「ねえ、ナオさん」
「ん?」
「わたし、ずっとやりたいことがなかったんです」
「そうなんだ」
「高校の頃、進路を考えたときから。世の中を、少し斜めに捉えていた部分があったんです。好きなことなんて、やっている瞬間は楽しいけど、どうせいつかは辞めなくてはならない瞬間がくるって考えてたんです。だから、周りには、新体操を続けた方がいいとか、新体操があるからいいよねとか言われたんですけど、結局辞めて、大学進学っていう無難な道を選んだんです。
それで、あれやこれやと考えてから起こした行動って、ろくな結果を持ってこないなって思って。それにはちゃんと根拠があるんです。新体操を始めたのも、部活として珍しいなって思ったくらいで、特になにを考えるでもなく入部を決めて始めました。やっている間はすごく楽しくて、ほとんど直感だったその決め方は間違ってなかったと思ってます。それでも、辞めるときには余計なことを考えて決断して、一度はすごい後悔した。
もう一つ、直感で選んだ道がいい結果を持っていてくれたことがあって。それがまさに、ナオさんとの再会なんです。大学の夏休みってすごい長くて、暇なんですよ。それである日、図書館に行こうと思って。その道中だったかな。この家の、ブロック塀の張り紙を見て、ナオさんに連絡してみた。暇だったし、リバーシくらいでなら、それなりに経験のある人にも勝てると思ったし。そうしたら、こんなにも楽しくて幸せな心地を味わえた」
「直感、か。どうかな、僕に会ったのは、新体操を辞めちゃったからかもしれないよ。だから君は大学に進んで、夏休みに退屈を感じて図書館へ行き、僕に連絡をくれた」
わたしは思わず噴き出した。「ナオさん、意外と楽観主義なんですね」
「先日話したように、弟もそう思ってるみたいだったよ」
「グラスに半分ある水を見て、ナオさんはどう思います?」
ナオさんはふっと口角を上げた。「まだ半分ある、かな」
「やっぱり」とわたしは笑った。
「僕も、高校で進路を考えるっていう頃から、やりたいことがなかったんだ」ナオさんは真面目な声で言った。そういえば先日、そう言っていたなと思い出す。
「今は見つかりました? やりたいこと」
「うん。高校を卒業して少しした頃かな、これなら楽に稼げそうだと思って、見つけた」
「あ、仕事を見つけたってことですか?」
「まあ、そうなるのかな。仕事なんて御大層なものだとは思ってないけどね」
「なにしてるんです?」
「サイトの経営と、敷地を駐車場として貸してるんだ」
「へえ、そんなに稼げます?」
「まあ」こんな生活ができるくらいには、と、ナオさんは軽く両手を広げた。
「結構みたいですね」とわたしは笑い返す。「サイトの方は? 会員制みたいなことですか?」
「そう。月額制」
「へえ。結構会員さんいるんですか?」
「まあまあ」
「へええ。もしかしたら、わたしもそのサイト使ってるかもしれないですね」
「どうだろうね」とナオさんは笑みを見せる。
「君はどう? 大学生でしょう、これからのことは考えてるの?」
「世話焼いてくれるんですか?」
「まさか」とナオさんは両手を小さく振る。「そんな大役は引き受けないよ」
「そうですか。ナオさんになら、いくらでも世話焼かれたいです。お説教も、誰かしらにされなきゃいけないんならナオさんがいいくらいです」
「説教なんかさせなければいいんだ。先生でも、親御さんでも」
「でも絶対してきますよね」
「結構しつこいからね、ああいう人たちは」
「本当です」とわたしは笑い返す。「でも、大丈夫です。わたし、やりたいこと見つかったんで。しかも、こうして大学生しないとできないこと」
「ほう。素敵じゃない」
「今、大学では哲学科にいるんですけど、それを極めます。ナオさんのおかげで、知ることと、教わることの楽しさを知ったからです」植物園での一日のおかげですよとわたしは挟んだ。「なので、今度は教える側に回ろうかなと。興味のある分野について知っていくのって楽しいんだよって」
ナオさんはただ優しく微笑んで、「そうか」と頷く。
「はい。それに、世の中、意外と好きなことをやっていられるんだと気づいたのもあります」
わたし、今度は途中で諦めたりしません――。わたしは強く宣言した。
世の中、意外と好きなことをやっていられる。これに気が付けたのもまた、ナオさんのおかげだ。彼が再会したとき、自由に生きていたからだ。好きなことをして、自由に生きることができる。彼はわたしに、それを全身で教えてくれたのだ。
文学の静かな語り――。今回の返信には感じなかったが、今思えば、それは彼自身から感じているものだったのかもしれない。
僕は煙草を離して煙を吐いた。「すっかり秋だな」と言う増家へ、「そうだね」と返す。
「なんかいいことでもあったか?」と、彼は言う。
「どうだろう」
「悪いことはなかっただろ」
「そうだね」思い出したんだと言うと、彼は聞き返した。
「思い出したと言うより、また新たに知ったと言おうか」
「ほう。お前に知らないことなんかまだあるんだな」
「神様でもあるまいし」
「なにを知ったんだ?」
大喜利は得意じゃないよと言うと、それなりのかましてんじゃねえかと増家は笑う。
「僕が見ていた世界は、本当のそれの極一部に過ぎないってこと」
「ほう。意外と普通なことだな」てっきり悟りでも開いたのかとと言う増家に、君は僕をなんだと思ってるんだと笑い返す。
「まあ、お前ほどいろんなこと知っちまうと、それが全部なんじゃねえかとか思っちまうだろうなあ」おれにゃ想像もできんがと、増家は煙草を咥える。
「世界は広いものだね。君みたいな人は数少ないと思ってたけど、そうでもないみたいだった」
「ほう。それは心配な世界だな」
「僕は嬉しいよ。君みたいな人は一緒にいて楽しい」
「それは……悪口?」
「滅相もない」と僕は手を振る。縁側に置いた灰皿に灰を落とす。「君みたいな楽天的な人は、話す薬みたいだなと」
「過剰摂取は毒だぜ」
「せっかくだけど手遅れだよ」
そりゃあ大変だと笑う増家に笑い、彼と同時に煙を吐いた。ふわりと吹いた風が、二つの煙を混ぜてしまった。
愚かしいと、つくづく思う。あれほど孤独を恐れていた自分を、自らに、偽のでも完璧を求めた自分を。中学生の頃のある日、弟は言った。人は不完全であるから存在できるのだと。彼が読んだ本には、人は自らの不完全さを補うために様々な開発を繰り返してきたのだとあったという。僕はその物語を知らない。いつかそれに出会ったときには、その物語はきっと、僕の在り方になることであろう。いや、その物語とは、出会わなくていいのかもしれない。弟の口から聞いた言葉だから、これほど記憶に残っているのかもしれない。
当時、僕は弟のことが心配だった。彼は自分とよく似ている。それ故、自分と同じような道を行ってしまうのではないかと考えては怖くなった。しかし、それは杞憂であった。弟は、僕よりも人間として優れていた。彼は今でも、僕でさえ知っているようなことを知らないことがある。しかしそれを埋めてしまう――ないものにしてしまう――程の、なにか優れたものを持っている。彼もまた、エリのように、円満な人間関係を築くのが得意なのかもしれない。コンプレックスの正体を、知っているのかもしれない。
増家も、僕よりうんと優れている。彼は、いつしか僕が忘れた楽天さを、綺麗なまま持っている。定期的に手入れをしているのか、あるいは、彼のそれは、ちょっとやそっとでは汚れたり落としたりしないものなのだろう。彼は、不幸や不運という言葉を知らないように思う。僕がそう感じてしまうような境遇に置かれても、彼はその中に小さく光る希望を見逃さない。むしろ、不幸や不運には目もくれず、それだけを認める。
彼女――中野楓だって、素敵な人だ。再会した彼女は、どこか自分と似た部分があるように感ぜられ、心配になる瞬間もあったが、彼女もまた、優れた人だ。強さと柔軟さを併せ持った、一途な人だ。柔軟さが災いし、時折迷い悩むこともあろうが、彼女のことである、必ずや理想を形にすることだろう。
僕の周りには、優れた人がたくさんいる。素敵な人がたくさんいる。
知識は、時に持っている者を縛り付ける。しかしそれは、数や深さで重みを増して解けたとき、一気に自由をもたらし、自信や執念よりも心強い存在になる。知識に縛り付けられていたとき、僕は調子に乗っていた。僕のような矮小な者がなにを言おうと、誰も感情的になることはないだろうと信じて疑わなかった。しかしそうではなかった。誰も僕を、僕自身と同じようには見ていなかった。それ故に、何度も誤解を招き、人と衝突した。
さて、僕はなにも知らない。皆が当然のように知っていることを、知らない。しかし、僕はそれを知っている。自分がなにも知らないことを知っている。コンプレックスは、僕の知らない花を咲かせる種だという。せっかく手元にある種だ、じっくりと成長過程を観察してみるのも、おもしろいかもしれない。
ふと、ズボンのポケットの中で携帯電話が振動した。僕は煙草を咥えてそれを取り出す。「恋人か?」とからかうように言う増家へ「殴るよ」と短く返すと、鮮やかに秋の訪れを告げたブナの葉を、残暑の去った風が優しく揺らした。
花とココアとウエハース 。