愚かしいと、つくづく思う。あれほど孤独を恐れていた自分を、自らに、偽のでも完璧を求めた自分を。中学生の頃のある日、弟は言った。人は不完全であるから存在できるのだと。彼が読んだ本には、人は自らの不完全さを補うために様々な開発を繰り返してきたのだとあったという。僕はその物語を知らない。いつかそれに出会ったときには、その物語はきっと、僕の在り方になることであろう。いや、その物語とは、出会わなくていいのかもしれない。弟の口から聞いた言葉だから、これほど記憶に残っているのかもしれない。

 当時、僕は弟のことが心配だった。彼は自分とよく似ている。それ故、自分と同じような道を行ってしまうのではないかと考えては怖くなった。しかし、それは杞憂であった。弟は、僕よりも人間として優れていた。彼は今でも、僕でさえ知っているようなことを知らないことがある。しかしそれを埋めてしまう――ないものにしてしまう――程の、なにか優れたものを持っている。彼もまた、エリのように、円満な人間関係を築くのが得意なのかもしれない。コンプレックスの正体を、知っているのかもしれない。

 増家も、僕よりうんと優れている。彼は、いつしか僕が忘れた楽天さを、綺麗なまま持っている。定期的に手入れをしているのか、あるいは、彼のそれは、ちょっとやそっとでは汚れたり落としたりしないものなのだろう。彼は、不幸や不運という言葉を知らないように思う。僕がそう感じてしまうような境遇に置かれても、彼はその中に小さく光る希望を見逃さない。むしろ、不幸や不運には目もくれず、それだけを認める。

 彼女――中野楓だって、素敵な人だ。再会した彼女は、どこか自分と似た部分があるように感ぜられ、心配になる瞬間もあったが、彼女もまた、優れた人だ。強さと柔軟さを併せ持った、一途な人だ。柔軟さが災いし、時折迷い悩むこともあろうが、彼女のことである、必ずや理想を形にすることだろう。

 僕の周りには、優れた人がたくさんいる。素敵な人がたくさんいる。

 知識は、時に持っている者を縛り付ける。しかしそれは、数や深さで重みを増して解けたとき、一気に自由をもたらし、自信や執念よりも心強い存在になる。知識に縛り付けられていたとき、僕は調子に乗っていた。僕のような矮小な者がなにを言おうと、誰も感情的になることはないだろうと信じて疑わなかった。しかしそうではなかった。誰も僕を、僕自身と同じようには見ていなかった。それ故に、何度も誤解を招き、人と衝突した。

 さて、僕はなにも知らない。皆が当然のように知っていることを、知らない。しかし、僕はそれを知っている。自分がなにも知らないことを知っている。コンプレックスは、僕の知らない花を咲かせる種だという。せっかく手元にある種だ、じっくりと成長過程を観察してみるのも、おもしろいかもしれない。

 ふと、ズボンのポケットの中で携帯電話が振動した。僕は煙草を咥えてそれを取り出す。「恋人か?」とからかうように言う増家へ「殴るよ」と短く返すと、鮮やかに秋の訪れを告げたブナの葉を、残暑の去った風が優しく揺らした。


花とココアとウエハース 。