太田川颯斗は、その名の如く、競輪選手もかくや、という猛スピードで、人通りの疎らな早朝の街中を、高校に向かって自転車で疾走していた。
衣替えも済んで、秋らしい風が吹くようになったこの頃だが、そんな季節の変化を感じる余裕は太田川には無い。
(やはり今日は風が強い……ヤバい……)
心の中でそう思いながら、太田川は、激しい運動によるものとは別の、冷たい汗が背中を伝うのを感じる。
彼が必要以上に早起きして、不必要なほど高速で移動しているその理由は、天気予報で見た本日の強風にあった。
(お願いだ! 僕が学校に辿り着くまで、何も起こらないでくれ!)
だが、その願いも虚しく――
「きゃあっ!」
疾風に煽られ、思わず制服のスカートを押さえる少女が目に入る。
(くそっ! やはり来たか!)
太田川は、歯を食い縛り額に脂汗を浮かべながら、出来るだけ衝撃の少ないように自転車を漕ぎつつ近くのコンビニに急行し、自転車をとめて中に駆け込み、トイレを借りた。
「ふぅ」
(危なかった……)
安堵し、菩薩のような朗らかな顔でコンビニの外へ出て来る太田川。
だが、学校への道はまだ半分以上残っており、敵はどこに隠れているか分からなかった。
案の定、その後も――
「うわ~! キャサリ~ン!」
突風で鬘が吹っ飛ばされて、叫びながら追い掛ける中年サラリーマンを目撃。
(鬘に名前つけてんの!? しかも、女性の名前!?)
「ぶわくしょいっ!」
クシャミをした弾みに入れ歯が抜けて、ポッと顔を赤らめる御爺さんが視界に入り。
(おい爺さん! その歳でまだ羞恥心あるのかよっ!?)
その度に急遽進路を近くのコンビニへと変更、太田川はトイレへ駆け込んだ。
その結果。
学校に着く頃には、いつも通り時間ギリギリになってしまった。
(ああもう! 何で僕はこんな体質になっちゃったんだ!?)
中肉中背の黒髪で平凡な見た目の高校一年生の少年、太田川颯斗は、特異体質だった。
――“近くにいる人の恥ずかしい気持ちを男女問わず感じ取る事が出来”て、“感じ取ってしまうと、無性にトイレ(小便)に行きたくなってしまう”――という。
太田川は、何故このような珍妙な体質になったのか?
きっかけは、小学校時代の事だった。
「待て~!」
「きゃあ!」
当時の太田川は、どうしようもなく性に正直なエロガキだった。
具体的には、彼は、事あるごとにスカート捲りをしていた。
登校中、学校で、そして下校中も。
スカートを捲られて恥ずかしがる女の子たちを見るのが、大好きだったのだ。
ただ、太田川の名誉のために記しておくと、彼も生まれつき性欲の権化だった訳ではない。
太田川の家庭が、少々特殊だったのだ。
十六歳という年齢で彼を生み一人で育てて来た母親が、美貌と若さを兼ね備えた、とある風俗店ナンバーワンの嬢であり、太田川は母親の事が大好きだった。
毎晩、店から迎えの車が来ると、颯爽とミニスカート姿で出掛ける母親の下着を下から覗き見ては、太田川は口元を綻ばせ、目尻を垂らし、鼻の下を伸ばしていた。
が、小学校低学年の頃。
母親の事を自慢し、母親が大好きだと同級生たちに言った所。
「マザコンじゃん!」
「マザコン野郎!」
と、罵られたのだ。
「ち、違う! 僕はマザコンなんかじゃない!」
必死に否定した太田川は、その後、学校で一切母親の話をしなくなった。
そして、家でも、無防備な母親の胸元やスカートの中を見ないように必死になっていった。
だが、何事も急には変えられないものだ。特に、性的衝動という、根の深いものであれば尚更だ。しかも彼の場合は、幼少時代からずっと親は母親一人で、更に夜は仕事でおらず独りぼっちで寝なければならないという事から来る寂しさ・人恋しさも原因の一つだった。
そのため、太田川は、母親の艶めかしい肢体や下着姿の視姦を止める代わりに、代替を求めた。
それが、同級生の少女たちに対するスカート捲りだった。
さて、そんな訳で、太田川は、毎日スカートを捲っていた。
教師に叱られても、母親を呼び出されても止めなかった(母親が呼び出された際には、流石の太田川も居心地が悪そうだったが、「あら、良いじゃない。裏で隠れてコソコソと好きな子のリコーダーを舐め回したりするよりも、余程健全だわ」と、あっけらかんと言う母親に唖然としたものだった。結局、親の呼び出しは抑止力にはならなかった)。
そんなある日。
いつものように、その日の下校中も、太田川は女の子たちのスカートを捲っていた。
すると――
「きゃあ! やめて!」
「お! ウサギのパンツ可愛いじゃぐぼはっ!」
白地に可愛らしい兎がプリントされたパンツを見た直後、太田川は吹っ飛んだ。
後から分かった事だが、太田川は車に轢かれたのだった。
目の前にいた女の子たちを避けるようにドリフトして来た車によって。
見事に、彼だけが。
その後暫く生死の境を彷徨った太田川だったが、奇跡的に助かった。
しかも、後遺症は一切なかった。
復学した後。
「待て待て~!」
「いや~!」
懲りずにまた太田川が、女の子のスカートを捲ったところ――
「うっ!」
急にトイレに行きたくなった。
「………………!?」
その後、何度スカートを捲っても、やはりトイレに行きたくなった。
暫くは理由が分からなかった。
が、ある日。
母親の仕事が休みの日に、母親の彼氏を名乗る男が突然家を訪ねて来た時に分かった。
「もう、ちゃんと連絡してくれないと困るわよ。あたし、すっぴんなのに。恥ずかしいわ」
自分の前では、裸でも決して恥ずかしがらない母親が、化粧をしていない顔を好きな男に見られて恥ずかしがりながらお茶を出した際にも、トイレに行きたくなったのだ。
その時、やっと、どういう仕組みなのかが分かった。
その後、あれだけ大好きだったスカート捲りを、太田川は断腸の思いで止めた。
そして現在。
高校に着いた太田川は、息を切らしながら教室に入った。
途中で何度も、道行く人たちの羞恥心を感じ取ってしまい、猛烈な尿意に襲われてその都度コンビニに駆け込んでいたものの、何とか始業時間には間に合った。
始業のチャイムが鳴り、起立・礼を済ませた後、担任の女性教師が朝の連絡事項を伝える。
太田川にとって、同じ教室内に大勢の生徒がいる学校という場所は、いつ尿意に襲われるか分からない、ハイリスク・ローリターンで、“特にやりたい仕事も無いし、高校に行っておくか”という理由で入学した彼にとって、本来ならば出来るだけ来たくない場所だ(ちなみに、隣のクラスの生徒たちの羞恥心までは感じ取れない。“ある程度距離が近い”場所で、尚且つ“遮蔽物のない、同じ空間内(建物内外は問わない)”である事が、羞恥心を感じ取る際の条件らしい)。
母親も、「高校? 行きたきゃ行かせてあげるわよ。勿論、行きたくなければ別に行かなくても良いし」と、かなり緩い感じであり、どうしても行かなければいけない場所ではない。
だが、そんな太田川が、高校に毎日真面目に通っているのには、訳があった。
それは、好きな子がいるからだ。
担任の女性教師が喋り続けている中、廊下側の一番後ろの席の太田川は、丁度対角に位置する、窓際の一番前の席に座る、セミロングの黒髪ストレートで眼鏡を掛けた少女――一森利乃を一瞥して、柔らかな笑みを浮かべた。
半年ほど前、高校生活の初日。
太田川は、恋に落ちた。一目惚れだった。
今思えば、初恋である母親は派手な見た目で、小学校時代にスカート捲りをした女の子たちも、華やかな見た目の子たちばかりだった。
母親を性的な目で見ていた事が同級生の女の子たちに対するスカート捲りに繋がり、スカート捲りが交通事故と特異体質に繋がったため、彼女らの華やかな見た目がトラウマになったのか、一見地味だが、実は清楚な美人である一森に一目惚れをしたのだ。
それも、ただ一目惚れをしただけではなく、その日の内に、恋心が決定的になるきっかけがあった。
それは、中学が同じだった、ある男子生徒の一言で始まった。
「コイツん所さ、父親がいなくてさ。で、母親が一人で働いてるんだけど、何の仕事してるか分かる? 夜の店で働いてるんだぜ!」
やんちゃなクラスメイトたちは、一気に食い付いた。
「いい歳して水商売とか、ダッセェ!」
「笑える!」
「ババア、無理すんな! ギャハハ!」
初対面だからと少し遠慮していた太田川だったが、流石にこれにはブチ切れそうになった。
――が、その時。
「しょ、職業で人を差別するのは……よ、良くないと思う……!」
微かに聞こえる程の声で、しかしはっきりと言ったのは、まだ席替えをする前で、男女混合の出席番号順であったため席が近かった一森利乃だった。
「そ、それに、お母さん一人で、必死に働いて子どもを育てて来たって……私は、すごいと思う……!」
男子生徒たちの方は決して向かず、ただ俯いて、ブレザーをベースにしたセーラー服のリボンをぎゅっと握り締め、机に向かって話し掛けているような状態だった。
だが、太田川にはまるで、無知な人類に対して毅然とした態度で愛とは何かを説く、女神のような神々しさを感じた。
(母さんの仕事の事を馬鹿にせずに、すごいって言ってくれた人、初めてだ……)
思いもよらぬ言葉に感動し、言葉を無くす太田川。
ほんの一瞬前まで、クラスメイトたちの罵詈雑言によって怒髪天を衝く勢いだった太田川の荒ぶる心は、一気に浄化されて行き、温かい感情が溢れて行った。
――が。
「何言ってんだ、この眼鏡!」
「声小せぇんだよ、もっとでかい声で喋れ!」
愚弄されて、俯いたままの一森の頬が、赤く染まった。
その直後――
「ヤベー! トイレ! 漏れる!」
強烈な尿意に襲われて、太田川が廊下へと全力疾走して行く。
一瞬の間があって。
「ギャハハ! なんじゃそりゃ!?」
「そうそう、忘れてた! アイツ、たまにああやって、いきなりトイレに駆けて行くんだよ!」
「アイツの膀胱、どうなってんだよ!? 面白過ぎだろ! ギャハハ!」
爆笑する男子生徒たちの関心は、完全に一森から、醜態を晒した太田川へと移っていた。
その日の帰り道。
(何だろう……気付いたら、あの子の事ばかり考えてる……)
(……それに、あの子の事を考えると、ドキドキする……)
(……そうか。僕、あの子の事が好きなんだ……)
そして、母親の事を貶された際に、自分の事を庇ってくれた一森の事が頭を過ぎった。
(あの時、彼女から羞恥心は感じた……でも、ほんの少しだけだ。最終的には、アイツ等に色々言われて大きな羞恥心を感じてたけど、僕の事を庇ってくれた瞬間は、ほんの少しだけだった。何だったんだろう、あれ? 恥ずかしさが、何か他の感情によって抑制されてたような?)
暫く考えてみた太田川だったが、“羞恥心”しか感じ取れない彼には、よく分からなかった。
ちなみに、もう一つ太田川が分からなかったのは、そもそも、一森が何故自分の事を庇ってくれたのか、だ。
後から聞いた所によると、一森の家は父子家庭らしく、もしかしたら母子家庭の太田川に対して何か感じるものがあったから、という事が理由の一つかもしれない。
そのような経緯で、太田川は一森に惚れた。
挨拶のような、ほんの一言二言言葉を交わすだけの間柄だったが、一森への想いは日に日に大きくなっていった。
彼女の為なら、いつ誰の羞恥心を感じ取って尿意に襲われるか分からないリスクの高い高校生活だろうと、太田川は耐えられるのだ。
――例え、このクラスが学級崩壊していようとも。
担任の女性教師が伝えた朝の連絡事項は、誰一人聞いていなかった。
そして、つい先ほど始まった一時間目の授業も、勿論誰も聞いていない。
やんちゃなクラスメイトばかりのこのクラスでは、授業中も私語は当たり前、スマホを弄り、ゲームをし、紙飛行機を飛ばして、挙句の果てには教室内でボールを投げてバットで打ったりもする。
太田川は彼ら彼女らと違って騒いだりはしないが、彼らを止める事も無い。
彼らを注意して、もし喧嘩腰で詰め寄られたら怖い、という事もあるが、そもそも、そんな面倒な事はしたくないのだ。
彼はただ、好きな子に会いたいがためにここに来ているだけなのだから。
太田川は、教室の反対にいる一森のことをボーっと見詰めながら授業を受けている。
(ああ、やっぱり今日も可愛いなぁ~、一森さん!)
ここで一つ訂正しなければいけない。
先ほど、担任の女性教師が伝えた朝の連絡事項も、今行われている一時間目の授業も、誰も聞いていないと記したが、例外が一人だけいた。
それが、一森利乃だ。
彼女だけは、真面目に授業を受けていた。
教師たちの殆どは、話を全く聞かない生徒たちとの対話を諦めて、ひたすら黒板に向かって授業を行っている。
が、中には、生徒との対話を計ろうとする教師もいる。
一日の内、一人くらいの割合で。
だが、そういう教師も、教室内で野球をしているような生徒には当てたがらない。
では、誰に当てるかと言うと――
「それでは、この問題をやって貰おう。一森」
「は、はい」
立ち上がって蚊の鳴くような声で答えたのは、太田川の想い人だ。
大人しく、引っ込み思案な一森は、身体が弱く、以前は喘息の発作が酷かったらしい。
が、最近は大分良くなって殆ど症状が出なくなっているようで、無遅刻無欠席で、全ての授業を真面目に受け、尚且つ成績も良い優秀な生徒だ。
(本当、何でここにいるのか分からないくらい、一森さんは優秀だよな~)
一森は、今にも消え入りそうな声ながらも、教師の問いに対して的確に答えた。
「正解だ」
教師の言葉に着席した一森だったが、その直後――
「え? 何て?」
「聞~こ~え~な~~~い!」
「もっと大きな声で言ってくれないかしら?」
クラスメイトたちが、小馬鹿にした様子で一森を揶揄する。
俯いて、頬を紅潮させる一森。
(くそ! またかよアイツら!)
教室内に三十人以上いても、誰が恥ずかしがっているのかを感知する事が出来る太田川だが、そんな彼の能力を用いずとも、この猛烈に込み上がって来る尿意が誰の羞恥心によるものかは明白だ。
太田川は、ガッと、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がると――
「先生! トイレに行っても良いですか?」
と、大きな声で聞いた。
すると、クラス中が大爆笑した。
「おい、またかよ!」
「今日も“大”なんだろう?」
「おっきいの出して来いよ! うんこマン!」
「どんだけ溜まってんのよ、あんたの身体!?」
クラスメイトたちの声で教師の声が掻き消されはしたが、その唇の動きで許可を得た事を察した太田川が廊下へと全力疾走する。
いつまでも太田川を嘲笑する生徒たちは、既に一森のことなどすっかり忘れて盛り上がっていた。
そんな中、走り去る太田川の背中を見送った一森は、太田川の消えた方向をじっと見ていた。
(漏れる漏れる!)
歯を食い縛りつつ、猛スピードで、しかし衝撃が少ないように音を立てずに廊下を走り、教室から一番近いトイレへと駆け込んだ太田川は――
「なんだてめぇ?」
――ヤンキー座りをして煙草を吸う不良たち三人に睨まれた。
赤髪・ピアスで身長百九十センチという巨躯を持つこの高校の番長の八富、高校三年生。
番長の右腕で、金髪・身長百八十センチの木田、高校二年生。
番長の舎弟で、茶髪・身長百七十五センチの奥田、高校一年生。
三対の三白眼に睨まれた太田川は、
「し、失礼しました~!」
と、一瞬で踵を返した。
(あ、危なかった! まさか番長たちがいるなんて!)
危うく漏らし掛けながらも何とか踏み止まり、教室棟の反対側のトイレ――は、自分の教室の前を通らなければならない事と遠い事から却下、三階から二階へと階段を下りるだけで行ける二年生のトイレへと向かいながら、太田川は想定外に虎穴に入り掛けてしまった不運を呪った。
(何で番長グループが一年のトイレに!? いつもなら離れた特別教室棟のトイレで煙草吸ってるはずなのに!)
実は、音楽室・美術室・書道室・視聴覚室といった特別教室が入っている特別教室棟のトイレは、世間の流れを汲んで本日からバリアフリー化するために改修工事をしていて使用禁止になっているのだった。朝の伝達事項の一つに入っていたのだが、担任の説明を聞いていなかった太田川は知らなかった。
(僕みたいな弱い生徒は、ああいうのと関わらないようにするのが一番だ! 気を付けよう!)
“担任による伝達事項”という、学校に関する最新情報の取得を蔑ろにしている自分の落ち度には気付かず、太田川は二年生のトイレへ駆け込んで行った。
そのような訳で、太田川は、一森に会えるという天国と、一森の羞恥心のせいで授業中に急激な尿意に襲われるという地獄の、両方を常に味わっていた。
(尿意が何だってんだ! 周りに笑われるのが何だってんだ! 一森さんに会えるんだから、そのくらいどうってことないさ!)
学校からの帰り道、往路と違ってゆっくりと自転車を漕ぎながら、太田川はそんな事を考えていた。
何せ、母親を除けば、誰かに対してきちんと恋に落ちたのは、これが初めてなのだ。
(明日も、一森さんに会える! 楽しみだな~)
通行人たちの羞恥心を感じ取り不意打ち尿意に苛まれる事はあるものの、時間内に学校に辿り着かなくてはならないという往路のプレッシャーも無く、授業中のようなトイレダッシュに対する嘲笑なども勿論無いため、復路の太田川はかなり気が緩んでいる。
(帰りなら、仮に恥ずかしい気持ちになっている人がいても、時間を気にせず近くのコンビニに駆け込めば良いだけだし)
(ただ、あの橋の近くだけは、近くにコンビニが無いから、要注意だけど。まぁ、あの辺は人通りも少ないし、大丈夫だろうけど)
太田川の双眸が、市内を流れる川に掛かる橋を捉えた直後――
「うっ!」
(何だ……これ……!? こんな強烈なの……初めてだ……!)
生まれて初めて感じる、尋常ではない尿意に、思わず急ブレーキを掛ける。
尿意の大きさは、感じ取る羞恥心の大きさに比例するのだが、これほど大きな羞恥心を感じるのは初めてのことだった。
見ると、橋の中央に誰かが佇んでいる。
(この異常な羞恥心……あの女の人からだ! くそっ! この辺コンビニ無いのに! これはヤバい! とてもじゃないけど、最寄りのコンビニまで持たない!)
黒ワンピースに身を包んだ黒髪ロングの女性は、虚ろな表情で眼下の川面を覗いていた。
女性は、自分自身に対して、恥ずかしい気持ちを感じていた。
ああ、私はなんて恥ずかしい存在なのだろう。
不細工な私。ああ、恥ずかしい。
三十路でやっと出来た生まれて初めての彼氏――結婚を考えていた彼にも振られた。ああ、恥ずかしい。
仕事もクビになった。ああ、恥ずかしい。
私には生きる価値もない。生きていることが恥ずかしい。
そう思い詰め、じっと橋の上から川を見詰めて、入水自殺をしようとしている女性の羞恥心を感じた太田川は――
「うわああああああああ!」
――河川敷の土手を勢いよく転がっていた。
否、ほんの一瞬前までは、
(近くにコンビニは無いし、こうなったら橋の下で立小便をしよう!)
と思い、歯を食い縛りながら、土手を走って下りていたのだ。
が、途中で転けてしまったのだった。
高速で回る世界に、ただただ悲鳴を上げ続ける事しか出来ない太田川は、そのまま川に着水して――
(あっ)
ブルブルッ。
最悪の事態に見舞われ――
「うわ~! くそー! 間に合わなかった~! 漏らしちゃったよ、ションベン! まさかこの年で漏らすなんて! 情けない! ぐすっ」
と、鼻水を垂らし、涙目になる。
どうやら小便を漏らしたらしい全身ずぶ濡れで鼻水を垂らし涙目の少年を見た女性は――
「……私、あの子に比べたら、まだマシかも……」
そう呟くと、自殺を思い止まり、少し前向きな気持ちになって、スタスタと帰って行った。
女性が立ち去った後。
「くそっ! 何が“あの子に比べたら、まだマシかも”だよ! 誰のせいでこんな目に遭ったと思ってるん……だ……!?」
自転車を置いた土手の上の方を振り返った太田川が、ふと、橋の上に視線を移すと――
「あっ!」
「え!?」
目が合った。
橋の上でしゃがんで、土手の下を覗き込んでいる一森と。
一森は慌てて、おたおたと、傍に置いておいたらしいピンク色の可愛らしい自転車に跨ると、走り去って行った。
(終わった……僕が漏らした所、見られた……僕の恋は、終わった……)
太田川は、ただただ川の中に呆然と立ち尽くしていた。
翌日。
太田川は、初めて学校を休もうかと思った。
が、仕事を終えて朝方に帰宅して、疲労困憊でベッドにダイブして眠る母親を見て、考えを改めた。
(母さんは、必死に働いてくれている……僕のために……)
(学校……行かなきゃ……)
昨日、予想外に橋で一森と出会った事件は、未だに尾を引いていた。
本当なら、「意外に明るい色の可愛い自転車に乗っているんだな」、などと、楽しい感想を持つことが出来たのだろうが、如何せん、齢十六にして、“野外お漏らし”を見られたのだ。そんな余裕は無かった。
自分のために必死に働く母親を見て登校しようと決意した彼だったが、学校に着く直前には、帰りたい気持ちで一杯になっていた。
あれだけ毎日会いたがっていた一森に、今日だけは会いたくなかった。
どんな顔をすれば良いのか分からなかった。
こんな気持ちは初めてだった。
だが、教室に入り、一森の後ろ姿を見た瞬間――
吹っ切れた。
(何が『僕の恋は、終わった』だ!? 最初から、この恋は終わってたんだ。元々、一森さんに告白なんて出来る訳がなかったんだ。僕は、毎日授業中にトイレに駆けて行く男だ。本当は小便だけど、大便だっていつもみんなに思われてる“うんこマン”だ。そんな奴に告白されて、一体誰が喜ぶってんだ!?)
(その状態から“小便漏らし太郎”に変わっただけだ。何も変わってないじゃないか! いや、むしろ、“うんこマン”から“小便漏らし太郎”に変わったなら、大便から小便へと、少しだけマシになったと言えなくもないさ! ハハ。ハハハハ………………)
この日の午前中の四時間の授業の間、太田川は、一度も一森の方を向かなかった。