「話す。話せば、いいんだろ」
 私と君が君の状態にたどり着いたことを察したのか、長いため息の後で、同前は私を睨み付けた。そして君を悲しそうな目で見て、小さく笑った。
「話すが、条件がある」
 君は唾液を飲み込んで、黙ったまま瞳で条件を促した。
「短い話じゃない。…終わるまで、呼ばれても絶対に行くな。助けを求めてる声がどれだけ切羽詰まっててもだ。難しいことじゃないだろ」
 君は赤いヒーローの人形を握りしめて、私に怯えたような顔を向けた。何か言おうと口を開きかけて、ぎゅっと目をつぶり、決心したように頷く。
「分かった。絶対に行かない」
 震えてはいたが、はっきりとした口調だった。重い沈黙の後で、彼は口を開いた。
「…最初に言っておく。蜂谷が言った通り、お前は俺の悪夢だ」
 君の肩が跳ねる。真っ青な顔に「猫又くん」と呼ぶと「大丈夫」と大丈夫じゃない顔で笑う。
「これから話すのは、お前が生まれるまでの話だ。お前は、可哀想な奴だよ。本当に」
 彼は、話し始めた。

 1

 姉さんの弟。それ以上でも、それ以下でもなく、それだけ。姉さんの後に生まれた、姉さんの一人だけの姉弟。それが俺だった。
 姉さんが天才だと言われ始めたのは、俺が小学五年生の頃、姉さんは高校二年生の時だったと思う。
 姉さんは幼い頃から歌うことが好きだった。それは病的とも言えるほどで、記憶の中の姉さんは歌っていないときの方が少ない。授業中に歌ってしまい注意されることも度々あったようだ。
 俺は姉さんのことが好きだった。小学校から帰って、姉さんが帰ってくるまで宿題をして、姉さんが帰ってきたら仕事で遅くまで帰ってこない父さんの部屋の棚からCDを数枚引き抜いて、父さんが高校生の頃から使っているボロボロのスピーカーの前に二人並んで、歌詞カードを広げて音程も気にせず滅茶苦茶に歌うあの時間が、少ない友人と遊ぶよりも楽しかった。
 滅茶苦茶な歌が終わりに近づくにつれて、姉さんは音程を正し美しい音色を口から空気に浮かばせる。俺は姉さんほどうまくは歌えなかったけれど、姉さんにつられるように歌を唄うと、いつも曲が終わる頃には綺麗な二重奏になっていた。今思えば、最初は滅茶苦茶な音程で、ゆっくりと正していくのは、俺が上手に歌えるようにするためだったのかもしれない。
 姉さんは数曲歌い終わると、姉さんの方が上手なのは誰が聞いたって分かることなのに「正太郎は歌が上手だね」と笑う。その後で課題があるからと俺の頭を撫でて上機嫌に自分の部屋に消えていく。俺はCDを片しながら、いつか姉さんみたいに綺麗な声で歌えるようになりたいと思っていた。いつか、姉さんに世辞じゃない上手だね、を言ってもらたかった。
 姉さんと俺の見る世界に小さなずれが生じたのは、父さんが高校の頃の友人を家に招いてからだ。その頃僕は小学三年生で、姉さんは中学三年生だ。父さんの友人は歌手だった。自分で曲を作って、自分で歌って。有名ではなかったが根強いファンがいる人だと父さんに聞いたことがある。
 その日は父さんの友人が用事があって俺の住む家がある町を訪れることになり、それならついでに遊びに来ないかと父さんが言って父さんの友人が喜んでそれに首を縦に振り、実現された夏の初めの土曜日だった。
 近くのホテルに荷物を置いてから午後五時あたりに家にやって来た父さんの友人を見た第一印象は、暗そう、だった。それ以外は特にない。二人は酒を飲みながら近況を言い合い昔話に花を咲かせ、楽しそうに過ごしていた。
 酒のせいもあるのか話はあっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しない。俺はそれを尻目に算数の宿題をしていた。小学生の内は親の目の届く範囲で宿題をするのが決まりだったからだ。しばらくして姉さんが帰ってきて、「土曜日にテストって何?しかも平日とそんなに変わらない下校だし。ああもう疲れた、歌おう歌おう。あーあーあーるんるん」怒濤の勢いだ。ひとしきり騒ぎ終えると、こちらを微笑ましく見ている父さんの友人に目をとめ、俺に「誰?」と耳打ちした。事情を話すと、ふうん、と興味がなさそうに返事して、いつものように父の部屋からCDを取り出し始めた。
 そしてスピーカーの電源を入れて、僕を隣に座るよう手招きする。
「今日も歌うの?」
「え?うん。学校帰りはいつもそうじゃん」
「でもお客さん居るし…」
「恥ずかしい?あはは、正太郎、可愛いね」
 姉さんは上機嫌に再生ボタンを押す。俺は慌てて隣に座って、いつも通りに二人で歌った。
 楽しかった。月並みな表現だが、姉さんの透き通るような歌声が俺は本当に好きだった。好きだったのに。
 それから一ヶ月程度が立ったある日、家に大きな段ボールが届いた。中には小学生だった俺には何だか分からない機械がたくさん入っていた。
「お前には歌の才能があるって、あいつが送ってきたんだよ」
 父さんの友人は、姉さんの歌声に惚れ込んだらしい。作曲ソフトが入ったパソコンや上等そうなマイク、その他諸々を受け取った姉さんはそれから毎日暇さえあれば部屋に籠もってそれらをいじり回していた。学校帰りの俺との歌の時間もなくなって、俺はその姉の机を埋め尽くしたよく分からない機材たちが恨めしかった。何度もたたき壊してやろうかと思った。
 それから一年が経って、俺は姉の居ないところで姉の歌声を聞く機会ができていた。友人たちが「この曲かっこいいよ」とイヤホンを押しつけ聞かせてくるその音楽に乗った声はどう聞いたって姉の声で。
 それから数年が経って、俺は家よりテレビで姉さんの顔を見るようになった。
 現実が全部嘘に思えた。姉が画面と向き合う時間が増えてから姉のことを避けていた俺の目には姉があまりにも出来過ぎたサクセスストーリーの上を走っているように見えた。俺に目を向けなくなった姉さんを認めるのが悲しくて、目を逸らし続けたから、そんな風に思えた。
「お前、姉ちゃん歌手だよな?名字が同じだし、顔もそっくりだし。すぐに分かった」
「お姉さんにサインお願いできますか」
「お姉さんって、家でも歌ってるの?」
「新曲とか聞かせてもらえんの?」
 中学生になった俺の前にやってくる人の口から出てくるのはほとんど全てが姉の名前だった。顔を真っ赤にしながら付き合って欲しいと言われ二週間程度付き合った吹奏楽部の先輩も、蓋を開けてみれば姉さんのファンで、俺を通して姉さんを見ているだけだった。
 心底うんざりした俺は、姉さん目当てで近づいてくる人間に口をきかないことにした。すると誰も俺の周りには居なくなって、俺の価値は姉さんが全て持っていたことを目の当たりにしてしまった。虚しさが俺に纏わり付いていた。
 俺は鏡が嫌いになった。覗くと、そこには姉さんによく似た俺の顔があった。姉さんと違って人懐こさのかけらもない表情だが、本当によく似ていた。姉さんが髪を切って無愛想にすれば俺になるし、俺が髪を伸ばして笑顔を自然に作れるようになればきっと姉さんになるだろう。俺は前髪を伸ばして顔を隠すようになった。留まるところを知らない身長も相まっていよいよ俺に話しかけるような勇気のある人間はいなくなったが、それで良かった。姉さんと比べられ、姉の代わりにされるよりましだった。
 姉の面影が、家のどこに居てもちらついていた。出来る限り別な場所に居ようとして、遠くはない祖母の家に入り浸るようになり、いつしか家には帰らなくなった。祖母が両親と話をつけておいてくれたらしく、そのまま、俺は祖母の趣味の一環で立てられた喫茶店の二階に住むことになった。
 姉さんの人気はどんどんと勢いを増していって、校内放送で流れるようになった。放送が聞こえないトイレの個室に籠もってなんとかやり過ごしたが、姉さんの歌が流れた後の教室に入るのは億劫だった。
 そんな日々を送りながら、中学校生活二回目の夏休みを迎えた。俺は予定のないカレンダーを眺めながら、祖母が作ってくれた青いソーダフロートを舐めるようにゆっくりと飲んでいた。シロップは三つ入れたところで体に悪いと咎められた。止められなければもう三つは入れていただろう。クーラーからの冷風が俺の伸びきった前髪を揺らす。出かけるか、とアイスが溶けきって水色になっていた甘い液体を流し込み、客が数人しか居ない店内のカウンター席から立ち上がる。二階に上がって携帯電話と財布、あとはスケッチブックと鉛筆を数本入れたリュックを取って背負い、俺はキッチンでのんびりとグリム童話を読んでいる祖母に声をかけた。
「出かけてきます」
 祖母は立ち上がり、冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを俺に渡す。
「今日もプラネタリウム?ふふ、好きだねえ。行ってらっしゃい、五時には帰ってきてね」
「お茶ありがとうございます。行ってきます」
 喫茶同前を出て近くのバス停で麦茶を飲みながらバスを待ち、十数分後にやって来たバスに老人の荷物を持つのを手伝いながら乗り込み、流れていく見慣れた風景をぼんやりと眺めた。
 俺は俺の中の姉さんをどこか遠くに捨てるために、何か別の夢中になれるものを探した。それだけを考えて生きていけるような、絶対的で美しいものが欲しかった。
 授業で惑星の話を聞いたとき、そういえば、この町にもプラネタリウムがあったなと思い出した。正確にはプラネタリウムではなく天文博物館だが、幼い頃一度行った程度の俺にはプラネタリウムの記憶しかなかった。敷地内に立派な天文台がある。それの為だろう、その天文博物館はたどり着くのに少々骨が折れる場所にあった。長期休みでもあそこに知り合いはほとんど居ないはずだ。
 姉さんとは全く関係のないところで、姉さんと俺を重ねる人も居なくて、人類なんてちっぽけなものに思える壮大な宇宙を見せてくれるあの場所は、俺に丁度良いと思ったのだ。避難場所が欲しかった。
 そうした浅はかな考えで通い始めた天文博物館は、訪れる度に新しい発見や感動があった。俺はどんどんとのめり込んでいき、暇さえあれば天文博物館に訪れるようになった。
 展示されているロケットの模型を眺めて、スケッチをした。写真に収めるより、スケッチの方が気づくことが多いように思えたからだ。
 受付の老人は、ほとんど喋らない。何か聞けば穏やかに返してくれるが、それ以外は何もなかった。それもまた、俺が息をつける要因になっていた。
 山を少し登ったところでバスが停まる。降りて、山を見上げた。この先に待っている穏やかさを思えばさほど気にならないが、やはり車でないとこの山道は厳しい。登って登って、天網博物館が見えた頃には湿った前髪で何も見えなくなった。今日は一段と暑い。帽子やタオルを持ってきたら良かった。
 涼しい館内には、受付の老人以外誰も居なかった。いつものように学生証を提示して財布に優しい金額の入場券を受け取る。そしてゆっくりと見て回って、今日はこれにしよう、と、晴天時には太陽表面のフレアやプロミネンスを見ることが出来る屈折望遠鏡の前に座る。ちなみに、許可は取った。
 スケッチブックを開いて、最後から数ページ目の白の上に、黒で線を引いていく。デッサンの方法を誰かに教わったことはないから、俺は気の向くままに紙の上にその巨大な筒を描いた。
「こんにちは」
 入り口の方から、少年の声が聞こえた。珍しいなと聞き耳を立てる。少年は受付で俺と同じように入場券を受け取った。
 しばらく足音がしていたが、やがて止んで、静かになった。不思議に思って荷物をまとめ、少年を探すために俺は立ち上がる。一つずつ部屋を回って、少年を見つけたのは星の一生が数枚に分けて説明されているパネルの前だった。少年は座りもせず、ただぼうっとそれを見ている。
 栗色の髪が、黄色い照明に照らされて満月色に光っていた。
 つまらなさそうだと思った。
 少年の横顔を眺めていると、ふと少年がこちらを向いて、パネルを指さす。
「ベテルギウスも、こんな感じで爆発したのかな」
 感情の読み取りにくい声色だ。穏やかで暖かく聞こえるが冷めた印象もある。どういう人間なのか計りかねたまま、俺は少年の言葉に頷いた。
「多分、そうだろ」
「そうかあ」
 パネルに目線を戻して、また少年はぼうっとした。俺はなんとなく、それが綺麗だと思った。
「お前、暇か?」
 聞くと、少年は再び俺に視線をよこす。
「暇すぎてここに来てみたんだよ」
「お前を描いてもいいか」
「かく?」
「お前をモデルにして絵を描きたい」
 スケッチブックを取り出してこれに描きたいと示すと、少年はスケッチブックを見せて欲しいと右手を出してきた。俺はその手にスケッチブックをのせる。少年はページを捲って、おお、と感嘆の声をもらした。
「すごくうまいな。いいよ、暇だし」
 二人で休憩スペースに向かい、机を挟んで向かい合わせに座った。
 俺は紙に鉛筆を乗せたところで、やっと気がついた。俺は人間を描いたことがない。
 窓から見える天文台を眺める少年の横顔をなぞるように黒く線を引くが思ったように形になってくれない。
「これはこれで暇だから、喋って良いか」
 俺は頷く。
「俺、結構遠くから来たんだ」
「夏休みにこんな何もないところに遊びに来るなんて物好きだな」
「それもあるけど、墓参りだよ」
「墓参り?こんな所に知り合いがいたのか?」
「うん。家が隣同士で、よく遊んでた同い年の女の子。小学四年生くらいの時にこの町に引っ越してさ。で、去年波にさらわれて、そのままだ」
 近い歳の知り合いを失ったことがまだない俺にはその心の内を理解することは出来なかったが、少年の淡々とした言葉たちが酷く虚しく空っぽに聞こえた。俺の鉛筆の音が、俺と少年の間を忙しなく駆けている。
「…堤防に、靴が並べて置いてあったって聞いた時は、何だかもう、突然地面がなくなったような感じだったよ」
 ぽつりぽつりと少年がその少女の話をする度に、少年が待とう空気の儚さが増していく。俺が最初に感じた美しさはどうやら少女への思いから来るもののようだ。
「ごめん、初対面なのに暗い話をしたな」
「別にいい」
 むしろもう少し話していて欲しかった。少年の美しさが増していくのだ。しかし少年はそれきり少女の話はやめて、好きなものの話をし始めた。内容は、古今東西のヒーローだ。あの技がかっこいいとか、あのヒーロースーツを一度着てみたいとか、そういう。興味がない俺は適当に相槌を打つだけだったが、「こんなにちゃんと聞いてくれた人は初めてだ」と少年は喜んだ。
 それから二十分程度経った頃、なんとか見れる程度には形にしたが、それは彼ではなかった。誰だこれ、と眉をひそめていると、少年はスケッチブックを俺の手から抜き取って、そこに描かれた誰か分からない人間を見た。
「おお…人間もうまいな」
 感心したように少年は言うが、俺はそうは思えない。
「うまくない。人物の練習をするからまた描かせてくれないか」
「良いけど、ここでか?登るの大変だから次はもっと楽に行けるところが良いな」
「俺の祖母が営んでる喫茶店はどうだ?」
「おお、分かった。楽しみだな。いつにする?」
「お前が来れる日は来てほしい」
「課題は夜やるし、最終日までこの町でぼんやりしてようと思ってたから、昼間はもう毎日暇だぞ」
「じゃあ毎日」
「わかった。明日朝ご飯食べたらすぐに喫茶同前に行くよ。場所は調べとく」
「分かった。お前、この町にいる間どこで寝泊まりしてるんだ?」
「ネットカフェ」
「喫茶同前の二階に俺は住んでるんだが、俺の部屋の隣に空き部屋がある。使うか?」
「いいのか?助かる!」
「月子さん…祖母も喜ぶと思う」
「月子さんってお婆ちゃんの名前か?」
「ああ」
 そろそろ山を下りなければバスが無くなると、暑い暑いとぼやきながら二人でエアコンのきいた館内から出た。
 バスに揺られて、少年は三つ目のバス停で降りていく。
「また明日な」
 これが、奇妙な関係の始まりだった。
 次の日約束通り喫茶同前を訪れた少年は、掃除しておいた部屋のベッドに座って、にこにこと上機嫌そうだった。
「いいお婆ちゃんだな」
「…まあな」
 昨日俺が二階にこの夏休みの間人を泊めていいかと聞くと、月子さんは喜んだ。見たこともないような喜びようで、俺は頭がすり減るんじゃないかと思うくらいに撫でられた。
「正太郎がお友達を家に招くなんてねえ!泣けてきちゃった、お赤飯炊いちゃうからねえ!」
 冗談だと思っていたが、今朝の茶碗によそわれていたのは赤飯だった。一体いつ小豆を手に入れたのだろう。少年が来ると同時にクラッカーを鳴らそうとした月子さんを、俺は腕を掴んで止めた。少年はそんな俺と祖母を見ておかしそうに笑っていた。
 スケッチブックを開いて、昨日と同じように少年を白と黒の世界に落とし込んでいく。昨日来ていたものと似ている白いシャツを着て、少年は白いヘッドホンを首にかけ少量で音楽を流している。耳を澄ますと、やたらと派手な音楽が流れていた。
「この町にずっと住んでるのか?」
 体の動きを最小限にして、少年は祖母が持ってきてくれた黄色のシロップで色づけされたソーダで咽を潤している。
「ああ。生まれたときから。ほとんど外に出たことがない」
「ふうん。じゃあこの町のことは結構詳しいんだな?」
「大体は把握してる、と思う」
「じゃあさ、終わった後でどっか連れてってくれないか?どこでもいいから。帰るまでにこの町がどんな所か知っておきたいんだ」
「構わない。お前くらいの年齢の奴が楽しめそうな場所は少ないけどな」
「多分歳近いだろ俺たち。…別に、この町を感じられる場所ならどこだっていいんだ。そういう場所あるか?」
「昨日行った天文博物館、神が悪夢を封じ込めてるって伝説がある神社、海の近くにある白い廃駅、カブトガニ博物館」
「カブトガニ博物館がとんでもなく気になるな」
「今日はそこに行くか」
「うん。案内頼んだ」
 休憩を挟みつつ三時間かけて描き終えた少年は、前回に比べたらまだマシ、という出来映えだ。
「絵が下手な俺からすればすっごく上手いと思うんだけどな」
「お前はこんなのじゃない」
「それ褒めてるか?」
「これ以上無いくらいな」
「それならいいけど」
 時計を見ると、丁度午前十時だ。
「月子さん、カブトガニ博物館まで行ってきます」
 少年を連れて一階に降りると、新メニューにかき氷を入れると張り切っていた祖母は、ネットで注文したらしい大きなかき氷機をキッチンに設置している途中だった。店内には僅かな人数の客がのんびりとそれぞれの時間を過ごしている。
「そう言うと思ってね、お弁当作っといた。青があなたで黄色があの子だから」
 俺の後に続いて階段を降りてきた少年が目を輝かせた。
「ほんとですか!やった、嬉しいな」
 祖母から黄色い包みを受け取って、少年は大事そうに白いリュックにそれを入れた。
「行ってきます」
「行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい。晩ご飯までには帰ってきなさいよ。あなたもここに居る間はここで食べていきなさいね。お代はいらないから」
 少年はぱっと表情を明るくして「皿洗いはさせてください」と笑う。
 祖母は少年を気に入ったようだ。このままだと祖母と話しているだけで一日が終わりそうだと、俺は無言で少年の肩を掴んで外に押しやった。酷い暑さだった。
「バスで二駅だ」
「結構近いんだな」
 喫茶同前からいちばん近い位置にあるバス停でバスを待つ間、少年は海を眺めていた。空っぽな顔だ。少年ではない誰か別の人間と海に落ちていった少女に思いをはせているのだろう。その顔が描きたくてスケッチブックを取り出そうとしたが、丁度のタイミングでバスがやって来た。

「予想以上に楽しかったな、カブトガニ博物館」
「良かったな」
 少年は頷きながらマスコットキャラクターの小さなぬいぐるみをもちもちと揉んだ。
「あ、コンビニ寄っていいか。咽渇いた」
 少年の視線の先のコンビニに、見覚えのある顔を見つける。いつだったか、付き合っていた先輩だ。
「ここで待ってる」
「暑くないか?」
「いや、コンビニに会いたくない人が居る。ここで待たせてくれ」
「そっか。分かった、すぐ戻ってくる」
 コンビニの扉に吸い込まれていく少年の後ろ姿を見送って、空を見上げる。突き抜けるような快晴だ。蝉の声が脳を揺らして、不快だと思った。少年がいなくなるとすぐにこの町のことが俺は嫌いになる。太陽の光が目に染みて痛い。少年が持つ眩しさとはまた違った眩しさだ。少年は、太陽と言うよりは月だという気がする。
 そんなどうでもいいようなことを考えていると、どこからか、爽やかなメロディーが流れてきた。音の元を探すと、どうやらガソリンスタンドの店主が流しているラジオからの音らしかった。
 軽やかな曲だな、と耳を傾けていると、ボーカルが歌い始めた。全身が冷えた。
 姉さんの声だった。
 全身がガタガタと震え始める。夏だというのにどこもかしこも寒くて、鳥肌が立っていた。吐き気がする。めまいもする。どうしようもなくて、俺はその場に膝を折る。
 君の人生の主役は君。
 聞き覚えのある声がそう叫んでいる。
 置いてけぼりで、小学生のまま動けない俺は悲鳴を上げていた。寂しかっただけなんだ。大好きな二人で歌うあの時間が消えたことが、大好きだった姉さんに褒めてもらえなくなったことが、一生埋まらないこの距離が。
 俺は目を瞑り耳を塞いで地面に蹲ることしかできなかった。
 誰でも良いから俺を見て欲しかった。
 その時だった。
 両手が耳から剥がされて、姉さんの声が流れ込んできた。何が起きたか分からなかった。叫んでしまいたくて口を開く前に、柔らかいものが耳を覆う。
 姉さんの歌声をかき消して、聞こえてきたのは元気すぎるファンファーレだった。聞き覚えがあるそのメロディーは、少年が口ずさんでいたヒーロー番組のオープニングだと気がつく。
 困惑しながら目を開けると、少年が膝立ちをして俺を覗き込んでいた。透き通るような瞳が俺を見ている。息の仕方を思い出して、ゆっくりと、深く息を吸う。
「かっこいいだろ」
 爆音で声は聞こえなかったが、その口は確かにそう言っていた。俺は彼の手を借りて理解が追いつかないまま立ち上がる。耳に手を当てると堅い感触があった。ヘッドホンだ。
 少年は俺の手を引いて側にあった木陰のベンチに座らせる。そしてビニール袋からスポーツドリンクを取り出して俺に差し出した。受け取って、甘いそれを口に含む。さっきまでの吐き気はどこかに消えていた。
 一曲終わった頃、恐る恐るヘッドホンを外すと、もう姉さんの声は聞こえなかった。俺は呆然としながら、隣の少年を見る。
「大丈夫か?」
「…え?」
「顔びしょびしょだな。タオル持ってるか?貸そうか?」
 言われて初めて気がついた。俺は泣いていた。意識すると喉の奥がかゆくなって、ヒッ、と音を出した。
 少年に借りたタオルに顔を埋める。
 小学生の頃の俺が「あんなのでいいんだ」と馬鹿にするように笑っている。俺は「あんなのが欲しかったんだ」と笑ってそいつを蹴り飛ばした。ずっとあんな風に俺を助けてほしかったんだ。他でもない俺を見て手を差し伸べてくれる存在をきっと俺はずっと待ち望んでいた。
 少年はそれだった。
「名前、教えてくれ、お前の」
 知りたいと思った。その優しい光を放つ少年の全てを。
「そういえば下の名前言ってなかったな。創助。猫又創助だ」
 こうして、猫又創助、君は、俺のかみさまになったのだった。