてまた保健室に?」

 汐里が尋ねるや、上履きに足を通して立ち上がり、そのまま汐里の方へと歩いて来て、

「いやぁ、我ながら情けない話なんだけどね。夜の間にお腹が冷えちゃったみたいで、腹痛が止まらないんだ」

「腹つ……ぷっ…ふふ」

「あ、笑ったな?」

「ご、ごめん、ちょっと意外過ぎてと言うか、あまりにも似合わないものだから、つい」

 汐里は堪えきれず腹を抱えて、声まで上げて笑い始めてしまった。
 そんな様子を冷静に、しかし笑顔で観察していた高橋先生は、

「なんだ。良かった、元気そうじゃない」と一言。

 しまった、と気付く汐里は、しかしまだ状態の説明もしていなかったことに気付く。

「えっと……実はですね。国語の授業だったんですけれど、先生に指名されて立ち上がった際に、ふらついて倒れちゃったんです」

「ふらつき? 目眩とか?」

「はっきりとはしませんが、多分そんな感じだったと思います。言ってしまえば、本当にそれだけだったから何も異常はないんですけれど、美希――あぁ、友人が行け行けって聞かないもので」

「あら、そういうことだったの。それはまた、惜しい話ね。皆勤だったんじゃない?」

「そうなんですけど、まぁそれは全然いいんです」

「ふぅん。友達思いなのね」

 優しく微笑む高橋先生。その通りだった。
 別に皆勤に拘っているわけではない故に、汐里は親友たる美希の言葉に甘えたが、それはただ単に断る理由がなかったわけではなく、寧ろ断れなかったという方が正しい。

 自分のことを本当に心配してくれている友人の言葉を無碍には出来ないと、気を遣う琢磨にさえ逆に気を遣ったのだから。
 見た目の硬さとは違って、中身はとても柔軟で思いやりがある。
 琢磨が抱いたのは、そんな汐里への評価だった。

「さて。僕はそろそろ行きます。美しい友情を見せつけられてたら、何だか痛みも退いてきたようですので」

 そんなことを言いながら、輝典は立ち上がり、扉の方へと歩いていく。

「もう――じゃない。大丈夫なの?」

「すっかりって言うと嘘になるけれど、流石に二限欠課は生徒会長らしくないからね。高橋先生、ありがとうございました」

「何もしてないけどね。お大事に」

 高橋先生が軽く手を振って見送ると、それを受けた輝典はぺこりと綺麗に頭を下げて出ていった。せっかく会えたのに。そんなことを思った瞬間、心の中で琢磨が笑っていることに気が付いた。

(何か言いたそうな顔ね…?)

『別に。それよか、良いのか? 無言で立ってると変に心配されるぞ』

(っとそうだったわ。今の私は、あくまで病人擬きなんだった)

『うっわ、怖いな女って』

 友人の為なら演技も厭わないとは恐ろしい。
 咳払いを一つ。不敵に微笑む汐里の横顔に触れた瞬間、敵には回したくないタイプだと悟る琢磨だった。

 やっぱりまだふらつきが。そんな嘘を通して、汐里は許可を貰ったベッドにダイブした。
 布団を頭までかぶって、深い溜息を吐く。

『好きなのか?』

(ぶっ――! な、何よ急に…!)

 虚を突かれた質問に思わず唾を誤嚥して咽る汐里。それは離れたデスクで作業を続ける高橋先生にも聞こえてしまっていたようで「何かあった?」と心配される始末だ。
 何とか誤魔化してここへの侵入を防ぐと、とんでもない無礼を働いた琢磨を精神的に睨む。

『いやほら、ここってさっきの生徒会長? が使ってたところだろ。におい嗅いで興奮してるのかと思って』

(な…! どんだけデリカシーないのよこの居候。溜息よ、溜息)

『えらく深いな。それに、さっき一瞬「輝くん」って』

 変な所で無駄に鋭い琢磨に呆れて、汐里はまた一つ大きな溜息が漏れた。

(学校では出さないようにしてるんだけどね。私と会ちょ――輝くんは、幼稚園からの幼馴染なのよ、ただのね)

『強調すると信憑性上がるぞ』

(五月蠅い。えっと、それで、ここ最近ずっと姿も見なかったものだから、どうしてるのかなったちょっと心配になってたの。ほんと、それだけ)

『ふぅん。それで、好きなのか?』

 お前は人の話を聞いていなかったのか?
 思わずそう突っ込みたくなった衝動を抑えて、あくまで理知的な返しを試みようとする汐里に、しかし琢磨はまた違った観点から指摘した。

『人間、自分のことには無頓着なもんでな。さっきまでは七十前後だった君の脈だけどな、あいつに会った瞬間、馬鹿みたいに跳ね上がったぞ。あ、今測っても無駄だぞ、落ち着いたし』

(な……! 何でそんなこと分かるのよ!)

『生前は看護学生だったからってのが理由に入るのかは分からんが、そういうのには敏感なんだよ。相手の基準値を知っておくのが癖みたいなもんなんだよ』

 なんて質の悪い。苦手意識を持つのはお互い様だった。
 琢磨の指摘通り、その瞬間の汐里に脈は確かに上昇していた。それは不思議なもので、汐里自身も少なからず感じてはいたことだった。

 しかしそれを否定し琢磨に噛みついたのは、それが汐里にとっては有り得ない感情だったからだ。いや、正しくはそれも合ってはいるのだが、上昇の理由は恋などという感情の元ではなかった。

 昔から自分とは違って何でも出来る輝典が羨ましくて、同時に何もない自分と比較すると妬ましくて、しかし同時にいつでも優しいその背中に憧れていて。
 言ってみれば、汐里の中にあるのは、尊敬や羨望といった思いだ。
 好きだから緊張するのではなく、目標がすぐ傍にあるから。

 しかし、そんなこと、どうせ馬鹿にするだろうからと琢磨には言わなかった。

『休み時間まであと何分だ?』

 ふと、琢磨が尋ねた。
 ちらと見た腕時計の針は、もう三限目を終える時間を指そうとしていた。授業の途中で抜け出してきたから既に時間が迫っていたのは当然なのだが、存外と時間の経過を速く感じて、汐里はやっぱりちょっと勿体なかったかなとも思った。

(もうちょっとで終わるかな)

『そうか』

 ぶっきらぼうに返してそれ以上何も言わない琢磨に、聊か疑問を抱く汐里。
 しかし、それが何だと分析し始めるより早く、授業終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。

「終わったわね。陸上さん、大丈夫?」

 そんな声とともに、開かれたカーテンから高橋先生が入って来た。のそのそと亀のように布団から頭を出した汐里に笑いながら、顔色を見ると安心して微笑んだ。

「大丈夫そうね。自分で歩け――っと、来たみたいね」

 話し途中で不意に聞こえたノックの音。次いで開け放たれた扉から、美希がパタパタと駆けて来た。

「こんにちは高橋先生」

 心配そうな表情で友人しか目に入っていないかと思えば、礼儀を欠かず丁寧に挨拶。
 それに短く「はいこんにちは」と返されると、ようやく汐里の方へ視線を向けた。

「調子、どう?」

 未だ布団にくるまっていた汐里を見て、美希は益々不安の色を濃くした。
 先の別れ際のテンションを忘れたのだろうか。

「うーん、ちょっとまだ……」

『は、ちょ、おい待てこら…! そんなこと言ったら――』

 憤慨する琢磨の予想は的中。美希の顔色が、一瞬にして悪くなった。

「まだどこか悪いの…? 迎え呼ぶ? 救急車呼ぶ?」

 おろおろ、わなわなと震えながらスマホを取り出してそんなことを言った。
 そこで助け舟を渡したのは、傍から二人のやり取りを眺めていた高橋先生。美希からスマホを取り上げ、

「没収。まだ放課前でしょ?」

「で、でも、しおが…!」

 どんどんと悪くなっていく顔色。
 流れと嘘で休んでいた汐里より、よっぽど病人らしかった。
 自分を心配してくれた友人を一通り弄って満足すると、ようやくとネタ晴らし。堪えきれない笑いを漏らしながら、汐里は布団から出た。

「ごめん、美希。嘘」

「嘘って――え…?」

「もう何ともないよ、元気。心配かけてごめんね」

「心配ないって……」

 美希の身体から一気に抜けていく力。
 ぺたんと地面にへたり込み、俯いてしまった。
 そのまましばらく何も言わず動きもしないので、流石にやり過ぎたかと反省しながら肩に手をやると顔を上げ、汐里の目を真っ直ぐに見つめた。
 その顔には、目元から流れる一粒の涙と共に、怒りの色が見て取れた。
 やばい、と思った刹那、

「も、もう…! 冗談なしに心配してたのに、しおは…! せっかく帰りに寄って奢ろうと思ってたクレープ、私と知音だけで食べちゃうんだから!」

 怒られた。と言うか、叱られた。説教された。
 無意識下でサディスト気質の汐里は、たまにこうして冗談を言っては真面目で素直な美希を困らせ、挙句自爆するというのがお決まりの結末だった。その度に美希は「しばらく反省しなさい!」と二日は口を聞いてくれないことも。

「山田さん」

 ふと響くのは、低く重く伝わる高橋先生の声。

「は、はい…?」

「こっちも忘れて貰っちゃ困るのよね」

 そう言ってひらひらと手の上で弄ぶのは、たった今美希から取り上げたスマホだ。

「電源オフ、バッグ保管が校則の筈よ?」

「え、えっと……そう、しおに万が一のことがあると思って…!」

「放課後、生徒指導室まで」

「しおが――」

「生徒指導室まで」

「ひゃっ……は、はい…!」

 久々に踏み抜いたかと思われた地雷は、またしても傍から冷静に眺めていた高橋先生の一言で不発に終わった。
 思わず漏れた深い安堵の息に、しかし心の中では琢磨が突っ込んでいた。

『あーあー。原因を作ったのは確かに俺だったが、これは完全に君が悪かったな』

(えぇ、迂闊だったわ……あんまり反応が良くて可愛いものだから、つい)

『さらっと怖いこと言うなよ。とりあえず、スマホ取られた要因の一端は君にもあるわけだから、放課後着いて行ってやれよな』

(い、言われなくても分かってるわよ…)

 後悔先に立たず、とはよく言ったものだった。
 結局、放課後は美希に付き合うことにした汐里。
 肩を落とす美希に代わって二人分荷物を纏めて持ち、別にどうということはないだろうと背中を押して廊下を歩く。
 あの状況に於いて、ただ出していたからという理由だけで取り上げるとは考えにくい。

 そこに何があるとも知れないが、そうでも無ければわざわざ取り上げて指導室まで呼び出すメリットがない。

「本当にそうかな…?」

「分かんないけどね」

「無責任発言反対…!」

 一歩前に出て振り返り、両手をぶん回して憤慨する美希。いつも通りの様子に満足すると、汐里は再び美希の隣に並んだ。

 再開した歩みから数分、中央棟一階奥の指導室に辿り着いた。
 これから決戦にでも向かうような緊張感を以って、美希が深く深呼吸をした。

「狩られる訳でもないんだろうし、そんなに固くならなくてもいいんじゃない?」

「それは分かってるけど……うぅ、何かやだなぁこの空気。初めてだよ指導室」

「私だって。自分のことじゃないのに来てるんだから。ほら、入った入った」

「あ、ちょっとしお…!」

 抵抗虚しく、二度のノックの後に返事も待たず押し込まれる美希。
 僅か二メートル先では、どこぞの皇太子さまみたく足を組んで座る高橋先生の姿が見て取れた。この人がそれをすると、ただ色っぽいだけなのだが――と、空気にも負けず考えるのは琢磨だった。
 扉を閉めろと言われその通りにすると、今度は机を挟んだ向かいのソファに腰掛けろと指示を出す先生それにも大人しく従い二人して腰を降ろすと、

「呼び出した理由は分からんだろ」と一言。

 それは当然、スマホの件でないのなら検討も付かないのだが、しかしそれ意外に一体何がと脳をフル回転させる美希。
 此度の軽率さ意外で不正を働いたことは一度もない。それはこの数日や数ヶ月といった短い期間での話ではなく、この学校に入学をしてから一度も、ということだ。何の心当たりも無い美希は、先生の言葉に首を横に振った。

 すると先生は目を伏せ息を吐く。

「携帯の件は勿論なのだけれど――陸上さんも居て丁度良かった。山田さんだけでも良いかとは思ったんだけどね。実は、二人にお願いがあって呼び出したんだ」

「二人って……え、しお――汐里にも?」

「ええ。まだまだ先だけれど、文化祭があるでしょう?」

 と、先生は傍らから一枚の紙を出して机の上に置いた。
 この高校で毎年開催されている文化祭は、他府県からも一目見ようと人が集まる程の大規模さで有名だ。豪華絢爛、屋台や催しの数も多く、一日で全部を回るチャレンジも密かに流行っているのだとか。

 そんな大仰なイベントには、当然監視員も数が必要だ。そこで実行委員が敷かれているのだが、その数が今年はまだ足りないのだとか。
 文化祭全体を管轄しているのは、例年、諸々の理由で倒れて運ばれてくる人が多いことから高橋先生らしく、現時点で集まっているリストの中に、三年二組の名前がまだ一つもないのだそうだ。

「山田さんは帰宅部で陸上さんは文芸部だったかしら? だから、都合が良いって言っちゃうと聞こえが悪いのだけれど、頼めるのが貴方達しかいないのよ」

「は、はぁ……」

 それならそうと、別に保健室で話しても良かったのではなかろうか。スマホは確かに美希の落ち度だったが、あの場に他には誰も居なかった訳なのだから。
 先生は続けて、仕事は特にないと言い張った。準備、及び当日に『実行委員』の腕章を着けているだけで、これといって具体的に何をしろというのは無いと。

「そういうことでしたら……ねぇ?」

「うん。断ることもないかな、とは思うけど……何で呼び出しを? 本当にそれだけなんですか?」

 汐里の指摘はもっともだった。
 それに先生は、またも小さく息を吐いて仕切りなおした。

「公私混同がしない性質なのだけれど、こうでもないと機会がないもので」

「機会?」

「ええ。ここからは山田さん宛ての話」

「私ですか…?」

 美希は自分を指さし首を傾げた。
 取り立てて急ぎというわけではないのだろうが、そうならそうと重要な話ではないのだろうから、すぐに話しだしそうなものを、先生は少し考え、

「……やっぱり、今はよしましょうか。いつでも構わないし」と首を横に振った。

 何が何やら。二人は顔を見合わせ、更に深く首を傾げた。

「ごめんなさいね、変なことを言って。あ、これ、携帯。返しておくわね」

「は、はぁ…」

 ポケットから取り出し、渡されたそれを受け取る。
 一体、何だというのだろう。そんな疑問だけを残して、さっさと保健室へと戻っていく先生から少し遅れて、二人も席を立つ。
 失礼しましたと誰もいない室内に一応の一礼をして、部屋を出た。

「何だったんだろ」

「分かんない。けど、私に関係あることって……うん、やっぱり分かんない」

 少し考えてみても、出て来る結論は何もない。
 諦めて二人して溜息を吐いて、下駄箱を目指す。

「そう言えば、今日は文芸部なかったの?」

 黒のローファーを出しながら、美希が問うた。

「うん、今日は。って言っても、いつもだってあるかないのは分かんないような緩さだし」

「そこまで言われると、じゃあ何で入ってるのって聞きたくもなっちゃうよね」

「あはは、確かに」

 言われてみれば、それはその通りだ。
 成り行き、部活に入っているという点数稼ぎと、特にやりたいことのない汐里はそんな理由で入っている。そこに自らの意志を問われれば、それは無いに等しかった。

 私、どうして文芸部を選んだのだろう。そう、心の中で考えていた時だ。

「いけない、宿題のプリント忘れて来ちゃった…!」と美希が声を上げた。

 急いでいたのと緊張とで、机の中を確認してくるのをどうやら忘れていた様子。
 一緒に着いて行こうか。そう提案した汐里に、しかし美希は「ごめん、ありがとう。先に帰っといて」と言い残して、再び上履きを履きなおすと、校則違反の全力ダッシュで階段を駆け上がっていった。

「白が見えてるよーっと」

『変態か』

「うわっと…! そっか、いたのね」

 不意に自分の中で響いた声は、琢磨のそれだった。
 色々と盛りだくさんで忘れてかけていた存在からの呼びかけに、一瞬間だけ心拍数が上がる汐里。

『ずっと居たよ。何でか視界まで共有されてるんだから、ちっとは目線にも気を付けてくれると助かるんだが』

「共有って、そんなこと言われても――」

 と、そう聞くと真っ先に疑問なのは。

『どうした?』

 急に固まり、口を開けたままの汐里に琢磨が尋ねた。

「と、トイレとかお風呂って、まさか――ちょ、それって大事じゃない…!」

『あー……確かに言われてみれば』

「ちょ、どうしよ……ねえ、貴方の意志で目を瞑ることって出来ないの?」

『美希って子の下着を見ない為に試して、不可能なことをたった今悟ったところだ』

「そんなっ……」

 姿形は見えぬとは言え、男性だと分かっている相手に痴態を晒すことの恥ずかしさと言ったらない。これからどうしたものか、どのくらいまで続くか分からないこのままの未来を想像すると、笑えなかった。

『俺はいるようで居ない存在なんだ。忘れてくれて構わんぞ』

「構うにきまってるでしょ。裸見られるとか……小さいのに」

『論点そこなのか。なら、本当に気にする必要ないんじゃないのか?』

 もっともだ。もっともだから、少し苛立った。
 恥ずかしさともどかしさと諸々を詰め込んだ複雑な感情を抱きつつ、それを紛らわすように茶色のローファーに足を通して、上履きを半ば叩きつけるように下駄箱へ。

 一つ弾かれた左足のそれにまた苛立ちを覚えつつ、今度は丁寧に仕舞って校舎を出た。
 文化祭。

 心躍る響きは、琢磨にとって嫌悪対象でしかなかった。
 数年前までは自分も確かに経験していた筈なのに、語るべく内容など一つもない。無理に絞り出して話そうとすれば出て来はするが、それは苦い思い出だ。あまり思い出したくはない。
 対して汐里は、感じ取れる範囲内ではあるが、高揚しているのが琢磨にも伝わっていた。理由は勿論ある。あるのだが、琢磨はそこで、別のことが気になった。

『一個、いいか?』

(ん?)

 歩きながら、汐里は立ち止まることなく応じた。
 聞いていいものか。いや、そも聞いたところで答えてくれるものなのか。どちらとも疑問は残ったが、琢磨としては聞かない訳にはいかなかった。自分のことは汐里に伝わっているというのに、その相手のことを何も知らないというのは、言い方は悪いがアンフェアだ。

 自分が助けた相手がどんな人なのか。何故助けるに至る条件に含まれていたのか。
 それは、何よりまず第一にはっきりとさせておかなければならないことだった。

『俺はオブラートに包むのが下手だから、と最初に謝っておくぞ』

(はいはい、どうぞ)

『君は、その……俺の生前のことを知っていると言ったな。自分の一部のようになっているって』

(うん言った)

『その上でそのブレない日常感――君、自分が未来で死ぬことを知っているのか? あるいは余程の馬鹿か?』

 琢磨の問いかけに、汐里は少し考えた後で、

「ぷっ……ふふ、あははは!」

 思わず声を大にして笑った。
 何が可笑しかったのか。分からず、ただ黙っている琢磨に、汐里は笑い過ぎて零れた涙を指先で拭いながら説明を始めた。

「馬鹿ってね、貴方、随分と失礼よ。流石に、オブラートの『オ』の字も無いとは驚いたわ」

『悪かった悪かった、昔から口が下手なんだよ俺。だから最初に謝ったろ』

「謝られたけどひどすぎない?」

 未だ息苦しそうに腹を抱えて笑う汐里。
 流石に語彙力の無さを思い知った琢磨も、少し反省気味に頬を掻いた。

『そ、それで――?』

 急かしたかった訳ではない。ただ、純粋にその答えが知りたかった。
 笑いが収まるのを待ってくれても良かった筈なのに――と、少しばかりの不満こそ抱きもしたが、やはり自分もそれに関しては話さなければならなかったと改めて落ち着くと、汐里は、

「うーん。ちょっとだけ長くなるかも。そこの公園、寄って良い?」

『君の身体で君の時間だ。俺には何の許可も必要ないぞ』

「……ありがと」

 短く礼を言うと、近くの自販機で珈琲を買って公園へ。一先ずほっと一息を吐く為に、甘いものがやや苦手な汐里に必要なのはブラックだった。
 そこからすぐの所にある公園まで歩いてベンチに腰掛ける。

 カチ。

 プルトップを捻ると、程よく響いて余韻を残さない心地良い音と共に、芳醇な香りが漂ってきた。猫舌だからと何度か息を吹きかけてようやく一口、それでも熱そうに舌を出して外気にあてた。

「異常気象の所為で、年中ホットが売ってるのはいいんだけどねぇ」

『異常気象って――そういや、今って何月なんだ? 俺が変なじいさんに会ったのは、確か四月は頭だったんだが』

「ちょっと過ぎてるかな。今は六月の二十日」

『夏か。道理で日が長いと思ったんだ。なるほど、それで君はセーターまで着こんでいるわけだから、異常気象というわけか』

「そういうこと」

 汐里は頷き、そこでもう一口珈琲を飲む。少し時間を置いたことで、流石にもう痴態を晒す程の温度ではなくなっていた。

 事の始まりは今年の五月。気象庁により発表された情報によると、地球と太陽との距離が可笑しくなっているとか何とかで、『夏』と呼ばれる季節が一時的に無くなる事態が起きているそうな。以来、この時期まで来ても気温は平均で十度と少しいくかいかないか、そんな日が続いているのだと言う。
 三月逝きで四月発表ということで、琢磨はそのことを知らなかったのだ。
 すると、汐里は大きく伸びをして息を吐き、「さて」と切り替えた。

「どう話したものかな」

『出来れば分かるように頼む』

「了解っと。そうだなぁ」

 存外と軽いノリで応じると、汐里は珈琲を横に置き、訥々と語り始めた。

「私は遠回しなのが苦手だから、まずは結論から言うわね」

『あぁ』

「まず第一、病名は《宝石病》」

「ほう、せき…?」

 聞き慣れない――いや、耳にしたことすらも無いようなそんな話に、琢磨は思わず息を呑んだ。何かもまだ分からないけれど、『病』と付いている以上はそういうことなわけで、それを平然と言ってのける汐里の心にも驚いていた。

 宝石病。症状は難病指定されているALSに似ているが、目に見えて変化や違和感が起こって進行していくものではなく、少しずつ、少しずつ体内を蝕んでいく病のことを指す。江戸落語に『宝石病』という名前のものがあったことからこの名前が付けられたというが、その内容とは全く異なる、死に直結するものだ。
 症例は世界に数十件、難病指定もされている、現状は不治の病というわけだ。
 症状別に細かな分類もあって、それは何れも宝石の名前を取っている。

 ただひたすらに固くなっていくもの、ぼろぼろと崩れていくもの、温度に弱いもの。

 中でも、有名且つ最も脆い――病で言うところの重篤な症状を来たす種類を汐里は患っている。その宝石とは、

「《ダイヤモンド型宝石病》。私はそう診断されたわ」
『ダイヤモンド……』

 世界一有名な宝石と言っても過言ではない、ダイヤモンド。
 摩擦や裂傷に対する耐久性を示すモース硬度は他の宝石類と比べて群を抜いており、研磨や切削といった工業にもよく利用される程の強度を誇る宝石だ。踏んづけても、ローラーに押し潰されても割れないことから《不屈》といった異名も持つほどだ。

 しかし同時に、それを構成する元素は炭素が大半で、そのため熱には極端に弱く、また《靭性》と呼ばれる割れや欠けることに対する抵抗は何より劣る。一定時間ではなく瞬間的に与えられる衝撃にはめっぽう弱く、槌なんかで叩きつければ人力でも簡単に割ることが出来る。

 故に、富豪でもなければ、一般人があまり目に触れる機会は少ない。
 何だってまた、ダイヤモンドに。

『それは、その……どのくらい進んでるんだ?』

「また難しいことを聞くのね、私医者じゃないのに。うーん……そうね。このくらい?」

 と言って示してきたのは、鞄から取り出した筆箱だ。
 ジッパーを開け、中に視線をやる。

『これ……君の?』

「そ、私の」

 琢磨の意識が吸い込まれるようにして奪われたのは、ペン類、その他消しゴム等の小物類用と仕切られた内の小物類ゾーン。そこに消しゴムの姿はなく、代わりに、びっしりとそのスペース埋め尽くすダイヤモンド片の数々があった。

「内側からだから、さ。咳と一緒に吐いちゃうの」

『吐くって、え、これ、君の中から出て来たのか…?』

「だから、そうだって言ったでしょ。しっかりとこれが進んでいる証拠。どう?」

『どうって――いや、感想を言いたかったわけじゃなくてだな』

 言ってみれば、何を言いたい訳でもなかった。ただ、知りたかっただけだ。
 しかし、まさかそういった事情だったとは。言わせておいて、時間を使わせておいて言えた義理ではないが、琢磨は尋ねてしまったことを今になって少し後悔した。
 無神経だったろうか。無粋だったろうか。
 そうやって自分を少し責めそうになる琢磨を、汐里は「でもね」と遮った。

「まだ語ってないことは追々として――私、そこまで不幸ってわけじゃないのよ?」

 意外にも汐里は、そんなことを言い出した。
 別に、そういう境遇だから不幸なのだろうと思った訳でもなかったが、琢磨にはそれが、どうしても幸せではないと思えた。現に今だって、不幸ではないと言い、幸せだとは言っていない。

「幸せかって言われたら正直分かんないけど、恵まれてはいる――と、思う」

『言い切れる根拠は?』

「大好きな友達が、二人もいるから」

 友人は数ではない。それが、汐里の友好関係における基本即なのだとか。
 社交性はどちらかと言えばある。知り合いも多い方だ。しかし、それがイコール友人ではない。思うのは勝手だが、汐里の言う友人とは、何でも話せて『心許せる数少ない知り合い』である。

 多ければ尚良いのでは。そう思う琢磨は大きな間違いであった。
 理解しているつもりの人間が多く居れば、そこにまたそれぞれ差異が生じて更に多くの蟠りがうまれる。
 そう。重要なのは、それが『つもり』だというところだ。

『ちゃんと知ってくれている、つもりじゃないやつがいるのは少なくて良いって話か。なるほど、それなら理解できる』

「本当に? それなら嬉しいけどさ」

 結局、相手のことなんて本人意外には分からないのだ。

「まぁ、そういうこと。だから私は、少なくとも不幸じゃないかな」

『あぁ、完敗だ』

 何にか。人生観にだ。
 高校を卒業して、専門ではあるが大学生と同じ年になって、大人になったつもりでいた琢磨だったが、その中身を考えると、遥かに汐里の方が豊かだと思えた。
 重い病気を患っている人は、それだけ普通の人より物の見方が広いといつだか先生が言っていたが、まったくもってその通りだ。ただトントンと道を歩んできた自分より、色々な視点から物事を考えられている。

 素直に、凄いと思えた。

「ちょっと冷えて来たね。そろそろ帰ろっか」

『何度も言っているが、君の身体で君の時間だ。俺に同意はいらないよ』

「じゃあこれは私も言ったけど、貴方は何だか、私の一部みたいなものなの。それってつまりは、家族ってことなんじゃないの?」

『持論っぽく言って結論は丸投げするのかよ』

「ふふ。まぁ、そういうことだから。それに、いつまた入れ替わるか分かんないしさ」

『まぁ……だな。分かった、帰ろう』

「うんうん、それで良し!」

 すっかり冷めきった珈琲を一息に飲み干し、ごみ箱へと持っていく途中、

「うわっと…! また俺か」またまた起こる入れ替わり。

『予兆でもあればいいのにね』

「だなぁ」

 二人溜息を吐いて、一緒の呼吸で笑いが漏れた。


――案外、この人とならやっていけるかも――


 どちらともがそう思ったが、すぐにお互い消えてしまうであろう未来を想像すると、言い出すことは出来なかった。
 文化祭の準備が始まって数日。

 日も経ち週も過ぎ、幾つか月も超えてくると、流石に慣れもしてきた二人ではあったが、初日の夜は、それはそれは喧嘩をしたものだった。
 湯浴みの際、いつも汐里が入る時間の人格は琢磨だったのだ。もうちょっと待って、まだ待って、あと少し待ってと、待てども待てども戻らない汐里の意識。結局、目を瞑りながら直観だけでシャンプーにコンディショナー、洗顔に身体と洗っていったのだが、順を間違えたり胸を触った触っていないで言い合ったりと、とにかくごちゃっとした夜を過ごした。

 二日目、三日目と、それからは不思議なことにずっと汐里の人格で時間を迎え、以降喧嘩が起こることは無かった。
 そうして何とか過ごしていると、お互いの癖や気になるところにも気が付き始めて、しかし認め合って受け入れ合って、二人三脚とも言えるような呼吸でいることが寧ろ自然とも思える程だった。

 昼下がり。明日を文化祭初日に控え、最終調整と全役員が駆り出されていた。
 仕事の内容は、申請が通っている有志舞台のリハと機材チェック、クラス毎にある催しの進捗状況、不正や違反がないかの見回りといったところだ。
 別の子と一緒になった美希は先に行ってしまい、しかし奇数だった役員で、汐里は一人取り残されていた。ある意味で言えば常に二人なのだが、そもこの学校について未だ知識の薄い琢磨には荷が重かった。

 仕方なく一人で巡回を始めて数十分、廊下でばったりと出会った知音が、クラスの準備が片付け含め終わったということで手伝ってくれた。
 こういう時、やはり頼りになるのは友人だった。

「へぇ、一組は逆メイド喫茶だって。ベタかと思いきや、ちょっとキツイね」

「女の子が男装は分かるけど、男子が女装って……ないね」

 知音の言葉に激しく同意して、以上がないことを確認するとまた廊下を歩く。
 これといって何も起こらない同じことの繰り返しに、ふと汐里は知音に対し申し訳なさを抱いた。

「あの、とも――」

「謝るのは無し!」

 ビシっと汐里の顔を指さして知音が言った。

「ふぇっ…!」

 結果、変な声が漏れた。

「しおはいつもそうだね。美点ではあると思うんだけど、別に気なんか遣う必要ないんだよ。友達なんだし」

「ともだち……」

「あれ、思ってたのは私だけ? 傷つくなぁ」

 わざとオーバーなリアクションで膝をつく知音。
 言い出したのは自分だからと、少々冷静さを欠いていた汐里は、慌ててしゃがみ込んで知音に声を掛けた。

「え、えっと、そういうことじゃなくてね…!」

「嘘、冗談よ」

「あ、冗談……もう、やめてよね」

「揶揄うと面白いのは、しおがみっきーに対することと同じかしらね」

「あぅ……それはどうか言わんで。みっきーにも悪いと思ってるよ」

「ふふ。そうそう、しおはそうでなくちゃ。いつも通り楽しく弄れて、程よく空気の抜けてるくらいが丁度良いよ」

「もう、馬鹿にして!」

「愛情と言って欲しいわね」

 立ち上がるとひらひらと手を振って、役員でもない知音が先行する。
 慌てて駆け寄って隣に並ぶと、その頼りになる横顔にしばし見惚れ、つい表情が緩んでしまった。
 勿論、愛情だってことは分かってるよ。心の中で、そう唱えて。
 昔馴染みで何かと気にかけてくれている知音も、美希同様に気心許せる友人の内の一人だ。

 そうして一通り何事もなく回り終える頃、緊張の糸が切れると共に少し催してきて、知音に断って汐里は近くの手洗いへと入って行った。長い時間待たせるのも嫌だからと早急に用を足し、洗面台へ――

――キーン――

 辿り着いた瞬間、また一瞬間足がふらつく間隔、入れ替わりだ。
 それも昨日までとは違う、頭痛とは行かないまでも響く、高い音に次いで。

『何なんだろ、今の……』

「あぁ。まるで、金属を叩いた時のような――」

 琢磨は言いかけて、止めた。
 心当たりと言っていいものかは怪しいが、体内脳内で響いたのであれば、おそらくは汐里の抱える病気に起因する何かだ。

 しかし、仮にそうだとしてだ。琢磨はそれとは無関係で、且つ琢磨が移ったことの方が後だといのに、どうして今、入れ替わりの合図のように鳴り響いたのか。タイミング的にはドンピシャだった。
 解析する琢磨に、黙ったままの汐里。

 やがて、時間が経っても答えが出ないと分かると、溜息を吐いて手を洗った。
 廊下に戻ると、片手を挙げて歩いて来る知音。

「大?」

「ちょっ……て、手洗いは丁寧に…!」

「あ、噛んだ。はは、相変わらず真面目だなぁしおは。ほんと、みっきーが可哀そうになってくるわね。行こ」

 楽しそうに笑って、また先行する知音。

「あ、ち、ちょっと待って…! 美希は関係ないでしょ…!」

 またまた慌てて駆け寄る琢磨。
 先から会話が滑らかでないのは、存外と長く続く入れ替わり生活の中で、こうして知音と琢磨が一対一で言葉を交わすのは、実は初めてのことだったからだ。

 大人っぽくて頼りになって、それでいて物腰柔らかくて。そんな人と相対する状況に恵まれなかった生前を思い出して、琢磨はどう接せばいいのか分からない。少し気を抜けば敬語にもなりかねないし、かといって気を張っていては噛む。

 これはまた、一苦労しそうだな。
 そんなことを思っていた矢先だった。

「ほら」

 と手渡されたのは、ブラックの缶珈琲。気が付けば、中央棟玄関の自販機前までやって来ていた。

「あれ、しおってブラック派だったよね?」

「え……? あ、は――うん」

「良かった。ちょっと向こう行こっか」

 知音は、相手が元の汐里であろうが琢磨であろうが、先導するのがお決まりらしく、またも先に歩み始めて階段の方へ。
 生徒は普段使わないだけに人通りの少ない職員室等がある二階への階段に座り込むと、知音が口を開いた。

「最近は何にもないみたいだけど、前のは本当にびっくりしたなぁ」

「前の――あぁ、現国の」

 琢磨の人格が乗り移った初日の授業で入れ替わりが発生し、倒れてしまった時の話だ。
 そういえば、保健委員だからと美希が駆け寄って来たが、遠くでは知音も心配そうな表情をしていたな、と思い出す琢磨。

西谷(にしのや)先生もビックリしてたよね」

 あの現国の先生は西谷というのか、と今更ながら改めて確認。
 確かに驚いていた。一番に近寄り、保健委員を呼んだのもその先生だ。

「急なことだから驚いちゃったのかな、西谷先生(・・)も」

 と、琢磨が口をついた瞬間『ちょ、馬鹿…!』と慌てて止めに入る汐里。

 しかしそれも既に遅く、今までずっと優しそうに微笑んでいた知音が表情をなくし、色も光も何もない瞳で汐里を見て一言、

「言質、とったわ」

「……っ……!」
 言われた琢磨は凍り付き、しかし得物を逃がさんと刺すような鋭い目つきに射止められ、なかなか視線すらも動かすことが出来ない。
 固まる琢磨に、知音はそのまま追随していく。

「貴方、誰?」

「誰って……し、しお――」

「怒っている訳じゃないの。少なくとも本当のしおも居たから、隠し事はよしってって話。代われる?」

 どこまで分かっているのか。
 いつから気付いていたのか。
 本能で隠し事が無意味なことを悟ると、琢磨はどう話したものかと一つ一つ順を追って説明するべく切り出した。

「知音――さん。ここだとあれだから場所を変えたいんだけど……この学校って、屋上には入れるの?」

「普段から鍵は開いてる。垂れ幕の設営も終わってる筈だから、多分今は誰もいない」

「分かった。ごめん、全部話すよ」

「はいはい」

 真剣な眼差しになっていたかと思うと、正直に話すや途端に軽いノリに。
 しかしそれも、汐里に言わせれば知音の良いところなのだとか。
 東館へと移動して階段を上がって、たまにすれ違う同級生の元部員に挨拶を返す知音とともに、やって来たのは広い屋上。知音の言っていた通り誰もおらず、内緒話をするのにはもってこいのロケーションだった。

 端まで歩いて柵に背中を預けると、そのままずるずる下へ下へ、知音は座り込んだ。ふぅと小さく息を吐くと、三角座りに。

 女の子が短いスカートでそうすると、正面に立つ琢磨からは丁度見えてしまう角度になるわけで、咄嗟に視線を逸らすと、

「私がこうすると、しおなら注意するんだよ」と笑って言った。

 言い訳の余地など、もうどこにもないらしい。
 彼女は、今は既に他の誰かであるとしか見ておらず、その為の冷静な分析しかしていない。

 いよいよ観念すると、琢磨はそのまま知音の横へ。同じようにして座り込んで、まずはと自己紹介を始めた。

「仲村琢磨。それが俺の名前だ」

 一つ目の切り出しに対し、知音は「ふぅん」と事も無げに返す。

「信じてもらえるかどうかは別問題として、俺が今から話すこと全て事実だ。この子、陸上もそれは了解している」

「なら良し。話して」

「え、あ、あぁ…」

 知音のゴーサインを以って、琢磨はこれまでの経緯を詳しく、あと自分のことを簡単に話していく。
 今のこれがどういう状況なのか、どうしてこうなったのか、琢磨が何処の誰なのか。
 時間にすれば、約二十分といったところだろうか。琢磨が話している間、知音は何のリアクションもせずに聞いていた。内容に驚く素振りも、否定する様子もなく、ただただ黙って聞き入っていた。
 一息に話し終えると襲って来た予想外の疲れと口渇感に、琢磨は堪らず珈琲を一口。

 少しの間を置いて「ふむふむ」と頷いた知音は、やがて琢磨の目を見て言った。

「私が異変を感じたのは、その初日だね。しおがぶっ倒れた日」

「初日……?」

「うん。ずっと一緒にいる私たちへの視線の送り方が、まるで初めて会った人みたいだった」

 何と。そこからバレていたとは。
 言いようのない寒気を覚えた琢磨に、知音は続けて分析を披露する。

「それからずっと観察してたんだけど、たまーにそういうことがあったのね、しおも気付いてないみたいだけど」

「そうらしいな」

「二つ目、ここからが決定付けたものなんだけど。さっき、お手洗いに行ったわよね」

「行った」

「あそこで、入れ替わったんでしょ?」

 全て、見透かされていた。
 彼女の観察眼が鋭いことはたった今分かったところだが、よもやあの瞬間に鎌をかけられていたと言うのか。
 心当たりのない琢磨が理由を問うと、中で汐里も『気付かなかった』と一言添えた。

「人ってね、自分の癖とかついつい行っちゃうことについては無頓着なものなのよ」

「癖…?」

「そ。気付いてないようだから言っておくと、しお――あぁ、本体の癖っていうのは、普段は美希のことをあだ名では世馬鹿いけど、私が『みっきー』って言った後にしおが喋る時は、決まって一回釣られるのよ」

『みっきー、みっきー……あ、言われてみれば、そうかも』

 思い起こせば、確かにその通りだった。
 知音が話した後で、突っ込むなり話に乗っかるなりする際、一度目は必ず『みっきー』と口にしてた。そして先、琢磨と入れ替わった後では、どうしてあそこで美希の名前を出したのかと追いかける際に『美希』と言っていた。
 意味など無かった――否、その為にわざわざその場にいない人の名前を出していたのだ。

「もう一つ――って、貴方の話だと、今中にいるしおに指摘されたんじゃない?」

「えっと……あぁ。さっき、俺が『西谷先生も』と口にした時、馬鹿って言われた」

「そりゃあそうだろうね。しおに尋ねてみな?」

 言われて、琢磨は汐里にどういうことかを聞いてみた。
 曰く、何かにつけ自分をいやらしい目で見てくる現国の先生が嫌いで、知音含めこの二人はいつも『西谷』と呼び捨てにしているのだとか。そんなもの、今までぽろっと出していてもおかしくはなかった筈なのにと琢磨が首を傾げるや、知音は「確信が得られるまで、わざと出さないようにしてたんだよ」と言い張った。

 最初から今まで、ずっと知音のいいように会話まで操作されていたとは驚きだった。

「あの日も、西谷はしおのこの素晴らしい巨乳ばっかり見てたからね。私が観察してたのは、しおは当然だけど、主には西谷の方だったんだよ」

「……完敗だ。ひとっつも誤魔化せてなかったんだな」

「親友舐めないでって話よ。十年以上の仲なんだから、それくらい分かるわよ」

「それは悪かった、俺の計算違いだった」

 上手くいっていると思っていた。それは、汐里も同じだった。
 しかしどうしたことだろう、汐里が知音に対して抱いていた評価は、全くの見当違いだったということか。親友でも上手くやれば誤魔化せる、そんなことは無かったのだ。
 自分のことは自分よりも、自分に一番近い他人の方がよく知っているものなのだな。

 一つ、大きな進歩をした二人だった。

 と、それは置いておいてだ。
 ここで重要になってくるのは、それを当然のように言い張って、しかし何も触れない知音自身のことだった。

「聞きたかっただけか?」

「ん? うん、聞きたかっただけ」

「何でだ? 何かしようとしないのか?」

「何かって何よ。私がそんな物騒な女に見える?」

「いや見えんが……」

「私はただ、しおの力になりたかっただけ。何か起こってるのは確かだったから、それを支えてあげたかった。それだけよ、文句ある?」

「いや、無いな」

 一つもない。

 たった今確認したのは、知音の汐里に対する、言葉限りではない『愛情』の惜しみなさだった。これほどまでに友人を思い、些細な変化も見逃さない良い子が、他にいようか。美希も、汐里に対してはとても友情などという言葉だけでは括れない優しさがあるが、知音のそれとはまた違うものだ。

 友人は数ではない、という汐里の言葉。
 なるほど。言い得て妙だ。

「それで、仲村さん。いつになったらしおは戻って来るの? 早く話したいんだけど」

「言った通り、今のところはアトランダムなんだけど――」


――キーン――


 言いかけたところで、再び脳内で響く金属音。
 一瞬間だけ脳が揺れて頭を抱えると、すぐに開けた視界は、またぼやけた俯瞰でのイメージだった。

「戻った――知音…」

 何度か拳を作って開いて、自分の身体だと認識する汐里。
 そこに、

「しお…!」

 不意に視界の端に入って来たかと思うと、凄い勢いで飛びつく知音。

「あぁもう、ずっと我慢してたんだからね。見た目がしおだとは言え、中身は男なんだから」

「痛た……ちょ、知音、重い…!」

「親友に隠し事をしていた罰よ、あと二、三分はこうしてるから」

「それはちょっと…」

 嫌だなぁ、とは冗談にも言い辛かった。
 会話を進めていたのは琢磨だったが、それはちゃんと汐里の耳にも届いていたから。
 大好きで大切な親友の、親友らしい心遣いが嬉しかった。

 ほっと安心して、友人を抱きしめ返して――と、思わず琢磨も言葉を失うくらいに友情溢れるいい雰囲気の中、聡明な知音はまた目聡く不安を見つけた。
 知音が次に指定したのは、琢磨が汐里を助けるに至ったトリガーだった。その誰とも知れない老人が琢磨に言った条件から察するに、汐里は今、病に侵されているのではないか。それが知音の見解だった。
 当たりも当たり。と言うよりかは、そうでないと琢磨は今存在していない。
 琢磨が存在しているからには、その媒体たる汐里は、当然患っている。

「話さなきゃダメ、かな」

「私は何でも受け入れるつもりだよ、しお。言いにくいことなら、今はいい。でも、その先で何かあるのなら、その前には絶対に言って欲しい。何か――そう、例えば居なくなるとか、その後で告白されるのだけは、絶対に嫌だからね」

 例えば、と置きながらも、知音は薄々勘付いていた。
 先の説明で、琢磨は汐里が重病を抱えているとは直接言わなかった。
 しかし、琢磨が敢えて隠して言った『自分の命を使って人を助ける』という言葉。命で以って人を助けるということはつまり、それと同等かその前後にある状態の人を助ける、ということなのではないかと。

 あくまで予想、想像の範疇ではあったが、もし仮にそうだとするならば――いや、そうでなくとも、最悪今言ったことだけは何を置いても嫌だった。だから、知音はわざわざ重めのことを言ったのだ。本当に最後が来るのなら、別れた後で明かされるよりかは幾分ましだからと。

「……知音。ほんとに大好き。貴女が友達で良かったわ」

 素直に零れた、偽りない言葉だった。

「ちゃんと話すよ、全部」