僕は初恋の相手の顔も声音も体温も知らない。なぜなら、僕にとってその相手は手紙の中だけの存在だから。つまり僕は自分の初恋の相手である彼女と逢ったことがない。
僕が初恋の相手について語る羽目になったのは他でもない、文芸部の1つ上の先輩にこの話を振られたからだ。
先輩の黒川理子とは文芸部で知り合った。文芸部は僕と先輩を含めて5人のメンバーが所属しているが、そのほとんどが幽霊部員なため、必然的に僕と先輩は近しい距離におかれ、親しくなった。
僕と先輩の距離は自他ともに認めるほど良好な関係を築いていて、周囲からは僕たちの関係を言及する声が多い。
僕自身も先輩を好意的に思っているが、それはあくまで友人としての感情だ。他意はない。
しかし、僕がここまで近しい異性に対して頑なに恋愛感情を抱こうとしないのは恐らく、初恋の相手を忘れられていないからだと思う。
今日も変わらず太陽は西に落ち始め、既に授業の終わった教室を紅に染め上げていた。
「それじゃあ、また明日」僕は別れの挨拶を友人と交わし、荷物をまとめる。
「空人、今日も先輩のところか?」
教室に残り、取り留めもない話を繰り広げているグループの内の友人が悪戯な笑みを浮かべて訊いた。
「まあな、一応部活だし」
「ほとんどの人間が幽霊部員の部活か……まあ、先輩との仲が発展したら教えてくれよ」
「ああ」
友人は興味があるのかないのか漠然としない素振りで手をひらひらと振り、再びグループ内の他愛もない話に講じる。僕は教室を出て、部室へと歩みを進めた。
この時間帯になると人の通りが少ないため、自然と僕はこの季節の環境音に意識を向ける。長い夏の1日の終わりを感じるひぐらしの合唱、田舎特有の閑散とした空気に溶け込む町内放送、校庭で練習に励む運動部の声。
そんなことに意識を向けて歩いていると、僕はすでに部室の前に到着していた。ドアに手を掛け、そのまま開くと、廊下からの西陽が部室の中に流れ込んで行く。
「お疲れさま」こちらを振り向いた彼女の白い肌に廊下から零れた茜が染め上げた。
「お疲れさまです」僕も無難に返事をする。
「唐突なんだけどさ、白金君。君の初恋の話が訊きたいな」
僕の方に向き直り、質問をしてくる彼女の表情は悪戯な笑みに歪んでいた。
「唐突すぎないですかね。その質問」荷物を机に掛け、椅子に座りながらそう返した。
「いやあ、単純に興味があるし、物語のネタに困ってるんだよね。だから取材に協力すると思って頼まれてくれない?」
彼女は顔の前で手を合わせて頼み込んできた。内心、僕としては自分の初恋について誰にも話したことがないし、訊かれたとしてもはぐらかして返してきた。そして僕はこれからもこの話を誰かにしたくはない。なぜなら、僕の初恋は少し特殊で、誰もこんな話を信じてくれないと考えていたからだ。
しかし、彼女になら話してもいいかもしれないと思った。この時僕にこう思いせしめた理由は先輩と親しいからかも知れないし、ただ取材協力に応じただけかも知れないし、僕がこの話を隠すのに疲れてきていたからかも知れないが、僕でさえその明確な理由は解らなかった。
「はあ」僕は呆れたように溜め息を1つ吐き、開口する。
「話てもいいんですけど、こんな話信じられないかも知れないですよ」
「それでも私は、私が信頼する君の話を信じたいと思うよ」
さっきの楽天的な態度から一変して真面目に返答する彼女に対して僕は少し驚き、呆けたまま数秒見つめ合う。
「僕は初恋の相手の顔も声もその温度も知りません。なぜなら僕にとってその相手は手紙の中だけの存在だから」
僕は最初にそう話を切り出し、一息吐いて、再び言葉を紡ぎ始めた。
僕が初恋の相手について語る羽目になったのは他でもない、文芸部の1つ上の先輩にこの話を振られたからだ。
先輩の黒川理子とは文芸部で知り合った。文芸部は僕と先輩を含めて5人のメンバーが所属しているが、そのほとんどが幽霊部員なため、必然的に僕と先輩は近しい距離におかれ、親しくなった。
僕と先輩の距離は自他ともに認めるほど良好な関係を築いていて、周囲からは僕たちの関係を言及する声が多い。
僕自身も先輩を好意的に思っているが、それはあくまで友人としての感情だ。他意はない。
しかし、僕がここまで近しい異性に対して頑なに恋愛感情を抱こうとしないのは恐らく、初恋の相手を忘れられていないからだと思う。
今日も変わらず太陽は西に落ち始め、既に授業の終わった教室を紅に染め上げていた。
「それじゃあ、また明日」僕は別れの挨拶を友人と交わし、荷物をまとめる。
「空人、今日も先輩のところか?」
教室に残り、取り留めもない話を繰り広げているグループの内の友人が悪戯な笑みを浮かべて訊いた。
「まあな、一応部活だし」
「ほとんどの人間が幽霊部員の部活か……まあ、先輩との仲が発展したら教えてくれよ」
「ああ」
友人は興味があるのかないのか漠然としない素振りで手をひらひらと振り、再びグループ内の他愛もない話に講じる。僕は教室を出て、部室へと歩みを進めた。
この時間帯になると人の通りが少ないため、自然と僕はこの季節の環境音に意識を向ける。長い夏の1日の終わりを感じるひぐらしの合唱、田舎特有の閑散とした空気に溶け込む町内放送、校庭で練習に励む運動部の声。
そんなことに意識を向けて歩いていると、僕はすでに部室の前に到着していた。ドアに手を掛け、そのまま開くと、廊下からの西陽が部室の中に流れ込んで行く。
「お疲れさま」こちらを振り向いた彼女の白い肌に廊下から零れた茜が染め上げた。
「お疲れさまです」僕も無難に返事をする。
「唐突なんだけどさ、白金君。君の初恋の話が訊きたいな」
僕の方に向き直り、質問をしてくる彼女の表情は悪戯な笑みに歪んでいた。
「唐突すぎないですかね。その質問」荷物を机に掛け、椅子に座りながらそう返した。
「いやあ、単純に興味があるし、物語のネタに困ってるんだよね。だから取材に協力すると思って頼まれてくれない?」
彼女は顔の前で手を合わせて頼み込んできた。内心、僕としては自分の初恋について誰にも話したことがないし、訊かれたとしてもはぐらかして返してきた。そして僕はこれからもこの話を誰かにしたくはない。なぜなら、僕の初恋は少し特殊で、誰もこんな話を信じてくれないと考えていたからだ。
しかし、彼女になら話してもいいかもしれないと思った。この時僕にこう思いせしめた理由は先輩と親しいからかも知れないし、ただ取材協力に応じただけかも知れないし、僕がこの話を隠すのに疲れてきていたからかも知れないが、僕でさえその明確な理由は解らなかった。
「はあ」僕は呆れたように溜め息を1つ吐き、開口する。
「話てもいいんですけど、こんな話信じられないかも知れないですよ」
「それでも私は、私が信頼する君の話を信じたいと思うよ」
さっきの楽天的な態度から一変して真面目に返答する彼女に対して僕は少し驚き、呆けたまま数秒見つめ合う。
「僕は初恋の相手の顔も声もその温度も知りません。なぜなら僕にとってその相手は手紙の中だけの存在だから」
僕は最初にそう話を切り出し、一息吐いて、再び言葉を紡ぎ始めた。