天雲の よそにも人の なりゆくか
さすがに目には 見ゆるものから
あなたは空の雲のように、遠く私から離れていくのですね。
私の目には、その姿が見えるというのに――。
森の中に静かに佇む、一見こぢんまりとした神社。それは鳥居を潜ると、たちまち池に浮かぶ巨大な朱色の神宮へと姿を変える。
広い境内には年中枯れることのない桜が咲き誇り、神宮に続く大きな橋の下には黄金の鯉。夜になると空にはひっきりなしに星が流れる。
この浮世離れした場所こそ、神世と呼ばれる神様の住まう世界。この神宮は人の願いを叶える桜月神社の奉り神――朔の御殿だ。
そして私――芦屋 雅は神様である朔の妻で、千年に一度現れる奇跡の魂の持ち主。
私の魂や血、涙などの体液は力を与えるだけでなく、酒のようにあやかしや神様を酔わせるのだとか。ゆえにあやかしや神様に狙われることが多く、初めは守ってもらうために不本意で朔の花嫁になった。
けれど、今は違う。人ならざる者が見えるというだけで、両親や周囲の人間から気味悪がられてきた私を朔が孤独から攫ってくれた。
『お前、大人になったら――俺の嫁になれ』
幼い頃、桜月神社で朔と出会い、交わした約束。朔はそれをずっと忘れずにいて、私を待ち続けてくれていた。
普段は尊大な態度ばかりが目について、なかなか気づけなかった彼の優しさ。それに触れたらもう、好きにならずにはいられなかった。彼がたとえ、人でなくても――。
心を失いかけたり、過去をやり直したり。さまざまな障壁を乗り越え、私たちはようやく本当の夫婦になれた。そう思っていたのに、なのに……これはどういうこと!
本殿から離れたところにある、だだっ広い和室。そこには一枚の布団が寂しくぽつんと敷かれている。
「俺の隣にいろ、なにがあっても離れるなって言ったよね!?」
布団の上に正座していた私は、心が通じ合ったのを確かめ合ったのに、いまだ別の部屋で寝ていることへの不満をひとりぶちまける。
「物理的な距離が、ぜんっぜん縮まってないんですけど!」
朔から『ともに生きよう、俺の番い』と言われてから二週間だ。
すれ違っていたぶん、夫婦らしいことをしたい。そんな風に願っていたのは、私だけ? 私が花嫁にはならないと言い張っていた頃はぐいぐい迫ってきていたくせに、手に入ったらこんなにも無関心とは……。
「ダメだ、このままひとりで考えてても埒が明かない」
私は立ち上がり、寝間着姿のまま部屋を出る。向かう先は廊下の角にある朔の部屋。
幼い頃にした嫁になるという約束を私が忘れていたせいで、お互いの気持ちに気づくのにずいぶんと遠回りした。
もうすれ違うのは嫌だった。朔がどう思っているのか、洗いざらい吐いてもらおう。
そう意気込んで、襖を開け放ったまではよかった。
「騒がしいな」
障子窓に寄り掛かるようにして、男が月明かりに照らされた池を眺めている。見た目は二十代後半だが、かれこれ千年ほど生きている私の旦那様だ。
いつもは頭の高いところで結っている長い銀髪を下ろしている。畳の上に流れるように広がっているそれは、踏み荒らされていないまっさらな雪のよう。
「今、何時だと思っている」
月とも太陽ともとれる金色の瞳が不機嫌そうに細められた。今までの彼なら、ここで『夜這いか?』と、からかってきたはず。それなのに、この塩対応。私が部屋を訪ねてきたことすら迷惑そうで、朔の気持ちを確かめようという心意気は萎んでいく。
私、朔を怒らせるようなことしたっけ?
その場に立ち尽くし、自分の行いを振り返っていたら――朔がため息をつきながら腰を上げた。無言でこちらまで歩いてくると、肩にかけていた羽織りで私を包む。
「そのような薄着で歩き回るな」
以前の私なら、こうして気遣われるだけで幸せだった。けれど、心が結ばれたからこそ足りない。もっと朔に近づきたいと思うのは、私のわがままなのかな。
「あの、朔。まだ寝ないなら、少しくらい話をしない?」
『一緒にいたい』とはさすがに恥ずかしくて口にできなかったけれど、私なりに勇気を振り絞った。だが、返ってきたのは冷たいひと言。
「……いや、もう眠る。お前も部屋に戻れ」
「でも、今来たばかりだし!」
「夜も遅い。いいから、ここから出ていけ」
なかなかパンチの利いた言葉だった。
朔は私を部屋の外へ追い出し、ぴしゃりと襖を締める。
「……ねえ、朔」
私は閉ざされた襖に手をつき、か細い声で尋ねる。
「私たちって夫婦なんだよね?」
朔に聞こえているのかはわからない。でも、そう確認せずにいられない。考えてみれば、はっきり『好き』だと告げられたわけではないのだ。
ともに生きようって朔は言ったけれど、あれは仲間としてという意味だったのか。これから夫婦として一緒に歩んでいくんだって思っていたのは、私の勝手な勘違い?
そう思ってしまうくらいに、私たちの仲は進展がないどころか、出会ったとき以上に溝が広がっている気がした。
***
翌日、境内の掃除を終えた私は神宮の東にある『神楽殿』の居間にいた。神楽殿とは、主に寝所や浴場などの生活スペースがある建物のこと。
私はまくり上げられた御簾の向こうに見える、正午の空を眺めてため息をつく。
「はあああ~っ」
普段なら気分が明るくなるはずの太陽の光が、やたらと目に染みた。原因はわかっている。昨日の朔の態度だ。素っ気ないを通り越して、避けられている気さえする。
意味がわからない。私、やっぱりなにかした?
「なんだ、雅。辛気臭いぞ!」
床に腹ばいになり、足をぶらぶらさせていた手のひらサイズの小鬼がこちらを見て怪訝な顔をする。褐色の肌と髪、トラ柄の布を胸と腰の辺りに巻いている彼は名をトラちゃんという。
「これを見ろ! うまそうなもん見ると、元気が出るぞ!」
トラちゃんが私のスマホを抱えて、隣にやってくる。ディスプレイには、コンビニに新登場したという『エビチリ肉まん』の画像。前は結婚情報誌、今回は肉まん。トラちゃんは人間の世界――現世の物に興味津々だ。
するとそこへ、この神社を守る狛犬兄弟が昼食を運んできた。犬の耳と尻尾が生えた彼らは、おそろいの浅葱色の袴を着ている。ふたりは朔の身の回りの世話をするためか、この神宮では人型で過ごしていることが多い。
「なになに? なんの話?」
一緒になってスマホ画面を覗き込んだのは、白くん。ふわふわの白髪に、つぶらな青の瞳をしている。見た目は六歳くらいの男の子だが、五百年は生きているのだとか。
「トラちゃんが現世のエビチリ肉まんにご執心なの」
「なんだ、その身体に悪そうな食べ物は。エビと肉を一緒に食べるのか? 俺たちの料理じゃ不満とは、贅沢なやつだ」
箱膳を並べながら、ギロリとトラちゃんを睨みつけるのは黒だ。二十代半ばくらいに見えるが、彼も人とは比べ物にならないほどの年月を生きている。
彼の黒髪と褐色の肌によく映える青の瞳は、白くんとは反対に切れ長。最初はその目つきの悪さと威圧感に押されるばかりだったが、今では慣れたものだ。
そして、ふたりの額に浮かび上がっている桜の痣。これは主の神である朔への忠誠心を表し、眷属――従者の証らしい。
実は私の左手の甲にも、桜の痣がある。朔がくれた祝福ので、私が敵とみなしたあやかしや神様を弾く力があるのだ。いわば防犯用のスタンガンみたいなものである。
「ほうれん草のおひたしに、お煮しめ。じじいが食うようなもんばっかだろ! 俺はもっとハンバーガーとか、フライドポテトとかが食べたいんだよ!」
トラちゃん、なんでそんなに人間の世界のジャンクフードに詳しいの?
「ほう、いい度胸だ」
ゆらりとこちらに近づいてくる黒の背後には、ゴゴゴッと迫る殺気。対するトラちゃんも立ち上がり、ボンッと煙を立てて十八歳くらいの男の子の姿に化けた。これがトラちゃんのもうひとつの姿だ。
「やんのか! 俺の雷で消し炭にしてやる!」
――ああ、平和だな。
今にもやり合おうとしているふたり。この賑やかさが桜月神社の日常だ。だが、あやかしや神様の喧嘩は人のそれと規模が違う。
「小鬼ごときが、俺に勝てるとでも?」
黒もボンッと煙を立てて犬の姿になると、毛並みを逆立てながらトラちゃんを威嚇した。白くんと黒は、こうして犬の姿にもなれるのだ。
「もーっ、やめなよ、ふたりとも! これから、お昼ご飯なんだよ!」
白くんが制止するも、臨戦態勢に入った狛犬と小鬼は聞く耳持たず。こうなってくると、せっかくの料理が冷めるどころか、喧嘩の最中に蹴り飛ばされて無残な有様になりそうだ。
「雅様あ~っ、ふたりが僕のこと無視するーっ」
白くんが目に涙を浮かべ、私の首にしがみついてきた。その頭をよしよしと撫でながら、死闘をおっぱじめようとしている彼らに叫ぶ。