書斎に入るなり良太が言った。「夢で見た通りだよ。俺は夢の中でほんとにこの部屋に来たんだ。そうとしか思えないよ」
「ここに来たって……良太さんの心が来たのかしら」
「夢ではこの部屋は明るかったんだ。抜け出した心で見るときは、夜でも昼間のように見えるのかも知れないな」
それからしばらく夢について語り合ったが、結局のところは、不可思議なこととして受け入れるしかなかった。
千鶴は立ち話をしていたことに気づいて、良太に椅子をすすめた。
千鶴は良太が置いた帽子をとって顔に近づけた。
「この前と同じ匂いだわ。良太さんの匂い」
「なあ、千鶴」と良太が言った。「芍薬の造花に千鶴の匂いをしみ込ませてくれないか。このつぎに来たとき、その造花をもらいたいんだ」
「造花に私の匂い………千人針のときみたいにすればいいのかしら」
良太が千鶴に腕をまわして、抱きよせながら千鶴の首すじにキスをした。良太の唇がゆっくりと千鶴の口へ近づいてくる。千鶴は体をまわして良太の唇を求めた。
長い口付が終わった。良太の膝に乗せられたまま、千鶴はしばし余韻のなかにいた。
耳元で良太の声がした。「千鶴の匂いがする。襟元から湧きだしてくるこの匂いだよ、造花につけて欲しいのは」
「わかったわ……用意しとくわね、私の匂いをつけた造花を」と千鶴は言った。
良太の腕のなかで幸せな気分にひたっていた千鶴は、ふいに不安をおぼえた。良太さんはしばらく黙ったままだ。どうしたことだろう。
良太の顔を見ようとして首をまわすと、いきなり抱きなおされた。良太の顔は一瞬見えただけであったが、良太が涙ぐんでいたような気がした。口付の幸せな余韻が瞬時に消えた。良太さんの眼に涙が。まさか、そんなはずはない。お母さんをまじえて話したとき、良太さんの笑顔はとても明るかったし、良太さんの声はいつも以上に陽気に聞こえる。
もういちど良太の顔を見ようとしたとき、耳元で良太の声がした。
「千鶴、しばらくこのままにしていよう。こうしていたいんだ」
千鶴は不安から逃がれたかった。良太さんはいつもと変わりがないはずだ。さっきの口付はこれまでと同じだった。
千鶴は言った。「お願い……もういちどパイナップルをして」
良太の唇が優しく千鶴の唇をなぞった。
良太の唇がはなれた。眼を開けると、いつもと変わらない良太の笑顔があった。
「どうしたんだい、千鶴」と良太が言った。
その声に千鶴は笑顔をもって応えた。
その午後、ささやかに過ぎる昼食をおえ、良太たちが居間で語り合っているところに、日曜日の仕事をすませた忠之が帰ってきた。
「精一杯がんばったんだが、こんな時間になってしまった」
「時間にゆとりがあるから、まだゆっくり話せるよ」
工場で食事をすませてきたという忠之といっしょに、良太は階段をのぼった。
忠之の部屋に入るとすぐに、良太は風呂敷をひらいてノートを出した。
「土浦に移ってから付けていた日記だ。これをお前に預かっていてもらいたいんだ」
「どういうことだ」
「おれに万一のことがあったら、出雲の家にとどけてくれ。この日記には遺書のつもりで書いたところがあるんだ」
「この家もいつ空襲でやられるかわからん。どげしたもんかな」
「お前のその鞄に入れておけばいいじゃないか。いつもそばに置いているから、空襲があっても無くさないですむだろう」
「書留で出雲に送ったらいいじゃないか」
「今は送りたくないんだ。おれが元気なうちに遺書なんか読まれたくないからな」
「わかった。預かっておく。遺書がいらなくなるように祈ってるぞ」と忠之が言った。
良太は小学校以来の忠之との思い出を語った。忠之の父親から受けた恩情と忠之の友情に対して、良太は感謝の気持をのべた。早口でしゃべっていると声がふるえた。忠之に涙を見せるわけにはいかない。良太は立ちあがり、庭を見たいと言って部屋を出た。
良太は涙をふいて、廊下の窓から雪が降るさまを眺めた。雪が浅く積もった庭の畑で、のびた麦が緑の列を作っていた。
庭のはずれのサザンカの葉に雪が積もって、出雲の家の冬を思い出させた。出雲は東京よりも雪が多いのだから、あの庭は雪におおわれているのかも知れない。家族の皆は何をしているのだろうか。炬燵を囲んで語り合っているような気がする。
「良太」うしろで忠之の声がした。
「なんだ……どうしたんだ、忠之」
「何かあったな、良太」
「どうしたんだ、いきなり」
「話してくれ。何かあったんだろう」
「なんでもないよ。昔のことを話していたら感傷的になったんだ」
両肩に忠之の手が置かれ、声が聞こえた。「良太、ほんとのことを言ってくれ」
良太は思った。忠之には隠せない。特攻隊のことは誰にも話さないつもりだったが、忠之だけには伝えよう。俺が特攻要員に選ばれていることを、忠之には知っていてほしい。
良太は告げた。特攻要員に選ばれており、そのための訓練を受けていること。出撃の予定ははっきりしていないが、いずれはその日が来るものと覚悟はしていること。
忠之に与えたショックがあまりにも大きく、そのことに良太は不安をおぼえた。忠之を落ち着かせなければならない。このありさまを千鶴に見せてはならない。
「特攻要員に選ばれたからといっても、実際に出撃することになるとは限らないんだ。だから、そんな顔をしないでくれよ。千鶴に見られたら困るじゃないか」
「おれのために千鶴さんにばれそうになったら、うまくごまかすんだぞ。ばれそうになったら、おれが仕事のことで悩んでいることにしよう。わかったな良太」
忠之がすっかり元気を無くしたために、ふたりの会話はぎこちないものになった。
「もうすぐ2時半よ。そろそろお茶にしませんか」と千鶴の声が聞こえた。
良太は部屋の戸をあけて、明るい声で応えた。「ありがとう。もうすぐ降りるよ」
「たいした奴だよな、お前は。よくそんな声がだせるな」と忠之が言った。
それから間もなく、良太は忠之とともに居間に移った。忠之はどうにか落ち着きをとりもどしていたので、千鶴と母親に不審な想いを抱かせずにすんだ。
3時を過ぎてから、良太は千鶴と忠之にともなわれ、雪がちらつく道を上野駅に向かった。良太と忠之は口が重かったけれども、千鶴はむしろ饒舌だった。
上野駅に入りながら千鶴が言った。
「ほんとはね、良太さん、一度はここまでついて来たかったのよ」
「千鶴といるところを仲間に見せつけたくなかったんだが、これからは見送ってもらおうかな、ここまで」
「良太は思いやりが深すぎるんだよ、千鶴さん。どうする、つぎに見送るときは」
「今日ここまで見送ることができたから、この次からはもういいの」と千鶴が言った。
発車の時刻が近づいた。良太はふたりに見送りを謝し、別れの言葉を告げた。
「ありがとうな、それじゃ」
顔を一瞬ゆがめた忠之を笑顔で制し、良太は改札口を通った。
その夜、良太は布袋から2冊のノートをとりだした。千鶴と家族に遺すためのノートはいずれも2冊目だったが、忠之に書き遺すためのノートは、特攻要員に指名されてから用意したものだった。
忠之の表情と声が思い出された。忠之は俺が特攻要員と知ってろうばいし、不安をあらわにして実情を知ろうとした。家族や千鶴が俺の境遇を知ったら、どのような思いを抱き、どんな行動に出ることだろう。俺が特攻隊員として戦死したなら、遺された者たちは悲しみの淵でもがき続けるにちがいない。その悲しみを少しでも癒すための日記だが、訓練が終わると気がゆるみ、安易な言葉をつづることが多くなっている。特攻要員に指名されてから既に十日が過ぎた。来月中には2カ月の訓練期間が終わる。そうなればいつ出撃することになるか予断をゆるさない。うかうかしてはいられないのだ。良太は強い焦燥感におそわれた。
家族や千鶴が俺の境遇を知ったなら、死の恐怖におびえている俺を想像するにちがいない。俺はたしかに死を恐れているが、その恐怖心は想っていたほどには強くない。霊魂の実在を知っているからであろうか。それとも、俺は早々に諦めの境地に達したのだろうか。いずれにしても、このノートの中での俺は、苦悩することなく出撃しなければならない。このノートを読んだ者たちには、そのように受け取ってもらわねばならぬ。俺は日本の尊厳をかけて、そして自分の任務に誇りをもって、堂々と出撃しなければならない。このノートを通してそれが伝わるようにしなければならない。
日本の敗北で戦争が終わって、特攻隊員の戦死が無駄死だったとされたなら、残された家族たちには救いがないことになる。そのようなことにしてはならない。特攻隊員の戦死が無駄なものであろうはずがない。そのことをノートの中に明確に記して、遺された者たちの悲しみを和らげなくてはならない。
温習時間は間もなく終わろうとしていた。その夜は忠之に遺すノートに記すことにして、まだ新しいその紙面にペンをおろした。短い文章を記しただけで時間切れになったが、先ほど覚えた焦燥感は消えていた。いずれのノートにも、適切な言葉を遺すことができそうに思えた。
千鶴は日記をつけ終えると、書棚から芍薬と沈丁花の造花をとりだした。匂いをつけた造花を良太にわたす約束をしたので、空襲があろうと失ってはならない品物だった。千鶴は数本の造花をえらび、日記帳とともにリュックサックに入れた。
机のうえの水仙が、良太の振る舞いを思いおこさせた。良太は花瓶を引きよせると、手ざわりを確かめるかのように花瓶をなでていた。良太は会話の合間に書棚に近づいて、つぎつぎに書物を抜きだしては表紙をながめ、開くことなく棚にもどした。居間に移ろうとしたとき、良太はドアのところでふり返り、しばらく書斎を見まわしていた。
ふいに千鶴は不安になった。口付をしたあとの良太さんは、たしかにいつもと違っていた。あのとき、良太さんはやはり泣いていたような気がする。もういちど口付をしてもらい、どうにか安心できたけれども、きょうの良太さんには、どこかしらいつもと違うところがあった。良太さんたちが2階からおりてこられたとき、岡さんの様子が少しおかしかった。良太さんを駅で見送ったあと、岡さんはすっかり元気をなくされた。家に帰る途中で、岡さんは仕事のことで珍しくぐちをこぼされたが、元気をなくされたのは仕事のせいではなくて、良太さんのことが原因だったのではなかろうか。
千鶴は強い不安にせかされるまま、良太のノートをとりだした。このノートを見れば、きょうの良太さんがいつもと違っていた理由がわかるかもしれない。
千鶴は表紙に書かれた〈千鶴へ〉という文字を見つめた。千鶴はそのまましばらくノートを眺めていたが、開くことなくそれをリュックサックに戻した。良太との約束を破ることはできなかった。
千鶴は不安を胸にしたまま書斎をあとにした。
良太たちの訓練は続いて3月9日になった。その夜、良太が深い眠りに入っていると、東京の空が真っ赤に染まっているとの騒ぎ声があがった。
良太は仲間たちと士官舎を出て、すさまじい程に赤く染まった西の空をながめた。燃えさかっている東京の様が想われた。あの空の下には千鶴たちがいる。良太はひたすらに祈った。無事でいてくれ。生きのびてくれ。
B29が大挙して襲来したその夜、千鶴と母親は庭に作ってある防空壕に入った。ふたりがそれぞれ所持していたのは、リュックサックと風呂敷包がひとつづつだった。忠之には空襲に際しての役割があるため、トランクと鞄を防空壕に残して出かけていった。
やがて火の粉がしきりと舞うようになり、ついには近所まで火災がせまってくるに至った。ふたりが防空壕でおびえていると忠之が飛びこんできて、すぐにも避難すべき状況にあると伝えた。
3人は火勢に追われて逃げまどい、安全な場所を求めてひたすらに走った。どうやら助かったと思われたとき、風呂敷包はふたつとも消え、残ったのはふたつのリュックサックと忠之のトランク、そして忠之が大切にしていた鞄であった。
3人は夜が明けてから家の焼け跡に来て、煙をあげている残骸を茫然とながめた。
3人は焼け跡で食事をとった。良太から渡されていた菓子と水筒の水だけの朝食であったが、3人はどうにか元気を取りもどし、千鶴の祖父母がいる三軒茶屋を目指して焼け跡を離れた。
谷田部で訓練にはげんでいる良太たちのもとに、東京に加えられた無差別爆撃の様相が伝わってきた。千鶴たちの安否が気づかわれたが、良太にそれをたしかめる手段はなく、不安と焦慮のうちに過ごすしかなかった。
良太たちはアメリカに対する憎しみを語った。焼夷弾による無差別爆撃が、いかなる結果をもたらすかを承知のうえで、アメリカは庶民の居住地域に対して、残虐きわまりない爆撃を加えたのだ。アメリカのこの爆撃は、史上最大の残虐行為と言えるのではないか。そのようにアメリカの蛮行を憤った良太たちであったが、日本が中国の重慶に対して、無差別爆撃を繰り返していたことに、まったく想いが及ばなかった。
大空襲から一週間ほどたった日の午後、良太は面会人の来訪をつげられ、指定された建物に向かった。
面会室には忠之がいた。良太は胸がおどった。忠之は無事だったのだ。ということは、千鶴と母親も無事だったということではないか。
忠之が伝えた。浅井家は焼失したけれども、千鶴と母親は無事であり、三軒茶屋に移っていること。忠之自身は三鷹の農家のはなれを借りて、そこから工場に通っていること。
「よかったよ、みんなが無事で。東京が全滅したみたいな話が伝わってきたから、お前たちがどうなったのか心配で、気が気じゃなかったんだ」
「全滅したようなもんだな。あの焼け跡を見たら、誰だってそんな気分になるだろう。本郷の辺りも焼けたが、上野から東の方はほとんど焼きつくされてしまった」
東京の真っ赤な空が思いだされた。千鶴や忠之たちはよくぞ助かってくれたものだ。
「ありがとうな、忠之。わざわざ報せに来てくれて。皆が無事だとわかったから、俺も安心してがんばれるよ」
「千鶴さんの動員先も焼けたから、当分は、千恵ちゃんと一緒に農業奉仕をするそうだ」
「お前が働いている工場は大丈夫か。真っ先に狙われそうな気がするんだが」
「いずれはやられるだろうが、今はどこに居たって同じことだよ。それよりも、お前の方はどうなんだ」忠之が声をひそめて言った。「特攻の訓練をさせられていても、特攻隊で出てゆくとは限らないと言ったよな」
「このまま戦争が続けば、いずれは出撃することになると思う」
「千鶴さんにはいつ知らせるつもりだ」
「千鶴には知らせない。俺が特攻隊だと知ったら、今のうちから、出撃しないうちから悲しませることになる。そんなことにはしたくないよ」
「俺はな良太、お前が特攻隊だと知らせてくれて、むしろ良かったと思ってるんだ」と忠之が言った。「何も知らないでいるよりも、特攻隊員と承知してお前と向き合っていた方がいい。千鶴さんが俺と同じように受けとるかどうか、俺にも自信はないけど、思いきって知らせた方がいいような気がするんだ、特攻隊のことを」
受け入れ難い意見だったが、良太は忠之の声と表情にうながされ、忠之の言葉が意味するところを考えた。特攻要員であることを伝えたならば、今のうちから千鶴を悲しませることになる。悲しんでいる千鶴を想像しながら訓練をつづけることに、俺は耐えられそうにない。とはいえ、特攻隊員であることを隠していては、千鶴に思うところを伝えきれないかも知れない。もしかするとそのために、俺だけでなく、千鶴にも悔を残す結果となりはしないだろうか。そんなことにはしたくない。俺には間もなく出撃する可能性があるけれども、千鶴はそれからさらに数十年を生きてゆくのだ。これから数カ月の間を余分に悲しませることになろうと、特攻隊のことを知らせたうえで千鶴と向き合い、互いに思い残すことがないようにしておくべきではないか。
「俺が出撃することになっても、千鶴はまだ何十年も生きてゆくわけだから、お前が言うように、ほんとのことを知らせたうえで、千鶴を励ましておくべきかも知れないな、こうしてまだ生きているうちに」と良太は言った。
「お前が特攻隊員だとわかっていたら、千鶴さんはそのつもりでお前と向き合えるわけだが、何も知らないままお前に戦死されたら、千鶴さんには悔いが残るかも知れないよ」
忠之の言う通りだという気がする。ここは忠之にまかせよう、と良太は思った。忠之なら間違いのないやり方で、俺のことを千鶴に伝えてくれるだろう。
「ありがとうな、忠之。お前のやり方で千鶴に伝えてくれないか、特攻隊のことを」
「千鶴さんには明日のうちに会えると思う。どんなふうに伝えたら良いのか、これからしっかり考えて、ここでお前に面会したことや特攻隊のことを話すよ」
良太は机ごしに忠之の手をにぎり、「ありがとうな、忠之、たのむぞ」と言った。
忠之が面会に訪れてから二日目に、良太は妻が面会に来ているとの報せを受けた。良太はその知らせを聞いて、誰かとの人違いだろうと思った。妻が面会に来たというのであれば、その相手が自分であろうはずがない。けれども次の瞬間、その面会者は千鶴かも知れないと思った。俺が特攻隊員だと知らされて、千鶴はどんな気持でいることだろう。千鶴は居ても立っても居られなくなり、妻と偽って面会に訪れたのではなかろうか。
面会所に近づくにつれ、待っているのは千鶴に違いないという気がしてきた。良太の胸に不安がわいた。心の準備をまったくしていなかった。
やはり千鶴だった。面会室のドアをあけると、椅子から立ちあがろうとしている千鶴の姿が見えた。
千鶴は立ち上がるなり駆け寄ってきて、そのまま良太にしがみついてきた。良太は一瞬ためらってから千鶴を抱きしめた。たとえこのような行為をとがめられようと、それを甘んじて受けよう。今は千鶴の気持に応えなければならない。
「千鶴……よく来てくれたな」
「結婚して、良太さん」と千鶴が言った。
千鶴の低い声には胸をつく響があった。良太は千鶴を抱く腕に力をこめた。
「お願い、良太さん。結婚して」
千鶴は俺と結婚したがっている。俺が生還の望みを捨てた特攻隊員と知っていながら、それどころか、むしろそのことを知ったからこそ、千鶴は結婚したがっているのだ。
「わかったよ、千鶴……千鶴の気持ちはわかるけど、結婚は戦争が終わってからだ。俺は特攻要員に選ばれているけど、出撃するとはかぎらないんだ」
千鶴が良太の胸から顔をはなすと、大きく見ひらいた眼をむけてきた。
「そうなんだ、必ずしも出撃するとはかぎらない。無事に生還できたら結婚しよう」
「友達は結婚したのよ。どうして、いますぐ結婚できないのかしら、私たち」
口にすべき言葉が見つからないまま、良太はふたたび強く千鶴を抱きしめた。どうしたものだろう。千鶴に何を語るべきだろう。
良太は途方にくれたまま、千鶴を椅子に腰かけさせた。良太は千鶴と向き合って腰をおろすと、伝えるべき言葉をさがした。
千鶴にわたしておいた日記を読んでもらおう、と良太は思った。特攻要員だと知られたからには、あの日記を読まれてもかまわない。俺の気持ちをわかってもらうためには、むしろ読んでもらった方が良さそうだ。
「千鶴に渡したあの日記を読んでくれないか。とくに2月の末から後のところを読んでくれたら、俺の気持がわかるはずだ。日記帳の終わりのほうだ」と良太は言った。
千鶴がいぶかしげな表情を見せ、「わかったわ、読ませてもらうわね、あの日記。帰ったらすぐに」と言った。
良太には午後の課業があるため、それから間もなくふたりは面会室をでた。
「つぎの外出はいつかしら。これからも会えるわよね、私たち」
「忠之が三軒茶屋と三鷹の宛先を教えてくれたから、どちらにも電報で報せるよ。いつ頃になるかまだわからないけど」と良太は言った。
面会所を出ると、衛兵が良太に敬礼をした。良太の返礼に合わせるかのように、千鶴が衛兵に向かって「ありがとうございました」と言った。
衛兵が応えた。「お待ちになったかいがありましたね」
衛兵が口にすべき言葉とは思えなかったが、その声が良太にはとても暖かいものに聴こえた。面会室のあの椅子で零戦の爆音を耳にしながら、千鶴はひたすらに俺を待っていたのだ。千鶴はあの爆音に何を思ったことだろう、特攻隊員の命がけの訓練を象徴しているようなあの爆音に。
「千鶴、ずいぶん苦労をかけたな」
「だいじょうぶ、良太さんに会えたんだもの」
面会室での千鶴は思いつめたような表情を見せたが、ならんで歩いている今は、どうにか落ち着きを取りもどしていた。とはいえ、千鶴の横顔はいかにも悲しげに見えた。それどころか、千鶴は全身に悲しみをまとっているようにさえ見えた。かぎられた時間のなかで、良太は精いっぱいに努力して、千鶴の不安と悲しみを和らげようと努めたのだが、心の準備をしないままに会ったので、意をつくせないままに終わった。
別れるべき場所が近づいた。妻と偽ってまで面会しようとした千鶴がいとおしく、そのまま何もしないで帰すにしのびなかったが、抱きよせることもできない場所だった。良太は体をよせて千鶴の手をにぎり、にぎりかえすその手の感触をたしかめた。
千鶴と別れなければならない場所に着いた。良太はいたわりと別れの言葉をかけると背を向けて、千鶴の後ろ姿を見送ることなく士官舎にもどった。
その夜、良太は日記をつけた。
〈午前の訓練終了後、妻が面会に来ているとの知らせあり。千鶴は俺が特攻要員と知り、妻と偽って面会に来た。それにしても、千鶴を俺の妻として面会を許可してくれたのは誰だろう。その人物に感謝したい。
重い気持ちを抱えて千鶴と向き合っているとき、特攻隊のことを知らせたことを後悔する気持ちになったが、真実を知らせたことで、これからは特攻要員として千鶴と向きあえることになった。千鶴のためにも俺自身にとってもこれで良かったと思う。忠之のお陰と深く感謝す。〉
良太は思った。特攻要員としての訓練を受けてはいても、かならずしも出撃するわけではないと告げたから、千鶴はその言葉にすがりついているはずだ。俺がほんとうに特攻隊で出撃することになるのか、俺自身にすらまだわからない。いまのところは、千鶴には一縷の希望を持たせておこう。そのような千鶴と向き合いながら、千鶴のために最善を尽くすよう努めなくてはならない。
外出できる機会があれば、千鶴と忠之には吉祥寺駅で会うことになる。その近くにある忠之の下宿を、あの書斎の代わりに使うようにと忠之が勧めてくれたとのこと。その下宿は農家で、安全な地域にあるらしいが、千鶴や忠之とそこで会える日があるのだろうか。
千鶴がこの日記を読むのは、俺が戦死してからになるはず。そのつもりで書きつづってきた日記だが、特攻隊のことを知られた以上、今のうちに読まれてもかまわないという気がする。むしろ、俺が生きているうちに読んでもらいたい文章もある。千鶴はいま頃、先に渡した日記を読んでいるのかも知れない。日記に記した言葉が将来においては千鶴を励ますことになるはずだが、今の時点ではむしろ千鶴を悲しませる可能性がある。もしかすると、あの日記はまだ読ませるべきではなかったのかも知れない。
ペンを手にしたまま思案しているうちに、温習時間は終わろうとしていた。良太はノートを布袋に入れた。
硫黄島がアメリカに占領されたことにより、空襲のさらなる激化が避けられない事態となった。米軍の沖縄への上陸も予想され、戦況は日本本土の防衛もおぼつかない状況に至った。
良太には航空隊の雰囲気が変わったように感じられた。良太は予感した、俺たちが出撃する日は遠くないという気がする。
良太は家族にあてた手紙を頻繁に出していたが、特攻要員であることは隠していた。両親がそのことを知ったなら、何をおいても面会にかけつけるに違いなかった。戦時下の苛酷な交通事情をおして面会にきてもらっても、限られたひとときを共にしたあとで、悲痛な別れを告げ合うことになる。そのような事態はさけたかったし、悲嘆にうち沈む家族の姿を想像しながら出撃の日を待つことは、想像するだにつらかった。
突然の戦死の報が家族に与える衝撃の大きさを思えば、生還を半ば諦めさせておいた方が良さそうに思えた。良太は家族に手紙を書いて、自分たちの生還がもはや期しがたい戦況にあることを知らせた。その手紙は家族に強い不安を与えるに違いなかったけれども、絶望的な気持に追い込むことはないはずだった。
良太は家族にあてた遺書をしたためた。出撃命令を受けることになったなら、遺品となる品物と一緒に家族のもとに送るつもりだった。
第6章 若葉の季節
4月1日、米軍による沖縄上陸作戦が始まり、日本の一角が地上戦の場となった。その日、第十四期予備学生出身の特攻隊要員は、学生教程を修了することになった。良太は思った。どうやら、俺は特攻隊員として沖縄へ出撃することになりそうだ。出撃命令が下されるのも、そう遠くはないという気がする。
それから間もなく良太は外出許可を得た。
その日、良太は吉祥寺駅で電車をおりた。前日の電報で到着予想時刻を知らせておいたので、改札口には千鶴と忠之の姿があった。
3人は駅から20分ほどの道のりを忠之の下宿に向かった。
「ここは三鷹というところだが、東京の一角とは思えない景色だろうが」
「いい所じゃないか、空襲を受ける心配もなさそうだし」
「俺の下宿は安全だが、工場はいずれやられるだろう。間に合わせの工場だけど」
「三軒茶屋という所にも畑があるそうだけど、こんな雰囲気のところか」
「家のすぐ近くにも畑があるの。私も千恵と一緒に農業奉仕をしてるのよ」と千鶴が言った。
忠之の下宿は畑にかこまれていた。忠之に案内されて良太と千鶴は母屋をたずね、老夫婦とその息子の嫁に挨拶をした。その家では、小さな子供ふたりを含めた五人がくらしており、夫婦の息子は出征中とのことだった。
庭のはずれに建てられた離れ座敷が、忠之がくらしている部屋だった。鶏が遊んでいる庭をよこぎり、3人は忠之の部屋へ向かった。
隠居部屋だったというその部屋は、簡素ながらもよくできていた。部屋には小さな食卓があり、数冊の専門書と忠之自製の電気スタンドが置かれていた。
「会社の仲間がここを紹介してくれたんだ。ここには食い物があるし、歩いて工場に通えるから助かるよ。何しろ忙しくてな」
「今日は午前中しか休みがとれないというけど、ここには何時頃までいられるんだ」
「わるいけど、もうすぐ出かけなくちゃならん。俺がいなくても遠慮することはないぞ。お前らの食事はここに運んでもらうことになってるけど、手伝ってあげてくれないか」
「世話をかけることになったな。それで、お前がここに帰ってくるのは何時頃だ」
「今夜も遅くなると思うから、お前と話すのはこれで終わりだ」
「そうか………それは残念だけど、お前のお陰で今日はいい外出日になったよ」
「この部屋をあの書斎の代わりに使ってくれ。ここがお前と千鶴さんのために役立ってくれたら、俺も嬉しいよ」
まもなく忠之は出勤し、良太と千鶴のふたりだけになった。
「田舎道を歩けるせっかくの機会だから、そのあたりを歩いてみないか」と良太は言った。
「私は………ここで良太さんと話していたいけど」
「いいじゃないか、景色を見ながら話し合うのも」
「お願い、良太さん。書斎のときと同じにして」
千鶴の口調はいつもと変わらず穏やかであったが、その声には力があった。
「わかった、ここで話そう」と良太は言った。
壁を背にして千鶴の横に腰をおろすと、待ちかねていたように千鶴がもたれかかった。すぐにも千鶴の期待に応えたかった。良太は千鶴を抱きよせた。
キスがおわると、良太は千鶴の首筋に唇をうつした。千鶴の匂いは書斎のときと変わらなかったが、畳の上で抱く千鶴の上半身は軽かった。
「結婚して、良太さん」と千鶴が言った。
それまでに幾度も聞かされていた千鶴の言葉だったが、良太はその時その声を、はじめて耳にしたかのような気持ちで聞いた。良太は千鶴の顔をのぞいた。眼を閉じている千鶴を見ながら、この千鶴と結婚できたらどんなにか良かっただろうにと思った。
「お願い、良太さん、結婚して」千鶴が眼を閉じたままくり返した。
「好きだよ、千鶴。千鶴がいてくれて良かった」
「良太さんお願い、結婚してちょうだい」
良太は千鶴を抱きしめた。俺たちは結婚などできるわけがないのだ。俺が死んでも、お前はしっかりと生きてゆかなければならない。それを願って渡したあのノートだが、お前は読んでくれただろうか。谷田部に来てくれたとき、読むようにとすすめたのだが。
「千鶴、あの日記を読んでくれたか」と良太は言った。
千鶴が眼をあけた。その眼にいきなり涙がもりあがり、あふれて頬に流れた。良太はうろたえた。俺はあのとき、特攻要員としての俺を理解してもらいたいと思って、不安を覚つつも日記を読むようすすめたのだが、やはり読ませるべきではなかった。
「ごめんな、千鶴、約束通りに幸せにしてやれなくて」と良太は言った。
「幸せにして………幸せにしてちょうだい」
良太ははっとした。いまの俺にもできるのか、千鶴を幸せにしてやることが。千鶴は俺にそれを求めている。
「わかったよ、千鶴、結婚しよう」と良太は言った。
その言葉を口にしたとき、良太を縛っていたものがほどけていった。良太は千鶴と結婚したいと思った。俺は千鶴のためを思って自分を抑えてきたが、特攻要員の俺に対して千鶴が心からそれを願っているのだ。千鶴のその願いに応えるべきだ。
良太は千鶴をあおむけにした。千鶴は眼を閉じている。良太は千鶴にキスをした。
ふん切りがつかないままに軽いキスを続けていると、建物の外からいきなり声が聞こえた。「海軍さん」
千鶴から顔をはなすと、ふたたび外で声がした。
「お食事の用意ができましたが、どうされますか。すぐにお持ちしましょうかね」
良太は大きな声で、「お世話になりますが、お願いします」と応えた。「千鶴、食事を運ぶのを手伝おう」
千鶴といっしょに母屋へ行くと、布で覆われたふたつの膳が、縁側の板のうえに並んでいた。
若いその家の嫁が鍋を持ってあらわれた。
「お世話になります。向こうへ運ぶのは我々でやりますから」
「そうですか。それでは、お願いしますね。すぐにお茶を持ってきますから」
膳を忠之の部屋に運んでから、もういちど縁側までもどると、味噌汁の鍋にならべて薬缶や急須などが置かれていた。
良太と千鶴は久しぶりに白米の飯を味わった。豊富な野菜や豆の料理が、良太に故郷の家の食卓を思いださせた。大きな卵焼きが千鶴を感激させた。忠之が特別に依頼したに違いないその料理を、良太と千鶴は感謝しつつ口にはこんだ。
お茶をいれている千鶴の幸せそうな笑顔を見ると、特攻隊に志願したことを悔いる気持が、心の隅を一瞬ながらよぎった。
「もうすぐ良太さんの誕生日よね」と千鶴が言った。「良かったわ、造花と与謝野晶子の歌集をリュックに入れておいて。誕生日の沈丁花は造花になったけど」
千鶴が布袋から厚紙でできた箱をとりだし、畳のうえでふたを開いた。箱の中には沈丁花と芍薬の造花があった。
千鶴が抱いて寝たという造花には、匂らしいものが微かに残っているだけであったが、良太には嬉しい贈り物だった。
良太の帽子を手にした千鶴が、「この沈丁花、いただけないかしら」と言った。
良太は帽子の中から造花をはずし、千鶴にわたした。
「これもリュックに入れとくわ。書斎にあったもので残ったのは、リュックに入れといたものだけなの。良太さんからのはがきや帳面といっしょに、歌集と造花も入れておいたのよ。書斎にあったもので他に残ったのは雛人形だけ」
「焼けてしまったんだな、あの書斎も、あの机と椅子も」
「書斎とちがってここは畳の部屋だけど、こうしていると畳の上もいいわね」
身をよせてきた千鶴に腕をまわすと、すぐにも千鶴を抱きたくなった。その想いが良太をけしかけたが、良太にはまだ迷いがあった。たしかに千鶴はそれを望んでいるが、ほんとうに千鶴にとって好ましいことであろうか。俺は千鶴の人生に対して責任を負うことができないのだ。
まだ12時前だから時間は充分にある。気持ちを落ち着けるには散歩が良さそうだ。今なら千鶴も賛成するような気がする。
「膳を運ぶついでに、その辺を散歩してみないか。時間はたっぷりあるんだから」
「お腹がいっぱいになったから、少しだけ歩いてみましょうか」と千鶴が応えた。
ふたりは膳などを縁側まではこび、感謝の気持ちを言葉にして伝えた。その家の家人に見送られるようにして、ふたりは庭を横ぎり、満開の桜の下を通って道に出た。
ふたりは畑の中の道を歩いた。歩きながら見まわすと、満開の桜がそこかしこに見えた。良太は咲き誇る桜を見ながら、自分は桜の季節に生まれ、桜の花とともに散ることになったのだと思った。
千鶴と並んでそぞろ歩いていると、良太のなかに留まっていた想いが徐々に強まり、千鶴の横顔にしばしば眼を向けさせた。千鶴がそれを望んでいるのだ。その願に応えてやるべきではないか。さもなければ千鶴に悔が残るかも知れない。
散歩からもどったふたりは、ふたたび隣りあって腰をおろした。良太は千鶴を抱きよせた。迷はすでにぬけだしていた。良太には千鶴を抱きたいという気持しかなかった。
キスを続けていると千鶴から力がぬけた。良太は畳の上に千鶴をよこたえ、シャツのボタンに手をかけた。千鶴にとっては無論のこと、良太にもそれは初めての経験だった。
千鶴を気づかいながら進めるうちに、どうやら無事にことがおわった。
感謝の気持ちを抱きつつ、良太は千鶴にキスをした。良太と千鶴は抱きあったまま、穏やかに唇を触れあっていた。
その翌朝、千鶴は勤労奉仕に出かける前の時間をさいて、前日のできごとを日記に記すことにした。
千鶴が母や千恵と寝泊りしている部屋には電気スタンドが無かった。灯火管制用の蔽いがついた電灯の下では、日記は箇条書きのように短いものとなった。良太と結ばれた前日も、母や千恵のかたわらで書いた文章は数行だけだった。
千鶴は前夜に記した文章を読みかえした。
〈今日は私にとって一番嬉しい記念日になった。谷田部では良太さんの妻と偽って面会したのだけれど、今日は本当に良太さんの妻になることができた。良太さんもそう思ってくださるにちがいない。〉
良太が特攻隊員だと知って以来、千鶴はひたすらに良太と結ばれたいと願った。忠之の下宿で良太とふたりきりになれた機会に、千鶴は必死になって呼びかけた。
千鶴は思った。この私にも、あんなことができたのだ。日記を読んだのかと聞かれて、谷田部から帰った日に読んで、とても悲しかったことが思い出された。良太さんが戦死するようなことになったなら、私は良太さんから離れた人生を、心を新たにして歩むようにと書いてあった。私が結婚するのは良太さんしかいないのに、どうしてあんなことを書かれたのだろうか。泣きだした私を見て、良太さんは私の気持をわかってくださったみたいだ。わかってもらえてほんとうに嬉しい。私の願いを良太さんはわかってくださった。
ふいに千鶴は悲しくなった。良太さんは特攻隊だ。特攻隊員でも出撃するとは限らないと聞かされたけど、本当のところはどうであろうか。良太さんには、何としてでも無事に還ってもらいたい。良太さんといっしょに人生を送りたい。
千鶴はペンをとり、前夜に記した文章の続きを書いた。
〈岡さんの下宿を出たとき、明るい所で良太さんに見られることがはずかしかったけれど、嬉しそうな良太さんを見ると、幸せな気持だけになった。私たちのこの幸せが続くように、良太さんには生きて還ってもらいたい。良太さんが特攻隊に出なくてすむように、神様どうかお守りください。〉
ノートを閉じて時計を見ると、勤労奉仕に出発すべき時刻を過ぎていた。千鶴は急いでノートをリュックサックにおさめ、あわただしく部屋をでた。
谷田部航空隊の特攻隊要員十数名に対して、九州へ進発すべく命令がくだった。
谷田部で編成された特攻隊の第一陣は、特別攻撃隊第一昭和隊と名づけられ、4月7日に谷田部を発って、海軍特攻隊の出撃基地のひとつである、鹿児島県の鹿屋基地に向った。その特攻隊第一昭和隊には、第十四期飛行科予備学生出身の少尉が8名加わっていた。良太が訓練をともにしてきた仲間たちだった。離陸してゆく仲間たちを見送りながら、良太は自分自身が進発するときの情景を想った。
航空隊は緊迫の度を強めていたが、良太は4月に入って2度目の外出許可を得た。良太は千鶴と忠之に電報で報せた。
その日、良太が吉祥寺駅に着くと、千鶴と忠之は改札口で待っていた。
つれだって歩き出すなり忠之が言った。
「千鶴さんにはさっき話したけど、俺はこのまま工場へ行かなくちゃならん。そんなわけでわるいけど、下宿にはふたりで行ってくれないか。話しはつけてあるから、昼飯などもこの前と同じようにしてくれるはずだ」
「世話をかけるな、お前にもお前の下宿にも」
「遠慮なんかする必要はないぞ、下宿にも」と忠之が言った。「あの書斎の代わりだと思えばいいんだよ」
下宿への道をしばらく一緒に歩いてから、忠之は出勤するために別れて行った。
良太と千鶴は畑の道を楽しみながら、遠くに見えている忠之の部屋を目指した。良太が千鶴に顔をむけると、千鶴は笑顔をもって応えた。その笑顔に千鶴の期待を読んで、良太は胸を躍らせながら足を速めた。千鶴の足取りも軽やかだった。
忠之の下宿では、前回と同じようにことが運んだ。良太は特攻隊のことをしばし忘れて、千鶴とともに喜びの時を過ごした。
千鶴を伴って部屋を出たとき、時刻は3時に近かった。駅に向かう道すがら、千鶴から笑顔が消えることはなかったけれど、良太はすでに現実にとらわれていた。千鶴の笑顔は嬉しかったが、良太はうわべの笑顔でそれに応えた。
良太が出した手紙に対して、家族や恩師からの返事がとどきはじめた。良太の身に迫ったただならぬ事態を察したらしく、父親からの手紙には強い懸念がにじみでていた。
良太はその返事に対してさらなる返事を書いた。先の手紙に記したごとく、殉国の志に燃える自分達によってのみ、この日本を救うことが可能である。そのような自分たちは、自らの役割に誇りを抱き、それを大きな名誉と考えている。そのように記しながらも、自分が特攻要員であることを、家族にはまだ知らせたくなかった。
時間があれば良太はノートを開き、思うところを文字につづった。千鶴のためのノートに向かっていると、忠之の下宿でのことが思いだされた。俺の腕のなかで、千鶴はしっかり抱きついてきた。あの千鶴は俺がいなくなったら、どのようにして生きてゆくことだろう。
良太は夢想した、戦争が無ければあったはずの、千鶴と共にある幸せな未来を。千鶴と築けたであろう家庭を想った。千鶴を出雲につれてゆき、いっしょに斐伊川の堤防を歩いてみたい。今の時点で戦争が終われば、それも夢ではなくなるのだが。