桜は完全に散って、木々は緑色に町を彩っている。梅雨も終わった。生徒の制服は黒から白に変わって、この町が得意としている季節が近いことを知らせている。
 それは受験生にとっては憂鬱になる話で、カレンダーが捲られるたびに俯くクラスメートが増えていった。私も同じように俯いている。しかし受験に悩んでいるわけではない。君が誰か、それを解明することがまだ出来ていないのだ。学校の図書室で項垂れる。手がかりになりそうな情報はルーズリーフ一枚すら満たせない。
 町の外に君の存在が漏れないように情報が規制されている。その中でただの高校生である私が手に取れる情報は酷く少ない。
 町でいちばん大きい図書館で君に関する本は全て読んだが新しく知ったことは何もない。むしろ私の方がそれらの本よりも君を知っていた。
 ため息をついて、今日はこのあたりで切り上げよう、と椅子を引いて立ち上がる。
「あの…」
 今日も同前の目を盗んで君に「ツカサくんを覚えてる?」とヒーローの人形を見せなければならない。ヒーローの赤色を見る度に傷ついたような顔をする君を見るのは辛いが、君がそれを望むのだから私はそれに従う以外の選択肢を持っていない。
「あの!蜂谷先輩!」
 何だか背後が騒がしい。蜂谷先輩?蜂谷…私だ。
 振り返ると、見覚えのない少年が立っていた。制服のボタンの色がこの学校の物ではない。転校生だろうか。私の名前を知っているということは以前会ったことがあるのかもしれないが、記憶に全くなかった。
「何?」
「蜂谷先輩って、狐さんですよね?」
 時が止まったようだった。そして我に返り、ぶわりと全身から汗が噴き出す。
「何のこと」
 動揺が伝わらないように無表情を作る。
「ああやっぱり、先輩なんですね」
 少年は私の正面に座って、私を見上げる。
「狐さんが自転車に乗って制服姿で町を走ってるところを偶然見かけたんです。見覚えがあるショートヘアだなと思って。…その動揺から察するに、やっぱ先輩だったんですね」
 動揺を見破られている。この少年は一体何者なのだろう。
「先輩、すねこすりさんに関係することの前でだけ目の生気が変わるんですよ。それ以外は変わらないから見極めるのは難しいですけど、生気の無い先輩の写真を沢山持った友達に写真を見せて貰って、目の空っぽさを覚えたんです。ほら、これです」
 少年は数枚私の写真を取り出した。全て髪の長さが微妙に違う。随分長い間私は写真を撮られていたようだ。
「…私はすねこすりさんのただのファン。だから反応しただけ。別にすねこすりさんと関係があるわけじゃない。もういい?」
「待ってください、僕、狐さんに聞いて欲しいことがあって」
「だから、私はただの…」
「僕、自分なりにすねこすりさんを調べて考えたことがあるんです。その答え合わせをしたいというか。だめですか」
 どんな些細なことでも、君について新しく知ることがあるかもしれない。私はもう一度椅子に座って、少年の目を見据えた。
「狐じゃないけど、興味がある。聞かせて」
「ありがとうございます」
 少年は周囲に人が居ないことを確認して、はっきりとした声で言った。
「結論から言うと、僕はすねこすりさんが悪夢なんじゃないかと思っているんです」
「…なぜそう思うの」
「すねこすりさんが、悪夢と一緒に現れたからですよ。ヒーローが悪夢なんて変な話ですけどね。勿論根拠はそれだけではないです。中央にある神社、あそこの神様は町の住人の夢を司っているものだっていうのは知っていると思うんですけど、本当にそれだけなんです。どの資料を見てもヒーローを作れるなんて記述ありませんでした。町に放った悪夢たちとは別に、ヒーローを作ったとは考えにくいと思います。ヒーローを作って倒させるくらいならツボを割る必要なんて無いですし。重度のヒーロー好きで、町で活躍するヒーローが見たかったからという可能性も否めなくはないですけど。それに、すねこすりさんと話したとき、すねこすりになる前のことを覚えていないといっていたんです。それはやはり悪夢だからじゃないかって」
「もし悪夢なら、確かに怪我の治りの早さも頷ける…それが考えたことだね。調べたことは?」
「この三年間で、この町で行方不明者が五人出ています。会社員の山本さん、主婦の三宅さん、高校生の佐藤くん、大学生の田中さん、小学生の小林くん。この五人の共通点は全員夜にいなくなっているというところです。僕は彼らが悪夢の餌食になったのではないかと思ったんです。すねこすりさんが間に合わなかったんじゃないかと」
 私は静かに驚いた。小林くんとはツカサ少年のことだ。動揺が顔に出ないように平常心を装う。下手に反応してはいけない。狐であることを肯定しているような物だ。
「それで、僕は不思議に思ったんです。どうしてそれが噂になっていないのか。遺族の方が恨み言の一つや二つ言いそうなもんじゃないですか。例えすねこすりさんのせいでなくても」
 少年は携帯電話を取りだして、写真のアプリを開く。映し出されていたのはどこかの会社の会議室のような場所だった。そこに年齢性別様々な人が集まって、神妙な面持ちで机を囲んで椅子に座っている。
「…これは?」
「これ、遺族の方々です。すねこすりさんを愛する団体に与えられた部屋らしいですね。家族を悪夢に食われたり殺されたりした彼らは、すねこすりさんを恨むこと、すねこすりさん本人に恨み言を言わないこと、この集まりの外では絶対に失った家族の行方を言わないことを約束させられているそうで、遺族同士で悲しみを分かち合っているらしいんです」
「どこでこんな情報を?」
「これですよ」
 少年は鞄の中から狼のお面を取り出して見せた。
「これ、駄菓子屋の奥の方に落ちてたので買ったんです。狼もあの駄菓子屋で買ったんじゃないかな」
「…狼の面…」
「狼をご存じですか」
「知ってる。すねこすりさんを回収する人でしょう?」
「そうです。これを被っていろんな所を歩きました。商店街を歩いていたとき、数人に話しかけられたんです。自ら来てくださるのは久々ですね、すねこすりさんに何かあったんですか?って。彼らがすねこすりさんを守っている団体だと気がついて、適当に話を合わせて、俺は狼と偽って彼らが出てきた建物に踏み込みました。そこで見た物が、さっき言ったとおりです」
「その団体のこと、詳しく」
「最初はただのファンの集まりだったらしいんですけど、どんどん親衛隊みたいになっていった集団ですね。いつからかは明確ではないですけど、狼とも関わりがあるみたいです。すねこすりさんはその存在を知らないみたいですが」
 君はその集団を知らないのではない。会ったことはあるが忘れているのだ。
「…そう。それで、君が踏み込んだその建物はどこにあるの?」
「商店街の隅に映画のパンフレット屋があるんですけど、その二階でした。重苦しい空間でしたよ。…ああ、チャイム鳴っちゃいましたね。付き合わせてしまってすみませんでした」
「私が狐」
「え?あ、ああ!やっぱり!絶対に他言しませんから安心してください。それで、僕の考えは当たってました?」
「分からない。今、その答えを探していたの。すねこすりさんは自分が何者かを知りたがってる。是非君に手伝って欲しい」
 少年は何度も頷いた。
 その日から私は少年と行動することが増えた。志望校の情報を集めたいと偽って学校のパソコン教室を借り、この町で起こったことを一つ一つ拾い上げていった。事件やイベント事、とにかく君に関係なさそうな物でも取り上げた。月曜日から木曜日までそれを繰り返して、今日、金曜日に最終下校時刻になる前にそれらを取捨選択した。そのほとんどが「捨」の方に入れられていったが「取」の方に残った事件が一つだけあった。
「これ、この事件、すねこすりさんが現れた日の前日ですよ」
「本当だ」
「関係ありそうですか?」
「…うん」
 事件の記事にざっと目を通すと、「猫又創助」という名前が記されているのを見つけた。君の正体を知らない少年は「そうなんですね。じゃあこの事件を掘り下げていきましょう」と腕まくりをした。そろそろだ、君の真相に着々と近づけている。
 君に「もう悪夢が出る時間が近いから、今日も行けない」とメールを送って、コンビニで夕飯を買って家に帰るという生活は一週間もなかったがしんどいものだった。メールも最初は返事があったが、数日前から何もメールが来なくなってしまったことを寂しく思っていた。それがやっと終わりそうなのだ。
「記事、プリントしてみました」
「ありがとう」
 最終下刻のチャイムが鳴る。
「この記事と、君の説を合わせると、筋が合う気がするんだ。一つ分からないことは出てきたけど」
「聞いても良いですか?」
「帰りながらで良いかな」
「はい」
 すっかり暗くなった町を自転車を押しながら歩く。少年は私の話を静かに聞いていた。
「…それを聞いたら、すねこすりさんは悲しむと思います」
「私もそう思う。でも私は頼みを無視なんて出来ない」
「そうですか」
 少年とコンビニの前で分かれて、私は適当に菓子パンを一つ買って帰った。
 明日の準備をして、課題を終わらせ、寝る支度をして、すぐに布団に潜り込んだ。
 その日私は声を出さずに泣いた。
 3年前の夏、この町で殺人事件が起こった。犯人は大学生の青年、幼い子供を数人殺した。子供を選ぶ基準は年齢で、ひとり殺すごとに狙う年齢を下げていった。
 犯人が最後に殺したのは中学生の少年だった。犯人は、自分の美学が崩れてしまったことに発狂し自殺した。それがこの事件の結末で、彼が手にかけた最後の少年の名前は、猫又創助、だった。


 次の日、私は喫茶同前の扉の前に立ち竦んでいた。鍵がかかっていたのだ。君の手を煩わせることはしたくない私は、その場で開店時刻まで待った。
 しばらくして、鈴の音を鳴らしながら扉が開いた。一週間弱ぶりの君は相変わらず綺麗で、でもそれが今は悲しかった。
「お客さんか?いらっしゃい、もう少し待っててな」
 君はにこにこと笑って、店内に戻っていこうとする。
「猫又くん…?」
「ん?俺のこと知ってるのか?」
 冗談を言っているようには見えない。驚きすぎて声も出せずにいると、店主である月子さんがやって来た。
「あれ、蜂谷ちゃん。久しぶりね、もう来てくれないのかと思って寂しかったの」
 月子さんは優しく笑って店内に入っていく。君はそんな彼女を見て納得したように笑った。
「ああ、月子さんの知り合いか。こんにちは、モーニングプレートならすぐに出来るぞ」
 私は頭を振って、鞄に入れていたヒーローの人形を見せた。君は首を傾げるだけだった。君は私を忘れてしまっている。君は辛いことを眠ると忘れてしまうのだと言っていた。そしてそれらは私がいると軽減されるのだと。君は眠って、辛いことを呼び覚ます私ごと忘れてしまったのだ。
 メールが帰ってこなかったのは、恐らく君が私を忘れ始めた頃同前が私からのメールを受け取れないよう設定したのだろう。思い出してもらわなければ。でもどうやって?店に入ることが出来ないでいる私を不思議そうに見ていた君の背後から、月子さんの声が飛んできた。
「グラニュー糖がきれちゃった。創助くん、買ってきて」
「はーい」
 君はエプロンを外して、すたすたと近くのコンビニへ歩いて行く。私は考えた。コンビニに行くまでに君は堤防の側を通るつもりらしい。それならば。
 私は走って、君を追い越し、そのまま堤防に登り、服のまま海に落ちた。出来るだけ暴れて、君に気づいて貰えるように。
「何してるんだ?!」
 君はすぐに気がついて、あの日と同じように私を引き上げる。そして堤防に荒い息を吐きながら座り込み、私を見た。その目が見る見るうちに大きく開いていく。
「蜂…谷?」
「うん。猫又くん。久しぶり」
「お、俺なんで忘れて…」
「それは今は置いといて、落ち着いて、聞いてね」
 君の頬を両手で挟んで、私の目がしっかりと見えるように固定する。今から言うことは本当なのだと伝えるために。
 全て聞き終えた後の君は、ひたすらに困惑したような顔をしていた。私はあの日と同じ場所に並んで座って、場違いなほどの晴天を見上げる。
「し、信じられない、俺が、悪夢?」
「神様がどうして君を悪夢にしてまでこの世に繋ぎ止めておきたかったのか私には分からないけど、それ以外は恐らく正解だと思う」
「そんな…」
 私は携帯電話を濡れた手で取りだして、写真フォルダを見せた。写っているのは全て君だ。何度見返したか分からないのにどうして私は違和感に気がつかなかったのだろう。
「変わってない…」
「そうだよ。ずっと、髪の長さが変わってないんだ。君、髪を切った記憶ある?」
 君は絶句した。
 二人手を繋いで喫茶同前へと帰る。裏の階段から直接二階へ上がって、辺りが濡れるのもお構いなしに同前の部屋に入った。中は真っ白で、君の部屋とは真逆だった。壁には星の写真が飾られている。
 本棚にスケッチブックが並んでいた。いちばん端のものを取り出し、数枚ぱらぱらと捲って、君に差し出した。
「君、ヒーローは最近見始めたって言ってたよね」
「ああ」
「これ、三年前の日付だよ」
 そこにはヒーローの人形を持って楽しそうに笑う君がいた。
「俺じゃない…」
 背後の扉が開く。
 冷たい光を放つ瞳を長い前髪から覗かせて、同前正太郎がそこに立っていた。