千鶴が笑顔を消して、良太を見すえながら言った。「良太さん、また会えるわね」
「しばらく会えないようだったら、手紙を書くよ」と良太は言った。「必ず書くからな」
「私はだいじょうぶだから」千鶴の眼がただならぬ光をおびた。「良太さんも…がんばってね…私はだいじょうぶだから」
良太は千鶴の眼差しに応えて言った。「それじゃ、千鶴。達者でな」
良太は発車まぎわの列車にうしろ向きになって乗りこんだ。千鶴が手をあげた。良太は帽子をとった。
良太は左手でデッキの握り棒をつかみ、右手に持った帽子をあげた。千鶴が良太を見つめたままに頭をさげた。良太は大きくうなづいて応えた。列車が動きはじめた。千鶴が列車を追ってかけてくる。良太は心のなかで千鶴に伝えた。「ありがとう、千鶴。これでお別れだ。どうか達者で暮らしてくれ。幸せな人生を送ってくれ」
はなれてゆく千鶴がまだ手をあげている。良太はデッキから身を乗り出すようにして帽子を振った。遠ざかる千鶴の姿が人ごみの中にまぎれてゆく。
千鶴の姿は見えなくなったが、千鶴からは振られる帽子が見えるはずだった。良太は腕をのばしてなおも帽子を振りつづけたが、駅が見えなくなったので列車のドアを閉めることにした。
良太が振っている帽子が見えなくなっても、千鶴はプラットホームに立ちつくして、遠ざかってゆく列車を見送った。
良太を乗せた列車が見えなくなった。千鶴は思った。もしかすると、良太さんとはもう会えないかも知れない。先ほどの別れの言葉も尋常ではなかった。使い切っていない日記帳をくださったし、良太さんが読んでくださった言葉は遺言としか思えなかった。特攻隊で出てゆかれるのではないかと不安になったけれども、それを問いただすことなど、恐ろしくてできなかった。
千鶴は恐ろしい想像から逃げ出すようにして、プラットホームを後にした。気がつくと改札口の前だった。
千鶴のモンペのポケットには、良太から渡された切符があった。その切符には、良太といっしょに改札口を通ったときにハサミが入れられていた。千鶴は思った。この切符は使わないでとっておきたい。忘れ物をしたことにして改札口を出させてもらい、そのまま本郷を通ってお茶の水駅まで歩こう。良太さんと歩いて来た道を後戻りすれば、良太さんが無事に還ってくださるような気がする。
千鶴は良太と歩いた道を逆にたどった。焼け跡がひろがる光景を見ながら歩いていると、先ほどからの不安がさらに強まった。数日前に読んだ新聞記事が思い出された。近ごろは沖縄に向かってたくさんの特攻隊が出ている。もしかすると、良太さんは沖縄へ行かれるかも知れない。昨日も今日も良太さんの笑顔は明るかったが、ときおりとても寂しそうな表情を見せられた。プラットホームで良太さんが口にされたのは、やはり別れの言葉だったのではないか。そう思うことすら恐ろしくて、私のことは心配しないでと繰り返すことしかできなかった。
千鶴が繰り返したその言葉は、それと意識しないまま口にした永訣の言葉だったが、千鶴はまだ、そのことに気づいていなかった。
つのる不安を胸に千鶴は坂道をのぼった。通いなれた道であったが、家々の多くが焼けおちており、あたりの眺めに以前の面影はなかった。
生まれ育った家の焼け跡に立ち、焦げた柱をながめていると、不安と孤独感が胸にせまった。千鶴は声をころして泣いた。千鶴は泣きながら思った、あきらめてはいけない。あきらめないで良太さんのお帰りを待とう。私は良太さんのお帰りを待っていなければならない。
畑の跡にしゃがんでみると、焼けた麦の根元に芽がのびていた。千鶴は土に両手をついて、小さなその芽に顔を近づけた。焼かれたはずの麦ですら、このようにして生きぬこうとしている。今になって芽を出したところで、麦として実ることはないだろう。たとえそうであろうと、この麦はせいいっぱいに生きようとしている。
千鶴はサザンカに近づき、良太が見つけた緑色の芽を見つめた。このサザンカが花をつけるのはいつのことだろう。そのころ私はどのようにして生きているのだろうか。もしも良太さんが戦死されるようなことになったら、私は二度と幸せになどなれないはず。幸せになれと書いてくださったのだから、どのようにしてでも還ってきて。
千鶴は家の焼け跡をでて御茶ノ水駅に向かった。電車を乗り継いで三軒茶屋に着いたとき、時刻はすでに正午をまわっていた。どこで一夜を過ごしたのかと母親に聞かれて、良太といっしょに過ごしていたことを隠さずに話した。
母親は驚きながらも、千鶴を責めることはなかった。千鶴は思った。もしも良太さんが特攻隊員とわかっても、お母さんは許してくださるに違いない。そうは思いながらも、良太が特攻隊員であることは口に出せなかった。そのことを口にしようものなら、良太がほんとうに特攻隊で出撃してしまいそうな気がした。
「しばらく会えないようだったら、手紙を書くよ」と良太は言った。「必ず書くからな」
「私はだいじょうぶだから」千鶴の眼がただならぬ光をおびた。「良太さんも…がんばってね…私はだいじょうぶだから」
良太は千鶴の眼差しに応えて言った。「それじゃ、千鶴。達者でな」
良太は発車まぎわの列車にうしろ向きになって乗りこんだ。千鶴が手をあげた。良太は帽子をとった。
良太は左手でデッキの握り棒をつかみ、右手に持った帽子をあげた。千鶴が良太を見つめたままに頭をさげた。良太は大きくうなづいて応えた。列車が動きはじめた。千鶴が列車を追ってかけてくる。良太は心のなかで千鶴に伝えた。「ありがとう、千鶴。これでお別れだ。どうか達者で暮らしてくれ。幸せな人生を送ってくれ」
はなれてゆく千鶴がまだ手をあげている。良太はデッキから身を乗り出すようにして帽子を振った。遠ざかる千鶴の姿が人ごみの中にまぎれてゆく。
千鶴の姿は見えなくなったが、千鶴からは振られる帽子が見えるはずだった。良太は腕をのばしてなおも帽子を振りつづけたが、駅が見えなくなったので列車のドアを閉めることにした。
良太が振っている帽子が見えなくなっても、千鶴はプラットホームに立ちつくして、遠ざかってゆく列車を見送った。
良太を乗せた列車が見えなくなった。千鶴は思った。もしかすると、良太さんとはもう会えないかも知れない。先ほどの別れの言葉も尋常ではなかった。使い切っていない日記帳をくださったし、良太さんが読んでくださった言葉は遺言としか思えなかった。特攻隊で出てゆかれるのではないかと不安になったけれども、それを問いただすことなど、恐ろしくてできなかった。
千鶴は恐ろしい想像から逃げ出すようにして、プラットホームを後にした。気がつくと改札口の前だった。
千鶴のモンペのポケットには、良太から渡された切符があった。その切符には、良太といっしょに改札口を通ったときにハサミが入れられていた。千鶴は思った。この切符は使わないでとっておきたい。忘れ物をしたことにして改札口を出させてもらい、そのまま本郷を通ってお茶の水駅まで歩こう。良太さんと歩いて来た道を後戻りすれば、良太さんが無事に還ってくださるような気がする。
千鶴は良太と歩いた道を逆にたどった。焼け跡がひろがる光景を見ながら歩いていると、先ほどからの不安がさらに強まった。数日前に読んだ新聞記事が思い出された。近ごろは沖縄に向かってたくさんの特攻隊が出ている。もしかすると、良太さんは沖縄へ行かれるかも知れない。昨日も今日も良太さんの笑顔は明るかったが、ときおりとても寂しそうな表情を見せられた。プラットホームで良太さんが口にされたのは、やはり別れの言葉だったのではないか。そう思うことすら恐ろしくて、私のことは心配しないでと繰り返すことしかできなかった。
千鶴が繰り返したその言葉は、それと意識しないまま口にした永訣の言葉だったが、千鶴はまだ、そのことに気づいていなかった。
つのる不安を胸に千鶴は坂道をのぼった。通いなれた道であったが、家々の多くが焼けおちており、あたりの眺めに以前の面影はなかった。
生まれ育った家の焼け跡に立ち、焦げた柱をながめていると、不安と孤独感が胸にせまった。千鶴は声をころして泣いた。千鶴は泣きながら思った、あきらめてはいけない。あきらめないで良太さんのお帰りを待とう。私は良太さんのお帰りを待っていなければならない。
畑の跡にしゃがんでみると、焼けた麦の根元に芽がのびていた。千鶴は土に両手をついて、小さなその芽に顔を近づけた。焼かれたはずの麦ですら、このようにして生きぬこうとしている。今になって芽を出したところで、麦として実ることはないだろう。たとえそうであろうと、この麦はせいいっぱいに生きようとしている。
千鶴はサザンカに近づき、良太が見つけた緑色の芽を見つめた。このサザンカが花をつけるのはいつのことだろう。そのころ私はどのようにして生きているのだろうか。もしも良太さんが戦死されるようなことになったら、私は二度と幸せになどなれないはず。幸せになれと書いてくださったのだから、どのようにしてでも還ってきて。
千鶴は家の焼け跡をでて御茶ノ水駅に向かった。電車を乗り継いで三軒茶屋に着いたとき、時刻はすでに正午をまわっていた。どこで一夜を過ごしたのかと母親に聞かれて、良太といっしょに過ごしていたことを隠さずに話した。
母親は驚きながらも、千鶴を責めることはなかった。千鶴は思った。もしも良太さんが特攻隊員とわかっても、お母さんは許してくださるに違いない。そうは思いながらも、良太が特攻隊員であることは口に出せなかった。そのことを口にしようものなら、良太がほんとうに特攻隊で出撃してしまいそうな気がした。