そして現在。
高校に着いた太田川は、息を切らしながら教室に入った。
途中で何度も、道行く人たちの羞恥心を感じ取ってしまい、猛烈な尿意に襲われてその都度コンビニに駆け込んでいたものの、何とか始業時間には間に合った。
始業のチャイムが鳴り、起立・礼を済ませた後、担任の女性教師が朝の連絡事項を伝える。
太田川にとって、同じ教室内に大勢の生徒がいる学校という場所は、いつ尿意に襲われるか分からない、ハイリスク・ローリターンで、“特にやりたい仕事も無いし、高校に行っておくか”という理由で入学した彼にとって、本来ならば出来るだけ来たくない場所だ(ちなみに、隣のクラスの生徒たちの羞恥心までは感じ取れない。“ある程度距離が近い”場所で、尚且つ“遮蔽物のない、同じ空間内(建物内外は問わない)”である事が、羞恥心を感じ取る際の条件らしい)。
母親も、「高校? 行きたきゃ行かせてあげるわよ。勿論、行きたくなければ別に行かなくても良いし」と、かなり緩い感じであり、どうしても行かなければいけない場所ではない。
だが、そんな太田川が、高校に毎日真面目に通っているのには、訳があった。
それは、好きな子がいるからだ。
担任の女性教師が喋り続けている中、廊下側の一番後ろの席の太田川は、丁度対角に位置する、窓際の一番前の席に座る、セミロングの黒髪ストレートで眼鏡を掛けた少女――一森利乃を一瞥して、柔らかな笑みを浮かべた。
半年ほど前、高校生活の初日。
太田川は、恋に落ちた。一目惚れだった。
今思えば、初恋である母親は派手な見た目で、小学校時代にスカート捲りをした女の子たちも、華やかな見た目の子たちばかりだった。
母親を性的な目で見ていた事が同級生の女の子たちに対するスカート捲りに繋がり、スカート捲りが交通事故と特異体質に繋がったため、彼女らの華やかな見た目がトラウマになったのか、一見地味だが、実は清楚な美人である一森に一目惚れをしたのだ。
それも、ただ一目惚れをしただけではなく、その日の内に、恋心が決定的になるきっかけがあった。
それは、中学が同じだった、ある男子生徒の一言で始まった。
「コイツん所さ、父親がいなくてさ。で、母親が一人で働いてるんだけど、何の仕事してるか分かる? 夜の店で働いてるんだぜ!」
やんちゃなクラスメイトたちは、一気に食い付いた。
「いい歳して水商売とか、ダッセェ!」
「笑える!」
「ババア、無理すんな! ギャハハ!」
初対面だからと少し遠慮していた太田川だったが、流石にこれにはブチ切れそうになった。
――が、その時。
「しょ、職業で人を差別するのは……よ、良くないと思う……!」
微かに聞こえる程の声で、しかしはっきりと言ったのは、まだ席替えをする前で、男女混合の出席番号順であったため席が近かった一森利乃だった。
「そ、それに、お母さん一人で、必死に働いて子どもを育てて来たって……私は、すごいと思う……!」
男子生徒たちの方は決して向かず、ただ俯いて、ブレザーをベースにしたセーラー服のリボンをぎゅっと握り締め、机に向かって話し掛けているような状態だった。
だが、太田川にはまるで、無知な人類に対して毅然とした態度で愛とは何かを説く、女神のような神々しさを感じた。
(母さんの仕事の事を馬鹿にせずに、すごいって言ってくれた人、初めてだ……)
思いもよらぬ言葉に感動し、言葉を無くす太田川。
ほんの一瞬前まで、クラスメイトたちの罵詈雑言によって怒髪天を衝く勢いだった太田川の荒ぶる心は、一気に浄化されて行き、温かい感情が溢れて行った。
――が。
「何言ってんだ、この眼鏡!」
「声小せぇんだよ、もっとでかい声で喋れ!」
愚弄されて、俯いたままの一森の頬が、赤く染まった。
その直後――
「ヤベー! トイレ! 漏れる!」
強烈な尿意に襲われて、太田川が廊下へと全力疾走して行く。
一瞬の間があって。
「ギャハハ! なんじゃそりゃ!?」
「そうそう、忘れてた! アイツ、たまにああやって、いきなりトイレに駆けて行くんだよ!」
「アイツの膀胱、どうなってんだよ!? 面白過ぎだろ! ギャハハ!」
爆笑する男子生徒たちの関心は、完全に一森から、醜態を晒した太田川へと移っていた。
その日の帰り道。
(何だろう……気付いたら、あの子の事ばかり考えてる……)
(……それに、あの子の事を考えると、ドキドキする……)
(……そうか。僕、あの子の事が好きなんだ……)
そして、母親の事を貶された際に、自分の事を庇ってくれた一森の事が頭を過ぎった。
(あの時、彼女から羞恥心は感じた……でも、ほんの少しだけだ。最終的には、アイツ等に色々言われて大きな羞恥心を感じてたけど、僕の事を庇ってくれた瞬間は、ほんの少しだけだった。何だったんだろう、あれ? 恥ずかしさが、何か他の感情によって抑制されてたような?)
暫く考えてみた太田川だったが、“羞恥心”しか感じ取れない彼には、よく分からなかった。
ちなみに、もう一つ太田川が分からなかったのは、そもそも、一森が何故自分の事を庇ってくれたのか、だ。
後から聞いた所によると、一森の家は父子家庭らしく、もしかしたら母子家庭の太田川に対して何か感じるものがあったから、という事が理由の一つかもしれない。
高校に着いた太田川は、息を切らしながら教室に入った。
途中で何度も、道行く人たちの羞恥心を感じ取ってしまい、猛烈な尿意に襲われてその都度コンビニに駆け込んでいたものの、何とか始業時間には間に合った。
始業のチャイムが鳴り、起立・礼を済ませた後、担任の女性教師が朝の連絡事項を伝える。
太田川にとって、同じ教室内に大勢の生徒がいる学校という場所は、いつ尿意に襲われるか分からない、ハイリスク・ローリターンで、“特にやりたい仕事も無いし、高校に行っておくか”という理由で入学した彼にとって、本来ならば出来るだけ来たくない場所だ(ちなみに、隣のクラスの生徒たちの羞恥心までは感じ取れない。“ある程度距離が近い”場所で、尚且つ“遮蔽物のない、同じ空間内(建物内外は問わない)”である事が、羞恥心を感じ取る際の条件らしい)。
母親も、「高校? 行きたきゃ行かせてあげるわよ。勿論、行きたくなければ別に行かなくても良いし」と、かなり緩い感じであり、どうしても行かなければいけない場所ではない。
だが、そんな太田川が、高校に毎日真面目に通っているのには、訳があった。
それは、好きな子がいるからだ。
担任の女性教師が喋り続けている中、廊下側の一番後ろの席の太田川は、丁度対角に位置する、窓際の一番前の席に座る、セミロングの黒髪ストレートで眼鏡を掛けた少女――一森利乃を一瞥して、柔らかな笑みを浮かべた。
半年ほど前、高校生活の初日。
太田川は、恋に落ちた。一目惚れだった。
今思えば、初恋である母親は派手な見た目で、小学校時代にスカート捲りをした女の子たちも、華やかな見た目の子たちばかりだった。
母親を性的な目で見ていた事が同級生の女の子たちに対するスカート捲りに繋がり、スカート捲りが交通事故と特異体質に繋がったため、彼女らの華やかな見た目がトラウマになったのか、一見地味だが、実は清楚な美人である一森に一目惚れをしたのだ。
それも、ただ一目惚れをしただけではなく、その日の内に、恋心が決定的になるきっかけがあった。
それは、中学が同じだった、ある男子生徒の一言で始まった。
「コイツん所さ、父親がいなくてさ。で、母親が一人で働いてるんだけど、何の仕事してるか分かる? 夜の店で働いてるんだぜ!」
やんちゃなクラスメイトたちは、一気に食い付いた。
「いい歳して水商売とか、ダッセェ!」
「笑える!」
「ババア、無理すんな! ギャハハ!」
初対面だからと少し遠慮していた太田川だったが、流石にこれにはブチ切れそうになった。
――が、その時。
「しょ、職業で人を差別するのは……よ、良くないと思う……!」
微かに聞こえる程の声で、しかしはっきりと言ったのは、まだ席替えをする前で、男女混合の出席番号順であったため席が近かった一森利乃だった。
「そ、それに、お母さん一人で、必死に働いて子どもを育てて来たって……私は、すごいと思う……!」
男子生徒たちの方は決して向かず、ただ俯いて、ブレザーをベースにしたセーラー服のリボンをぎゅっと握り締め、机に向かって話し掛けているような状態だった。
だが、太田川にはまるで、無知な人類に対して毅然とした態度で愛とは何かを説く、女神のような神々しさを感じた。
(母さんの仕事の事を馬鹿にせずに、すごいって言ってくれた人、初めてだ……)
思いもよらぬ言葉に感動し、言葉を無くす太田川。
ほんの一瞬前まで、クラスメイトたちの罵詈雑言によって怒髪天を衝く勢いだった太田川の荒ぶる心は、一気に浄化されて行き、温かい感情が溢れて行った。
――が。
「何言ってんだ、この眼鏡!」
「声小せぇんだよ、もっとでかい声で喋れ!」
愚弄されて、俯いたままの一森の頬が、赤く染まった。
その直後――
「ヤベー! トイレ! 漏れる!」
強烈な尿意に襲われて、太田川が廊下へと全力疾走して行く。
一瞬の間があって。
「ギャハハ! なんじゃそりゃ!?」
「そうそう、忘れてた! アイツ、たまにああやって、いきなりトイレに駆けて行くんだよ!」
「アイツの膀胱、どうなってんだよ!? 面白過ぎだろ! ギャハハ!」
爆笑する男子生徒たちの関心は、完全に一森から、醜態を晒した太田川へと移っていた。
その日の帰り道。
(何だろう……気付いたら、あの子の事ばかり考えてる……)
(……それに、あの子の事を考えると、ドキドキする……)
(……そうか。僕、あの子の事が好きなんだ……)
そして、母親の事を貶された際に、自分の事を庇ってくれた一森の事が頭を過ぎった。
(あの時、彼女から羞恥心は感じた……でも、ほんの少しだけだ。最終的には、アイツ等に色々言われて大きな羞恥心を感じてたけど、僕の事を庇ってくれた瞬間は、ほんの少しだけだった。何だったんだろう、あれ? 恥ずかしさが、何か他の感情によって抑制されてたような?)
暫く考えてみた太田川だったが、“羞恥心”しか感じ取れない彼には、よく分からなかった。
ちなみに、もう一つ太田川が分からなかったのは、そもそも、一森が何故自分の事を庇ってくれたのか、だ。
後から聞いた所によると、一森の家は父子家庭らしく、もしかしたら母子家庭の太田川に対して何か感じるものがあったから、という事が理由の一つかもしれない。