(あれ? ここは……?)
 太田川が目を覚ますと、そこは保健室のベッドの中だった。
「良かった! 目が覚めたのね!」
「え!?」
 直ぐ近くから声が聞こえて、慌てて上半身を起こす。
 すると、目に涙を浮かべた一森が、ベッド脇の椅子に座っていた。
「一森さ――ッ!」
 驚いて目を剥いた太田川が一森の名前を呼ぼうとした瞬間、頭部・顔・胸部・腹部に激しい痛みを感じて、思わず顔を歪める。先ほどは気付かなかったが、頭と身体には包帯が巻かれ、顔中にガーゼが貼られていた。
「駄目だよ! じっとしてなきゃ! 保健室の先生も、安静にって言ってた! 酷い怪我なんだよ!?」
 一森が泣きそうな表情を浮かべる。
(一森さん……もう、そんな顔させない……!)
 痛みを堪えながら、一森を安心させようと、太田川が、
「大丈夫だよ! ほら、この通り!」
 と、ベッドの上に立ち上がった瞬間――
「うっ!」
 太田川は急激な尿意を感じた。が、鉄の精神力で耐え、何とか決壊を避ける。
(なんで!?)
 見ると、一森は顔を真っ赤にしながら、両手で顔を覆っている。
 何か違和感を感じて、太田川が視線を真下に移すと――
(なっ!?)
 ――太田川は、下半身に一切の衣類を着用していなかった。
 慌てて一瞬で掛け布団の中に包まる太田川。
「……ごめん……」
「い、いいの、別に……」
 謝る太田川と、目を逸らす一森。
(ん? っていうか、何で下穿いてないんだ!?)
 訝し気に思考し始めた太田川の視線が、ふと、窓の方へと向かうと――
「!」
 そこには、ピカピカに洗われたトランクスと制服のズボンが、ハンガーに掛けられて、ぶら下げられていた。
 嫌な予感がしつつ、太田川は椅子に座る一森へと、ゆっくりと顔を向ける。
「あ、あの……一森さん……」
「うん……」
「つかぬことを聞きますが、もしかして、その……僕のトランクスとズボンがあそこに掛かってるのって……一森さんがやってくれたってことでしょうか……?」
「……ごめんね、その……色々あって、勝手に洗っちゃって……」
「………………」
 すーっと、無言で太田川はベッドの反対側に顔を向けて――
(あああああああああああ!)
(確定! 確定だよおおおおおおおおおおお!)
(好きな子の目の前で! 眠ってる間に失禁!)
(あの時の一森さんの羞恥心と、その後の不良君の羞恥心のダブルパンチがあったから!? それぞれ、怒りと痛みで我慢出来てたけど、気を失った瞬間に、最後の砦が瓦解して、僕の膀胱も瓦解したって事!?)
(しかも、好きな子に下の世話までして貰うって、どういう羞恥プレイだよおおおおおおおおおおおおおお!?)
 ――声なき声を上げて、悶えた。
(終わった……僕の恋は……いや、もうとっくに終わってたんだけど、何て言うか、死体蹴りみたいな。いや、“うんこマン”で“小便漏らし太郎”だから、うんこ蹴りに小便蹴りかな……ハハ。ハハハハ………………)
 太田川が反対側を向きながら、自嘲気味に密かに枕を濡らしていると――
「ありがとう!」
「え?」
 一森は太田川の背中に声を掛けた。
「今更だけど、助けてくれて、本当にありがとう!」
 その声に、涙を拭うと、太田川は一森の方へ再度顔を向けた。
「べ、別に僕は何も……結局番長ともう一人を倒したのは、あの不良君だし……」
 視線を逸らす太田川を、一森は真っ直ぐに見詰めながら言った。
「ううん、私を助けてくれたのは、太田川君だよ!」
「! そ、そうかな」
「そうだよ!」
 照れ笑いを浮かべる太田川。
 そんな太田川に対して、一森は目を細めて、言葉を続ける。
「それに、それだけじゃないの」
「え?」
「いつも、自分がトイレに行って目立つことで、私が注目されないようにしてくれてありがとう!」
(! ち、違う、それは……)
「それと、偶然見掛けちゃったんだけど、川に飛び込もうとしている女性を止めるために、一芝居打ったでしょ? すごく格好良かった!」
(……違う……違うんだ……)
「太田川君って、勇気があって、しかも優しいよね」
(……僕は……ただ自分の特異体質のせいで……)
 目を伏せる太田川だったが、一森の次の言葉に――
「そんな太田川君が……す……好きです……! 私と……付き合って下さい……!」
 ――双眸を大きく見開き、思わず痛みも忘れて、上半身を起こしていた。
(い、今、何て!?)
 確かに一森は、言った。『好きです』『付き合って下さい』と。
(ゆ、夢!?)
(いや、現実だ)
 ずっと片想いだと思っていた。
 否、それどころか、“うんこマン”の自分には、“実るはずのない恋”だと思い、諦めていた。
 昨日は、川で漏らした所を目撃され、今日は目の前で漏らし、下の世話までさせてしまった。
(絶望的だと思っていたのに、まさか、一森さんから告白されるなんて……!)
 実感が湧いて来ると、喜びが満ち溢れて来た。
(一森さんと付き合える! 一森さんが僕の彼女になるんだ!)
(勿論返事はイエスだ!)
 返事をしようと太田川が一森を見ると――
 ――一森は、肩を震わせ、リボンを握り締め、目を閉じ、固く口を結んでいた。
 思わず、太田川は言い掛けた言葉を呑んだ。
(そりゃ怖いよな……例え一森さんみたいな可愛い子だって、相手が僕みたいなのだとしても、断られる可能性はゼロじゃないんだ)
(一森さんは、その恐怖を乗り越えて告白してくれたんだ……)
(それだけじゃない。一森さんは、自分の気持ちを、誠実に僕に伝えてくれた……)
(誠実……今の僕に、彼女のような誠実さがあるだろうか?)
(彼女が僕の言動を勘違いした事を利用して、付き合おうだなんて……)
 そこまで考えると、太田川は、大きく(かぶり)を振った。
(いや、やっと巡って来たチャンスなんだ! これを逃したら、きっともう、一森さんに振り向いてもらえる機会なんてない!)
(勘違いがなんだってんだ! 付き合えば良いじゃないか! さぁ、返事をするんだ!)
 再び太田川が口を開く。
 ――が。
『女の子を辱めて悦んでるような下衆』
『あんたなんて、男じゃない』
 頭の中で、誰かの声が聞こえた。
 否、誰かではない。自分の声だ。
 番長の八富に対してぶつけた言葉。
 それが、頭の中で木霊する。
(だから何だって言うんだ!? 僕は一森さんと付き合うんだ!)
 その直後、太田川が発した言葉は――
「僕は……一森さんが思ってるような男じゃないよ」
「え?」
 ――直前まで言おうとしていた言葉とは違っていた。
「小学校時代、僕は、たくさんの女の子たちの……スカートを捲っていた」
「………………」
(これは、報いだ……)
「彼女たちは、嫌がっていた。でも、僕は止めなかった」
(……自分が過去に犯した罪の。あの子たちに恥ずかしい思いを、嫌な思いをさせた事に対しての)
「ある日、そんな僕に天罰が下ったんだ。僕は、車に轢かれた」
「!」
「運よく死なずに済んで、後遺症も無く退院して、復学出来た。でも、学校に戻ってから、僕は特異体質になっていたんだ」
「特異体質?」
「そう。僕は……僕の特異体質は……」
(スカート捲りを告白した時点で既に嫌われたとは思うけど、これを言えば、完全にアウトだ……)
(……でも……!)
「僕の特異体質は、近くにいる人の羞恥心を――恥ずかしいと思う気持ちを感じ取る事が出来る事。そして、感じ取った直後に、トイレに行きたくなってしまう、というものなんだ」
 真実を告白した太田川は、怖くて一森の顔を見ることが出来ない。
 八富と対峙した時でさえ、ここまで大きな恐怖を感じてはいなかった。
「だから……一森さんが言ってくれた事は、全部勘違いなんだ……。僕が授業中にトイレに行くのは、ただ、一森さんの羞恥心を感じて、トイレに行きたくなって行っているだけで。川で女性を止めたっていうのも、あの女性の羞恥心を感じて……漏らしてしまっただけなんだ」
 そして、目を伏せながら、続けた。
「こんな身体になったのは、全部、自業自得なんだ。小学生の頃にスカート捲りをやっていた事に対しての報いだから。番長に向かって、『女の子を辱めるなんて、本当に最低で、男として終わっている!』なんて言っていた男が、聞いて呆れるよね。それに、番長に向かって叫んだあの時の言葉のほとんどは、番長の舎弟の中に恥ずかしいと感じている人がいたから、きっと弱い者苛めや女の子を辱める事を恥ずかしいと感じているんだろうなと思って、その感情を利用しようとして言っただけなんだ。それに、何度も言うように、女の子たちに嫌な思いをさせた僕にあんな事を言う資格は無いし。僕は、番長の事を非難出来ない、最低な奴なんだ」
 そして――
「……ごめん……」
 と、最後に言った。
(あ~あ。一森さんと付き合えるチャンスだったのに。僕は馬鹿だな)
(これで、「スカート捲りとかキモ過ぎ」「トイレ野郎」「変態特異体質」って思われて、終了だな)
 俯いて肩を落とす太田川に――
「知ってたよ」
「へ!?」
 思い掛けない言葉が一森から発せられた。
「知ってたよ、太田川君の特異体質のこと」
「え!? いや……え!?」
 予想外の言葉に、太田川は目を白黒させる。
 一森は、静かに続けた。
「実はね、私も特異体質なの」
「い、一森さんも!?」
「うん。私のは、その……“近くにいる人が急にトイレに行きたくなると、それを感じ取る事が出来る”っていうものなんだ。だから、タイミングとか見てて、何となく太田川君が特異体質で、しかもそれがどういう特異体質なのかが分かったの」
「そういう事だったのか……」
「それでね、続きだけど、私は、近くにいる人が急にトイレに行きたくなるのを感じ取ると、その後数日は免疫力が高まるの」
「免疫力が!?」
「そう。私、中学までは喘息の発作が酷かったんだけど、高校に入ってからは治まって、殆ど出なくなってるんだ。それは、免疫力が高まってるおかげ。つまり、太田川君のおかげなんだよ?」
 思いもよらない言葉に、太田川は呆然とする。
「僕の……特異体質の……おかげ……?」
「うん」
 そして、一森は、その綺麗な瞳で太田川をじっと見詰める。
「それに、太田川君は、一つ大事なことを忘れてるよ」
「大事なこと?」
「太田川君は、番長さんたちに絡まれてる私を、助けに来てくれた。私を庇ってくれた。命懸けで、守ってくれた。それは、太田川君の体質とか、全然関係ないでしょ?」
「………………」
「太田川君が、私にしてくれた事の中には、偶然もあったかもしれない。でも、偶然だけじゃない。絶対に。太田川君が、私の心と身体を救ってくれてるんだよ? 悪意や罵声や暴力、そして病気からも」
「………………」
「やっぱり太田川君は、勇気があって、優しくて、格好良いよ!」
「………………」
 太田川は、黙って一森の言葉に耳を傾け続けた。
「それと、太田川君が小学校時代に女の子たちにした事は、確かによくない事だけど……もう太田川君は、十分罰を受けてると思うよ」
「………………」
「だから……どうか、自分の事をそんな風に、悪く言わないで」
 切なげな表情で訴え掛ける一森。
 そんな彼女を見て、太田川は――
「一森さん。僕は、入学初日に、クラスメイトたちが母さんの仕事を揶揄して来た時に、一森さんが庇ってくれたことが、すごく嬉しかったんだ。母さんの仕事を馬鹿にせず、すごいって言ってくれた人は初めてでさ。あの時――」
(母さんが嘲笑された時に、庇ってくれた一森さんの心の中で、恥ずかしさを凌駕していたものが、今なら分かる! それは――)
「あの時、一森さんが“勇気”を振り絞って、僕を庇ってくれたから、僕は大事な事に気付けたんだ。一森さんが教えてくれたのは、勇気の大切さ。だから僕は、番長たちに立ち向かう事が出来たんだ。一森さんは、僕の事を勇気があるって言ってくれるけど、でも、その勇気は、一森さんが僕にくれたものなんだ」
 太田川は、目を閉じ、胸から溢れ出る想いを言葉にしようとして、再び目を開き、続けた。
「一森さんを初めて見た時は、すごく可愛いって思って、ただそれだけだった。でも、すぐそのあと、勇気を出して僕を庇ってくれて、その心にも惹かれたんだ」
 そして、真っ直ぐに一森を見詰めて、太田川は伝えた。
「初めて会ったあの日から、一森さんの事が好きでした! 良かったら、僕と付き合って下さい!」
 太田川から逆に告白を受けた一森は、目を見開き、涙し――
「はい」
 ――微笑んだ。