およそ一時間後、「作れるものないからおにぎりにするけど……」と弟が声を掛けると、兄は「じゃあ僕も」と、今まで通り、パソコンと向き合ったまま言った。弟は「了解」と努めて明るく答え、キッチンに入る。熱い米を握るのは苦手で、弟はふりかけを混ぜた米をラップに置き、それを鍋つかみに突っ込んだ手で、落とさぬよう注意を払って握った。
「不格好おにぎり完成」と、ダイニングテーブルへ少し小さめの握り飯を二つずつ並べると、兄はようやくキーやマウスを操作していた手を止め、振り返ってチェアから腰を上げた。
「ありがとう」と微笑んだその顔が、弟には懐かしくすら思えた。それほど、一昨日から兄の様子が気がかりなのだ。
「小説、おもしろかったよ」言いながら握り飯のラップを開け、あちち、とダイニングテーブルへ放る。ふーふーと手に息を吹きかける。
「それはよかった」と、兄は穏やかに言う。
「新鮮味ないとか言ってたけど、おれには新鮮の塊みたいな品揃えだったよ?」
「そう」と言う兄の声には、やはりいつもの元気さは見受けられない。
兄はなんでもないようにラップを剥ぎ、握り飯をかじる。
「兄ちゃん、おれと同じように生活しながらいつの間にあんな作家さん知ったんだよ。カーキとか、そんなに物知りなのか?」
「そうだよ」兄はまじめな声で言った。いや、顔も真剣そのものだった。「ううん」と、兄は挟んだ。「もしかしたら、カーキたちは普通なのかもしれない。僕が、なにも知らないだけ」
「なにも知らない? そんなことないよ。おれたち、結構勉強できるって自信あるよ?」
「勉強じゃない」兄は真剣だ。「物知りっていうのは、勉強ができることじゃないんだ。いろんなことについて、深く知ってなきゃ、物知りとは言わない」
「……兄ちゃんは物知りになりたいの?」
「違う」
「じゃあ、なにに?」
「普通」
「普通?」
「カーキたちと気兼ねなく話せるようになりたい」
「き……が……ね?」
「気を遣わずに。怜央、こんな言葉も知らないの?」
「うん、知らない」弟は明るく言った。そうしようとしてではなく、飾らずにそう答えた。「だって学校で習ってないもん」
「学校で教わることがすべてじゃないよ。みんなは、学校で教わることの、それ以外のことをいっぱい知ってる。このままじゃ、僕だけじゃなく、怜央も置いて行かれちゃうよ」兄の目には、焦心か恐怖かの色が窺えた。
「そうかなあ。おれはそうは思わないぞ?」
兄は俯き加減ににして唇を噛み、それを解くと、「置いて行かれちゃうよ」と声を上げた。こちらをまっすぐに見つめる茶色の双眸は、恐れからか悲しみからか、涙に揺れている。「今はなにもなくても、それは、みんなが気を使ってくれてるからかもしれない。それなら、いつか、みんなの素が見える。みんなの普通で、みんなの基準で話をする。それについていけないとき……みんなは――」みんなは、と、兄は再び俯く。「驚くよ。こっちが十年間で一度も自分の名前を書いたことがないみたいに、十年間、自分の名前を知らずに生きてきたみたいに」
弟はダイニングテーブルの上で、広げたラップに載っている握り飯へ視線を落とした。沸騰した湯を注いだ椀のように、もわもわと湯気を上げている。兄へ視線を戻す。
「カーキたちに、そう驚かれたの?」
兄はなにも言わない。ただ、握り飯を手に載せたまま深く頭を下げて、声を殺して肩や背を震わせている。
「兄ちゃんは」弟は優しく声を発した。「なにも知らなくなんかないよ」兄は嫌嫌と言うようにかぶりを振る。
「兄ちゃんとか、カーキとか。そんな人らから見たら知らないのかもしれないけど、おれからすれば、すごいこといっぱい知ってる。前、おれ訊いたじゃん。どうしたら長く、速く走れるかって。シャトルランで、友達に負けたくないからって言ってさ。そしたら兄ちゃん、アドバイスくれた。その通りに走ったら、友達に勝てた。おれ、あれすっごい嬉しかったんだ。いつも十……頑張っても三回とか四回おれより長く走る友達に、五回も長く走って勝ったんだ。それから、算数の筆算。習いたての頃、繰り上げが苦手だったけど、兄ちゃんに教わったらできるようになった。しかも友達にテストで勝った。あとババ抜き。ババに愛されに愛されたおれが、ババとばいばいできた。相手がババに触ったとき、目を動かしちゃうのがお前の癖だって言って。それで特訓に付き合ってくれた。そのおかげで、友達に勝てた」
兄は終始、違う違うと言うように首を振っていた。「兄ちゃんは先生が教えてくれないこといっぱい教えてくれるよ」
また激しくかぶりを振る兄に、弟は苦笑する。「そんなに泣かないでよ。鼻水詰まってでっかい鼻くそできちゃうぞ」がっびがびでねっとねとのやつ、と弟が続けると、兄は少し笑った。弟も安堵して笑い、ボックスティッシュを差し出す。
「不格好おにぎり完成」と、ダイニングテーブルへ少し小さめの握り飯を二つずつ並べると、兄はようやくキーやマウスを操作していた手を止め、振り返ってチェアから腰を上げた。
「ありがとう」と微笑んだその顔が、弟には懐かしくすら思えた。それほど、一昨日から兄の様子が気がかりなのだ。
「小説、おもしろかったよ」言いながら握り飯のラップを開け、あちち、とダイニングテーブルへ放る。ふーふーと手に息を吹きかける。
「それはよかった」と、兄は穏やかに言う。
「新鮮味ないとか言ってたけど、おれには新鮮の塊みたいな品揃えだったよ?」
「そう」と言う兄の声には、やはりいつもの元気さは見受けられない。
兄はなんでもないようにラップを剥ぎ、握り飯をかじる。
「兄ちゃん、おれと同じように生活しながらいつの間にあんな作家さん知ったんだよ。カーキとか、そんなに物知りなのか?」
「そうだよ」兄はまじめな声で言った。いや、顔も真剣そのものだった。「ううん」と、兄は挟んだ。「もしかしたら、カーキたちは普通なのかもしれない。僕が、なにも知らないだけ」
「なにも知らない? そんなことないよ。おれたち、結構勉強できるって自信あるよ?」
「勉強じゃない」兄は真剣だ。「物知りっていうのは、勉強ができることじゃないんだ。いろんなことについて、深く知ってなきゃ、物知りとは言わない」
「……兄ちゃんは物知りになりたいの?」
「違う」
「じゃあ、なにに?」
「普通」
「普通?」
「カーキたちと気兼ねなく話せるようになりたい」
「き……が……ね?」
「気を遣わずに。怜央、こんな言葉も知らないの?」
「うん、知らない」弟は明るく言った。そうしようとしてではなく、飾らずにそう答えた。「だって学校で習ってないもん」
「学校で教わることがすべてじゃないよ。みんなは、学校で教わることの、それ以外のことをいっぱい知ってる。このままじゃ、僕だけじゃなく、怜央も置いて行かれちゃうよ」兄の目には、焦心か恐怖かの色が窺えた。
「そうかなあ。おれはそうは思わないぞ?」
兄は俯き加減ににして唇を噛み、それを解くと、「置いて行かれちゃうよ」と声を上げた。こちらをまっすぐに見つめる茶色の双眸は、恐れからか悲しみからか、涙に揺れている。「今はなにもなくても、それは、みんなが気を使ってくれてるからかもしれない。それなら、いつか、みんなの素が見える。みんなの普通で、みんなの基準で話をする。それについていけないとき……みんなは――」みんなは、と、兄は再び俯く。「驚くよ。こっちが十年間で一度も自分の名前を書いたことがないみたいに、十年間、自分の名前を知らずに生きてきたみたいに」
弟はダイニングテーブルの上で、広げたラップに載っている握り飯へ視線を落とした。沸騰した湯を注いだ椀のように、もわもわと湯気を上げている。兄へ視線を戻す。
「カーキたちに、そう驚かれたの?」
兄はなにも言わない。ただ、握り飯を手に載せたまま深く頭を下げて、声を殺して肩や背を震わせている。
「兄ちゃんは」弟は優しく声を発した。「なにも知らなくなんかないよ」兄は嫌嫌と言うようにかぶりを振る。
「兄ちゃんとか、カーキとか。そんな人らから見たら知らないのかもしれないけど、おれからすれば、すごいこといっぱい知ってる。前、おれ訊いたじゃん。どうしたら長く、速く走れるかって。シャトルランで、友達に負けたくないからって言ってさ。そしたら兄ちゃん、アドバイスくれた。その通りに走ったら、友達に勝てた。おれ、あれすっごい嬉しかったんだ。いつも十……頑張っても三回とか四回おれより長く走る友達に、五回も長く走って勝ったんだ。それから、算数の筆算。習いたての頃、繰り上げが苦手だったけど、兄ちゃんに教わったらできるようになった。しかも友達にテストで勝った。あとババ抜き。ババに愛されに愛されたおれが、ババとばいばいできた。相手がババに触ったとき、目を動かしちゃうのがお前の癖だって言って。それで特訓に付き合ってくれた。そのおかげで、友達に勝てた」
兄は終始、違う違うと言うように首を振っていた。「兄ちゃんは先生が教えてくれないこといっぱい教えてくれるよ」
また激しくかぶりを振る兄に、弟は苦笑する。「そんなに泣かないでよ。鼻水詰まってでっかい鼻くそできちゃうぞ」がっびがびでねっとねとのやつ、と弟が続けると、兄は少し笑った。弟も安堵して笑い、ボックスティッシュを差し出す。