世界が終わる夢を見た。
核戦争が起きたのか、地球温暖化が進んだのか、人工知能が暴走したのか、未知の病気が広がったのか、惑星が衝突したのか、火山が噴火したのか、宇宙人に侵略されたのか、空が落ちてきたのか。とにかく世界は真っ赤な炎に包まれ、街や、木々や、人間を消していった。なぜか一人生き残ってしまった僕は、地平線の先まで見渡せる高い丘の上に立ち、燃え盛る広い大地を見渡しながら両手を広げ、歌を歌っていた。
*
放課後の始まりを告げるチャイムの音と共に目が覚めた。ずいぶん長く眠った感覚があり体全体がビリビリと痺れている。目を擦り、椅子から立ち上がってあたりを見渡すと、世界は元通りで、誰もいない教室が広がっていた。
三十四名分の机と椅子が毅然と、しかし、列をなして並んでいる。校庭に面した三階の窓からは四角く切り取られた熱い太陽の光が差し込み、チョークで落書きされた黒板を照らしていた。
『エミューの告別式』『歩く病原菌』『死ね、キモい』
心に空いた穴に冷たい風が抜けていく。悲しみで狂ってしまいそうだ。僕は黒板消しを手に取り、落書きを消した。
こんな世界、本当に終わってしまえばいいのに。
手にまみれた粉を落とし、カバンを持って教室を出た。
元は白かったであろうコンクリートの壁と、掃除が行き届いていない埃かぶった階段。がらんとした学校に足音だけが響く。立ち入り禁止の四階を抜け、屋上に続く鉄の扉が見えてきた。扉の隙間からは明るい光が漏れている。
十四才、灰色の時代。コンクリの床に反射する真夏の太陽の日差しだけが不毛なくらい眩しい。
こんなに空が眩しいのは少し勿体ない。曇ってるくらいの方が僕にはお似合いだ。
夜になると灯が付く屋外用の照明と給水塔を横切り、屋上の縁に立って、金網のフェンス越しに街を見下ろした。五階の屋上からは神戸の街が見渡せる。ビルがあって、マンションがあって、家があって、電車や車が走っていて、人が生活を送っている。
誰だって生きていくのは大変だ。人生なんて寂しさとの闘いなのかもしれない。それは分かっている。分かっているのだけど、今の自分はこの世界でまるで無力だ。僕は人間に向いていない。
制服の裾をめくり、消えることのない手首の痣を指でなぞったその瞬間、不意にドアが開く音がした。細長い影法師が、僕の足元からぼんやりと立ち上ってきて、冷たいヘビのような視線を背後に感じる。ついにやってきてしまった。僕は肩を大きく落とし、一呼吸置いてから振り返った。
「よぉ、エミュー」
マンバは、何度もブリーチをかけた明るい髪を弄びながら微笑んだ。僕はわずかに後ずさりした。背中がフェンスにぶつかる。
「今月の二万円ちゃんと用意したか?」
「……すいません」
小さな声で謝って財布を取り出し、何とかかき集めた一万五千円を差し出した。
「これだけかよ!」
紙幣を握りしめたマンバに横腹を蹴られた。鋭い痛みが走り、前のめりになってその場に崩れ落ちた。
マンバは唸る僕を横目に、カバンを持ち上げ「本当にこれだけか」とチャックを開けた。太陽に照らされた明るい床に勉強道具やCDが散らばる。
「なんだよ、これ」
その中からマンバが、中島みゆき、七枚目のアルバムを掴んで持ち上げた。
「中島みゆきとか、陰気臭いなぁ!」
マンバはアルバムを床に叩きつけた。ジャケット写真に亀裂が入る。それだけはやめてくれ。僕はアルバムを踏み潰そうと足を上げたマンバを正面から抱きしめた。自分より弱い人間をイジメるレベルの低いやつに蹴られても全然痛くなかった。けど、中島みゆきのアルバムにだけは触れてほしくなかった。
「やめろ、病原菌がうつる! 根暗な音楽ばっか聞いてるから、エミューはキモいんだよ!」
突然脳天に強い衝撃が走った。すぐには分からなかったが、頭を思い切り蹴られたのだろう。ぐるりと視界が回転して、平均感覚がおかしくなる。
「明日までに残りの五千円用意しろよ!」
僕はダメだな。
歪んだ視界。重たい空気。苦しい呼吸。空を見上げると意識が朦朧としてきて、目の前がみるみるうちに真っ暗になっていった。
どんな風に生きれば、幸せになれるんだろう。
ひどく悲しいハーモニカの音が伝わってきて目を覚ました。
すでに屋上は夕日に包まれていて、コンクリートが均一に赤く染まっている。僕は音がする方向へと視線を向けた。屋上からさらに一段高くハシゴを登ったその先、給水塔の基部に女性の背中が見えた。細い肩、優雅なラインを描く腰、風に吹かれて広がる長い後ろ髪。そして、夏なのにセーラー服の上から黄色いカーディガンを着た不思議な女性は、僕の存在を気にすることなく真っ赤に染まった世界を見下ろし、ハーモニカを吹いていた。運命に手を加えることなく、ただただ高みから黙って見ているだけ。ずいぶん昔に、そんな少女の物語を読んだことがある気がする。寺山修司だっけ? 僕は想いを巡らせながら、しばらく、夕日に溶けかかった女性を見つめていた。
演奏が終わり、女性はハーモニカを口からはずした。声をかけようとすると、女性がゆっくりとこちらを振り向いた。一瞬遅れてから長い髪がフワリと顔に追いつく。その時、両の手で持つ銀のハーモニカが夕日に反射し、輝いた。僕は腕を額にかざして目を閉じ、また開いたら消えていた。女性が僕の視界から消え去ってしまった。
一体、あの子は誰だったんだろう。床に散らばった教科書やノート。音楽プレーヤーやCDをカバンの中に直して、屋上から出ようと思い、ドアノブに手をかけ力を加えた。しかし、扉はビクともせず硬く閉ざされている。内側から鍵をかけられたのかもしれない。僕は再びドアノブを回して力を加えた。その時、背後に気配を感じ振り向いた。いつの間に降りてきたのだろう。ハーモニカを吹いていた女性が僕の真後ろに立っていた。
「鍵、閉まってるよ」
それぞれの視線がぶつかり、一瞬、呼吸を忘れた。瞳の澄んだ人だった。そのまま数秒間、僕らは見つめ合う形になった。上目遣いのその目は僕を捉えて離さない。不安、葛藤、悲しみ。瞳の虹彩には、そんなものがひしめき合っていた。
「夜まで待つしかないよ。先生が見回りに来てくれるはずだから」
「……そうだね」
僕は無関心を装って女性から視線を外し、少しうつむいて、湧いた疑問を解消すべく何点か質問をした。
「さっき、何を吹いてたの?」
「讃美歌。ことりたちは、って曲」
「放課後はいつもここに?」
「うん。家に帰っても居場所がないんだ。この場所好きだし」
女性の言葉を受け、僕も改めて屋上から街を見渡した。
ビルも、マンションも、家も、電車も、車も、人も、目につくもの全てが。世界中の全てが真っ赤に染まっていた。
「夕日で街が燃えてるみたいね」
「……本当に燃えちゃえばいいのに」
間もたせに発した無意味な言葉だが、図らずも、それは、僕の心情を率直に表していた。
「いいね、それ」
女性が僕のほうを向き微笑んだ。不意打ちの笑顔に覚えず心が和む。
「私はクイナ。三年のクイナ」
「僕は二年のエミュー」
「趣味とかあるの?」
「趣味は音楽鑑賞。好きなミュージシャンは、中島みゆき」
「みゆきちゃん、私も大好き」
切れ切れの会話が止まったところで、僕とクイナは、屋上の壁にもたれて床に座った。
「今まで色んな音楽を聴いてきたけど、中島みゆきを超えるミュージシャンなんて存在しないよ」
カバンからCDプレーヤーを取り出し、中島みゆきのCDをセットして、イヤホンを二人分け合った。人生を変えるのではなく、人生そのものになってしまう音楽との出会いがある。僕の場合は十歳の時に初めて中島みゆき聴いた瞬間だった。理由は分からないけど、わけもなく涙が溢れたのを今でも鮮明に覚えている。僕はボリュームを少し上げ、再生ボタンを押し、目を閉じた。
「世の中はいつも変わっているから、頑固者だけが悲しい思いをする」
なぜか世界で一人生き残ってしまった僕は、地平線の先まで見渡せる高い丘の上に立ち、燃え盛る広い大地を見渡しながら両手を広げ歌を歌っていた。
「変わらないものを何かにたとえて、その度崩れちゃそいつのせいにする」
燃える炎の激しさに感動して声が震える。僕は自分でも驚くほど大きい声で叫ぶように歌を歌った。
「シュプレヒコールの波、通り過ぎてゆく、変わらない夢を流れに求めて」
本当のことを言えば全てをぶち壊したかった。この地球も、日本も、現実も、生活も、学校も、親も、先生も、政治家も、テレビ番組も、イジメも、夢も、目標も、未来も、アイデンティティも、同調も、カーストも、ヒエラルキーも、流行も、不甲斐ない自分も。みんな、ズタズタにしてしまいたかった。
「時の流れを止めて、変わらない夢を、見たがる者たちと戦うため」
燃えちゃえばいいんだ、みんな。燃えちゃえばいい。こんな世界、僕、もうこんな世界いらない。
音楽が鳴り止み、現実の世界へと引き戻された。屋上に静寂が訪れる。僕はゆっくりと目を開いた。夕暮れの空は赤く、中島みゆきの歌声は優しい。
クイナはイヤホンを外しながら「なんか、世界中に二人だけみたいだね」と小さく溢し、ため息を吐いて、歌詞カードから視線を外した。
「エミュー、いじめられてるでしょ?」
不意の質問に驚いた。
「……いじめられてなんかいないよ。一緒に遊んでるだけ」
僕はCDプレーヤーをカバンに直し、体を傾けクイナを見た。
「嘘。さっき頭を蹴られてたでしょ。私、上から見てたんだ」
クイナは恐ろしく真面目な顔をしている。
「エミューの気持ち、少し分かるな。辛いよ……」
クイナの言葉をかき消そうと、被せるような強い口調を返した。
「クイナなんかに僕の気持ちは分からないよ。分かられてたまるか!」
クイナが寂しげな表情をうかべ、羽織っていた薄いカーディガンを言葉なく脱いだ。
黒く大きな斑点の浮いた細い腕。手首には何本も何本も深いリスカ痕が引かれていた。僕は反射的に目を逸らしてしまった。見たくないものを見れる強さが欲しかった。
「分かるよ。私には、エミューの気持ちが分かる」
クイナは切実な口調で、力強く答えた。
「なぜなら私もエミューと同じ、深い痛みの中にいるから」
「ノート見る?」
クイナはカバンから取り出したノートを僕に貸してくれた。僕は恐る恐るそのノートを開いた。
『学校辞めろ』『ブスブスブス』『喋りかけてくんな』
そこには、残酷な言葉達がびっしりと並べられていた。
「これなんか面白いでしょ、頼むから死んで、だってさ」
クイナはノートの真ん中に真っ赤なペンで大きく書かれた言葉を指差し、嘘っぽく笑った。
「そろそろ、皆んなの期待に応えないと」
ぽつりと放った一言だが、どこか切ない響きを帯びていた。
「ねぇ、一瞬に死なない?」
瞬き五回分の沈黙が生まれる。上目遣いに僕を見上げるその瞳は相変わらず美しかった。
「あいつらの人生を狂わせてやろうよ。このノートに今まで受けたイジメの内容を綴って、二人で自殺したら絶対話題になると思う。見て見ぬ振りを続けた先生だって学校を辞めるだろうし、イジメてた奴らだって居場所が無くなる」
ぽつり、ぽつりと、丁寧に言葉を選びながら慎重に話しをするクイナを見て、僕は悟った。彼女は本気だ。
「けど、中島みゆきの新曲が……」
クイナは僕の話を聞こうとせず、制服の裾を強引に引っ張ってきた。
「まっ、ちょっと、待ってよ!」
腕を振りほどいた反動で、クイナが尻もちをついて倒れた。長い黒髪を重たそうにして仰向けに空を見上げている。
「ご、ごめん」
咄嗟に弁解し、手を差し伸べた。するとクイナが僕の右手を両手で強く握り、床の方向へと強く引っ張る。
僕はクイナの体を挟んで四つん這いになった。僕と、僕の目の前で覚悟を決めたクイナの視線が交錯する。クイナの瞳の中にクイナの顔を見入る僕の顔が写っているのが見えた。クイナもまた、自分の姿が僕の瞳の中に写っているのだろうか。奇妙な合わせ鏡。その時、時間が止まった気がした。
「もし、一緒に死んでくれるならエミューとキスしてやってもいいよ」
クイナの言葉が夕日に反射し光る。
僕はおずおずと手を伸ばした。すがるように、助けを求めるように。ゆっくりと間を詰めていく僕の指先は、細かく震えている。そして、僕の手のひらがクイナの頬に触れた。
「こんなはずじゃなかったよな」
「本当にそう。けど、もう決めたんだから前に進もうよ」
「分かってる……」
分かってる。いや。ずっと前から分かってた……。
「さよならだけが人生だろ」
クイナが目を閉じたのを確認してから僕も目を閉じ、唇を重ね合わせた。傷を舐め合うような優しくも儚いキスだった。
一俵の米を機械で脱穀すると、必ず数粒、脱穀されない殻粒が出る。遺書を書きながら、いつか読んだことのある小説の台詞を自分に重ね合わせた。僕たち二人はその極く少数の脱穀されない殻粒なのかもしれない。
「なんで僕たちはこの地球に生まれてきたんだろう」
独り言とも思える口調で呟いた。
「……残念ながら私はニーチェでも、ハイデガーでもない。そんなこと分からないよ」
僕は思わず遺書を書く手を止めた。そして、クイナの表情を伺い、再び遺書に戻った。
「確かに男でもないし、ハゲてもないな」
ノートには十四年間の思い出を書いて、今まで出会えた全ての人々への感謝を書いて、再び構成を練ってから最後に僕がどうしても伝えたかった想いを書き、ペンを置いた。あなたの胸に焼きついて消えないような言葉を書きたかった。けど、そんなこと考えてたら文字数制限がきてしまった。結局最後は「ありがとう」で遺書をしめくくった。
「じゃあ、行こっか」
振り返らずにクイナは言った。彼女のシルエットが逆行に浮かび上がる。
ずいぶんと履きこまれたローファーを脱いだクイナが、錆びたフェンスに手をかけた。
「空を飛ぶって、どんな気分なのかな」
僕はどう答えたらいいか分からず、返事もせずにコンバースオールスターの紐をほどき、靴を脱いだ。クイナはフェンスを越え、屋上の淵に立ち、呟いた。
「やっと終われる。やめられる。自分も、家族も、学校も、全て。もう全てから自由になりたい」
クイナに続き、僕も屋上の淵に立った。
「エミューは死ぬの怖い?」
「怖くない……生きていくってことと比べたら、こんなこと……」
震えるクイナの手を握り、空を眺めた。
「……私、次生まれ変わったら鳥になりたいな」
「じゃあ、僕は夕日になって君を照らすよ」
こんな空を見たのはいつ以来だろう。
今日もどこかで戦争をしてるとか、小さな子供が飢えで死んでるとか、そんなのは信じられないほどにその日見上げた空はどんな赤よりも鮮やかで、いつか見た夢のように、可愛そうなほど美しかった。
〝まるで、世界の終わりみたいだ〟
風が二人の間を言葉なく吹き抜けた。
さよならだけが人生ならば、人生なんかいりません。
覚悟を決め一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。屋上の照明が不意に点灯した。
強烈な光が僕の目を直接射抜く。
「……!」
驚いて目を開くと、ぼやけた視界にキラキラと光り輝く霧のように細かい直線が見えた。
「……霧雨だ」
照明の光に照らされて初めて見えた霧雨。
僕も……もしかしたら僕たちも見えない何かに助けられているのかもしれない。
あっ、ヤバイ!
僕はフェンスを勢いよく乗り越え、靴を履き直し、雨に濡れないよう散らばったCDを拾い集めた。真っ赤に染まった手のひらが次第に青ざめていく。街を見渡すと、街の灯りがポツポツと煌めき始めた。奇麗だった。そしてなんだかわけもなく寂しくなった。いつの間にか僕は涙ぐんでいた。
「……キス、もう一回だめかな?」
予想だにしていなかった言葉にクイナは驚いたと思う。
「えっ……急になんなの……」
両膝を落とし、中島みゆき七枚目のアルバムを拾った。目の前のCDがゆっくりとボヤけ、瞬きと同時にこぼれ落ちる。
「何が言いたいの!」
僕は声を立てずに泣きながら、手に持つアルバムのタイトルを、祈るように読み上げた。
――「生きていてもいいですか」――
・参考「中島みゆき/生きていてもいいですか/キャニオンレコード」
・参考「中島みゆき/世情/キャニオンレコード」
核戦争が起きたのか、地球温暖化が進んだのか、人工知能が暴走したのか、未知の病気が広がったのか、惑星が衝突したのか、火山が噴火したのか、宇宙人に侵略されたのか、空が落ちてきたのか。とにかく世界は真っ赤な炎に包まれ、街や、木々や、人間を消していった。なぜか一人生き残ってしまった僕は、地平線の先まで見渡せる高い丘の上に立ち、燃え盛る広い大地を見渡しながら両手を広げ、歌を歌っていた。
*
放課後の始まりを告げるチャイムの音と共に目が覚めた。ずいぶん長く眠った感覚があり体全体がビリビリと痺れている。目を擦り、椅子から立ち上がってあたりを見渡すと、世界は元通りで、誰もいない教室が広がっていた。
三十四名分の机と椅子が毅然と、しかし、列をなして並んでいる。校庭に面した三階の窓からは四角く切り取られた熱い太陽の光が差し込み、チョークで落書きされた黒板を照らしていた。
『エミューの告別式』『歩く病原菌』『死ね、キモい』
心に空いた穴に冷たい風が抜けていく。悲しみで狂ってしまいそうだ。僕は黒板消しを手に取り、落書きを消した。
こんな世界、本当に終わってしまえばいいのに。
手にまみれた粉を落とし、カバンを持って教室を出た。
元は白かったであろうコンクリートの壁と、掃除が行き届いていない埃かぶった階段。がらんとした学校に足音だけが響く。立ち入り禁止の四階を抜け、屋上に続く鉄の扉が見えてきた。扉の隙間からは明るい光が漏れている。
十四才、灰色の時代。コンクリの床に反射する真夏の太陽の日差しだけが不毛なくらい眩しい。
こんなに空が眩しいのは少し勿体ない。曇ってるくらいの方が僕にはお似合いだ。
夜になると灯が付く屋外用の照明と給水塔を横切り、屋上の縁に立って、金網のフェンス越しに街を見下ろした。五階の屋上からは神戸の街が見渡せる。ビルがあって、マンションがあって、家があって、電車や車が走っていて、人が生活を送っている。
誰だって生きていくのは大変だ。人生なんて寂しさとの闘いなのかもしれない。それは分かっている。分かっているのだけど、今の自分はこの世界でまるで無力だ。僕は人間に向いていない。
制服の裾をめくり、消えることのない手首の痣を指でなぞったその瞬間、不意にドアが開く音がした。細長い影法師が、僕の足元からぼんやりと立ち上ってきて、冷たいヘビのような視線を背後に感じる。ついにやってきてしまった。僕は肩を大きく落とし、一呼吸置いてから振り返った。
「よぉ、エミュー」
マンバは、何度もブリーチをかけた明るい髪を弄びながら微笑んだ。僕はわずかに後ずさりした。背中がフェンスにぶつかる。
「今月の二万円ちゃんと用意したか?」
「……すいません」
小さな声で謝って財布を取り出し、何とかかき集めた一万五千円を差し出した。
「これだけかよ!」
紙幣を握りしめたマンバに横腹を蹴られた。鋭い痛みが走り、前のめりになってその場に崩れ落ちた。
マンバは唸る僕を横目に、カバンを持ち上げ「本当にこれだけか」とチャックを開けた。太陽に照らされた明るい床に勉強道具やCDが散らばる。
「なんだよ、これ」
その中からマンバが、中島みゆき、七枚目のアルバムを掴んで持ち上げた。
「中島みゆきとか、陰気臭いなぁ!」
マンバはアルバムを床に叩きつけた。ジャケット写真に亀裂が入る。それだけはやめてくれ。僕はアルバムを踏み潰そうと足を上げたマンバを正面から抱きしめた。自分より弱い人間をイジメるレベルの低いやつに蹴られても全然痛くなかった。けど、中島みゆきのアルバムにだけは触れてほしくなかった。
「やめろ、病原菌がうつる! 根暗な音楽ばっか聞いてるから、エミューはキモいんだよ!」
突然脳天に強い衝撃が走った。すぐには分からなかったが、頭を思い切り蹴られたのだろう。ぐるりと視界が回転して、平均感覚がおかしくなる。
「明日までに残りの五千円用意しろよ!」
僕はダメだな。
歪んだ視界。重たい空気。苦しい呼吸。空を見上げると意識が朦朧としてきて、目の前がみるみるうちに真っ暗になっていった。
どんな風に生きれば、幸せになれるんだろう。
ひどく悲しいハーモニカの音が伝わってきて目を覚ました。
すでに屋上は夕日に包まれていて、コンクリートが均一に赤く染まっている。僕は音がする方向へと視線を向けた。屋上からさらに一段高くハシゴを登ったその先、給水塔の基部に女性の背中が見えた。細い肩、優雅なラインを描く腰、風に吹かれて広がる長い後ろ髪。そして、夏なのにセーラー服の上から黄色いカーディガンを着た不思議な女性は、僕の存在を気にすることなく真っ赤に染まった世界を見下ろし、ハーモニカを吹いていた。運命に手を加えることなく、ただただ高みから黙って見ているだけ。ずいぶん昔に、そんな少女の物語を読んだことがある気がする。寺山修司だっけ? 僕は想いを巡らせながら、しばらく、夕日に溶けかかった女性を見つめていた。
演奏が終わり、女性はハーモニカを口からはずした。声をかけようとすると、女性がゆっくりとこちらを振り向いた。一瞬遅れてから長い髪がフワリと顔に追いつく。その時、両の手で持つ銀のハーモニカが夕日に反射し、輝いた。僕は腕を額にかざして目を閉じ、また開いたら消えていた。女性が僕の視界から消え去ってしまった。
一体、あの子は誰だったんだろう。床に散らばった教科書やノート。音楽プレーヤーやCDをカバンの中に直して、屋上から出ようと思い、ドアノブに手をかけ力を加えた。しかし、扉はビクともせず硬く閉ざされている。内側から鍵をかけられたのかもしれない。僕は再びドアノブを回して力を加えた。その時、背後に気配を感じ振り向いた。いつの間に降りてきたのだろう。ハーモニカを吹いていた女性が僕の真後ろに立っていた。
「鍵、閉まってるよ」
それぞれの視線がぶつかり、一瞬、呼吸を忘れた。瞳の澄んだ人だった。そのまま数秒間、僕らは見つめ合う形になった。上目遣いのその目は僕を捉えて離さない。不安、葛藤、悲しみ。瞳の虹彩には、そんなものがひしめき合っていた。
「夜まで待つしかないよ。先生が見回りに来てくれるはずだから」
「……そうだね」
僕は無関心を装って女性から視線を外し、少しうつむいて、湧いた疑問を解消すべく何点か質問をした。
「さっき、何を吹いてたの?」
「讃美歌。ことりたちは、って曲」
「放課後はいつもここに?」
「うん。家に帰っても居場所がないんだ。この場所好きだし」
女性の言葉を受け、僕も改めて屋上から街を見渡した。
ビルも、マンションも、家も、電車も、車も、人も、目につくもの全てが。世界中の全てが真っ赤に染まっていた。
「夕日で街が燃えてるみたいね」
「……本当に燃えちゃえばいいのに」
間もたせに発した無意味な言葉だが、図らずも、それは、僕の心情を率直に表していた。
「いいね、それ」
女性が僕のほうを向き微笑んだ。不意打ちの笑顔に覚えず心が和む。
「私はクイナ。三年のクイナ」
「僕は二年のエミュー」
「趣味とかあるの?」
「趣味は音楽鑑賞。好きなミュージシャンは、中島みゆき」
「みゆきちゃん、私も大好き」
切れ切れの会話が止まったところで、僕とクイナは、屋上の壁にもたれて床に座った。
「今まで色んな音楽を聴いてきたけど、中島みゆきを超えるミュージシャンなんて存在しないよ」
カバンからCDプレーヤーを取り出し、中島みゆきのCDをセットして、イヤホンを二人分け合った。人生を変えるのではなく、人生そのものになってしまう音楽との出会いがある。僕の場合は十歳の時に初めて中島みゆき聴いた瞬間だった。理由は分からないけど、わけもなく涙が溢れたのを今でも鮮明に覚えている。僕はボリュームを少し上げ、再生ボタンを押し、目を閉じた。
「世の中はいつも変わっているから、頑固者だけが悲しい思いをする」
なぜか世界で一人生き残ってしまった僕は、地平線の先まで見渡せる高い丘の上に立ち、燃え盛る広い大地を見渡しながら両手を広げ歌を歌っていた。
「変わらないものを何かにたとえて、その度崩れちゃそいつのせいにする」
燃える炎の激しさに感動して声が震える。僕は自分でも驚くほど大きい声で叫ぶように歌を歌った。
「シュプレヒコールの波、通り過ぎてゆく、変わらない夢を流れに求めて」
本当のことを言えば全てをぶち壊したかった。この地球も、日本も、現実も、生活も、学校も、親も、先生も、政治家も、テレビ番組も、イジメも、夢も、目標も、未来も、アイデンティティも、同調も、カーストも、ヒエラルキーも、流行も、不甲斐ない自分も。みんな、ズタズタにしてしまいたかった。
「時の流れを止めて、変わらない夢を、見たがる者たちと戦うため」
燃えちゃえばいいんだ、みんな。燃えちゃえばいい。こんな世界、僕、もうこんな世界いらない。
音楽が鳴り止み、現実の世界へと引き戻された。屋上に静寂が訪れる。僕はゆっくりと目を開いた。夕暮れの空は赤く、中島みゆきの歌声は優しい。
クイナはイヤホンを外しながら「なんか、世界中に二人だけみたいだね」と小さく溢し、ため息を吐いて、歌詞カードから視線を外した。
「エミュー、いじめられてるでしょ?」
不意の質問に驚いた。
「……いじめられてなんかいないよ。一緒に遊んでるだけ」
僕はCDプレーヤーをカバンに直し、体を傾けクイナを見た。
「嘘。さっき頭を蹴られてたでしょ。私、上から見てたんだ」
クイナは恐ろしく真面目な顔をしている。
「エミューの気持ち、少し分かるな。辛いよ……」
クイナの言葉をかき消そうと、被せるような強い口調を返した。
「クイナなんかに僕の気持ちは分からないよ。分かられてたまるか!」
クイナが寂しげな表情をうかべ、羽織っていた薄いカーディガンを言葉なく脱いだ。
黒く大きな斑点の浮いた細い腕。手首には何本も何本も深いリスカ痕が引かれていた。僕は反射的に目を逸らしてしまった。見たくないものを見れる強さが欲しかった。
「分かるよ。私には、エミューの気持ちが分かる」
クイナは切実な口調で、力強く答えた。
「なぜなら私もエミューと同じ、深い痛みの中にいるから」
「ノート見る?」
クイナはカバンから取り出したノートを僕に貸してくれた。僕は恐る恐るそのノートを開いた。
『学校辞めろ』『ブスブスブス』『喋りかけてくんな』
そこには、残酷な言葉達がびっしりと並べられていた。
「これなんか面白いでしょ、頼むから死んで、だってさ」
クイナはノートの真ん中に真っ赤なペンで大きく書かれた言葉を指差し、嘘っぽく笑った。
「そろそろ、皆んなの期待に応えないと」
ぽつりと放った一言だが、どこか切ない響きを帯びていた。
「ねぇ、一瞬に死なない?」
瞬き五回分の沈黙が生まれる。上目遣いに僕を見上げるその瞳は相変わらず美しかった。
「あいつらの人生を狂わせてやろうよ。このノートに今まで受けたイジメの内容を綴って、二人で自殺したら絶対話題になると思う。見て見ぬ振りを続けた先生だって学校を辞めるだろうし、イジメてた奴らだって居場所が無くなる」
ぽつり、ぽつりと、丁寧に言葉を選びながら慎重に話しをするクイナを見て、僕は悟った。彼女は本気だ。
「けど、中島みゆきの新曲が……」
クイナは僕の話を聞こうとせず、制服の裾を強引に引っ張ってきた。
「まっ、ちょっと、待ってよ!」
腕を振りほどいた反動で、クイナが尻もちをついて倒れた。長い黒髪を重たそうにして仰向けに空を見上げている。
「ご、ごめん」
咄嗟に弁解し、手を差し伸べた。するとクイナが僕の右手を両手で強く握り、床の方向へと強く引っ張る。
僕はクイナの体を挟んで四つん這いになった。僕と、僕の目の前で覚悟を決めたクイナの視線が交錯する。クイナの瞳の中にクイナの顔を見入る僕の顔が写っているのが見えた。クイナもまた、自分の姿が僕の瞳の中に写っているのだろうか。奇妙な合わせ鏡。その時、時間が止まった気がした。
「もし、一緒に死んでくれるならエミューとキスしてやってもいいよ」
クイナの言葉が夕日に反射し光る。
僕はおずおずと手を伸ばした。すがるように、助けを求めるように。ゆっくりと間を詰めていく僕の指先は、細かく震えている。そして、僕の手のひらがクイナの頬に触れた。
「こんなはずじゃなかったよな」
「本当にそう。けど、もう決めたんだから前に進もうよ」
「分かってる……」
分かってる。いや。ずっと前から分かってた……。
「さよならだけが人生だろ」
クイナが目を閉じたのを確認してから僕も目を閉じ、唇を重ね合わせた。傷を舐め合うような優しくも儚いキスだった。
一俵の米を機械で脱穀すると、必ず数粒、脱穀されない殻粒が出る。遺書を書きながら、いつか読んだことのある小説の台詞を自分に重ね合わせた。僕たち二人はその極く少数の脱穀されない殻粒なのかもしれない。
「なんで僕たちはこの地球に生まれてきたんだろう」
独り言とも思える口調で呟いた。
「……残念ながら私はニーチェでも、ハイデガーでもない。そんなこと分からないよ」
僕は思わず遺書を書く手を止めた。そして、クイナの表情を伺い、再び遺書に戻った。
「確かに男でもないし、ハゲてもないな」
ノートには十四年間の思い出を書いて、今まで出会えた全ての人々への感謝を書いて、再び構成を練ってから最後に僕がどうしても伝えたかった想いを書き、ペンを置いた。あなたの胸に焼きついて消えないような言葉を書きたかった。けど、そんなこと考えてたら文字数制限がきてしまった。結局最後は「ありがとう」で遺書をしめくくった。
「じゃあ、行こっか」
振り返らずにクイナは言った。彼女のシルエットが逆行に浮かび上がる。
ずいぶんと履きこまれたローファーを脱いだクイナが、錆びたフェンスに手をかけた。
「空を飛ぶって、どんな気分なのかな」
僕はどう答えたらいいか分からず、返事もせずにコンバースオールスターの紐をほどき、靴を脱いだ。クイナはフェンスを越え、屋上の淵に立ち、呟いた。
「やっと終われる。やめられる。自分も、家族も、学校も、全て。もう全てから自由になりたい」
クイナに続き、僕も屋上の淵に立った。
「エミューは死ぬの怖い?」
「怖くない……生きていくってことと比べたら、こんなこと……」
震えるクイナの手を握り、空を眺めた。
「……私、次生まれ変わったら鳥になりたいな」
「じゃあ、僕は夕日になって君を照らすよ」
こんな空を見たのはいつ以来だろう。
今日もどこかで戦争をしてるとか、小さな子供が飢えで死んでるとか、そんなのは信じられないほどにその日見上げた空はどんな赤よりも鮮やかで、いつか見た夢のように、可愛そうなほど美しかった。
〝まるで、世界の終わりみたいだ〟
風が二人の間を言葉なく吹き抜けた。
さよならだけが人生ならば、人生なんかいりません。
覚悟を決め一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。屋上の照明が不意に点灯した。
強烈な光が僕の目を直接射抜く。
「……!」
驚いて目を開くと、ぼやけた視界にキラキラと光り輝く霧のように細かい直線が見えた。
「……霧雨だ」
照明の光に照らされて初めて見えた霧雨。
僕も……もしかしたら僕たちも見えない何かに助けられているのかもしれない。
あっ、ヤバイ!
僕はフェンスを勢いよく乗り越え、靴を履き直し、雨に濡れないよう散らばったCDを拾い集めた。真っ赤に染まった手のひらが次第に青ざめていく。街を見渡すと、街の灯りがポツポツと煌めき始めた。奇麗だった。そしてなんだかわけもなく寂しくなった。いつの間にか僕は涙ぐんでいた。
「……キス、もう一回だめかな?」
予想だにしていなかった言葉にクイナは驚いたと思う。
「えっ……急になんなの……」
両膝を落とし、中島みゆき七枚目のアルバムを拾った。目の前のCDがゆっくりとボヤけ、瞬きと同時にこぼれ落ちる。
「何が言いたいの!」
僕は声を立てずに泣きながら、手に持つアルバムのタイトルを、祈るように読み上げた。
――「生きていてもいいですか」――
・参考「中島みゆき/生きていてもいいですか/キャニオンレコード」
・参考「中島みゆき/世情/キャニオンレコード」