良太は予定よりも早く吉祥寺駅に着いたが、改札口には千鶴と忠之の姿があった。
「士官になって何ヵ月も経っているのに、外泊許可は今日が初めてだな」
「おかげで今日はゆっくりできるんだが、お前は工場を休めるのか」
「今日は休める。今月に入って一度も休んでいないからな」
「それはよかった。お前とも久しぶりにゆっくり話せるな」
「残念だけど、俺は夕方から工場に行かなければならないんだよ。そういう仕事もあるんでな」と忠之が言った。「今夜は夜勤で帰れないけど、遠慮しないで泊まってくれないかな、うまいものを食わせてもらえるはずだから」
 良太は期待した。今夜は千鶴と過ごせそうだ。千鶴に顔をむけると、千鶴は無言のままにほほ笑みを返した。
「それで、お前はいつ帰るんだ、下宿には」
「明日の朝だ。7時頃には帰れると思う」と忠之が言った。
 忠之の下宿につくと、まもなくお茶が運ばれた。
「楽しみにしてろよ」と忠之が言った。「うまい昼飯がでるからな」
 忠之が予告していたように、早めに出された昼食は時勢を思えば豪華であった。
 午後のひとときを、3人は畑道での散策に過ごした。畑のかなたに雑木林が見え、遠くには大きな樹木の森が見られた。家々の庭では木々が葉をひろげて、季節の色に輝いていた。談笑しながら歩いていると、鎌倉を訪ねた日が思い出された。ともすれば感傷的になりがちな気持を、良太は意識して抑えた。
 4時を過ぎた頃、忠之は夜勤のために出かけて行った。
 忠之にすすめられるまま、良太は忠之の下宿に泊まることにした。千鶴と一夜を共にするからには、そのことを千鶴の家族に知らせなければならない。そのための電報をうつために、良太は千鶴とつれだって郵便局に向かった。
 郵便局からの帰りは大きく回り道をして、せまい畑道をそぞろ歩いた。春の日が暮れようとしており、数羽の鳥がかなたの森をめざしていた。
「あした帰る心配するな、という電報を見て、お母さんはずいぶん心配するだろうな。千鶴がどこで何をしているのか判らないんだからな」と良太は言った。
「大丈夫、お母さんにはじょうずに話すから」
 良太は千鶴の横顔を見た。夕日に照らされた横顔を見ていると、千鶴が良太に笑顔をむけた。くったくのないその笑顔を見て、一瞬、良太は悲しくなった。明日になれば俺たちは別れる。それから先の俺たちは二度と会うことがないのに、千鶴はそのことを知らずにほほ笑んでいる。千鶴は今夜のことを、母親にはどのように報告するつもりだろうか。俺が特攻隊員だということを、あの母親はまだ知らないらしい。出撃を前にして俺は千鶴と一夜を共にしようとしている。千鶴が特攻隊員である俺と結ばれたことを知って、あの母親はどんな気持ちになることだろう。千鶴のために祝福してくれるだろうか。
「ほんとに大丈夫よ。お母さん、きっとわかってくださるから」と千鶴が言った。
 良太は千鶴の言葉を耳にして、あの母親は千鶴の気持ちを理解してくれるに違いない、と思った。そうであってほしいと強く願った。
「そうだな、千鶴のお母さんだからな」と良太は言った。
 忠之の下宿に帰ってみると、部屋にはすでに二人分の夕食が運ばれていた。
 昼食よりもさらに豪華な夕食を終えてから、良太と千鶴はすすめられるままに風呂に入った。予想外の成り行きで泊まることになったばかりか、入浴することができた。良太は忠之の取り計らいに深く感謝した。
 良太はその一夜を、千鶴とともにその離れ部屋で過ごした。千鶴が限りなく愛おしかった。愛おしい千鶴は良太の腕の中だった。

 鶏の声が聞こえる。
 誰かが顔に触れている。眼の前に千鶴の顔がある。前夜のことが思いだされた。千鶴が笑顔になった。良太は千鶴の体に腕をまわした。千鶴は裸だ。ふたりとも裸のままで眠っていたのだ。
 良太は千鶴にキスをした。良太は千鶴の舌をもとめた。千鶴が応える。良太はキスをしながら千鶴に身をかさねた。
 千鶴が眼をあけた。良太を見つめて千鶴が穏やかにほほ笑む。良太はやさしく千鶴にキスをした。千鶴は口を少しあけたまま、唇をなぞられるままにしている。
 良太は千鶴の乳首を口に含んだ。乳首がもりあがる。千鶴の腕が巻きついてくる。良太は母に甘える子供のように、乳首に舌をからめた。千鶴の腕に力がはいり、良太をしっかり抱きしめた。抱きしめられたまま、良太は千鶴の匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。
 窓の外が明るくなっている。良太が起き上がると、千鶴もふとんの上に身をおこした。裸の千鶴を抱きよせると、いとおしさと共に感謝の気持がわいてきた。
「ありがとうな、千鶴」と良太は言った。
「ありがとう、良太さん」と千鶴が応えた。
 千鶴は一夜をともにした俺に感謝してくれている。笑顔の千鶴はとても幸せそうだ。俺がまもなく出撃すると知ったら、千鶴はどうするだろう。千鶴がふびんに思われたとたんに涙がにじんだ。良太はひそかに涙をぬぐい、服を着るために立ちあがった。
 忠之から借りたふとんをかたづけてから、窓を開けて空気をいれかえた。夜はすっかり明けていた。
 洗面などをおえてから、良太は風呂敷を開いてノートを出した。
「千鶴、これを持っていてくれ」
 ノートを受けとった千鶴が怪訝な表情を浮かべた。「この日記帳はまだ新しいわね」
「千鶴への手紙みたいなものだけど、最近は忙しいし、その日記帳に書くべきことは書いたから、これからは、ほんとの手紙だけにするよ」
「もしかしたら、ここにも遺書が書いてあるのかしら」
「もしも俺が戦死するようなことになったら、そこに書いたことはみんな遺書ということになるだろうな」
 千鶴が良太を見つめて言った。「今ここで読んでもいいかしら」
 良太は一瞬ためらってから答えた。「いいよ……読むんなら、最後に書いたところがいいな。俺に万一のことがあった場合を思って、昨日の夜に書いたものだ」
 ノートに眼をおとしていた千鶴が、いくらも読まないうちに顔をあげた。
「お願い、良太さん、これを読んでちょうだい」千鶴の声がふるえた。「万一のことがあったときに読むくらいなら、いまの内に良太さんの声で聞いておきたいの」
 良太は千鶴からノートを受けとった。千鶴のためにこれを読まなければならない。千鶴がそれを願っているのだ。
 前日の夜に記したその文章を、良太は声にして読んだ。
「運命の糸に手繰られるまま浅井家に至り、爾来二年余にわたって厚情を受けたこと、深甚なる感謝あるのみ。………」
 声のふるえを抑えるために、良太は声を強めた。「………千鶴はいかなる道を歩むことであろうか。良太を伴ったままに新しき道を歩むことは困難であろう。千鶴は身軽にならなければならない。千鶴は身軽になって新しき道を歩まねばならない。千鶴よ幸せな人生を歩めよ」
 良太は大きな声で読みおえた。ノートを手にしたまま顔をあげると、良太を見つめている千鶴の頬には涙があった。良太は不安におそわれた。千鶴に覚られたのではないか、ノートに記したこの言葉が、出撃を目前にしている俺からの決別の言葉だと。
 良太は腕をのばして千鶴を抱きよせた。千鶴を抱いていると涙が滲みでた。千鶴を抱いたまま、良太は片手で涙をふいた。
 部屋の外から声がして、朝食の用意ができたことを伝えた。
 良太は千鶴とともに母屋へ行って、三つの膳とお茶を受け取り、忠之の部屋へ運んだ。
 千鶴から笑顔が消えていた。千鶴の不安を抑えるために、良太は意識して明るくふるまい、快活な口調で語りかけるよう努めた。
 千鶴の表情がどうにか和らいだころ、夜勤あけの忠之が帰ってきた。
 3人は慌ただしく食事をとり、7時半には部屋を出て、朝の畑道を吉祥寺駅に向かった。
 良太はいつしか早口となり、言葉の数も増えていた。良太は千鶴のなにげない言葉に愛おしさを覚え、千鶴を抱きしめたくなった。忠之の言葉が貴重なものに思えて、抱きついて感謝の言葉を伝えたくなった。駅が見えてきたとき、良太はその思いを声にした。
「ありがとうな」
「どうした、良太」
「なんとなく、お礼を言いたくなったんだよ、お前たちに」と良太は言った。
 忠之とは改札口で別れることにしていた。千鶴を先に改札を通らせてから、良太は忠之の手をにぎった。
「お前のおかげで、いい外出日になった。ありがとうな、忠之。できれば岡先生にも会ってお礼を言いたいんだが」
 忠之が眼におびえを見せた。「親父に伝えるよ、お前が言ったこと」
「おれに万一のことがあったら、千鶴の相談に乗ってやってくれないか。洋子や修次のことも頼むな」
「わかった。わかったよ、良太」と応えた忠之の眼に涙がにじんだ。
 良太は忠之の肩に手をおいた。「出雲に帰ったら皆に伝えてくれ、俺がいつも楽しそうにしていたことを」
「わかった、ちゃんと伝える。お前が千鶴さんと一緒にここに来てくれたこともな」忠之の声がふるえた。「お前がここで嬉しそうにしていたこともな」
「それじゃ、忠之。あとは頼むぞ」と言いおいて、良太は改札口を通った。
 これで二度と忠之とは会えなくなった。そう思ったとたんに、忠之の前では抑えていた涙がにじみ出てきた。忠之には俺の分まで生きてもらいたい。千鶴のためにも洋子や修次のためにも、忠之には長生きをしてもらいたい。
 階段のところでふり返ると、忠之が手をあげながら「りょうたー」と叫んだ。良太は忠之に向きなおり、帽子をかかげて永遠の別れをつげた。
 千鶴と一緒に上りの電車に乗ると、上野での別れの時が強く意識され、良太はせかされるような気持になった。良太は千鶴によりそい、一夜を共にできたことの幸せと、千鶴に対する感謝の気持を、声を低くおさえて伝えた。
 窓のむこうに広い焼け跡があらわれた。空襲によるそのような惨状は、各地の都市に見られるだけでなく、日を追うごとに増えてゆくはずだった。良太はあらためて強い疑念をいだいた。日本の敗北必至となったいま、政府や軍は何をしているのだろうか。戦争終結に努めなければ、この国はどこまでも荒廃してゆくばかりではないか。
 千鶴が言った。「できたら一緒にあの家の跡を見たいけど、時間はないかしら」
 たとえ焼け跡であろうと、あの書斎があった場所を見ておきたい。良太はあわただしく考えた。御茶ノ水で降りたなら、9時までにはあそこに着けるだろう。そこでしばらく過ごしても、上野駅の発車時刻に間にあうはずだ。
「いいことを考えてくれたな。時間があるから行ってみよう」と良太は言った。
 二人は御茶ノ水駅で電車をおりて、浅井家の屋敷跡に向かった。
 浅井家の大きな家は焼け落ちて、黒い柱だけが立っていた。書斎のあったあたりを見あげていると、書斎での千鶴とのことや、机の上のサザンカが思い出された。
 サザンカが葉を茂らせていた場所には、数本の焼けた幹がならんでいた。その姿に引きよせられるようにして、良太は庭をよこぎった。
 サザンカはすっかり焼けているように見えたが、根元のところに幾つかの芽がのびていた。
「なあ、千鶴。いつかまた、サザンカも芍薬もきれいに咲いてくれるんだ。戦争が終われば、家だって建てられるはずだよ」
 千鶴が良太の肩に頭をつけた。
「ここに家を建てて、良太さんと一緒に暮したいわね」
 良太は千鶴に腕をまわして、「生きて還ることができたなら、千鶴とここで暮らすことにするよ。あんな書斎のある家でな」と言った。
 良太はあらためて屋敷の跡を眺めた。不意に悔しさがこみあげてきた。とうに終えるべき戦争を終えていたなら、この場所で千鶴との家庭を築けたものを。その千鶴に永遠の別れを告げて、俺は特攻隊で出撃しようとしている。
急いで上野駅に向かわねばならなかった。良太は千鶴をうながして屋敷跡を離れた。
 道の曲がり角にさしかかったとき、良太は歩いてきた道をふり返ってみた。良太を見送りながら、千鶴が手をふっていた場所には、焼け焦げた木の幹だけが残っていた。上野駅へむかう道のあたりはすっかり焼けて、焼け野原がつづく景色は遠くまで見通せた。
 駅につくと、良太は自分の切符とともに、千鶴のための切符を買った。三軒茶屋へ帰るための切符であった。改札を通ったふたりは常磐線のプラットホームへ向かった。
 プラットホームで語り合ううちに、列車の発車時刻が近づいた。良太は千鶴の横によりそって、華奢な体に腕をまわした。
「千鶴、達者でな。お母さんたちに伝えてくれ、俺がこれまでのことに感謝して、お礼を言っていたとな」
 千鶴の表情が変わった。「わかったわ、良太さん………」
「ありがとうな、千鶴。千鶴が居てくれてよかった」
 千鶴が良太に向きなおり、眼をいっぱいに開いて言った。「私もよ、私は良太さんが居てくださるから幸せなの」
 良太は笑顔を作り、「俺は千鶴の笑っている顔が好きだけどな」と言った。
「ごめんなさい、うっかりしてて」千鶴が笑顔をこしらえた。「良太さんに何度も言われてるのに」
良太はこわばったその笑顔にむかって、「やっぱり、笑っている千鶴がいいよ。それじゃ、行くからな」と言った。
 千鶴が笑顔を消して、良太を見すえながら言った。「良太さん、また会えるわね」
「しばらく会えないようだったら、手紙を書くよ」と良太は言った。「必ず書くからな」
「私はだいじょうぶだから」千鶴の眼がただならぬ光をおびた。「良太さんも…がんばってね…私はだいじょうぶだから」
 良太は千鶴の眼差しに応えて言った。「それじゃ、千鶴。達者でな」
 良太は発車まぎわの列車にうしろ向きになって乗りこんだ。千鶴が手をあげた。良太は帽子をとった。
 良太は左手でデッキの握り棒をつかみ、右手に持った帽子をあげた。千鶴が良太を見つめたままに頭をさげた。良太は大きくうなづいて応えた。列車が動きはじめた。千鶴が列車を追ってかけてくる。良太は心のなかで千鶴に伝えた。「ありがとう、千鶴。これでお別れだ。どうか達者で暮らしてくれ。幸せな人生を送ってくれ」
 はなれてゆく千鶴がまだ手をあげている。良太はデッキから身を乗り出すようにして帽子を振った。遠ざかる千鶴の姿が人ごみの中にまぎれてゆく。
 千鶴の姿は見えなくなったが、千鶴からは振られる帽子が見えるはずだった。良太は腕をのばしてなおも帽子を振りつづけたが、駅が見えなくなったので列車のドアを閉めることにした。
 良太が振っている帽子が見えなくなっても、千鶴はプラットホームに立ちつくして、遠ざかってゆく列車を見送った。
 良太を乗せた列車が見えなくなった。千鶴は思った。もしかすると、良太さんとはもう会えないかも知れない。先ほどの別れの言葉も尋常ではなかった。使い切っていない日記帳をくださったし、良太さんが読んでくださった言葉は遺言としか思えなかった。特攻隊で出てゆかれるのではないかと不安になったけれども、それを問いただすことなど、恐ろしくてできなかった。
 千鶴は恐ろしい想像から逃げ出すようにして、プラットホームを後にした。気がつくと改札口の前だった。
 千鶴のモンペのポケットには、良太から渡された切符があった。その切符には、良太といっしょに改札口を通ったときにハサミが入れられていた。千鶴は思った。この切符は使わないでとっておきたい。忘れ物をしたことにして改札口を出させてもらい、そのまま本郷を通ってお茶の水駅まで歩こう。良太さんと歩いて来た道を後戻りすれば、良太さんが無事に還ってくださるような気がする。
 千鶴は良太と歩いた道を逆にたどった。焼け跡がひろがる光景を見ながら歩いていると、先ほどからの不安がさらに強まった。数日前に読んだ新聞記事が思い出された。近ごろは沖縄に向かってたくさんの特攻隊が出ている。もしかすると、良太さんは沖縄へ行かれるかも知れない。昨日も今日も良太さんの笑顔は明るかったが、ときおりとても寂しそうな表情を見せられた。プラットホームで良太さんが口にされたのは、やはり別れの言葉だったのではないか。そう思うことすら恐ろしくて、私のことは心配しないでと繰り返すことしかできなかった。
 千鶴が繰り返したその言葉は、それと意識しないまま口にした永訣の言葉だったが、千鶴はまだ、そのことに気づいていなかった。
つのる不安を胸に千鶴は坂道をのぼった。通いなれた道であったが、家々の多くが焼けおちており、あたりの眺めに以前の面影はなかった。
 生まれ育った家の焼け跡に立ち、焦げた柱をながめていると、不安と孤独感が胸にせまった。千鶴は声をころして泣いた。千鶴は泣きながら思った、あきらめてはいけない。あきらめないで良太さんのお帰りを待とう。私は良太さんのお帰りを待っていなければならない。
 畑の跡にしゃがんでみると、焼けた麦の根元に芽がのびていた。千鶴は土に両手をついて、小さなその芽に顔を近づけた。焼かれたはずの麦ですら、このようにして生きぬこうとしている。今になって芽を出したところで、麦として実ることはないだろう。たとえそうであろうと、この麦はせいいっぱいに生きようとしている。
 千鶴はサザンカに近づき、良太が見つけた緑色の芽を見つめた。このサザンカが花をつけるのはいつのことだろう。そのころ私はどのようにして生きているのだろうか。もしも良太さんが戦死されるようなことになったら、私は二度と幸せになどなれないはず。幸せになれと書いてくださったのだから、どのようにしてでも還ってきて。
 千鶴は家の焼け跡をでて御茶ノ水駅に向かった。電車を乗り継いで三軒茶屋に着いたとき、時刻はすでに正午をまわっていた。どこで一夜を過ごしたのかと母親に聞かれて、良太といっしょに過ごしていたことを隠さずに話した。
 母親は驚きながらも、千鶴を責めることはなかった。千鶴は思った。もしも良太さんが特攻隊員とわかっても、お母さんは許してくださるに違いない。そうは思いながらも、良太が特攻隊員であることは口に出せなかった。そのことを口にしようものなら、良太がほんとうに特攻隊で出撃してしまいそうな気がした。
 良太は航空隊に帰着するなり士官舎にむかった。進発準備は二日前におえていたので、時間にゆとりがなくても慌てることはなかった。残り少ない時間にやるべきことは決っていた。谷田部に残る仲間と別れの言葉をかわす。飛行服に着替えて進発前の儀式にのぞむ。訓練を共にしてきた仲間に見送られて零戦で発つ。その先にあるのは鹿屋からの出撃だった。
 士官舎に入ると佐山が近づいてきた。
「遅いから心配したぞ。貴様のことだから間に合うとは思っていたけど」
「心配をかけたな。せっかくの外出だから、大事につかってきたんだ」
「あのメッチェンと一緒だったか」
「ちょっと会ってきた」
「うらやましいぞ、森山。おれたちにはせいぜい片想の相手しかいないからな」
「おれたちには片想が理想的だよ。悲しませる相手などいないほうがいいんだ」と良太は言った。
 良太は急いで飛行服に着がえた。それまで着ていた軍服はトランクにつめる最後の品物だった。沈丁花と芍薬の造花が入っている紙箱を布袋からとりだし、ノートや筆記用具などといっしょに風呂敷に包んだ。
 トランクの遺品は出雲の家族のもとに、布袋の品物は千鶴に宛てて送り出されるはずだった。そのための作業は佐山に依頼してあった。
 支度を終えた良太は、航空隊に残る仲間たちに声をかけた。「これまでありがとうな」「先に征くぞ」
 仲間たちが応えた。「しっかりやってくれ。俺たちも必ずあとに続くぞ」「靖国で会おうぜ」
 進発する者たちのための儀式が、指揮所の前で行われることになっている。良太は同じ隊の仲間たちと指揮所へ向かった。佐山たち航空隊に残る仲間もついてくる。
 航空隊でやるべきことの全てが終わり、出発のときがきた。
 良太は佐山の手を握って言った。「ありがとうな、これまで。あとは頼むぞ」
「しっかりやってくれ。俺たちもあとに続くぞ」握った手に力をこめて佐山が言った。
 良太は残る仲間たちに別れを告げ、ノートなどを包んだ風呂敷包みを持って零戦に向かった。整備員が精根をこめて整備してくれた零戦は、列線にあってプロペラが回っている。
 良太は整備員に感謝の言葉をつたえ、零式艦上戦闘機の操縦席に入った。
航空隊に残る者たちが、「帽振れ」にそなえて帽子を手にしながら、滑走路の近くに並んでいる。
 良太は右手で操縦桿をにぎると、見送ってくれる仲間たちをながめた。佐山たちが思いつめたような表情を見せている。良太は笑顔で左手をあげ、大きな声で叫んだ。
「先に征くぞ」

 特攻機の多くは機体が古く、性能も劣化していたけれども、良太たちは全機そろって中継地の鈴鹿基地に着いた。そこで一泊している間に機体を整備してもらい、谷田部を発った翌日、南九州の鹿屋に着いた。海軍特攻隊の出撃基地のひとつだった。
 出撃命令が下されるのは、攻撃目標が見つかって、気象条件にも支障がない場合であった。予測のつかないその命令を待ちつつ、良太たちは宿舎で暮らすことになった。
 良太たちにあてがわれた宿舎は、使われていない国民学校の校舎であった。その建物には爆撃された跡があり、天井にあけられた穴を通して光が射しこんでいた。
 その宿舎には電灯がなく、夜の照明はカンテラだった。わびしいその明かりのもとで、良太は数枚のはがきを書いた。出撃命令は翌日にも出される可能性があったから、それが最後の便りにならないとはかぎらなかった。受けとる者たちの悲しみを悲しみ、良太の胸はふさがった。
 次の朝、校舎の側を流れる小川で顔を洗っていると、子供の頃から聴きなれているヒバリの声が聞こえた。良太は辺りを見まわした。畑の麦が勢いよく伸びている。向こうに見える赤い花はれんげ草らしい。風が通り過ぎると、川べりの草がいっせいになびいた。
 吉田少尉が言った。「俺が生まれた村とよく似てるんだよな、この辺りの景色は。俺の故郷からは遠くはなれてるのに」
「同じ日本だからな。俺は島根なんだが、島根にもこんな感じの風景がある」
「きょうの出撃は無いらしいから、飯を食ったらその辺りを散歩してみないか」
「そうだな、歩いてみるか、俺たちがこの世で暮らす最期の場所を」と良太は言った。
 朝食をすませてから、良太は吉田とふたりで散策に出かけた。川べりの道を歩いてゆくと、同じ隊の遠藤二等飛行兵曹と木村二等飛行兵曹が、道ばたの草に腰をおろしていた。良太は、予科練出身のその少年たちを、散歩に誘っていっしょに歩こうと思った。
 4人で歩いてゆくと、れんげ草が群がり咲いている場所があった。良太たちはそこで語り合うことにして、満開の花の上に腰をおろした。
「きのう聞いた話だと敵の特攻対策も相当なものらしいな。予想はしていたことだが」
「なんと言っても問題は敵の戦闘機だから、直掩機にはしっかりやってもらわんと。死に物狂いで護ってくれるとは思っていますけど」
 吉田と木村の言葉に遠藤が口をはさんだ。「ゆうべ聞かされたじゃないですか、小林少尉や吉野たちの隊から、我突入すの無電があったこと。先に征ったみんなは絶対にうまくやっていますよ。私はたとえ火だるまになってでも、必ずうまく突入してみせます」
「なあ、遠藤」と良太は言った。「俺たちは最後まで突入を諦めてはならんが、それでもうまく行かないことはあり得るんだ。これは仮定の話だが、敵艦に突入できないようなことになったら、お前はどんな気持ちになると思うか」
「絶対に空母か戦艦を撃沈します。それ以外のことを考える必要はないです」
「俺の考を言おう」と良太は言った。「たとえ海に突っ込むことになっても、日本人の愛国心がどんなものかを、世界中に思い知らせてやったことになるんだ。敵艦に突入できなくても、国のためには立派に役立つことになるんだ。だから、敵艦を撃沈できないようなことになっても、俺は使命を果たしたと思いながら突っ込む。後悔しながら死ぬよりも、家族のことを思いながら死んだほうがいいじゃないか」
 吉田と木村は良太に賛同したが、遠藤は、いかなる状況にあろうと、敵艦への突入を果たすべきだ、と主張して譲らなかった。
 遠藤が言った。「森山少尉の言われることもわかりますが、私は絶対にうまくやって見せます。天皇陛下万歳と絶叫しながら突っ込みますよ」
 良太は思った。命と引き換えにして国を救おうとする気持を、遠藤は天皇陛下万歳という言葉に込めようとしている。遠藤はその言葉を叫ぶことにより、自らの戦死を価値あるものと思いつつ、最後の一瞬を迎えることができるのだ。
「ところでな、木村」と吉田が言った。「お前は聖書を持っているらしいが、靖国神社に祀られたらどうする気だ」
「ことわって天国へ行きます。天国に受け入れてもらえるかどうか、まったく自信はないですが」
「心配するな、お前なら天国に行けるぞ。靖国神社に閉じこめられるより、天国で羽根をのばす方がずっとましだよ」
「小林が谷田部を発つときに叫んだよな、靖国で待ってるぞ、と。あのとき貴様は、あとから俺も征く、靖国で会おうぜ、と応えたじゃないか。どういうつもりで言ったんだ」
「俺たちの合言葉みたいなもんだろうが、靖国は」と吉田が言った。
「気持を通い合わせる合言葉……そうだよな、たしかに」
「ここを発つときには、私だって言うかも知れないです、靖国で会おうって」と木村が言った。「靖国神社に祀られる気はまったくないですが」
 良太は小林の笑顔と声を思い返した。谷田部の飛行場を発つとき、操縦席の小林は笑顔を見せて、「ひと足先に征く。靖国で待ってるぞ」と叫んだ。
 小林のあの笑顔は、彼が叫んだあの言葉によって支えられていたのだ。俺たち特攻隊員は、死にゆく想いを共有しているわけだが、小林は靖国で会おうという言葉にそれを凝縮させたのだ。そのことは小林にかぎらず言えることだが、木村のように神道を受け入れない者はどうであろうか。木村は20年に満たない人生を、自ら国に捧げようとしておりながら、靖国神社に祀られることを拒絶しているのだ。木村の殉国の至情に対して、この国と国民はどのように応えるべきであろうか。
 その午後、良太は家族にあてた手紙を書くことにして、教室の隅で便箋にむかった。翌日の朝まで出撃する予定はないので、日記や手紙を記すに充分な時間があった。
〈………谷田部からの手紙で父上母上をはじめ皆がさぞかし驚かれ、悲しまれていることだろうと思いつつ、そして先立つ不孝を深く詫びつつこれを書いております。あの手紙にも書きましたが、特攻隊には大きな意義があります。報恩なくして先立つ不孝を詫びつつも、報国の志を遂げることについては誉めて頂きたく思います。
 伝えておきたいことや特攻隊員として期するところは、すでにあの手紙に書きましたので、今日はこの地に来てからのことなどを書きます。
 今日は仲間たちと基地の付近を散歩しました。この地では麦がかなり伸びており、雲雀の声が聞こえます。意外に思われるかも知れませんが、蓮華草に腰を下ろしてしゃべっていた我々からは、ときおり冗談が飛び出したりしました。出撃を目前にしていますが、死に対する恐怖はさほどにありません。死んでも霊魂が残ることを知っていますし、当初から戦死を覚悟していたからでもありましょう。出撃を前にしていながら、不思議なほど冷静にこれを書いております。
 三日前から一昨日にかけて、浅井家の千鶴と一緒に忠之の新しい下宿に行きました。忠之が出雲に帰ることがありましたら、そのときの様子を伝えてくれるはずです。
 これまでの手紙には書きませんでしたが、千鶴とは結婚するつもりで付き合っていました。千鶴は俺が特攻隊員と知っておりましたので、むろん覚悟をしていたはずですが、もしも子供ができるようなことになりましたなら、大きな苦労を背負うことになります。そのような事態になりましたなら、忠之から連絡があると思いますので、千鶴が望むような取り計らいをお願いします。親孝行はしないままに心配のみおかけしますが、このことを心に留めておいていただきたく、お知らせしておきます。〉
上野駅で千鶴とわかれて以来、千鶴と過ごした一夜が幾度となく思い出された。いつしか良太の胸に願望がめばえた。もしも千鶴が妊娠するようなことになったら、無事に産んで育ててほしい。
 良太はペンを手にしたまま、身ごもるかも知れない千鶴を想った。あれからの数日、良太は繰り返してはそのことを想ったのだが、そのたびに、妊娠を喜ぶ千鶴の笑顔が思いうかんだ。出雲の家族はこの手紙を読んで、どんな気持になることだろう。今の世情を思えば不安を抱くかも知れないのだが、それでも家族は期待するような気がする、特攻隊員として戦死する俺の忘れ形見を。
良太はペンを持ちなおした。
〈時間がありましたなら、明日も手紙や日記を書くことにしましょう。谷田部からは手紙と一緒に遺書を送りましたが、俺の遺書にふさわしいのは、むしろ日記帳に書いたことだという気がします。ここには学徒出身の要務士官がおりますので、日記帳や手紙を託して出雲へ送り出してもらうつもりです。〉
 良太は書いた手紙を封筒にいれると、ふたたびペンをとって便箋にむかった。
 良太は便箋を見ながら、千鶴のために書く最後の手紙になりそうだ、と思った。するといきなり、千鶴のあの表情が思い出された。上野駅での千鶴の悲痛な表情。
 気を配ってはいたものの、千鶴と忠之には出撃を察知されたおそれがあった。そのことを気にかけながら航空隊に帰着したのであったが、鹿屋の宿舎で手紙を書こうとしたいま、あらためてそのことが気になった。
 上野駅のプラットホームで語り合ったとき、不用意な言葉で千鶴に出撃を覚られたような気がする。あのときの千鶴の眼差と声を思えば、やはり、千鶴には察知されていたとしか思えない。そうだとすれば、あのとき、千鶴はどんな気持で俺を見送ったのだろうか。吉祥寺駅で忠之が涙ぐんだのも、やはり俺の不用意な言葉のせいだろう。
良太は千鶴の気持を想い、そして思い至った。千鶴は俺の出撃を察して恐怖に襲われたであろうが、むしろそれで良かったのではなかろうか。俺の出撃を察知していたのであれば、千鶴は心の内で永別の言葉を告げ得たはずだ。千鶴がくりかえした「私はだいじょうぶだから」という言葉。俺の胸に響いたあの声は、千鶴が俺に伝えようとした別れの言葉だ。出撃を覚られることなく、俺が一方的に心の中で永別を告げていたなら、千鶴はむろん忠之にも悔いを残すことになっただろう。気持ちを抑えきれなかった俺の未熟さが、どうやら幸いしたことになりそうだ。
 千鶴はいま、どこで何をしていることだろう。谷田部で書いた浅井家への礼状を読んで、おれが出撃することを確認しているはずだ。どこで何をしていようと、千鶴は嘆き悲しんでいるのだ。
 千鶴をなぐさめる手紙をすぐにも書きたかったが、その手紙には長い時間を要しそうだった。千鶴への手紙は後で書くことにして、忠之のためのノートを取り出した。
 良太はノートを開いてペンをにぎった。
〈………三鷹でのこと、実にありがたく言葉に言いつくせぬ程に感謝している。千鶴もまた深く感謝しているはず。忠之よ本当にありがとう。
お前や千鶴の取り乱す姿を見たくなかったし、悲痛な別れ方をしたくなかったので、出撃のことは話さなかったが、別れ際でのお前と千鶴の様子を思うと、出撃することを覚られていたような気がする。今になって思えば、むしろそれで良かったのだという気がするのだが、俺の身勝手な気持だろうか。
 今日ここから出した葉書にも書いたが、ここには昨日の午後に着いた。俺の出撃を知って、俺の家族はもとよりお前や千鶴がいかに大きな衝撃を受けるか、そのことを気にかけながら、今はこうしてノートや手紙に書きつづっているところだ。
今日は一緒に出撃する仲間たちと散歩にでかけ、辺りの景色を眺めながら雑談のひとときを過ごした。お前には信じがたいだろうが、仲間の冗談には思わず笑い声が出た。出撃を目前にしていながら、自分でも不思議な程に落ち着いてこれを書いている。
 靖国神社を話題にしたとき、出撃に際して交わされる「靖国で会おう」という言葉は、気持を通い合わせるうえでの合言葉の如きものだと仲間が言った。軍とは関わりのない忠之にも理解できると思う。俺の隊にはキリスト教徒がいるのだが、その仲間ですら言うのだ。自分は靖国神社に祀られるつもりは全くないが、出撃に際しては靖国で会おうという言葉を口にするかも知れない。かく言う俺自身の気持を言えば、その言葉を残して出撃することになろうと、神社に留まるつもりは少しもない。神社の中に閉じこもっているより、俺の家族とお前や千鶴の気持にいつでも応えられるよう、宇宙の中で自由に羽ばたいていたいと思う。俺自身は靖国神社を必要としないが、家族にとっては靖国神社が俺の墓標の如き存在になるだろう。俺が英霊として崇敬されていることを確認できる場所にもなるだろう。それは俺の場合に限らないわけだが、キリスト教徒の場合にはどうであろうか。殉国の至情に燃えているその仲間のことを思えば、国に命を捧げた者のための象徴的な墓標は、靖国神社のほかにも必要ではないかと思う。日本人が過去を振り返り、未来を考えるためにも、空襲の犠牲者などをも対象にした、大きな墓標をしっかりと打ち建てるべきではないか。これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか。
 俺は精一杯に生きてきたつもりだが、心残りはむろん多々ある。自分なりに人生の目標があったし、家族のために成したいこともあった。岡先生やお前の好意に報いることなく死ぬことを残念に思う。千鶴との約束も果たせなくなった。とはいえ、今の俺はそれをいたずらに嘆くことなく、受けてきた恩愛や友誼などの全てに報いるために、そしてこの国に再生の芽を残すために、この命を捧げようと思っている。それによって日本の未来に良き結果がもたらされるよう心より願っている。
 千鶴はこれから先の人生を、俺とは関わりなく生きて行かねばならない。身勝手な頼みごとだが、千鶴への助力をよろしく頼む。洋子がお前と結ばれるなら俺にはこのうえなく嬉しいことだが、それはお前と洋子のことゆえ、俺はただお前たちの幸福を願うのみだ。
 このノートと出雲の家や千鶴に宛てた手紙などは、信頼できる士官に依頼して送り出してもらうが、全てが無事に届くとは限らない。俺の家族や千鶴が望む場合には、このノートを見せてやってはくれまいか。
 お前に書き遺すのもこれが最後になるかも知れないので、すでに何度も書いてきたことだが、ここで改めてお礼を言わせてもらう。お前のおかげで俺の人生はより良きものとなった。忠之よ本当にありがとう。
 より良き日本を遺すことを願い、そのために俺たちは命を捧げるのだが、将来の日本の姿を見ることができない。忠之には俺の分までそれを見届けてもらいたい。〉
 良太は日本の未来に想いを馳せた。敗戦から立ち直るであろう未来の日本を想っていると、あの不思議な夢のことが思い出された。できることならあのようにして、夢でもよいから見てみたい、これから先の日本の姿を。
 死んでも霊魂は残るわけだから、俺は未来の日本を見ることができるかも知れない。それとも、死んでからはあの世の内側しか見ることができないのだろうか。それにしても、あの世とはいったいどんな所だろう。死んだら天国へ行くと言った木村は、霊魂の実在を信じているに違いない。俺は無宗教に近い生き方をしてきたわけだが、霊魂が存在していることを信じるどころか、それが実在することを知っている。俺の場合には、霊魂の実在を知っていることが、宗教にもまして俺を救ってくれたことになる。霊魂と会話のできたあのお婆さんのおかげだから、あのひとに感謝しなければならない。
「森山」吉田の声が聞こえた。「風呂にゆこう。近くの家で入らせてもらえるそうだ」
 良太はノートを風呂敷にもどすと、折り畳んであった手拭をとりだした。
 良太は吉田とつれだって、宿舎の出入り口に向かった。建物を出てからふり返ると、割れずに残っている窓のガラスが、午後もおそい日ざしをはねかえしていた。
 吉田と並んで歩きだすと、校舎の中からオルガンの音が聞こえた。音楽に素養のある隊員が弾いているのか、聴きなれた文部省唱歌の旋律が、少しも滞ることなく流れた。
「ところで森山、貴様は自分の寿命について考えたことがあるか」と吉田が言った。
「考えたことはないな、そんなことは」
「俺はモーツァルトが35歳で死んだことを知って、せめてそこまでは生きたいと思ったよ。その頃の俺は20歳までには死ぬと思っていたからな。中学に入ったばかりの頃だった」
「何かあったのか」
「肺浸潤になったんだ。残りの人生が数年しか残っていないような気がして、35まで生きたモーツァルトを羨ましく思った。35年も生きたなら、自分なりに何かをやれるだろうに、このまま死ぬのは悔しいという気持ちになったんだ。まだ12だったからな」
「悔しいよな、たしかに。俺たちは日本のためどころか、人類全体のために役立つことができるかも知れない。そんな気持にもなるじゃないか。今の俺たちは死んで役に立つことしかできないが、この特攻がほんとに役に立ってほしいもんだよな」
「俺たちは実を結ぶどころか、花も咲かせずに散るんだ。俺たちの特攻が何の役にも立たないなんてこと、そんなことがあってたまるか」
「そう言えば、小林が歌を作ったことがあったな。嵐に散る花の歌。おぼえているか、あの歌。特攻が有意義なものであってほしいという、そんな願いをこめた歌だった」
「おぼえているよ、正確じゃないかも知れないけど」と吉田が言った。「小林は国文だったそうだが、俺たちよりも先に逝ってしまったな」
 もの静かに本を読んでいた小林の姿が思い出された。小林が仲間に歌を披露したのは、特攻要員に指名されて間もない頃だった。
「小林はあのとき、辞世の歌を作るようにと勧めるつもりだったのかな、俺たちに」と良太は言った。「貴様は作ったのか、辞世の歌」
「歌には自信がないが、それらしい歌をどうにか作ったよ。手紙に書いて送ったんだ」
「俺もな、手紙やノートに歌を書くことがあるんだ。辞世の歌というわけじゃないけど」と良太は言った。
 良太は入浴からもどると、忠之にあてたノートを開いて、先に書きつけた言葉のあとに歌を記した。
   時じくの嵐に若葉散り敷くも桜な枯れそ大和島根に
 いかに多くの特攻隊を出撃させたところで、この日本は敗北に至るはず。その結果がどのようなものであろうと、いつかは立ち直ってもらわねばならない。戦争に負けても国が滅ぶようなことになってはならぬ。この国は俺たちの死を無駄にしてはならない。俺たち特攻隊員のこの願いが天に通じないはずがない。
 夕食をとる時刻になったので、良太は仲間とつれだって、食堂にあてられている場所へ向かった。
 食事を終えた良太はもとの教室にもどると、千鶴への手紙を書くために便箋をとりだした。
良太は悲嘆にくれている千鶴を想った。谷田部で書いた浅井家への礼状を、千鶴はどんな気持ちで読んだことだろう。悲しみの淵であえいでいる千鶴は、この手紙をどんな気持で読むことだろう。どんな言葉を書きつらねても、千鶴の悲しみを癒すことなどできるわけがない。それでも俺は千鶴のためにこれを書かなければならない。
 良太はペンを執って便箋にむかった。
〈千鶴よこのような結果になったことをどうか許してほしい。俺の出撃を知って千鶴がどんなに悲しむことかと案じつつ、そしてこの手紙をどんな気持ちで読んでくれることかと思いつつ、こうして便箋に向かっているところだ。千鶴と人生を共に歩もうとの約束は果せなくなった。それどころか無事に還るとの約束を破って悲しませることになった。ここにどんな言葉を書き連ねても、千鶴の悲しみを癒すことなどできそうにないが、千鶴のためだけでなく俺自身のためにもこの手紙を書こうと思う。
 上野駅での千鶴が思い出される。私は大丈夫だからと繰り返した千鶴の言葉が、しっかりと俺の心に伝わってきた。嬉しい別れの言葉だった。千鶴よありがとう。〉
 続きの文章を考えていると、吉田から聞かされたモーツアルトの話が思い出された。
〈今日は近くの民家で風呂に入らせてもらった。風呂に入っていると四月だというのに虫の声が聞こえた。その声が本郷の家の庭を思い出させた。虫の声を聴きながら、ふたりで語り合ったあの夜のことを、千鶴も覚えていることだろう。
 仲間と風呂に向かっているとき、その仲間がこんなことを話した。中学時代に肺を患い、二十歳までには死ぬだろうと予想したとき、三十五歳まで生きたモーツァルトを羨ましく思ったという。十二歳だった中学生には、三十五歳という年齢は、人生とは如何なるものかを知り得る年令だと思われたのだろう。その話を聞いて二十二年を生きた自分の人生を思った。やりたいことは多々あるし、やるべきことも残しているので、人生を終えることには心残がある。とはいえ精一杯に生きたことを以て、この人生も可なりと肯定したいと思うが、千鶴との約束が果たせなかったことはこの上なく無念だ。無念と思うにとどまらず、千鶴には許を乞いたい気持でいる。このような結果になったことをどうか許してもらいたい。
 今日は仲間たちと散歩に出かけ、満開のれんげ草に寝ころんで語り合ったが、ときには笑い声が起こった。千鶴の悲しみを思うと耐えられない程に悲しいのだが、俺もまた仲間とともに声をだして笑った。そのような自分の心の奥をのぞいて見ても、ここに記せるような形では見えそうにない。俺の気持を理解してもらうには、千鶴に渡した日記を読んでもらったほうが良さそうだ。いずれにしても俺は死の恐怖に怯えているのでもなければ、運命を呪って暗い気持に沈んでいるのでもなく、仲間たちと話すときには声をあげて笑うことすらある。その様子を千鶴に見せて安心させてやりたいのだが、こうして手紙で報せることしかできないのが残念だ。〉
ふいに良太は不安に襲われた。良太は記したばかりの文字を眺めた。心をこめて記した言葉ではあっても、自分の本心を表したものではなさそうな気がした。霊魂の実在を知っていようと、死を恐れる気持は確然としてある。愛する者たちの悲しみを思えば、生還を願う気持が沸きおこってくる。特攻要員に指名されてからというもの、眠れぬ夜が幾夜もあった。ことに昨夜は寝つかれず、寝返りをうつ仲間の気持を推しはかりつつ、長い時間を過ごした。俺たちはれんげ草の上で笑い声をあげたが、束の間の笑い声のあとには虚しさを覚えた。特攻隊員の俺たちに、本来の笑い声など出せるわけがないのだ。もしかすると、この手紙だけでなく家族や忠之たちにも、偽りの言葉を遺したことになりはしないだろうか。