昼休みになって。
 購買でパンを買った太田川は、ジュースを買い忘れていた事に気付いた。
(ヤバい! 忘れてた! いつもは午前中に買っておくのに!)
 昼休みの間、自販機コーナーは、番長グループが(たむろ)しているのだ。
 よって、他の生徒たちでジュースを買いたい者は、昼休み前に買うか、後に買うかのどちらかで、昼食用にジュースを買いたいならば、午前中に買っておく以外に選択肢はない。
(うわ~……。でも、飲み物無しでパンはキツいしなぁ……)
(よし、番長たちがいないことを祈ろう! 一年のトイレに番長たちが出現することだってあるんだ! イレギュラーで、今日はたまたま番長たちがいないって事もあるさ!)
 そう自分に言い聞かせながら、太田川が自販機コーナーへと向かうと――
 見事に三人の不良たちがいた。
(うん、今日はジュース無しで! ジュースが無ければ、水を飲めば良いじゃない!)
 某歴史上の著名フランス人セレブ宜しく結論付けた太田川だが。
「何してくれてんだクソアマ!」
「ご、ごめんなさい!」
「この俺様に喧嘩売ってんのか? あ?」
「ち、違います! そ、そんなつもりじゃ……」
 聞き覚えのある声に、教室に戻ろうとしていた足が止まる。
 ともすれば秋風に掻き消されそうな、か細い声だが、太田川が聞き間違えるはずもなかった。
(一森さん!)
 見ると、先程は番長たちの身体に隠れて見えなかったが、どうやら一森が何か言い掛かりを付けられて絡まれているようだった。
 太田川は焦った。
(ど、どうすれば!?)
(だ、誰かいないのか!? そ、そうだ! せ、先生に言えば!)
 だが、太田川は知っていた。
 番長たちが隠れて煙草を吸っていることを、教師たちが把握していることを。
 そして、何か番長たちが問題を起こしても、教師たちが目を背けて来た事を。
(駄目だ! 先生は頼れない!)
(でも、僕みたいな弱っちぃのが行った所で、一瞬でやられて終わりだし……)
(それに、僕みたいな“うんこマン”改め“小便漏らし太郎”に助けられたって、一森さんは嬉しくないだろうし……)
 太田川が逡巡(しゅんじゅん)していると――
「い、いたっ! や、止めて下さい!」
 一森が、番長に腕を掴まれていた。
 その光景を見た瞬間――
(“うんこマン”と呼ばれようが、目の前で小便を漏らそうが、それがどうした!)
 ――太田川は走り出していた。いつもトイレに急行する時のように、自身の身体に衝撃を与えないように、音も無く――しかし猛スピードで。
(そんな事よりも、好きな子が目の前で襲われてるのに助けない方が、ずっと恥ずべきことだ!)
 そして、番長たち三人の身体を掻い潜ると、毎日トイレに駆け込む時に食い縛って鍛えられた顎で、番長の腕に噛み付いた。
「いてぇ!」
 思わず番長が一森の腕を放す。
 その隙に、一森の手を取った太田川は、走ってその場から離脱しようとするが――
「おっと、逃げられんねぇぜ」
 番長の右腕である木田が、回り込んでいた。
(くそ! あと少しだったのに!)
「ぶっ殺されてぇようだな! あ!?」
 後ろから殺意の込められた圧力を感じて、思わず振り向くと、蟀谷(こめかみ)に血管を浮き上がらせた番長の八富が右の拳を左手で包み、ボキボキと鳴らしていた。
 太田川の全身が震え、背中を冷たい汗が伝う――が、直ぐ傍には怯えた表情で小さく肩を震わせる一森がいる。
 太田川は、震える脚に活を入れ、一森の前に立ち、八富に質問した。
「こ、この子が何をしたって言うんですか!?」
「あ? そのクソアマは、俺様が買おうとしていた最後のピーチオレを先に買って飲みやがったんだ。この俺様の楽しみを邪魔しやがって。許されることじゃねぇだろうが、あ?」
 自販機を見ると、ピーチオレは売り切れになっていた。
「そ、そんな事、しょうがないじゃないで――」
 太田川は最後まで言う前に――
「がはっ!」
「きゃあ!」
 吹っ飛ばされていた。悲鳴を上げる一森。
 右のストレートを放った八富は、血走った目で太田川を見下ろす。
「立てや、コラ。俺様の腕に噛み付くなんてふざけた真似してくれやがって。こんなもんじゃ足りねぇよ」
 長身から打ち下ろされた拳によって、一発食らっただけにも拘わらず、意識が朦朧とする。
(た、立たなきゃ……! 僕が立たなきゃ……一森さんがやられる!)
 ふらつきながらも何とか立ち上がった太田川だが、膝が笑い、足元が覚束無い。
「オラァ!」
「ぐはっ!」
 再び八富の拳を、今度は下から食らって、太田川の身体が宙を舞う。
「いやあああああ!」
 一森の悲鳴が響く。
 が、太田川は――
「くっ……」
 ふらふらと立ち上がる。
「死ね!」
「がぁっ!」
 再度強烈な一発を浴びて吹っ飛んだ太田川の前に、一森が両腕を広げて立った。
「あ? 何のつもりだクソアマ?」
「お、太田川君は関係ありません! も、もう止めて下さい!」
 全身を震わせつつ、声も震えて今にも消えそうだったが、一森は必死に訴える。
「元はと言えば、てめぇが悪ぃんだもんな」
 八富は少し思案した後、こう続けた。
「そうだな、じゃあ、服を脱げ」
「え?」
「えじゃねぇよ。服を全部脱いで、全裸で土下座して俺様に謝れや。そうしたら、許してやる」
 少しの間、躊躇していた一森だったが。
「……分かりました」
 そう言うと、セーラー服のリボンに手を掛けた。
「止めるんだ! 一森さん!」
 地面に這い蹲りながら、太田川が悲痛な声を上げる。
「……いいの。私のせいだから……」
 震える声でそう言うと、頬を赤くした一森はリボンを外し、ブレザータイプのセーラー服のボタンを一つずつ外していく。
「早くしろや、クソアマが。あ?」
 下卑た笑みを浮かべつつ八富が催促すると、一森の肩がビクッと震えた。
 下唇を噛み、涙を浮かべた一森は、震える指で、最後のボタンまで外す。
 それを見た太田川は、血が出る程拳を強く握り締め、歯を食い縛った。
(コイツら! 絶対に許さない!)
 一森の羞恥心が大きくなるにつれ、本来ならば太田川の尿意も膨れ上がって行くはずだ。
 だが、心の底から湧き上がる憤怒によって、尿意は抑制されていた。
 そして、一森がセーラー服の上着を脱いだ瞬間――
 ――太田川は、学ランの上着を脱いで一森に着せた。
「え!?」
 驚愕に顔を上げる一森の前に立つと、太田川は八富を睨み付けた。
「番長さんさ、さっき言ったよな? 『死ね』って。そう言いながらあんたが僕に食らわせたのが、三回目の拳だった」
「あ? 何が言いたいんだ、てめぇ?」
「分からないのか? あんたは、この弱っちぃ僕を、渾身の攻撃を三回も繰り返しても、まだ殺せていないってことだ!」
「てめぇ! 喧嘩売って――」
「それどころか、まだ僕は立ってる! あんたの拳なんて、所詮その程度だってことだ! どれだけ殴ったって、あんたの拳程度じゃあ、僕を殺す事なんて絶対に出来ない!」
 太田川の挑発に、八富の顔面全体に青筋が立つ。
「ぶっ殺す!」
 八富の拳が太田川の顔面を捉える。
「ぐぁっ!」
 だが、先ほどまでと違い、太田川は倒れない。
 怒り狂った八富が、痛烈なボディブローを見舞う。
「か……は……っ!」
 激痛と共に一瞬呼吸が出来なくなり、太田川は、くの字に身体を曲げる――が、それでも倒れない。
「死ねや! オラァ! 死ね死ね死ね死ね!」
 八富の攻撃が容赦なく浴びせられる。
「いやあああああ! もうやめてえええええ!」
 一森が悲鳴を上げて太田川に駆け寄ろうとするが、目を腫らし、鼻血を出し、口から出血しながらも、太田川は手で制止する。
「いいから、さっさと死んどけや!」
 八富の拳を食らい続けて意識が朦朧としながらも、太田川は毅然と声を上げる。
「僕は、死なない! 弱いものを甚振って楽しむような奴の拳なんかじゃ、僕は倒せない! それに、女の子を辱めて悦んでるような下衆の攻撃なんか、僕には効かない!」
「何だとてめぇ! もう一回言ってみろや!」
「何度だって言ってやる! あんたなんて、男じゃない! ただの下衆だ! 外道だ!」
「うるせえ! 死ね!」
「がはっ!」
 ダメージが蓄積されて、少しでも気を抜くと倒れそうになる。
(倒れちゃ駄目だ。倒れたら、一森さんがターゲットにされる)
(でも、このままじゃ、本気でヤバい……死ぬ……死んだら、一森さんがやられる……どうしたら!?)
 すると、次の瞬間――
(!? これは!?) 
 太田川は、不意に急激な尿意を感じた。
 否、先ほどから感じていたのだが、絶え間なく与えられる痛みで感覚が麻痺していたのだ。それが膨れ上がって来ていた。
(でも、この羞恥心は……!?)
 何かに気付いた太田川は――
(賭けるしかない!)
 ――殴られながらも、有らん限りの声で、立て続けに叫んだ。
「本来、男というものは、女の子を守るものだ!」
「それなのに、どんな理由があろうが、女の子に危害を加えるなんて、男らしくない!」
「しかも、その理由が、自分勝手で理不尽な物なら、尚更だ!」
「弱い者苛めは男としてしちゃいけないことだけど、女の子に理不尽な理由で絡んで、剰え辱めるなんて、本当に最低で、男として終わっている!」
 そこまで叫んだ太田川の首を、
「言いたいことはそれだけか? あ? そろそろ死んどけや」
 と、八富が両手で絞めて、持ち上げる。
「……ぁ……が……ぁ……あッ……!」
(これは……ヤバい……本当に……死ぬ……!)
 太田川の意識が薄れて行く。
「いやあああああ! やめてえええええ! 太田川君が死んじゃう!」
 一森が悲痛な声を上げて駆け寄ろうとするが、番長の右腕である木田がその腕を掴んで阻止する。
「お前は大人しくここで見とけや」
「いや! 放して! 太田川君! 太田川君!!」
(くそっ……ここまでか……)
(一森さん、守ってあげられなくて……ご……め……ん…………)
 太田川の意識が途切れる直前――
「!?」
 不意に八富の両手から力が抜けた。
「げほっ! げほげほっ!」
 地面に倒れ、咳き込む太田川。
(一体何が!?)
 顔を上げると――
「八富さん、すいません」
 八富の巨体が地面に沈んでおり、直ぐ傍で八富の舎弟である奥田が謝っていた。
 太田川と比べて五センチ程しか身長が違わない奥田が、巨躯を見下ろすという不思議な構図が出来上がっている。
 跳躍しながら八富の蟀谷に上段回し蹴りを食らわせた奥田に対して、一瞬何が起こったか分からなかった木田が、状況を把握して、一森の腕を放して奥田に突進していく。
「お前、何やってんだ、奥田ああああ!」
 だが――
「ぐはっ!」
 木田の右ストレートを左手で捌いて逸らすと同時に、奥田は懐に入り込み素早く顎に掌底を食らわせた。
 白目を向いて呆気無く倒れる木田。
 奥田は、唖然とする太田川と一森の方を向くと。
「二人とも、すまなかった」
 と、頭を下げた。
(賭けに……勝った!)
 太田川は口角を上げる。
 実は、先ほど太田川が不意に感じた羞恥心は、奥田が感じていたものだった。

 奥田は、八富が弱い者苛めをするのがずっと我慢ならなかった。
 だが、不良の世界は縦社会であり、八富が二個上の先輩であること、そして何よりも番長であることで、今までは我慢して来た。
 が、太田川の言葉で、心が動かされた。
 太田川は、奥田の詳しい事情など知らない。
 ただ、あの瞬間、奥田の羞恥心を確かに感じ取った事で、「もしかして奥田は、弱い者苛めや、女の子に危害を加える事などに対して、恥ずかしいと感じているのではないか?」と予想した。
 更に言うと、太田川が『弱いものを甚振って楽しむような奴』、『女の子を辱めて悦んでるような下衆』、そして『あんたなんて、男じゃない』と言った際、奥田の肩が、ピクッ、と反応していたのだ。
 その反応と、何かに耐えているような、葛藤しているような表情を浮かべていた事、そして羞恥心を感じていた事の三つを総合的に判断すると、太田川の予想通りである可能性が高いと思われた。
 それは、“男”として恥ずかしい、または“人”として恥ずかしい、という事かもしれない。はたまた、筋の通った不良は一般人に手を出したりしない、という事である可能性もある。
 しかし、いずれにしても問題はなかった。現に奥田は羞恥心を感じている訳で、その心に響けば良いのだから。
 そして、太田川は、ありったけの思いを込めて吼えた。
 その咆哮は、奥田を突き動かした。
 太田川は、奥田が反旗を翻す事で、八富と木田の注意が逸れて隙が生じ、それに乗じて一森と共に逃走出来れば、と考えていた。
 まさか奥田が八富たち二人を倒してしまうとは思っていなかったが。
 
 奥田は、太田川たちに頭を下げた後、八富と木田を両腕に抱えて、立ち去って行った。
 それを見届けた太田川は――
(良かった……これで……一森……さん……は……助……かっ……た……)
 ――意識を失った。