楽しかった土曜日を越えてしまった日曜日。いつものように朝を迎えて、私は平日と同じ時間に喫茶同前の扉を開く。今日も午前中はテストだ。
「おはよう」
 店内は静かだ。カウンター席に同前はいないし、いつもふわりと香るコーヒーの匂いも、穏やかなBGMもない。
 こんな日は初めてじゃない。記憶が正しければ今回で4回目だが、この全身の血の気が引いていくような無音には慣れそうにない。
 君の太陽のような眩しさがどこにも見当たらない店内で、私は学校に「体調が悪いので休む」と連絡を入れた。私は学校で真面目な部類に入るため、仮病を疑われることもなくすんなりと了承された。
 しばらくして、二階から重い足音が下りてくる。同前はキッチンの奥からするりと出てくると、私を一瞥して、黒い袋を投げて寄越した。中には狐面が入っている。
「猫又が帰ってこない」
 狼の面を被りながら、彼が言う。制服は着ていない。学校に連絡を入れた後なのだろう。
「携帯電話は」
 返すと、頭を振る。
「繋がらない。壊れてるか、電源を入れてないかだ」
「手分けしよう」
「蜂谷は海沿いを頼む」
「分かった」
 短い会話を終わらせて、狼と狐は店を飛び出す。私は彼に言われたとおり曇り空の下、海沿いを自転車で走る。朝の町は静かだ。君の声が聞こえないかと耳を澄ますが、聞こえてくるのは波の音だけだった。
 花開いたばかりの桜が風に吹かれて雨のように散っている。君と1年前に出会ったのもこんなふうにどんよりとした春だったことを思い出し、唇を強く噛んだ。
 自転車を路肩に停めて、堤防に登り、辺りを見渡すが、特に変わった様子はない。携帯電話の画面は暗く、同前からの連絡も君からの連絡もまだない。私は再び自転車に乗って、堤防の終わりを目指した。堤防の終わりには白く塗られた駅がある。もう使われていないそれは、普段は近所の子どもたちの遊び場になっているが、早朝である今は誰もいなかった。
 海沿いには居ないと判断し、私は来た道を戻ろうとペダルに足をかけた。
「ヒュ、ゔっ、ゲホッ、おぇっ…」
 微かに、誰かのうめき声と咳が聞こえた。声は駅の中からしている。私は慌てて自転車をその場に倒して、駅のホームへと駆け込んだ。
 広くはないホームの白いベンチに、君はぐったりと横たわっていた。全身ずぶ濡れで、黒い服を着ているので分かりにくいがその腹からはだくだくと血が流れている。
「猫又くん」
 呼びかけると、君は弱々しい瞳で私を見上げた。
「は…ぁ、」
 私の名前すら呼べずに君は腹を抑えて悶絶する。正体を隠している君に救急車は呼べないし、私では君を運べない。持ち上げることはきっとできるが、安定しないだろう。私は君のすぐ側に座って、同前に君を見つけたとメールを送る。こういう時の私の役目は、君を見つけたら同然に報告するというものだ。それ以外に、何もできない。
 すぐにこちらに向かうと返事が返ってきて、私は君に着ていたパーカーを布団のようにそっとかけた。ないよりはマシなはずだ。
 君は時々、こんな風に大怪我を負って自力では帰って来られない時がある。外での浅い眠りでは完治できない深すぎる傷を君が負ってしまったとき、私と同前は君を探しに行く。放っておいても君が死ぬことはまずないが、喫茶同前の裏で道端で血を流して意識を失っている君を大型の野良犬が囲っていたところを見た日からずっとそうしているのだと彼は言っていた。
 同前がこちらに向かっていることを君に伝えると、君はその瞳に安堵の色を浮かべる。苦しそうに短く息をしながら、君は目を閉じる。しかしすぐに呻きながら目を開いて、私に縋るような目を向けた。
「…眠れないの?」
 聞くと、君は頷く。眠ろうとする度に痛みに目を覚ましてしまうようだ。君が目の前で苦しんでいるのに何もできない自分に嫌気がさす。
「いたい…」
 君は腹の傷を抑えながらとうとう泣き出してしまった。こんな風に泣いている君を見るのは初めてで、私はいよいよパニックになってその場に固まってしまった。死なないと知っているのに、いや、正しく言えば死んでもすぐに息を吹き返すと知っているのに、何度もその瞬間を見てきたのに、君が死んでしまうと思った。君の死体を初めて見た時もその日は何も口にできなかったほど衝撃的だったが、死にゆく君を見るのはそれ以上に恐ろしい。一年前に出会った私は君の死顔を三回見ている。三回とも、同前が見つけて君の部屋に運ばれた後の君だった。血がついても目立たないようにと黒で染められた部屋のベッドに沈んだ君は異常に白くて、何か別の世界のものに見えた。しかし今死にかけている君はどうしたって生きている君で、息が上がっていく。体が震えて、意思とは関係なく涙が目に溜まっていく。
「…蜂谷」
 蚊の鳴くような声だ。私ははっとして、君の傷から君の顔に視線を移す。君が感じている恐怖はきっと私の比ではない。
「ごめん…」
 泣かないでほしい。時間をかけてそう言って、君は涙を目から垂れ流したまま私を安心させるように微笑む。腹に添えられたその他は傍目から見てもわかるほど震えているのに、君は。
 君の体が体温を失っていく。息も弱くなって、目は虚に揺れた。死に向かっている君に、私はどうしたらいいのか分からず、ただずっと手を握っていた。この震えはどちらのものだろう。君の恐怖を少しでも和らげるために何をしたらいいだろう。
 私の長くはない人生の中でいちばん、他人にされて安心したこと。一つだけ思い当たって、私は君に同じことをしようと右手だけ君の手から抜き取る。そしてその海水に濡れた栗色に乗せて、ゆっくりと撫でた。君の口角が少しだけ上がる。
「猫又くん」
 思わず呼びかけたが、君の呼吸はそこで止まった。
「運ぶ」
 だからそこを退けと無愛想な声が私の頬を叩いて現実に引き戻すように飛んできた。見上げると、狼の面が私を見下ろしていた。手には雑巾が握られている。いつの間にこんなに近くにいたのだろう。君に意識を向けすぎて全く気づかなかった。
「掃除頼む」
 彼はそれだけ言うと、君を背負ってゆっくりと歩き始めた。私はそれを見送って、ベンチの血を彼から受け取った雑巾で拭いた。ベンチの裏にも血がついているかを確認しようと覗き込むと、ベンチの下に何か白いものが落ちていることに気がついた。
 赤いヒーローの人形だ。幼い子供が遊んでも危なくないような柔らかい素材で作られたそれは、人目から逃げるようにベンチの影に隠れていた。
 私はそれを掴んだが、つるりと地面に落としてしまった。驚いて手を見ると、べっとりと赤色に染められていた。雑巾を手にかぶせてもう一度それを掴んでベンチの下から取り出すと、それは太陽の光を浴びてつやつやと光った。この人形は君が持っていたのだろうか。あとで、聞いてみよう。私はそれを雑巾に丁寧に包んで立ち上がり、君の眠る喫茶同前へと自転車を走らせた。

 店の裏に回って、階段を登って君の部屋へと急ぐ。
 部屋の扉を開くと、鉄の匂いが廊下に溢れた。素早く部屋に入り扉を閉めると、より一層その匂いは強くなる。
 足元でカサカサ、と乾いた音がする。血で汚れた際に掃除しやすいからという理由で君の部屋には白いビニールシート敷かれている。机も椅子も使うとき以外は透明なシートに覆われていて、とても人が住んでいるとは思えないような部屋だ。
 私は音をなるべく立てないように歩きながら、部屋の隅に設置されたベッドの、黒いマットレスに寝かされた君に近づいた。ベッドの脇では同前が体育座りをしている。
「息は」
「…まだ無い」
 そこに眠っているのは君の抜け殻だ。君の死体を目の当たりにするたびに、このとき君はどこに行っているのだろうと考える。一度聞いたことがあるが、そのときは「何にもないよ、寝てるのと同じ」と返された。
 もしかすると、真っ暗な宇宙にでも放り投げられているのではないか、と思う。体から抜け出さなければいけないほどに弱った「君」は、太陽の光を浴びて、「君」を修復させて戻ってくるのではないかと。
 君が死んでいる。今、私の目の前で。
 同前はゆっくりと立ち上がり、君の服を少しだけ引っ張って、腹を外気にさらした。痛々しい穴があるが、血は止まっていた。
 彼はゆっくりと君を抱きしめた。この光景も何度か見たことがある。息をしていない君に縋るような彼のその行動の理由を聞いたことはないが、彼にとって大切なことなのだと思う。いつもの暗くて重い空気を、彼は今だけ持っていない。君が死んでいる間だけ、彼は同い年の少年に見えた。
 数分後、彼はパッと体を離して、何事もなかったかのようにまた同じ場所で体育座りをする。君の腹のあたりから、湿った肉が床を這っているような、ズルズルという音が聞こえ始めた。君の体が元どおりになっていく音だ。私は安堵して、床に飛び散った血をベッドのすぐそばに沢山積まれた雑巾で拭いた。同前も同じようにビニールシートの床を擦る。
「猫又くんの目が覚めたら、まずは朝ご飯かな。作れないから、買ってこないと」
「昨日の残りがあったから、それでいいだろ」
「…猫又くんは、必ず目を覚ますんだよね」
「でないと困る」
 不安を紛らわすために、彼に向かって頭に浮かんだ言葉をすぐに口に出した。彼は短く、しかしちゃんと応えてくれる。彼は君が死んでいる時だけ私に同情の目を向ける。何かを懐かしんでいるようにも見えるその目に写っているのは、もしかすると、私が居なかった頃、君の死体を1人きりで見ていた彼自身なのかもしれない。
「く、ぅ、ふはっ」
 君が一度大きく跳ねた。
 彼は雑巾を放り投げて、君の顔を覗き込む。君はそんな彼を落ち着かせるように頭を軽く叩いて、ゆっくりと起き上がった
「気分はどうだ」
「ん?んー…微妙。中の方がまだ治ってない気もする」
「まだ寝てろ」
「いや朝ごはん…」
「勝手に食うから気にするな」
「そうか?じゃあもう一眠り…あ、蜂谷」
 君は寝ぼけたような瞳を部屋に漂わせ、私をそこに写すと、にこりと微笑んだ。
「蜂谷おはよう!って、2人とも、今日もテストって言ってなかったか?学校に行かずに俺のこと探しに来てくれたのか。ごめん…」
「気にしないで。明日放課後に受けることもできるから」
「月子さんに、具合が悪そうだから今日のバイトは休みにしてやってくれって頼んでおいた」
「うう…ありがとう」
 君は腹に手を滑らせて、表面は治ったなと呟く。
「今回の悪夢はどんなやつだったの?」
 聞くと、君の動きが止まった。
「えーと……。あれ?思い出せないな」
 不思議そうに首を傾げて、私の目を見る。そして、みるみるうちに目を見開いて、一気に顔の色を青く染め、絶望的な表情をした。
「あ………」
 君は自身の口元を抑える。ガタガタと震え始め、目に薄い涙の膜が張っていく。
「どうしたんだ」
「傷が痛む?もう一度眠ろう」
 君を横たわらせようと肩を掴むと、君は私の腕をとって、強く握った。引きちぎれそうに痛かったが気にしていられない。
「猫又くん、」
「う、うわあ、あああああ、あああああああ!」
 私の腕を放して、ベッドにうつ伏せになり、君は突然叫んだ。
「ね、猫又くん?」
「大事なことを忘れてる!大事なことを忘れたんだ俺は!最低だ!忘れてる!何もないんだ」
 大粒の涙が君の頬を濡らしていく。いったいどうしたのだろう、私はただ君の背中に手を当てることしかできない。
「教えてくれ、今お前に何が起こってる?」
 同前に肩を掴まれびくりと飛び跳ねた君は、泣きじゃくりながら首を振った。
「わからない、けど、絶対に忘れちゃいけないことを俺は忘れてるみたいなんだ」
 彼は慌てることなく「そうか」と頷くと、私に顔を向け、扉に向かって指を指した。
「今はそっとしておいた方がいい。明日には元に戻る。だから今日はもう帰れ。明日まで来るな。わかったな」
 彼の言葉に切実さを感じ、私は何が何だかわからないままで頷き部屋の外に出た。部屋の中から、再び叫び声がして、ドタドタと暴れるような音がした。パニックを起こしているのだろうか。
「…帰ろう」
 私より2年多く君と一緒にいる彼の言うことはきっと正しいだろう。彼が帰れ、とはっきりと言うのだから、私にできることは無いのだ。
 自転車を力なくこいで、どこか重力のない気分のまま家の扉の前まできて、私は鞄に入れておいた血塗れの人形を思い出す。明日、渡そう。

 次の日、月曜日。君はいつもと変わらない様子でキッチンに立っていた。
「おはよう、蜂谷!」
「おはよう。大丈夫だった?」
「傷か?治ったぞ」
「それはよかった。あとそれと…」
「目玉焼きもう少しで焼けるから、ちょっと待っててくれ」
 勿論怪我の具合も気になっていたが、そうではなくて。君の心の話だ。そう言い直そうとすると、しぃ。空気が漏れるような音。君は付かずに目玉焼きの出来を確かめている。
 スケッチブックの上を滑る鉛筆の音が消えていた。見ると、彼が口に人差し指を当てている。その話題には触れるな、ということだろうか。納得できないが、仕方が無い。私は黙っていつも通りの席に座る。
 彼は再びスケッチブックに向き直る。今日描かれているのは君の後ろ姿だ。
「その話は、もう無しだ」
「どうして?」
「辛いことは思い出したくないだろ」
 なんだか彼に似合わない言葉だなと思いながら、それもそうかと口を閉ざす。
 君が完成させたプレートの上からキャラメル色に焼けたトーストを手に取り齧ると、さくっと心地よい音がした。美味しい。
「正太郎!ほんと早死するぞお前!」
「その時は看取ってくれ」
「まずそのシュガースティック握った手をおろせ。あーあー…それもう紅茶じゃなくて砂糖水だろ」
 隣が騒がしくなる。彼がまた常軌を逸したシュガースティックの使い方をしているようだ。
 そこで、私は鞄の中のタオルの存在を思い出す。ヒーローの人形が包まれているものだ。自分が死んだことなど思い出したくはないだろう。しかしもしこれが大切なものだったら君が困るかもしれない。君がため息を付きながら食事に向き直ったタイミングで私はそれを取り出して、君に差し出す。拾ったその日に洗った。血慣れではない。
「落ちてた。君の?」
 君はぱちくりとそれを見た後で、「あ」と声をもらす。心当たりがありそうだ。君の?と聞こうと前を向くと、君の様子がおかしいことに気づく。
 真っ青だ。小さく震え始め、春の終わりだというのに真冬のような顔をしている。
 君は人形を掴むと、椅子からガタッと乱暴に立ち上がって扉へと駆け出した。
「猫又くん?」
「ツ、ツカサが、ツカサが!!」
 叫んで、君は出て行ってしまった。
 同然は無言で立ち上がりその後に続く。呆気にとられていた私は、扉が閉まりきってから2人の後を追い始める。外に出ると、君と同前の姿はなかった。君はツカサが!と叫んでいたのだから、きっとツカサ少年の家に向かったはずだ。私は自転車に跨る。
 息を弾ませながらツカサ少年の家の前に到着した私は、路肩に停められている同前の自転車を見つけた。家の庭の方から声がする。私は足音を立てないように慎重に庭へとまわる。
 昨日君と来たそこには、すねこすりさんの姿の君と狼の面を被った彼、それから知らない大人が2人いた。夫婦なのだろう。2人は、君を責めるように声を荒げていた。
「役立たず」
「どうして間に合わなかった」
「お前がもっと早く来ればツカサは!」
 恨みの込もった瞳が君を貫くように鋭く光っている。君はヒーロースーツ越しでもわかるほど震えている。隣で、狼はどこかに連絡をとっていた。
 君に向ってなんて口を聞いているんだと飛び出しそうになったが、今私は狐の面を持っていない。すねこすりである君の側にはあれがないといけないという約束を破るわけにはいかず、私は歯軋りをして怒りをやり過ごす。
 しばらくその状態が続いたが、二台の車の音でその言葉たちは遮られた。家の前に停まったその車からはスーツを着た大人が五人出てきて、君のいる庭へと足を向ける。私は慌てて物陰に隠れようとしたが見つかってしまった。せめて、と顔を隠す。この人たちは一体何だ。彼が呼んだのだろうか。
「君、どうしてこんな所にいるんだ」
 うち1人の女性に問われて、何と答えていいかわからず、私は小さく返事をする。
「狐です」
 すると彼女はああ、と納得したように頷く。
「狐さんでしたか。では我々は今からすねこすりさんの保護を行いますので」
「保護?」
「ご存知ありませんか?」
 女性以外のスーツの大人たちが、ツカサ少年の両親らしき二人を君から引き剥がし、車へと連れて行く。女性はそれを見ると私に頭を下げ、車へと向かって行った。嫌がる二人を押し込んで、車はどこかへ走り去る。
「あ、あの人たち誰だよ!」
 君が叫ぶ。
「この町の、お前を守る会みたいな物だ」
「守る…?」
「テレビや新聞にお前が出ないのは、あの人たちが止めてるからだ。二人を連れて行ったのは、的外れなお前への恨みをリークしないように釘を刺しておくためだよ。ファンクラブみたいなもんだと思えばいい」
「何だよそれ…初めて聞いたぞ」
「言ったことないからな。…帰ろう、創助」
 彼が面を外しながら言う。
「俺…俺は…」
 すねこすりさんのメットを外した君の顔はぐしゃぐしゃに濡れていた。嗚咽を漏らし、私に縋るような目を向ける。
「思い出した、俺、夜中にツカサに呼ばれてここに来たんだ。そしたら、ツカサ、悪夢に半分食われてて、それで……」
 ツカサが暴れてた。泣き喚いて、俺に助けを求めてた。悪夢は大きな口の黒い鬼みたいだった。家と同じくらいの大きさで、ツカサの部屋の窓を破壊して、ツカサを取り出して食べてたんだ。この悪夢は僕の夢から出てきたんだって、叫んでた。あちこちから血が出てた。
「動揺しすぎて着地に失敗した。そうしたら後ろから地面に押し付けるみたいに俺の腹を鋭い爪で刺してきたんだ。抵抗したけど、抜けなかった。ヒーローの人形が落ちてたから痛みを耐えるために握りしめてたんだ。血が出過ぎてフラフラした。そのあと何回か刺されて、意識がぼんやりしてきて。目を閉じる前に、見たんだ。悪夢がツカサを飲み込むところ。その後で悪夢が消えたんだ。悪夢は悪夢を見た人が生き絶えた時に連動して消えるんだってそこで気づいて、絶望した。でも助けてって声と悪夢の声が町からするからそこに留まっておくわけにもいかなくて。人形だけ持ってその場を離れた」
 激痛と絶望に震える体を抑えて、君は悪夢を倒し続けた。
「何体か倒した後で、現実についていけてなかった感情が追いついてきてさ、もうどうしたらいいか分からなくなって、泣きながら町を歩いたんだ。涙が拭けなくて前が見えなかったからメットを外したらタイミング悪く別の悪夢が出てきて、海に突き落とされた。何とか這い出てそいつを倒して、駅のホームで横になって」
 そこからは、二人が知ってる通りで…と、君は彼の肩を掴んで涙を流したまま弱々しい声を出す。
「…なんで俺、いまの今までこんな大切なこと忘れてたんだ…?」
「…帰るぞ」
「でも…」
「死んだ人間は戻ってこない。悩んでいても仕方がない。それにどう考えたって食った悪夢の方が悪いんだ、お前は気にしなくていい」
 彼の言葉にショックを受けた顔をしたが、君は表情に暗い影を落として「…帰る」と項垂れた。
 帰りは、君のとぼとぼとした歩みに合わせて自転車を押して帰った。君は時折何かを耐えるように黒いシャツの裾を握りしめていたが何と声をかけるべきか分からず、私は無言でいることしかできなかった。
「どうして忘れてたんだろう…今朝は本当に何にも覚えてなかったんだ…」
 すっかり覚めてしまった朝食に手をつけず、君はカウンター席に伏している。彼は何も言わない。ただ黙々と、冷めたパンを齧っていた。私は君に作ってもらった食事を残すなんて勿体無いことはできないが、傷心している君の隣で食事に手をつけていいものかと悩んだ。悩んで、私はフォークを手に取った。冷めた卵焼きを咀嚼して飲み込む。今日はなぜだか味がしなかった。
 時刻を見ると、もう8時半をすぎている。学校から家に電話が来る前に連絡を入れると、担任が心配そうに体調を気遣ってくれた。大丈夫だと伝えて電話を切ると、君は伏せたままで「ごめん…」と謝った。
 しばらく無言が続いた。いつも会話の中心である君が口を閉ざすと必然的に私たちは沈黙を作ってしまうが、こんなに重苦しいそれは初めてだ。私は空になったプレートをキッチンに運び、洗剤とスポンジを借りて洗った。
「あ…、呼ばれた」
 君は力なく立ち上がって、ふらふらと再び扉に手をかける。
「たまには、行かなくてもいいんじゃないかな」
 言うと、君は首を僅かに振る。
「いや、もしかしたら俺が見逃した悪夢に襲われてるのかもしれないし…、俺を呼ぶってことは大なり小なり困ってるんだ。放っておけない」
「猫又くん」
「行ってきます」
 君が行ってしまった後で、彼が君の朝食にラップをかけた。
「もう二度とツカサの話はするな。いいか」
 抑揚のない声だ。
「…分かった」
 同前は赤いヒーローの人形の腕を弄って、飽きたように置き、キッチンから黒い袋を取り出してきてそれを中に入れた。そして、それをゴミ箱に落とす。
「何してるの」
「こんな物あったって、あいつが辛いだけだろ」
 もう要はないとばかりに彼は二階へ上がっていく。私はゴミ箱から袋を取り出して開けて、ヒーローの人形を救出する。中にゴミ箱に元々入っていた野菜の包装を入れて中身があるような外見にしてから、私は黒い袋をゴミ箱に落とした。君が捨てていいと言っていないのにツカサ少年の物だったこれを捨てるのはどうかと思ったのだ。勿論、もう突然渡すことなどしない。君がこの人形を探していたら差し出せるように、私が持っておく。君が守ったこの町が、今日はやけに冷たく見えた。

 月曜日の放課後。今日は喫茶同前が営業中のため君は昼に屋上に来ない日だ。居残りで同前と試験を受けて、教師に解答用紙が回収されたところで、私の携帯電話が鳴った。同前はさっさと居なくなり私だけの空き教室でそれを鞄から取り出すと、君の名前が浮かび上がっている。通話をタップして耳に当てると、心地良い、しかし切羽詰まった声が飛び出してきた。
「蜂谷、今どこにいる?」
「まだ学校だよ」
「屋上に行ってくれないか?頼む…」
 声が震えている。私は「すぐに行く」とカメラを持った少女の横を通り抜ける。「走るなよー」と副担任の気の抜けた声が聞こえたが、聞こえないふりをしてそのまま屋上へと走った。
 いつも昼にしているように扉を開くと、そこにはメットを被っていない君がいた。座り込んで、自分の体を温めるように抱えている。
「蜂谷、蜂谷」
「ここにいるよ、落ち着いて、息を吸って」
 君は深呼吸をして、私の目を見た。そんな場合ではないのに、ああ綺麗だな、と思った。
「今朝は気のせいだと思って言わなかったんだけど、俺、眠ると辛いことを忘れるみたいなんだ。眠って起きたらあんなにあった喪失感がどこにもなくて。本当に何も無いんだ。悲しくない。涙が出ない。それが怖い。俺、どうしちゃったんだろう。このまま何度も寝てたらいつかツカサが俺の中から居なくなるかもしれない。怖い、怖いんだ」
 いつもの頼れるヒーローの顔は形を潜めて、そこにあるのは恐怖に歪んだ少年の顔だった。私は正面に座って、大丈夫?と聞く。あんまり大丈夫じゃない、と返された。
「蜂谷、お願いがあるんだ。…お前は出会ったあの日から俺の言うことを全部聞いてしまうって知ってる上でお願いなんてするのは最低だと思うんだけど、これだけは頼まれて欲しい」
「君のためにこの命は使うって決めてるの。だから何でも言ってよ、死んでもやり遂げるから」
「いや、命に関わる事は普通に断ってくれ。じゃなくて。ええと、俺が忘れたくないこと、覚えてて欲しいんだ」
「分かった」
「もしかしたら、俺が忘れてるだけで、俺が助けられなかった人って他にも居るのかもしれないと思うと…。どうして俺は今まで自分の記憶がおかしいことに気づかなかったんだ…?」
「同前くんが、君からその辛い記憶に関係あるものを遠ざけたんだよ。きっと」
「正太郎が?」
「君が辛い思いをしないようにってヒーローの人形を捨ててたよ。私が回収したけど」
「ってことは、正太郎は知ってるってことか?」
「そうなるね」
「携帯電話は正太郎に毎日見られてるからメールはよくないかもしれないな。紙も見つかると捨てられるかもしれない」
「構わないけど、君、携帯電話毎日見られてるの?」
「うん。あれ?言われてみれば、何だかおかしいな。メールと電話くらいしかできないように設定されてるし、登録してる電話番号なんて月子さんと正太郎と蜂谷くらいなのに」
「…同前くんは何をそんなに恐れていて、何を知ってるんだろう」
「…蜂谷、もう一つ頼まれてくれないか?」
「もちろん。何?」
「俺が誰なのか、何なのか、調べてほしい。俺はきっと正太郎に阻止されるから」
「わかった。でも、どう調べたらいいかわからないから時間がかかるかもしれない。それでもいい?」
「ああ。…ありがとう、ごめん」
 君は柔らかく微笑む。久々に見た、安堵の表情だ。何が何でも役に立とうと心に決めてその顔をまぶたに焼き付けていると、君は俯く。
「…蜂谷と出会った日から、何だかおかしいんだ」
「おかしい?」
「うん。今まで自分がどこから来たかとか、なんですねこすりになれるのかとか、そもそもすねこすりって何だとか考えたこともなかったんだけど、蜂谷といると時々思うことがあるんだ。それも眠て朝蜂谷と会うまで消えてるんだけどな。あとは、悪夢が怖いと思うことが増えた。今まで何とも思わなかったのに、見た目は凶悪だし、攻撃は痛いし、死にたくないし…いや、蜂谷と出会った日からおかしくなったんじゃなくて、出会う前がおかしかったんだな」
「それは、君にとって良い変化?」
「正直、わからない」
「そう」
 君が苦しむ記憶を、私はなぜだか思い出させることができるらしい。君がそれで辛いと言えばすぐにでも君から距離を取ろうと考えながら、私は君の隣に移動して、空を見上げた。雨雲がもうすぐそこまで迫ってきている。
「君に優しい世界ならいいのに」
 呟いて、私は君と出会ったあの日のことを、繰り返し繰り返し思い出していた。