そのような経緯で、太田川は一森に惚れた。
挨拶のような、ほんの一言二言言葉を交わすだけの間柄だったが、一森への想いは日に日に大きくなっていった。
彼女の為なら、いつ誰の羞恥心を感じ取って尿意に襲われるか分からないリスクの高い高校生活だろうと、太田川は耐えられるのだ。
――例え、このクラスが学級崩壊していようとも。
担任の女性教師が伝えた朝の連絡事項は、誰一人聞いていなかった。
そして、つい先ほど始まった一時間目の授業も、勿論誰も聞いていない。
やんちゃなクラスメイトばかりのこのクラスでは、授業中も私語は当たり前、スマホを弄り、ゲームをし、紙飛行機を飛ばして、挙句の果てには教室内でボールを投げてバットで打ったりもする。
太田川は彼ら彼女らと違って騒いだりはしないが、彼らを止める事も無い。
彼らを注意して、もし喧嘩腰で詰め寄られたら怖い、という事もあるが、そもそも、そんな面倒な事はしたくないのだ。
彼はただ、好きな子に会いたいがためにここに来ているだけなのだから。
太田川は、教室の反対にいる一森のことをボーっと見詰めながら授業を受けている。
(ああ、やっぱり今日も可愛いなぁ~、一森さん!)
ここで一つ訂正しなければいけない。
先ほど、担任の女性教師が伝えた朝の連絡事項も、今行われている一時間目の授業も、誰も聞いていないと記したが、例外が一人だけいた。
それが、一森利乃だ。
彼女だけは、真面目に授業を受けていた。
教師たちの殆どは、話を全く聞かない生徒たちとの対話を諦めて、ひたすら黒板に向かって授業を行っている。
が、中には、生徒との対話を計ろうとする教師もいる。
一日の内、一人くらいの割合で。
だが、そういう教師も、教室内で野球をしているような生徒には当てたがらない。
では、誰に当てるかと言うと――
「それでは、この問題をやって貰おう。一森」
「は、はい」
立ち上がって蚊の鳴くような声で答えたのは、太田川の想い人だ。
大人しく、引っ込み思案な一森は、身体が弱く、以前は喘息の発作が酷かったらしい。
が、最近は大分良くなって殆ど症状が出なくなっているようで、無遅刻無欠席で、全ての授業を真面目に受け、尚且つ成績も良い優秀な生徒だ。
(本当、何でここにいるのか分からないくらい、一森さんは優秀だよな~)
一森は、今にも消え入りそうな声ながらも、教師の問いに対して的確に答えた。
「正解だ」
教師の言葉に着席した一森だったが、その直後――
「え? 何て?」
「聞~こ~え~な~~~い!」
「もっと大きな声で言ってくれないかしら?」
クラスメイトたちが、小馬鹿にした様子で一森を揶揄する。
俯いて、頬を紅潮させる一森。
(くそ! またかよアイツら!)
教室内に三十人以上いても、誰が恥ずかしがっているのかを感知する事が出来る太田川だが、そんな彼の能力を用いずとも、この猛烈に込み上がって来る尿意が誰の羞恥心によるものかは明白だ。
太田川は、ガッと、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がると――
「先生! トイレに行っても良いですか?」
と、大きな声で聞いた。
すると、クラス中が大爆笑した。
「おい、またかよ!」
「今日も“大”なんだろう?」
「おっきいの出して来いよ! うんこマン!」
「どんだけ溜まってんのよ、あんたの身体!?」
クラスメイトたちの声で教師の声が掻き消されはしたが、その唇の動きで許可を得た事を察した太田川が廊下へと全力疾走する。
いつまでも太田川を嘲笑する生徒たちは、既に一森のことなどすっかり忘れて盛り上がっていた。
そんな中、走り去る太田川の背中を見送った一森は、太田川の消えた方向をじっと見ていた。
(漏れる漏れる!)
歯を食い縛りつつ、猛スピードで、しかし衝撃が少ないように音を立てずに廊下を走り、教室から一番近いトイレへと駆け込んだ太田川は――
「なんだてめぇ?」
――ヤンキー座りをして煙草を吸う不良たち三人に睨まれた。
赤髪・ピアスで身長百九十センチという巨躯を持つこの高校の番長の八富、高校三年生。
番長の右腕で、金髪・身長百八十センチの木田、高校二年生。
番長の舎弟で、茶髪・身長百七十五センチの奥田、高校一年生。
三対の三白眼に睨まれた太田川は、
「し、失礼しました~!」
と、一瞬で踵を返した。
(あ、危なかった! まさか番長たちがいるなんて!)
危うく漏らし掛けながらも何とか踏み止まり、教室棟の反対側のトイレ――は、自分の教室の前を通らなければならない事と遠い事から却下、三階から二階へと階段を下りるだけで行ける二年生のトイレへと向かいながら、太田川は想定外に虎穴に入り掛けてしまった不運を呪った。
(何で番長グループが一年のトイレに!? いつもなら離れた特別教室棟のトイレで煙草吸ってるはずなのに!)
実は、音楽室・美術室・書道室・視聴覚室といった特別教室が入っている特別教室棟のトイレは、世間の流れを汲んで本日からバリアフリー化するために改修工事をしていて使用禁止になっているのだった。朝の伝達事項の一つに入っていたのだが、担任の説明を聞いていなかった太田川は知らなかった。
(僕みたいな弱い生徒は、ああいうのと関わらないようにするのが一番だ! 気を付けよう!)
“担任による伝達事項”という、学校に関する最新情報の取得を蔑ろにしている自分の落ち度には気付かず、太田川は二年生のトイレへ駆け込んで行った。
挨拶のような、ほんの一言二言言葉を交わすだけの間柄だったが、一森への想いは日に日に大きくなっていった。
彼女の為なら、いつ誰の羞恥心を感じ取って尿意に襲われるか分からないリスクの高い高校生活だろうと、太田川は耐えられるのだ。
――例え、このクラスが学級崩壊していようとも。
担任の女性教師が伝えた朝の連絡事項は、誰一人聞いていなかった。
そして、つい先ほど始まった一時間目の授業も、勿論誰も聞いていない。
やんちゃなクラスメイトばかりのこのクラスでは、授業中も私語は当たり前、スマホを弄り、ゲームをし、紙飛行機を飛ばして、挙句の果てには教室内でボールを投げてバットで打ったりもする。
太田川は彼ら彼女らと違って騒いだりはしないが、彼らを止める事も無い。
彼らを注意して、もし喧嘩腰で詰め寄られたら怖い、という事もあるが、そもそも、そんな面倒な事はしたくないのだ。
彼はただ、好きな子に会いたいがためにここに来ているだけなのだから。
太田川は、教室の反対にいる一森のことをボーっと見詰めながら授業を受けている。
(ああ、やっぱり今日も可愛いなぁ~、一森さん!)
ここで一つ訂正しなければいけない。
先ほど、担任の女性教師が伝えた朝の連絡事項も、今行われている一時間目の授業も、誰も聞いていないと記したが、例外が一人だけいた。
それが、一森利乃だ。
彼女だけは、真面目に授業を受けていた。
教師たちの殆どは、話を全く聞かない生徒たちとの対話を諦めて、ひたすら黒板に向かって授業を行っている。
が、中には、生徒との対話を計ろうとする教師もいる。
一日の内、一人くらいの割合で。
だが、そういう教師も、教室内で野球をしているような生徒には当てたがらない。
では、誰に当てるかと言うと――
「それでは、この問題をやって貰おう。一森」
「は、はい」
立ち上がって蚊の鳴くような声で答えたのは、太田川の想い人だ。
大人しく、引っ込み思案な一森は、身体が弱く、以前は喘息の発作が酷かったらしい。
が、最近は大分良くなって殆ど症状が出なくなっているようで、無遅刻無欠席で、全ての授業を真面目に受け、尚且つ成績も良い優秀な生徒だ。
(本当、何でここにいるのか分からないくらい、一森さんは優秀だよな~)
一森は、今にも消え入りそうな声ながらも、教師の問いに対して的確に答えた。
「正解だ」
教師の言葉に着席した一森だったが、その直後――
「え? 何て?」
「聞~こ~え~な~~~い!」
「もっと大きな声で言ってくれないかしら?」
クラスメイトたちが、小馬鹿にした様子で一森を揶揄する。
俯いて、頬を紅潮させる一森。
(くそ! またかよアイツら!)
教室内に三十人以上いても、誰が恥ずかしがっているのかを感知する事が出来る太田川だが、そんな彼の能力を用いずとも、この猛烈に込み上がって来る尿意が誰の羞恥心によるものかは明白だ。
太田川は、ガッと、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がると――
「先生! トイレに行っても良いですか?」
と、大きな声で聞いた。
すると、クラス中が大爆笑した。
「おい、またかよ!」
「今日も“大”なんだろう?」
「おっきいの出して来いよ! うんこマン!」
「どんだけ溜まってんのよ、あんたの身体!?」
クラスメイトたちの声で教師の声が掻き消されはしたが、その唇の動きで許可を得た事を察した太田川が廊下へと全力疾走する。
いつまでも太田川を嘲笑する生徒たちは、既に一森のことなどすっかり忘れて盛り上がっていた。
そんな中、走り去る太田川の背中を見送った一森は、太田川の消えた方向をじっと見ていた。
(漏れる漏れる!)
歯を食い縛りつつ、猛スピードで、しかし衝撃が少ないように音を立てずに廊下を走り、教室から一番近いトイレへと駆け込んだ太田川は――
「なんだてめぇ?」
――ヤンキー座りをして煙草を吸う不良たち三人に睨まれた。
赤髪・ピアスで身長百九十センチという巨躯を持つこの高校の番長の八富、高校三年生。
番長の右腕で、金髪・身長百八十センチの木田、高校二年生。
番長の舎弟で、茶髪・身長百七十五センチの奥田、高校一年生。
三対の三白眼に睨まれた太田川は、
「し、失礼しました~!」
と、一瞬で踵を返した。
(あ、危なかった! まさか番長たちがいるなんて!)
危うく漏らし掛けながらも何とか踏み止まり、教室棟の反対側のトイレ――は、自分の教室の前を通らなければならない事と遠い事から却下、三階から二階へと階段を下りるだけで行ける二年生のトイレへと向かいながら、太田川は想定外に虎穴に入り掛けてしまった不運を呪った。
(何で番長グループが一年のトイレに!? いつもなら離れた特別教室棟のトイレで煙草吸ってるはずなのに!)
実は、音楽室・美術室・書道室・視聴覚室といった特別教室が入っている特別教室棟のトイレは、世間の流れを汲んで本日からバリアフリー化するために改修工事をしていて使用禁止になっているのだった。朝の伝達事項の一つに入っていたのだが、担任の説明を聞いていなかった太田川は知らなかった。
(僕みたいな弱い生徒は、ああいうのと関わらないようにするのが一番だ! 気を付けよう!)
“担任による伝達事項”という、学校に関する最新情報の取得を蔑ろにしている自分の落ち度には気付かず、太田川は二年生のトイレへ駆け込んで行った。